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2014年8月26日火曜日

知りすぎていた男(‘56)     アルフレッド・ヒッチコック


<「失った家族の復元」を成就させた「善きアメリカ人夫婦」の物語>




1  政治絡みの陰謀にインボルブされた、「平凡なアメリカ人家族の生活」



 「このシンバルの一打が、平凡なアメリカ人家族の生活を揺すぶった」


  オーケストラの演奏が流れるオープニングシーンのキャプションである。

 カサブランカ発マラケシュ行きのバスの中

マッケナ夫妻の一人息子のハンクが、アラブ人の女性のベールを偶発的に剥いだことで、女性の夫を怒らせてしまう。

この事故を救ってくれたのが、アラビア語に堪能なフランス人。

その名は、ルイ・ベルナール。

アラブ人の戒律の厳しさをマッケナ夫妻に説明し、如何にもアメリカ人らしく円満な会話を繋ぎ、平気でプライバシーを開いていく。

外科医である、ハンクの父のベン・マッケンナは、「パリの医学会議」への出席のため、家族旅行を兼ねてマラケシュ観光に行くと言う。

マラケシュ到着後、両者は、一緒にアラビア料理店で会食を約束して別れるが、ジョー(マッケンナ夫人)は、ハンクを怒鳴った男と親密そうなベルナールへの不信感が消えなかった。

ベンに対して詮索するような態度に、訝しげな思いを印象づけられたのである。

左からベルナール、ハンク、ジョー、ベン
ベルナールに対するジョーの訝しげな思いが、その夜、具現する。

マッケナ夫妻が宿泊するホテルにベルナールを招待したとき、一人の男の訪問があり、ベルナールを目視するや、部屋を間違えたと言って、慌てて立ち去って行ったのだ。

ベルナールが、アラビア料理店への会食の約束を断ったのは、この一件に起因するが、ジョーの不信感は、ホテル到着時に凝視された男女への関心に移っていた。

その男女は、国連の農業関連の救済事業でアフリカに来たという、英国人のドレイトン夫妻であることが分ったのは、アラビア料理店で隣り合わせになったからだった。

ジョ-が有名歌手であった事実が縁で、親しくなる二組の中年夫妻。

翌日、マラケシュの市場見物を愉悦する二組の中年夫妻。

一人のアラブ人が刺殺される事件が出来したのは、市場の賑わいの渦中だった。

そのアラブ人こそ、例のルイ・ベルナールの変装した姿だった。

ベルナールが息を引き取る寸前に、医師であるベンの耳元に告げた秘密は、にわかに信じ難き情報。

ダイイングメッセージを残すベルナール
「ロンドンで政治家が殺される・・・ロンドンに知らせろ・・・アンブローズ・チャペル・・・」

現地警察に連行され、ベルナールとの関係と、彼が残したダイイングメッセージの内容を聞かれるが、領事館との関連を説明し、釈放されるが、何より由々しき出来事は、尋問中にかかってきたベンへの謎の電話のこと。

「市場で、ベルナールが話した言葉を警察に洩らしたら、子供の命をもらうぞ」

それだけ言って、切れた電話。

ベルナールとの出会いから開かれてインボルブされた、「平凡なアメリカ人家族の生活」の観光風景が、一瞬にして、政治絡みの陰謀の当事者の不幸なる風景に変容したのである。



2  ハッピーエンドを全く引き摺らない、ウィットに富むラストカットの収束点



ベルナール刺殺事件の混乱でドレイトン夫人に預けていた事実を、鎮静剤を服用させた後、ハンクの誘拐をジョーに話すが、当然の如く狼狽し、興奮する母。

鎮静剤を服用させた後、ハンクの誘拐をジョーに話すベン
ベルナールのダイイングメッセージと、ドレイトン夫妻が英国人であるという頼りない情報のみで、マッケナ夫妻がロンドンに向かったのは、警察にも話せない情報を持っていたからである。

通関手続きがなかった事実から、ドレイトン夫妻が自家用機でハンクを誘拐したと考えるベンは、自らの力で途轍もなく巨大な事件に立ち向かうという、如何にもアメリカ人的な発想だが、この時点で、他の選択肢が思い浮かばなかったのだろう。

意外にも、ロンドンには、ブキャナン警視が待っていて、ハンクの誘拐事件を知っていた。

ここで、ブキャナン警視から、ベルナールが暗殺計画を探るフランスの諜報員であった事実を知らされるに至る。

その警察にドレイトン夫人から電話がかかってきて、そこでハンクの無事と、ハンク自身の声を確認したことで、ブキャナン警視から協力を求められても、ハンクの命を最優先するベンは、なお、自らの力で捜索しようと頑なになる。

ベンには、ハンクの誘拐事件が、単に金銭目的の犯罪という観念に捉われていて、政治絡みの大陰謀というイメージに結ばれることがなかったからである。

「アンブローズ・チャペル」というダイイングメッセージの核心を成す言葉の意味が、人の名ではなく、礼拝堂であることを突き止めた夫妻は、信者に紛れて教会に潜入する。

殆ど暴挙の印象を拭えないが、彼らには今、ハンクの救済という観念しかなかった。

礼拝堂でドレイトン夫妻と出会ってしまった夫妻にとって、もう、ブキャナン警視の応援を頼りにする以外の選択肢を持ち得なかったのである。

マラケシュで出会ったときのドレイトン夫妻(右)
連絡のために礼拝堂を出るジョ-。

逸早く、マッケナ夫妻に気づいたドレイトン夫人は、教会の牧師である夫に、その事実を目配せして知らせる。

早々と信者を帰らせたドレイトンとベンとの直接対決の帰趨は、某国首相暗殺という大陰謀の巣窟に集合するテロリストの力の前で、殴打されて呆気なく終焉する。

この教会こそ、政治的陰謀の巣窟であるという事実を知っても、もう、後の祭りである。

エモーショナルに大きく振れるモチーフが理解できても、所詮、素人探偵の浅知恵には限界があるということか。

そんな渦中で、ジョーからの連絡で緊急に直行した警察車が到着するが、人の気配がない教会への潜入を断念し、暗殺の現場となるアルバート・ホールに向かうジョー。

ブキャナン警視がいると聞いたからである。

一方、礼拝堂に閉じ込められていたベンは、ロープ伝いで鐘楼に出て、脱出に成功し、彼もまた、アルバート・ホールに向かっている。

そして開かれる、ロイヤル・アルバート・ホール(ロンドン中部)の演奏会。

ロイヤル・アルバート・ホール(ウィキ)
鉄骨のドームにガラス張りとなっているホールの天井を有する、芸術開催の広大なスポット。

このスポットに、物語の主要登場人物が一堂に会しているのだ。

高らかに響く「ストーム・クラウド・カンタータ」。

その間、全く台詞がない。

そこにあるのは、一人息子の身を案じつつ、テロを防止せんと動揺する母と、激しい情動を推進力にして、必死に動く父。

夫婦から事情を聞いても、事の重大さが認知できずに、ルーティンの任務を延長するだけの警官たち。

シンバルの一打を機に、首相暗殺を遂行せんとするテロリストの鋭利な視線。

そして、出番が近づき、立ち上がるシンバル奏者。

演奏中に暗殺計画が実行されるのを知ったジョーは、ホールに到着したベンに、近接する二階のバルコニー席の、カーテンの陰の部分に座るテロリストの位置を知らせ、二人で阻止せんと動く。

叫び声をあげるジョー
シンバルの演奏と同時に、叫び声をあげるジョー。

物理的に近接していたが故に、ジョーの叫び声で手元が狂ったのか、テロリストの放った銃丸は掠り傷に終わり、その男に躍りかかるベン。

バルコニー席から転落死するテロリスト。

ヨーロッパの某国の首相暗殺という大陰謀が頓挫したなら、もう、再チャレンジという選択肢など持ちようがない。

常に、チャンスは一度しかないのだ。

その暗殺計画の頓挫を、某国の駐英大使に報告するドレイトン夫妻。

件の大使こそ、この計画の黒幕だったのだ。

「その子を始末せよ」

これが、大使の命令だった。

有無を言わさず、引き受けざるを得ないドレイトン夫妻だが、夫人には抵抗があった。

一方、ブキャナン警視からの情報で、ドレイトン夫妻が大使館にいる事実を知らされるに至り、ハンクも同所にいると判断したベンは、首相の命を救済したことで招待を受けていた事実を口実に、治外法権のバリアを突破する。

大使館で歓待を受けるジョーは、首相の要望で歌を披露する。

曲名は、言わずと知れた「ケ・セラ・セラ」。

「ケ・セラ・セラ」を絶唱するジョー
ジョーの歌声が、暗殺計画の黒幕の大使も同居する、大使館内を高らかに響いていく。

 いつもハンクと一緒に歌っていた「ケ・セラ・セラ」が、大使館内にいると信じるハンクに聞こえるように歌うのだ。

母の歌声を耳にしたハンクは、ハンクの殺害を躊躇(ためら)うドレイトン夫人に促され、口笛で応えていくが、寂しさのあまり泣き崩れてしまう。

気丈に振舞っていても、母の声を最近接点で耳にしたら、余計に昂る感情を抑えられなくなるのは当然過ぎる現象である。

しかし、今度は父の出番となる。

その口笛を聞いたベンが動いていくのだ。

ハンクの口笛を伝手に監禁場所を特定し、漸く会えた父子は抱擁する。

その父子を逃がそうとするドレイトン夫人。

「動くな」

拳銃を手にしたドレイトンが、父子の前に立ち塞がったのは、そのときだった。

左からベン、ハンク、ドレイトン
「撃てるのか。下には警官がいる。あがいても、どうせ捕まるんだ」

ベンである。

「逃がすのよ」とドレイトン夫人。
「そうするとも。その前に、私を逃がすことだ」

ドレイトンは、そう言って、ベンに拳銃を突きつけ、階段を下りて行く。

友人のように装って、タクシー乗り場まで同行を命じるドレイトン。

この男も必死なのだ。

計画の頓挫によって、自分の命の危険を察知しているからである。

階段を下りて行く3人。

階段の踊り場で、ベンがドレイトンを突き飛ばし、あえなく転落するが、その間に拳銃の引き金が作動し、ドレイトン自身を撃ってしまうに至った。

喧騒の渦中の階下で、母子は抱擁し、「失った家族の復元」が成就した。

そして、極めつけのラストカット。

英国の友人たちが待ち詫びるホテルの部屋に、ベンが入って来た。

「どうも、ハンクを迎えに行ったので」

ハッピーエンドを全く引き摺らない、ウィットに富むカットに完全に脱帽。

 
アルフレッド・ヒッチコック監督
さすが、ヒッチコックと言うべき、見事な映画の括りに感動して止まないほどだった。



3  「失った家族の復元」を成就させた「善きアメリカ人夫婦」の物語



「ケイリー・グラントを使うときには、よリユーモアが、ジェームズ・スチュアートを使うときには、よリエモーションが強調されているように思われます」
「まったくそのとおりだ。一見似たタイプの俳優だが、性格が全然ちがう。『知りすぎていた男』でジェームズ・スチュアートが演じた人物の静かな誠実さは、ケイリー・グラントではだせないものだ」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)

 この会話にあるように、情動が強調されている役柄が多く、且つ、「めまい」(1958年製作)のように倒錯的に歪んだキャラクターにまで膨張されることなく、普段は「静かな誠実」さを体現する男が、医師という職業に不相応なほどに、どこまでも「我が子の救済」にのみ振れる、「情動先行の善き父」という役柄は、ユーモアに富む役柄が多いケイリー・グラントよりも、まさに、ジェームズ・スチュアートに打って付けのキャラクターであると言っていい。

 だから、些か粗雑な印象を観る者に与えながらも、多くの場合、ヒッチコック流の独特の映像宇宙に昇華させてしまうが故に、瑕疵よりも、娯楽性を堪能し得る映画の包括力に身を預けることが可能となる。

ジェームズ・スチュアート(ウィキ)
この映画もまた、「情動先行の善き父」という役柄を演じ切った、ジェームズ・スチュアートのキャラクター全開の一篇だった。

そのジェームズ・スチュアートの「情動先行の善き父」を充分以上に補完した、ドリス・デイ演じる「心優しき元歌手の母」。

この「情動先行の善き父」と「心優しき元歌手の母」が、共に協力し合って、愛する我が子を如何に救済するか。

サスペンス映画の定番のようなテーマが、物語の基本骨格にある。

当然ながら、基本的に「子供は殺さない」という、ハリウッドの不文律を観る者が共有しているから、プロット構成の中心は、「失った家族の復元」を成就させるために、「善きアメリカ人夫婦」が奔走し、様々な困難を乗り越えて、如何にして我が子を救済していくかという一点に収斂されていく。

「予定調和」への完璧なソフトランディングが約束されているハンデを負って、この収束点へのプロット構成の技術的展開のうちに、観る者の集中力を継続的に保証していかねばならないのだ。

原作があるとは言え、政治的陰謀をバックグラウンドにする大きな物語を展開させていくので、物語を大きくしてしまった分、両者を上手にリンクさせ、軟着陸させていく難しさを突破するキーポイントに据えたのが、ロイヤル・アルバート・ホールの演奏会のシーンである。

物語のクライマックスである。

大正解だった。

「善きアメリカ人夫婦」
「失った家族の復元」を成就させるために、「善きアメリカ人夫婦」が奔走する演奏会のシーンが、フィックス・シヨツトで撮られた、サイレントのアクションのみで見せるので、映像の独壇場と化していた。

サスペンスを決定的に盛り上げるこのシーンなしに、本作の成功はなかったと言っていい。

こういうシーンを構築するから、ヒッチコックは止められないのだ。

以下、そのアルフレッド・ヒッチコック監督を尊敬するトリュフォーに長広舌を振るってもらおう。  

「ジエームズ・スチュアートがカンタータの演奏の真最中にアルバート・ホールにかけこんでくることによって、サスペンスがぐっと引き伸ばされることになるわけです。

スチュアートは遠くから妻のドリス・デイを見つける。コンサートの最中だから声を立てることはできない。ドリス・デイは小さくすばやい身振り手振りで夫に状況を説明する。まず二階のボックスのカーテンのかげに隠れている狙撃者をさし示し、ついで狙われている大使がすわっている位置を教える。スチュアートは大使に危険が迫っていることを知らせようとして、大使のいるボックスに近づこうとするけれども、廊下の途中で警官たちにつかまり、事情を説明しなければならない。

フランソワ・トリュフォー(ウィキ)
この廊下で警官たちとやりあうシーンもすべてサイレントで演じられる。スチュアートは必死になって大使の命があぶないから急いでそのことを知らせなければならないと訴えるのだが、警官たちは落ち着きはらって規則どおり上役に会って話すようにと指示する。

このサイレントのアクションが、サスペンスをいっそう盛り上げると同時に、このシーン全体のアイロニーを構成する。(略)三百メートルのフィルム一巻まるまるが音楽だけでせりふなしなんですね。しかも、ほとんどフィックス・シヨツトで撮られています」(前出/筆者段落構成)

このトリュフォーの長広舌に、もう、加えるべき何ものもない。

しかし、物語はここで終わらない。

我が子の救済という中枢テーマが、物語の中で収束されていないからである。

この中枢テーマが、その直後の、大使館を舞台にしたラストシークエンスに繋がっていく。

このラストシークエンスは、先のアルバート・ホールの演奏会での、夫婦の獅子奮迅の活躍によって開かれたものである。

だから、クライマックスの後に待機する、大使館での最後の闘争こそが、「失った家族の復元」のみを求める、この夫婦の目立った身体表現のうちに結ばれていく。

テロリストの転落死
アルバート・ホールの演奏会が、テロリストの暗殺を頓挫させた「善きアメリカ人夫婦」を、某国首相によって駐英大使館に招待させることで、そこに捕捉された夫婦の子供と物理的最近接を果たし、一気に大団円を迎えるという結晶点に辿り着くのである。

「失った家族の復元」の物語は、予約済みのハッピーエンドのうちに繋がったのである。

「最初のイギリス版はなにがしかの才能のあるアマチュアがつくった映画だったが、リメークのアメリカ版はプロがつくった映画だったわけだ」(前出)

ヒッチコック監督の言葉である。

最後に、もう一つ、ヒッチコック監督の、本作のサスペンス作りの肝に関わる言葉を引用しておこう。

「映画の冒頭でまず楽器そのものを画面に見せておいて、そこに〈シンバル〉という文字をだしておくのは、かならずしもむだではないと考えたわけだ。それから、つぎに、観客がシンバルの音をはっきりと聞きわけるだけでなく、この音がいつ鳴り響くかということを予測すること、つまり期待することができるようにしなければならなかった。この観客の精神状態の調節がサスペンスづくりの基盤だった。

シンバルの音が響く寸前のカンタータの一小節をレコードで三度くりかえして聞かせたのは、そのあとつづいて起こることについて観客の気持ちが混乱しないように事態をはっきりさせておきたいと思ったからだ。というのも、観客が事態をはっきりわかっていないために、せっかくのサスペンスが弱まってしまうことがよくあるからなんだよ。(略)観客が一所懸命になって筋道を立てて考えているあいだに重要なシーンがすぎていって、エモーションが薄らいでしまう。とにかく、たえず明快にすることが必要だ」(前出/筆者段落構成)

 口幅ったいようだが、全くその通りだと思う。

 コメディとサスペンス作りの基本は、明快さ、単純さでなければならない。

 なぜなら、観る者との基本情報の共有なしに、エモーションの惹起など不可能だからである。

ハッピーエンドを全く引き摺らない、ウィットに富むラストカットの、あっさりとした括りの構図のように、いつ観ても、ヒッチコック映画には何かがある。

 そこが最高にいい。


【参考文献 「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社】

(2014年8月)


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