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2012年4月1日日曜日

蜂蜜('10)         セミフ・カプランオール


<正夢になってしまったリアリティの中で、6歳の児童の自我を噴き上げた情動の氾濫>



1  行間を語らないことによって保証された映像宇宙のイメージ喚起力



映画の中で提示された物語が、その映画総体の中で、殆ど「予約された感動譚」の本質とも言うべき、2時間程度の時間限定的な物語のうちに自己完結してしまう映画の脆弱さは、物語の肝の部分だけが特化され、切り取られた形で集中的に提示されてしまうので、観る者の主体の表層にヒットした心地良き情感系が、束の間、騒いで止まないだろうが、それはどこまでも、賞味期限を持つ「虚構の感動譚」の、「快然たるヒーリング効果」を保証する以上の決定力を有しないからである。

その類の「予約された感動譚」は、観る者の主体に「解釈の自在性」を担保させないが故に、観る者の主体の内側に喰い入るように侵入し、そこで主体に関わる普遍的なテーマ思考からの逃避を寸止めにさせる映像的提示の、深く、シビアな固有の表現世界にまで昇華し得ないのである。

観る者の主体の内側に、そこで提示された問題意識を共有し得るミニマムな考察すらも捨てられてしまうから、「虚構の感動譚」の虚構性の持続熱量が剝落する瞬間こそが、その映画の賞味期限の初発点になってしまうのだ。

それが、時間限定的な物語のうちに自己完結してしまう映画の脆弱さの崩れ方の、その裸形の様態である。

最後まで、観る者の主体の内側に、「解釈の自在性」を担保させない「虚構の感動譚」の、何とも言いようがない軽量感。

「虚構の感動譚」の虚構性の崩れ方とは、まさに浮薄なナルシストの自家中毒をなぞるものではないのか。


「虚構の感動譚」の言いようがない軽量感と明瞭に切れた、本作の最も評価すべき点は、吃音症の児童が、唯一、言語交通の可能な父との密かな会話が拾われているだけで、一切の描写が、映像の固有の表現世界のみで勝負しているという、その一点にあると言っていい。

映像の固有の表現世界が提示する構図の大半が、特定的に切り取られた一幅の絵画であり、感傷を誘(いざな)う音楽の代りに、後述するように、「野生の動物のざわめきと鳴き声、夜の鳥、突然吹く風、日中止まずに降る雨、緑の何十もの異なるトーンとただよう霧」(セミフ・カプランオール監督による表現)等々の、自然が醸し出す効果音で埋め尽くされるのだ。

当然、説明的なスクリプト(脚本)を一切排し、オープニングシーンの長回しのフィルムロジックに集中的に表現されているように、観る者の主体の内側に「解釈の自在性」を担保させる構図の連射は、そこから開かれる固有の映像宇宙のイメージ喚起力を誘導し、まるでそれは、評判の高かったクラウス・ハロ監督によるフィンランド映画、「ヤコブへの手紙」(2009年製作)の「虚構の感動譚」の虚構性の崩れ方とは切れて、逆に、行間を語らないことによって提示された、充分な余白を埋めるに足る知的過程を保証する映像構成を構築していて、蓋(けだ)し圧巻だった。



2  物語の簡潔な梗概 ―― 陰翳感のイメージ深いオープニングシーンから開かれて



トルコ東部、アララト山近くに住む、養蜂業を生業(なりわい)にしている3人家族の物語の概要は、数行で済んでしまう程に簡潔なものだったが、その内実の濃度の高さは一頭地を抜く出色の出来栄えだった。

極相林に近い「森林」(後述)に囲繞されて、身過ぎ世過ぎを繋ぐ3人家族の中心に、父親ヤクプが居て、危険を顧みない父の仕事に憧憬の眼差しを注ぐ、一人息子の6歳の児童ユスフ。


その父と小声で話すときは問題ないが、母を含めて他者との言語交通が儘(まま)ならない、吃音症で悩むユスフは、学校での読誦(どくしょう)の時間が大の苦手。

そんなユスフの吃音症状から、言語を奪い取る甚大な「事件」が出来したのが、突然の父の失踪だった。

懊悩する母と、その母に心配をかけまいと努める、6歳の一人息子に襲いかかってくる不幸を描く物語は重々しいが、一貫して、絵画的空間の神秘なる世界に誘(いざな)う映像美は抜きん出ていた。

ここで、「語り」を極端に閉ざした物語の中にあって、そこだけが独立系のゾーンとして、スピンアウトされているかのような印象を与えるが故に、却って気になる冒頭のシーンについて触れておく。

森の奥深くに、荷物を背負わせた驢馬(ろば)を引いて、這い入って来る一人の男。

ユスフの父親ヤクプである。


大樹を探していたヤクプは、特定した樹木に自前のロープを投擲(とうてき)し、見るからに高い樹木を登っていくが、ロープを引っかけてある枝が軋(きし)みかけ、男の体重を支え切れず、折れてしまった。

そのまま落下したが、運良く、枝が完全に折れることなく、途中で止まったのである。

しかし、身動きが取れなくなって、宙吊りの状態になったヤクプの必死の表情が、激しい呼吸音を伝えながら、アップで映し出されたのだ。

それだけのシーンだが、そこから開かれる物語に、少なくとも、陰翳感のイメージを付与するのに充分なオープニングシーンだった。



3  「森林」という名の薄暗い自然への身体投入を継続させ、その時間を共有する「夢」を追体験していく物語



「『蜂蜜』で私が最も表現したいと思った最も重要な映画の要素は、1人の子供が目で見て感じ取る自然である。子供による隠喩的な森の認識。特に奇妙な音や暗闇、不可解なわずかなうごめきや動き、ものがこすれ合う音やはじける音…。野生の森の夜。青白い月の光が木の幹や葉に作り出す陰影、野生の動物のざわめきと鳴き声、夜の鳥、突然吹く風、星々、恐怖から開放される子供。日中止まずに降る雨、湿気。森特有のはかなさ、光とあらゆるものを包み込む音の雰囲気。緑の何十もの異なるトーンとただよう霧。行き詰まりの小道。高い木々の上には忘れ去られた手作りの蜂の巣箱。

そして突然森に現れる、それぞれが聖人に似た養蜂家たち。森のはずれの茶畑、お茶栽培で働く女性たち。若者たちが出ていき、お年寄りだけが暮らす過疎の町や村。


父の喪失とこの喪失が母子の間に生み出す感情。自然と比べはかない人生。山村の小学校での文字の学習、子どもたちが自分たちと現代的な世界をつなぐ唯一の手段であるテレビで見たことがらと、実際に暮らしている生活との間の埋められない溝。祖母から伝えられる自分たちのルーツやバックボーンに関する話と知識、迷信、怖い話。死に備える年老いた女性とこれから人生に踏み出そうとする子供の間に行き来する、ある種かみ合わない会話、問い、沈黙」(2010年02月20日付 Radikal紙 翻訳者:永山明子 東京外国語大学運営サイト・筆者段落構成)

物語の中に再現されていた印象深いカットを、敢えて私が詳細に羅列せずとも、些か長いが、ここで語られているセミフ・カプランオール監督の言葉の中に、この映画の全てが集約されている。

とりわけ、「1人の子供が目で見て感じ取る自然」についての描写は、ラストシークエンスで描かれた、「自然との溶融」の決定的な構図の累加の先に待機していた、その見事なまでの最終到達点の中で芸術的に昇華されていて、正直、そこに加えるべき何ものもない括りであった。

前述したように、語りのない映像の中で構成された構図の大半は、殆ど特定的に切り取られた一幅の絵画でもあった。


その絵画の中に生命を吹き込んだのは、言うまでもなく、本作の主人公、ユスフという名の6歳の児童である。

従って映像は、そのユスフが見聞きし、体感した出来事を、山村の限定エリアの小さな教室という人工的空間と、最愛の父ヤクプとの睦みの中で習得する生活技術の一端と、そのバックグランドになっている自然環境、具体的には、そこに呼吸する生物及び、土壌を含めた総体としての「森林」という名の「植生遷移」の一つの様態、そして、父と二人だけになる会話の特定スポットに時折り挿入される、母ゼーラの情感によって構成されているが、その中枢には、父以外の他者(母も含めて)との言語交通を不得手にする、繊細な児童の揺れ動く自我が、そこもまた、切り取られた絵画的空間の中で特化され、過不足なく捕捉されているのである。

自然は、いずれの国の子供にとって、「無限抱擁の母」であると同時に、「有限抱擁の父」でもある。

そんな自然保護派のゴールデンルールが洩れ聞こえてきそうな、それ以外にない、決定的な構図の連鎖の中で、呼吸を繋ぐユスフの一挙手一投足は、一貫して、「最も美しい映像」と称された、決して長尺でない物語の中に深々と再現されていたが、セミフ・カプランオール監督もまた、以下のコメントの中で、「有限抱擁の父」の恐怖について言及していた。


「子供たちは神に近い存在だと、私は信じています。『蜂蜜』に登場する子供も、本来備わっている感情と、父から受け継いだ感情があふれています。そして自然とは、その感情を浮き彫りにしてくれるのです。もしあなたが安全なところにいたら、自分は何でもできると思うかも知れないけれど、自然の中にいたら、自分がどれだけ弱い存在か、思い知ることになるでしょう」(ウェブ yorimo : ベルリン映画祭で最高賞受賞『蜂蜜』のS.カプランオール監督)

「子供たちは神に近い存在だ」という意味は想像し得ても、なお不分明なのでスル―するが、この映像が常に、特定的に切り取った自然美を視界に収めても、先進国と言われる国々の若者が、日々に呼吸を繋ぐ日常世界とあまりに隔たっているが故に、映像のみでしか語らない、淡々と刻む物語への初発の印象を、彼らの自我形成のうちに特別の記憶として捕捉し得ない一篇のファンタジーと感受し、多くの場合、憧憬の念を抱く心情よりも、心霊スポットの如き異界性のイメージで俯瞰する思いもまた理解できなくはない。

大体、「森林」という概念の理解すら覚束ないだろう。

多様な樹木の密度の高さを特徴づける「森林」の世界は常に暗く、最高気温の低さと最低気温の高さの均衡感によって、湿度は一定に保持され、大雑把に書くと、裸地 ⇒ 1年草・2年草から多年草の優先種 ⇒ 陽樹林(光の必要性・マツ、コナラ、シラカバ類) ⇒ 陰樹林(光の不足・シイ類、カシ類、ブナ林) ⇒ 極相林(「森林」の安定)に至るまでの、植物の数百年に及ぶ変遷を「植生遷移」(画像/Wikipedia)と言うのが、植物生態系の構成の特徴なのである。


従って、「森林」には、以上のような多様な植物以外にも、その植物に寄生し、それを糧とする各種の微生物や動物が生息し、それらが高密度の有機的結合体を構成しているが故に、「森林」こそ、陸上における最も典型的な生態系であると言えるのだ。

本作の「森林」もまた、「植生遷移」の一つの様態を表現していたのである。

その意味で、「植生遷移」の一つの様態を表現していた、「森林」という名の薄暗い自然への身体投入を継続させていく中で、その「非日常」の不思議を日常内化していった児童が、危険を顧みず、家族のために命を張って働く父の仕事の崇高さを実感し、その時間を共有する「夢」を追体験していく物語 ―― それが、本作の全てだったかも知れない。



4  鋭角的な攻撃性を体感させる畏怖感覚とも共存する、「自然との共生」のリアリズム



豊かだが、それ故に、昼でも薄暗い「森林」の中で、高木に仕掛けた巣箱によって蜂蜜を取る養蜂業を生業(なりわい)にしていた、父ヤクプの生活に関わる苦闘の原因は、突如として、蜂蜜が取れなくなってしまった事態に直面したこと。

理由は、蜂群崩壊症候群(CCD)。

突然、蜜蜂が大量に失踪したり、或いは、死亡したりする現象である。(注)

当初、米国各地で出来した、コロニーの崩壊という厄介な事態の原因は、蜂群のウイルス感染説、農薬影響説など様々に報告されているが、未だに原因不明である。

かくて、養蜂での生業の危機意識を持ったヤクプは、謎めいたオープニングシーンで描かれていたように、馬を引いて、更に、深い森の奥に分け入っていくリスクを負うに至り、遂に断崖で転落死する。

そして、詳細は後述するが、印象的なラストシークエンス。

父の死と、その父を愛するユスフの「自然への溶融」を果たす、ラストシークエンスに込められた作り手の思いの中に、過剰な消費文明への批判的メッセージが含まれていたと解釈するのもまた、強(あなが)ち誤読とは言えないだろう。

だからと言って、この作り手が、ルソー流の「内的自然」への回帰ではなく、原始的未開状態への「自然への回帰」というアナクロニズムに固執して、そこに児戯的な「脱文明」とか、「脱近代」とかいうメッセージを集中的に情感投入しているという印象を受けないのも事実。

声高に主張することのない静謐な映像は、極相林としての「森林」にシンボライズされる「外的自然」に依拠し、そこで手に入れる、僅かばかりの恩恵に預かって、家族3人の身過ぎ世過ぎを繋いでいるシビアな現実をも映し出していて、それが、「この先、どうするの?」という、夫に向かって放ったゼーラの一言が、意想外なアクチュアル・リアリティの重量感を有するに至った。

母と正対しても、緊張のため吃音になってしまうユスフは、その母から、「警察官になりたい?ユスフは何になるの?」と誘導されるに及び、山村の目立たない一角で、細々と生活する家族が負う苛酷な現実をも映し出していたのだ。

深い森の奥に分け入っていかざるを得ない状況の果てに、「お前は家族を守れ」と6歳の児童に言い放った父の行方が不明になる辺りから、たった二人だけになるリスクを抱えた母子の現実が、そこにあった。


そんな母を、健気に守ろうとするユスフ。

どこまでも、父の教えは絶対規範として内化されているのだろう。

既に、この家族は、「生き死に」の冷厳なリアリズムに捕捉されてしまっているのだ。

だから、「森林」の只中で身過ぎ世過ぎを繋ぐ現実の裏には、自然の恩恵を享受する利得ばかりか、その自然が本来のシビアな相貌を発現させるときの、鋭角的な攻撃性を体感させる畏怖感覚とも共存することを意味しているのである。

些か飛躍するが、これだけは書いておきたい。

永い年月にわたって人間が構築した文明を破壊することによって、自然が自己防衛するなどという不可解な仮説は無視できるだろうが、しかしそれは、かつて我が国で流行した「清貧の思想」(中野孝次の著書名)というものが、単に「金持ちの特権的趣味」(金持ちが質素な生活を愉悦するという「アディクション」=嗜癖)の範疇でしか具現できなかったように、「自然との共生」を声高に主唱する者たちの情感的な物言いが、どこまでも理念系の産物でしかない現実をも逆照射するであろう。


思うに、児童期において、自然との触れ合いの価値の是非の問題への、国家レベルの学術的研究や、自然体験の普及への指導者の育成への本気の取り組みの不備もあって、我が国での自然教育のレベルは、農林水産省主導の「グリーン・ツーリズム」や「田圃体験」に象徴されるように、概して情緒過多であり、一貫して不完全な様態を露呈させている印象を拭えないのだ。


(注)以下、直近の共同通信社が配信したニュースより抜粋。

「ネオニコチノイド系農薬にさらすと、群れの中での女王蜂の数が減ったり、帰巣能力を失って巣の外で死んだりする異常が起きるのを確認したと、英国やフランスのチームが29日付の米科学誌サイエンス電子版に発表した。(略)ネオニコチノイド系農薬は、1990年代から殺虫剤として日本を含め世界で広く使用。チームがマルハナバチの群れを低濃度の農薬にさらす実験をすると、6週間後には正常な群れと比べて次世代を生み出す女王蜂の数が85%少なくなったことが判明した」(2012年3月30日付け)



5  正夢になってしまったリアリティの中で、6歳の児童の自我を噴き上げた情動の氾濫



3.11以降、我が国に「脱近代」という言葉が飛び交っている。

「やれやれ」という思いが隠せないのが本音。

左右両派を問わない文化人が、またぞろ、恰も自分のスタンスを確認するかのように、観念系の暴走が開かれているのだ。

3.11以降、一時的に「復興バネ」という「防衛機制」が機能して、「日本人の崇高さ」が必要以上に喧伝される空気が、そろそろ萎み始めるタイミングに合わせるかのように、まさにジワジワと忍び寄ってきたと信じる件の文化人の、拠って立つ専売特許である、「閉塞的状況」という観念系の文脈を声高に叫んで止まない嗜好が突沸(とっぷつ)しているのである。

「今の日本に求められているのは、前向き・上向き・外向きで『新しい近代』をつくりあげていくための模索だろう」

これは、「日本経済新聞 電子版」に掲載された、「前・上・外を向いて『新近代』模索を」と題する社説(2012年3月10日付け)の一節である。

同感である。

殆ど観念系のゲームの如き、「脱近代」という言葉とは無縁に、「閉塞感」の病理に陥っている暇すら持ち得ない、映像で映し出された母子のシビアな現実を拾っていこう。

映像のラストシークエンスである。

父の失踪以来、すっかり言葉を失ってしまったユスフは、その日もまた、苦手な読み書きの授業を迎えていた。

「読んでごらん」

決して生徒を差別しない誠実な教諭は、ユスフから言葉を復元させようと指名したのである。

必死に発語しようとするユスフの表情を視認して、「よくできた」と褒める教諭。

「ユスフに拍手を」

教諭の一言で、クラス全員からの拍手が、教室中を反響する。

「ユスフ、前に出て」

教諭に督促され、前に出るユスフ。

そして、音読が上手な生徒の証明であるバッジを、教諭から付けてもらって、その喜びを、家で待つ母に伝えようと必死に走って帰っていくユスフが、近道をして森の中を上り切ったとき、その耳に入ってきた言葉に、思わず立ち止まってしまった。

「黒崖で事故に遭ったらしい。今、運んでいる。お気の毒に・・・今は待つしかない。神の御慈悲を・・・」


母の啜り泣きの声が漏れ、ユスフの表情が、見る見るうちに暗鬱になった。

ユスフは、たった今、上って来た森の中を下り、途中で学習教材の入っているリュックを放り投げ、森の奥に踏み込んでいく。

野鳥の鳴き声を間近で聞いて、一瞬、立ち止まった。

そこから、また走り始め、ぐんぐん、深い森の奥にまで突き進むが、それは、父の仕掛けた巣箱を求めて探しているようでもあった。

一時(いっとき)、恐怖を忘れた児童が、深い森の暗みまで潜り込んでいって、一本の大木の根元の辺りで横たわっていく。

そこは、雷鳴が轟き、動物の鳴き声が木霊し、木々が風で掠れ合う音のする、生態系の神秘なる世界。

いつしか、自然の只中で、ユスフの呼吸音は寝息に変わり、一つの掛け替えのない命を吸収していった。


このラストカットでフェードアウトしていく構図の意味に、「父の葬送のイニシエーション」とか、「自立歩行への、その初発の象徴的表現」などという観念系の含みを持たせる意味など必要ないだろう。

6歳の児童の自我に、そのような観念系の文脈が分娩できる訳がないのだ。

ただ、未だ6歳の児童には、父の匂いを嗅ぎたかったに過ぎないのだろう。

そこで想起されるのは、映像序盤での、父と子の「秘密の共有」のシーンである。

「夢を見たんだ。僕が木の下で座っていて、星たちは・・・」

ユスフがここまで話したとき、父はユスフの言葉を制した。

「夢を人に聞かれちゃだめだ。耳元で話して」

そう言われたユスフは、父にだけこっそりと夢を囁いた。


「話しちゃダメだよ」

それが、ユスフに語った父の言葉だった。

一体、このとき、6歳の児童が見た夢とは何だったのか。

ここで想起されるのが、オープニングシーンで、父が滑落して、中途で止まっていた場面である。

恐らく、ユスフが見た夢とは、この場面であるように思われる。


滑落しても死ぬことなく、そこから再び大樹を登っていくイメージの中で、ユスフは、「強い父」を憧憬する思いを吐露したかったのだろう。

画面には映し出されなかったが、「悪夢」のイメージに流れない構図のうちに、ユスフが目覚めたのだろう。

だから、「強い父」のイメージだけが再生産されていったのではないか。

しかし、この夢には残酷な続きがあった。

父の失踪以来、すっかり言葉を失ってしまったユスフが、再び見た夢は、その大樹を登っていくことが叶わず、中途で止まっていた状態から、本当に滑落してしまう夢である。

そして、この夢は、正夢になってしまったのだ。

ユスフの中で、ずっと、この夢の恐怖が取り憑いて離れなったに違いない。

だから一層、失った言葉の復元が困難になってしまったのだろう。

正夢になってしまったリアリティの中で、6歳の児童が選択した行為 ―― それは、夢の中で見た大樹を探し、そこで父の匂いを嗅ぎたかったのではないか。

ただ、それだけだが、それをしなければ済まない情動が、6歳の児童の自我を噴き上げていったのだろう。

そのように解釈し得る、ラストカットの構図の決定力の凄み。

それが、本作に対する私の把握である。

様々な含みを持たせた映像の完成度は、抜きん出て一級品だった。

それだけは疑う余地がない。


(2012年4月1日)

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