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2012年2月3日金曜日

キャタピラー('10)          若松孝二


<「絶対反戦」という基幹テーマの暴れ方 ―― 「『正義・不正義』という大義のラベリング化による一切の戦争」に対するアンチテーゼ>



1  日を追って変容する妻の優位性を顕在化させていく「権力関係」の反転現象



長閑な村の「銃後」という限定的な状況下での、限定的な関係構造を描くことで、「戦時体制下の国家によって仮構された、『軍神』の欺瞞性と自壊」という表層的テーマを通して、視覚を抉(えぐ)るような刺激的な情報提示(本作の場合、執拗に連射される実写画像)に、非武装でナイーブ過ぎる数多の日本人への「初頭効果」が奏功したかの如き、「絶対反戦」という訴求力の高い直截なメッセージを、この監督特有の、畳み込むようなアジテーション口調で声高に映像化した一篇。

但し、「絶対反戦」という本来の主題を、信じ難い程、チープでお座成りな「構成力」のうちにまとめたために映像処理の姑息さを露呈させてしまったが、そこに作家性の劣化が印象づけられなかっただけに惜しまれてならない。

この映像処理の姑息ささえなければ、一貫して力強い映像の訴求力の高さは評価に値するものだった。

これが、本作に対する私の率直な感懐。

なお、「絶対反戦」の主題提起力の粗雑さについては後述する。

ここでは、物語を簡単にフォローしていく。

長閑(のどか)な村の銃後という限定的な状況下での、限定的な関係構造を構成するのは、中国戦線で四肢を失って、「軍神」として帰還した夫と、顔の半分がケロイドと化し、聴力と声帯を喪失したキャタピラー(芋虫)の如き体型を有する夫(トップ画像)を視認して、叫び声をあげて逃げる妻。

「ご褒美をあげましょうね」

これは、村に帰還した夫が、戦時体制下の国民国家から「軍神」に仮構されたことで、村民の尊敬の的になった挙句、「あなたは『軍神』様なのだから」という理由で、殆ど復讐的心理によって村民の前に曝される夫の屈辱への代償として、夫の「性」の処理の相手になる「貞淑な妻」が、「性」と「食」と「眠」以外に拠り所を持ち得なくなった夫に放つ常套句。

夫を視認した際、嫁ぎ先の家を、思わず飛び出した妻も、今や、このような物言いを放つ程に、キャタピラー(芋虫)の如き体型を有する夫との物理的共存に馴致(じゅんち)していったのである。

既に、そこには、自分の命令によってしか動けない夫との「権力関係」の反転現象が見られていた。

「権力関係」の反転現象が、いつしか、「ご褒美」をあげるという報償性を糊塗(こと)することで、自らの「性」の渇望をも処理する行為の、ほぼ全人格的支配力のうちに、日を追って変容する妻の表情の明瞭な優位性を顕在化させていく。

この規格外れで、エキセントリックな現象がもたらしたもの ―― それは、件の「軍神」が、中国戦線下で逃げ惑う中国娘をレイプし、殺人を犯したときの人道犯罪のトラウマがフラッシュバックし、勃起障害を惹起したことだった。

「権力関係」の反転現象の中で、「男」と「女」の関係の決定的な優劣性という事態が再現されたとき、半壊した身体の代償として具現した、非日常から限定的日常性への物理的・心理的帰還によって、復元し得た「軍神」の自我の間隙を突き抜くかのようにして、べったりと張り付く心的外傷が突沸(とっぷつ)し、感覚の衝撃と化した恐怖感が身体化してしまったのである。

件の「軍神」にとって、何より惨いのは、「ジョニーは戦場へ行った」(1971年製作)がそうであったように、心的外傷のフラッシュバックを供給する大脳が破壊されていなかったこと。

そして、「軍神」にとって、何より救いとなったのは、「性」と「食」と「眠」の快楽が生き残されていたこと。

しかし、この捨て難い快楽である「性」の愉悦には賞味期限を持っていたこと。

この文脈に横臥(おうが)する事態こそ、「軍神」の自我を二重苦のトラップに搦(から)め捕り、フラッシュバックを間欠的に供給する加速因子にさせてしまうのだ。

以下、その辺りの心理学的風景について、稿を変えて言及していく。



2  夫婦の爛れ切った関係構造を露呈させた「DVサイクル」の負のスパイラル



「軍神」の裸形の様態を経験的に熟知している妻には、「性」と「食」と「眠」の快楽を求めるだけの男=「軍神」という存在性への欺瞞が、誰よりも触感し得ていたこと。

それ故にこそ、かつて石女(うまずめ)と罵倒を浴び、DVを常態化させていた男への憎悪が、彼女をして、嫌がる「軍神」をリヤカーに乗せて小さな村を徘徊させるのである。

この行為を、「軍神」が嫌悪する心理は瞭然としている。

それは、半壊した身体を人前で曝されることへの嫌悪であると同時に、生きていながら「神」となった「軍神」としての矜持(きょうじ)を、この苛酷な時間の中で保持し続けねばならない事態へのストレスが飽和状態と化していくからだ。

自我を裸にできない辛さに耐え切れない程に、「軍神」の人格構造の脆弱性が、そこにある。

「軍神」の妻は、それを熟知しているからこそ、敢えて、この加虐的行為に及ぶのだ。

「軍神」の欺瞞性を炙り出し、それを目視することで愉悦する妻が、そこにいる。

「軍神」の介護を、一生負わされた「嫁いだ女」の絶望的な時間を思えば、このような加虐のゲームを転がすことなど当然の権利だと考えても可笑しくないのだろう。

それが、「権力関係」の反転現象によって、「軍神」の妻が手に入れたもののマキシマムな利得なのかも知れない。

夫婦の関係構造は、これ程までに歪んでいるのである。

一方、「軍神」にとって、自我を裸にする場所は限定されていた。

殆ど闇の空間と思しき、狭隘な自宅の一角である。

その一角で、「性」と「食」と「眠」の快楽を求めて、「軍神」の妻に懇願するのだ。

しかし、「権力関係」の反転現象によって惹起した、「軍神」の妻との優劣関係の固定化は、「性」の体位の反転現象をもたらし、仰向けの体位から見上げる風景が捕捉する、「軍神」の妻の支配力の認知のうちに、絶対的受動性の縛りから解放され得ない「軍神」は、異国の「前線」に捨ててきた記憶を呼び戻してしまったのである。

それは、「軍神」の自我を苛み、狂気にまで最近接させるのだ。

自らがリードする「性」による快楽が遮断された「軍神」の妻は、勃起障害を惹起した夫を叩きながら、怒鳴り、泣き、叫び続ける。

「あんた、こうやって私を殴ったのよ!子供が産めない石女だって!」

恐怖に歪む夫の変化を見て、夫を抱き締める「軍神」の妻。

「食べて、寝て、食べて、寝て、それでいいじゃない。二人で生きていこう」

「軍神」の人格構造の脆弱性を、悲哀なる身体表現の裸形の様態のうちに感受した「軍神」の妻は、愛の本質とも言える、「援助感情」に近接させるに足る複雑な感情の中で、束の間、揺れ動く。

これは、「緊張」⇒「暴力」⇒「ハネムーン」という「DVサイクル」で言えば、「ハネムーン」のプロセスを意味するだろう。

しかし、このプロセスも継続力を持ち得ない。

人格構造の破綻を見せるような、「軍神」のフラッシュバックの爆轟(ばくごう)を惹起してしまったからである。

「ハネムーン」のプロセスの中で、取り合えず、食事を作り、情感深く食べさせるが、闇の空間を照射するランプの炎を見て、再び、「軍神」の強い情動反応が突沸(とっぷつ)したのである。

フラッシュバックである。

「芋虫ゴーロゴロ、軍神さん、ゴーロゴロ」

これは、狭い室内を七転八倒する夫の姿を見て、妻が放った一撃だ。

本作を通して、アクティング・アウト(封印した記憶が身体表現されること)として露わにされる、最も痛々しいこのシークエンスの心理構造を、夫婦間の「DVサイクル」という視座で考えてみたい。

「軍神」にとって、自我を裸にすることで「武装解除」し得る場所が、殆ど闇の空間と思しき、狭隘な自宅の一角であることは前述した通りである。

しかし、「軍神」の妻は、それを許さない。

だから、「軍神」が最も嫌悪する「村の徘徊」を強要する。

この「村の徘徊」の中で、「戦時体制下の国民国家によって仮構された、『軍神』の欺瞞性」を抉(えぐ)り出していく。

「DVサイクル」が、そこから開かれるのだ。

文字通り、軍服に身を包むことによって「心理的武装」を強いられる、「軍神」の「緊張」がピークアウトに達するのである。

「緊張」のプロセスの後に待つ「睦み」の「ご褒美」だけが、「軍神」の「緊張」を解いてくれるのだ。

ところが、この「ご褒美」の中で惹起したフラッシュバックのアクティング・アウトが、「軍神」のペニスを勃起不全化するに至った。

繰り返すが、「権力関係」の反転現象によって、「軍神」の妻との優劣関係が固定化され、絶対的受動性の縛りから解放され得ない「軍神」の自我が、異国の「前線」に捨ててきた記憶を呼び戻してしまったからである。

「ご褒美」に応えられない夫の性機能障害への不満を、「軍神」の妻が詰(なじ)り、悪態をつく行為は、紛れもなく「暴力」であり、そこに「DVサイクル」のプロセスの負の記号が読み取れるだろう。

但し、「軍神」の勃起障害を詰る行為が「暴力」としての完成形に至らないのは、「向かう〈性〉」である男のそれと比べて、女の〈性〉の本質が「受ける〈性〉」であるが故に、勃起障害を惹起した男への「暴力」には「レイプ」という選択肢が成立しないからである。

ともあれ、不全形とは言え、「軍神」の妻の「暴力」の加速が、「軍神」のフラッシュバックの連鎖を惹起していくという、夫婦の爛れ切った関係構造を露呈させてしまうのである。

言わずもがなのことだが、夫婦間の「ハネムーン」のプロセスが継続力を持ち得ないのは、「ご褒美」という名の「軍神」の妻の欲望の回路を遮断させてしまうことで、一人の若い女を、「嫁いだ女」という倫理的強制力の縛りによって、単なる「介護者」に矮小化させてしまうからである。

そして、夫婦の爛れ切った関係構造を露呈させた、「緊張」⇒「暴力」⇒「ハネムーン」という「DVサイクル」の負のスパイラルが、夫婦間の内的要因によって極点にまで達することなく、「戦時体制下の国民国家によって仮構された、『軍神』の欺瞞性」を生み出した時代状況という外的要因によって自壊していくに至ったのは、反戦映画としての本作の、殆ど予約された硬着点だった。

「敗戦」の日。

キャタピラーの如き体型を有する者の、その絶対的不自由さのハンディの中で、自らを転がして、自死に至る「軍神」の凄惨さは、「絶対反戦」を基幹テーマに据えた本作の、それ以外にない最終到達点である外なかったのである。

「敗戦」によって崩れ去る「軍神」の自我が拠って立つ安寧の基盤は、もうどこにもないのだ。

天皇・皇后の御真影に寄り添うように床の間に飾られた、「軍神」の自我の安寧を支え切ってきた金鵄勲章や、「軍神」の「軍功」を讃える新聞記事が、今や、一欠片(ひとかけら)の価値も有しないと括った果ての自壊の構図は、精神疾病の詐病(さびょう)に逃げ込んだ男の「万歳!」の雄叫びに、嬉々として反応する「軍神」の妻の解放の構図と対極をなしていて、殆ど文句のつけようがないラストカットになるはずだった。

ところが、「絶対反戦」を基幹テーマに据えた本作は、そこに注入されたイデオロギーもどきの洪水が、「抑制系」の映像の一切を、「欺瞞・堕落」と嘲罵(ちょうば)するかのように蹴散らして、怒涛の如く暴れ捲ってしまうのだ。

それもまた予約された文脈とは言え、私の感性受容器の飽和点を超えてしまうに足る、張り付けた映像のチープさについては、稿を変えて言及したい。



3  「敗戦」によって崩れ去る者と、解放を手に入れた者との対極的構図の提示によって閉じられない映像のチープさ



本作は、その良し悪しは別にして、「反戦・力」というパワフルな主題提起力に昇華させていくには、「ジョニーは戦場へ行った」がほぼそうであったように、リアリティのない交戦シーンをダラダラと繋ぐことなく、このような限定的な状況下での、限定的な関係構造を執拗に拾い上げていく物語構成の方が、有効な方法論であることを検証した一篇であったとも言える。

多くの反戦系の邦画がそうであるように、物語の中に、刺激的なシークエンスを含むエピソードを感傷的に累加させていく作品の殆どが、そこで提示した主題の重量感に押し潰されて、殆ど討ち死にしてしまうのは、一貫して物語に張り付く情感系言語によって、定番的な「反戦映画」が拠り所にする、フラットなヒューマニズムに流れていくだけの予定調和の杜撰(ずさん)さを露呈するだけであるからだ。

その類の「反戦映画」は、明らかに、私とは主義主張は違えども、本作のような構成力によって成る映像が提示する、抉り出すような強靭さによって蹴散らされるだけであろう。

但し、本作に対する私の高評価はここまで。

「敗戦」によって崩れ去る者と、解放を手に入れた者との対極的構図の提示によって閉じることを拒絶した、本作の作り手が張り付けた映像のチープさ。

これで一切を駄目にしたとまでは言わないが、そのあまりに粗雑な構成力に、ただ呆れ果てるばかりだった。

稚拙なイデオロギーもどきのメッセージを、ダイレクトに映像化することの瑕疵に対する鈍感さ。

それは、このようなスタイルで快走し切る快楽を知った者の、変えようのない鈍感さであるが故に、勝手に走り切ってくれとしか言いようがないのだ。

執拗に連射される実写画像と説明的キャプション。

分っていたこととは言え、これには、正直、辟易(へきえき)した。

「広島の原爆による死者14万人。長崎の原爆による死者7万人」

そして、昭和天皇による玉音放送が現代訳されて、画像上部にキャプションを流していくのだ。

「お国のために絞首台にぶらさがる」

説明的キャプションと、その実写画像である。

「死刑判決を下されたBC級戦犯は984人」

これも、説明的キャプション。


元ちとせ(ウイキ)
「万歳」のラストカットの直後から開かれる、これらの実写画像と説明的キャプションの執拗な連射のエンディングは、元ちとせが歌う「死んだ女の子」。

あたしは死んだの
あのヒロシマで
あのヒロシマで
夏の朝に

「反戦ナルシズム」に浸かったチャイルディッシュソングの挿入は、深々と情感に流すことでカタルシス効果を保証するだろうが、力強い物語で押し切ったはずの映像総体の訴求力を削り落してしまったのだ。



4  「絶対反戦」という基幹テーマの暴れ方 ―― 「『正義・不正義』という大義のラベリング化による一切の戦争」に対するアンチテーゼ



「戦争の暗鬱さ」で染め抜かれていく、長閑な村の「銃後」の風景の変容の決定的なキーワードに据えたものは、キャタピラー(芋虫)の如き体型を有する「軍神」であった。

原作の存在があったにしても、この着想には全く問題はない。

大日本国防婦人会大日本紡績尼崎工場分会の女性たち(ブログより)
なぜなら、空襲さえなければ、長閑な村の「銃後」の風景は、せいぜい「大日本国防婦人会」(注1)と書かれたタスキを付けた婦人たちの「竹槍訓練」の日常化によって、相応に自己完結し得る「相対的平和」の状態を保持できるからである。

だから、観る者が勝手にイメージする「戦争の暗鬱さ」は、長閑な村の「銃後」に呼吸を繋ぐ者にとって、どこまでも観念でしかないのである。

死者の帰還である「英霊」と異なって、そんな村に「軍神」として帰還を果たすとき、村人たちが視界に収める風景は、「四肢が剥ぎ取られた、キャタピラーの如き体型を有する軍人」の裸形の容体なのだ。

従って、その「軍神」の帰還による物語の構成力によって、長閑な村の「銃後」という限定的な状況下での、限定的な関係構造を描くことで、「戦時体制下の国家によって仮構された、『軍神』の欺瞞性と自壊」というテーマを通して、充分に「前線」の爛れ切った惨状を描き切れたはずである。

前述したように、執拗に繰り返される実写画像と説明的キャプション、そして、エンディングのチャイルディッシュソングの挿入は、物語における「銃後」の、「戦時体制下の国民国家によって仮構された、『軍神』の欺瞞性と自壊」というテーマの映像化の範疇で勝負する映画作家の怠惰であるという外にない。

要するに、「食って、寝て、やるだけ」という庶民の「日常性」を包括することで、「『正義・不正義』という大義のラベリング化による一切の戦争」に対するアンチテーゼにした、「絶対反戦」というメッセージを強調したいがためのインサートだった訳だ。

無論、「絶対反戦」を基幹テーマに据えた映像を作るのに異論はない。

ならば何故、映像のみで勝負しなかったのか。

それは、「反戦映画」のプロパガンダ性を超えた名作と言える、今村昌平監督の「黒い雨」(1989年製作)を想起すれば瞭然とするだろう。

「人間いう奴は性懲りもないものじゃ。我が手で我が首を絞めよる。正義の戦争より、不正義の平和の方がましじゃいうことが、何で分らんかのう」

ヒロインの叔父の閑間重松(しずましげまつ)役を演じる、北村和夫の有名な台詞である。

今村昌平監督の渾身の思いが、件の台詞のうちに念写されたような、「黒い雨」(画像)という出色の映像もまた、「全身理念系」の「絶対反戦」を基幹テーマに据えた作品と言っていい。

しかし、閑間重松の台詞には相当の重量感がある。

ラストシーンに近い、この台詞に至るまでの丹念なエピソードの累積があるからこそ、観る者は重松の台詞に特段の違和感を感じないのである。

「黒い雨」が、「全身理念系」の「絶対反戦」というイメージから解放されているからだ。

イデオロギー性の濃度の脱色が功を奏している、と言い換えてもいい。

加えて、二次被爆者の嫁入りの物語を描いたこの映画は、一貫して映像のみで勝負し、相当程度、訴求力の高い作品に仕上がっていた。

嫁入りすることが困難な二次被爆者のヒロイン、高丸矢須子の心の動きを精緻に描き切っていて、有名な「大鯉」のシーン(注2)に結晶される、極めて芸術性の純度の高い映像を構築したのである。

ここで、本作の批評に戻る。

私は、本作の基本骨格の構造を、特化された歪んだ夫婦関係の、「内なる戦争」のプロセスという流れでフォローすれば、繰り返し述べてきたように、以下のような文脈で把握できると考えている。

即ち、「権力関係」の反転現象 → PTSDによるフラッシュバック → 「DVサイクル」の負のスパイラル → 「戦時体制下の国家によって仮構された、『軍神』の欺瞞性と自壊」という文脈である。

この文脈を基本骨格にして、「内なる戦争」のイメージのうちに関係特化された、「非日常下の日常性」で呼吸を繋ぐアブノーマルな夫婦の、その歪んだ様態を炙り出し、内面描写深々と、精緻に描き出すことで、「絶対反戦」という基幹テーマの表現の蓋然性を高める効果を持ち得たかも知れないが、どう考えても、本作のような限定的な物語の設定では、「全身理念系」の「絶対反戦」を基幹テーマに据えた作品の構築は困難だったと言う外にないであろう。

だからこそと言うべきか、執拗に連射される実写画像と説明的キャプションによる、視覚を抉るような刺激的な情報提示の、「初頭効果」を狙ったかの如き映像構成は、却って、それまでの湿気を帯びた物語の良質な構築性を損ねてしまうので、凛として、ノーマルな反戦映画の枠内で突き抜ければ良かったと思うのだ。

と言っても、「憤怒」を映画作りのモチベーションにしているように見える、稀代のインディーズ系の若松孝二監督(画像)に、畳み込むようなアジテーション口調の声高な映像を捨てて、抑制系の作家性への変容を期待するのは、所詮、無理であるということか。

「外なる戦争」=「内なる戦争」のイメージでシンボライズされた夫婦の、それぞれの印象的なラストカットに収斂される本作が、返す返すも良くできた作品だけに、そう思われて仕方がないのである。


(注1)陸軍省の指導の下に設立された戦争協力婦人団体で、1942年に大日本婦人会に統合された。


(注2)田中好子が見事に演じた、「聖女」の如きヒロインである矢須子が病に倒れる前に、大池の中で一匹の巨鯉を見て、感情を炸裂させるシーンのこと。

以下、羽織っていた半纏(はんてん)を手に取り、それを勢いよく振り回し、絶頂感に浸る矢須子の、巨鯉の鮮烈な躍動に思いを合わせるような苛烈な言葉を再現する。

「あ、見えた。大けな鯉!1メートルくらいの。叔父さん!1メートル以上あります。いえ、もっと大きい!わぁ!こっち、こっち!元気に跳ねよります!大けな口開けて、突撃!突っ込めぇー!」



5  「ジョニーは戦場へ行った」 ―― 反戦映画のカテゴリーを突き抜けて



最後に、本作との関連性において、末梢的な点について言及したい。

観る者によってはキッチュな印象を与える本作と、「ジョニーは戦場へ行った」との作品を比較して論じるレビューが多かったが、私は、そのような類の批評は殆ど意味がないと考えている。

「ジョニーは戦場へ行った」より①
なぜなら、「ジョニーは戦場へ行った」という作品は、反戦を鮮烈に表現する作品でありながらも、明らかに、反戦映画のカテゴリーを超える傑作に仕上がっていたと思われるからである。

物語の中で、この作品の肝とも言えるような二つのシーンを提示したい。

それは、「サーカス小屋」のシーン(注3)と、「夢の中で見たイエス」のシーン(注4)の二つである。

前者は明らかに、人間の尊厳を痛烈にアピールする表現を成していて、後者は、ジョニーのような立場に置かれた者への同情の欺瞞性を、切っ先鋭く突く表現を成していた。

脚本家であるドルトン・トランボが、戦争の度に絶版と復刊を繰り返す憂き目に遭った自らの原作を、発表から32年後に映画化することに拘泥した理由を考えるとき、彼が辛酸を舐めたマッカーシズムの受難者であり、それ故に、貧困に喘ぎながら、有名な「ローマの休日」など、偽名によってしか作品を提供できないという壮絶な生き方を強いられた軌跡を無視する訳にはいかないのである。

生涯唯一の作品として作った、この映画に全身全霊を賭ける彼の思いには、人間の尊厳を傷つけ、欺瞞に満ちたハリウッドの振舞いを指弾する心理的背景があったと考えられる。

同時にこの作品は、「絶対孤独」の闇に閉ざされた主人公の痛切なる思いの中に、受難期を必死に凌いだ自己像を投影したに違いない。


「ジョニーは戦場へ行った」より②
だから、「ジョニーは戦場へ行った」(画像)は、反戦映画のカテゴリーのうちに封印できないものがあると言わざるを得ないのだ。

その一点においても、本作との違いは瞭然としているだろう。


(注3)少年時代に見たサーカスの見せ物のことを思い出していたジョーが、モールス信号という手段で医師たちとの会話が成立した際、「“君の”“望みは”“何か?”」との問いに対して、明瞭に答えたのが、以下の思いだった。些か長いが、再現してみたい。

「・・・新鮮な空気を浴びたい。人々に囲まれたい。ダメだ・・・僕を外に出すと、費用がかかりすぎる。だが一つだけ、僕が自分で稼げる道がある。本当の 方法があるんだ!僕を見せ物にすれば、皆が見に来る。窓のある箱に入れ、金を払った客に見せる。・・・あなたや僕や隣人が、入念な計画と莫大な費用で宣伝 しろ。頭で話をする肉の塊だと。それでダメなら、軍隊が人を創ると信じた最後の男だと旗の下に集まれ。何の旗でもいい。旗には兵士が必要で、軍は人間を創る!」

この思いを、ジョーはモールス信号で発信する。

「“僕は”“外に”“出たい”“皆が”“見られるように”“僕が何であるかを”“僕を出してくれ”“カーニバルの・・・見せ物に”“皆が僕を”“見られるように”“外に出してくれ”」

そんな彼の叫びに、スタッフは、「今は外には出せない」と伝えるのみ。

「ジョニーは戦場へ行った」より③
ジョーは、最後に残された叫びを上げる。

「“もし”“あなた方が”“僕を”“皆に”“見せたくないなら”“いっそ・・・殺してくれ”」

尊厳死をこそ望むジョーの最後の叫びによって、ドルトン・トランボ自身が上梓した原作に注入された反戦のメッセージを、手ずから相対化してしまったのである。


(注4)夢の中で、ジョーが、「鼠がいても、僕には追い払う腕がない。何もない。生きる肉の塊です」と言って、キリストに救いを求めた際に、以下の言葉によって、キリストは救世主のような反応を避けたのである。

「君の現実が悪夢以上のものなら、誰かが君を救える振りをする方が残酷だ」

これが、キリストの反応だった。このキリストの極めつけのような言葉は、尊厳死以外の選択肢が存在しないとき、その意志を持つ者に関わる全ての者は、そこでの関係的存在の根拠が一気に崩れ去るという、映像を貫流するメッセージであるとも言える。


(2012年2月)

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