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2014年5月21日水曜日

現代最高の映像作家 ― ミヒャエル・ハネケ監督の世界


1  人間洞察力の凄みを見せるハネケ映画の真骨頂

  


 一人の女がいる。

 女の名はアンヌ。

多忙を極める女優である。

女優業で多忙を極めているアンヌが、アラブ系の二人の移民の若者に絡まれる恐怖体験についてのシーンがある。

車両の一番端に座っているアンヌに、この二人の若者は執拗に絡んできた。

「トップモデルだろ?こんな地下鉄に乗ってるなんて。ところでお嬢さん、チンピラと話す?社交界の超美人だろ。反応ねえな。美人で横柄なんで疲れるんだろう」

二人の中でリーダーらしい男が、そんな厭味を言いながら、アンヌの隣りの席に坐り込んでいく。

心中で騒ぐ恐怖感を、できるだけ表情に出さないように努めていたアンヌは、彼らを無視するようにして、車両の反対方向の端の席に座った。

ところが、その男は他の婦人をからかいながら、「可愛いアラブが愛を求めている。他の車両に移る?俺が臭うからか?」などと言って、アンヌの座席の横につけてきた。

「俺が臭うからか?」という言辞には、明らかに、自分がいつも嘲罵(ちょうば)を浴びせられていることの憤怒の感情が張り付いているのだろう。

普段から溜め込んでいたストレスを吐き出す男が支配する車両には、多くのフランス人や移民たちが席を埋めているが、このような時に、いつもそうであるように、自分に矛先を向けられないようにして、彼らは無言の状態を続けている。

一瞥して、男との距離を確認する人々。

車両内には、アルピニスト風の若くて大柄な青年もいるが、無論、彼は何もしない。

できないのだ。

この状況で重要なのは、相手が複数であるという事実である。

複数を相手に喧嘩するリスクを考えれば、ただ、見て見ぬ振りをして、事態を遣り過ごすしかないだろう。

いや、相手が複数であろうと単数であろうと、それが、普通の人間の普通の反応であるからだ。

相対的に豊かになり、限りなく自由の幅を広げ、私権が拡大的に定着するような社会になれば、大抵、どこの国でも価値観が相対化し、「他者の不幸」に目を瞑る現象が一般化するのである。

それは、人の心が「荒涼化」し、「優しさ」を失ったことを意味しないのだ。

本質的なことを言えば、この類いの現象は、「他者の不幸」=「自分の不幸」という、共同体社会の縛り(倫理感覚)が希薄になったことの必然的現象であり、寧ろ、人の心は、より繊細になり、それ故に、かつて平気で無視してきたような末梢的な「事件」に対して、過剰に「体感治安」が敏感になっていくというのが正解である。

「川崎容疑者逃走事件」に対する「体感治安」の敏感さ
思えば我が国で、2014年1月に起こった「川崎容疑者逃走事件」(集団強姦などの容疑で逮捕された男が、検察庁から逃走した事件)のように、連日、「劇場 型報道」の様相を呈することで、近隣住民が異常に怯える現象を引き起こしたが、これは、確率論的に言えば、「自分の不幸」に繋がる危険性が極端に低いにも拘わらず、人の心が必要以上に反応してしまう事例の典型であると言っていい。

人の心が「優しさ」を失った時代という決めつけが、如何に乱暴な議論であるか、既に自明の理である。

―― アンヌをヒロインにする物語を追っていこう。

車両内の乗客らが驚嘆する事件が惹起した。

再び、アンヌの隣りの席に無言で座っていたチンピラは、次の駅で止まった瞬間、いきなりアンナの顔に唾を吐いて、下車しようとしたのだ。

その時、一人のアラブ系の初老の男性が、チンピラの背後を足で蹴飛ばした。

一部始終を聞いていたこの初老の男性は、アンヌが通路を隔てた自分の横の席に座ったことで、黙って見過ごすことができなかったのだろう。

彼は、自分の眼鏡をアンヌに預かってもらった上で、ゆくり立ち上がり、チンピラに「恥を知れ!」と一喝したのである。(冒頭の画像)

右からチンピラ、アンヌ、、初老のアラブ人
アラブ人としての誇りを逆撫でする、この一喝に本気度を感じたのか、「何をしやがる!」と言うだけで、下車できなかったそのチンピラは、再び、アンヌの傍らに立って、何もできずに次の駅まで待っていた。

チンピラが何もできなかったのは、相手が同じアラブ系であったからというよりも、一喝する前の初老の男性の落ち着き払った行動にある。

下車できなかったチンピラの前にゆくり立ち上がった初老の男性が、眼鏡を外し、それを傍らのアンヌに渡す行為は、その直後の一喝に繋がることで、チンピラの攻撃性を削り取ってしまったのである

この辺りの人間洞察力の凄みを見せる映像提示こそ、ハネケ映画の真骨頂である

初老の男性が落ち着き払って眼鏡を外した瞬間に、もう、〈状況〉を支配する者の決定的変換が成就しているのだ。

この予想だにしない出来事の後の沈黙は、完全に澱んだ空気を支配した初老の男性の、その圧倒的な存在感の大きさを際立たせる効果が生み出したものだった。

電車が駅に着いた瞬間、降車際に、そのチンピラは、「覚悟しておけ、また会おうぜ」と捨て台詞を残した直後、突然、「ワッ!」と大声を上げて、車両内に座っている乗客たちの度肝を脱ぎ、笑いながら下車していった。

 「覚悟しておけ」という捨て台詞が、チンピラの敗北宣言であるのは言うまでもない。

ジュリエット・ビノシュ(ウィキ)
一方、初老の男性に救われたアンヌは、初老の男性に「ありがとう」と言うのがやっとで、すすり泣くだけだった。

 私は、この何気ないシーンに驚嘆させられた。

 アンヌを演じた名女優・ジュリエット・ビノシュの演技力が、「プロの女優」として圧巻だったのは織り込み済みだが、それ以上に、「描写のリアリズム」を完璧に表現し切ったハネケ監督の演出力に感嘆したのである。

このような異常な事態に遭遇した二人、即ち、初老の男性とアンヌとの間に全く会話がないのだ。

元々、見知らぬ他人であっても、異常な事態に関与した者同士が会話を繋ぐが自然であると考えるのは、邦画やハリウッドの限定的世界であると言っていい。

こんなとき、不自然な会話を繋げないのが、人間の心理の自然の発露であるだろう。

なぜなら、アンヌの心は、一方的に被弾された者の恐怖と屈辱の感情に塗れていて、とうてい、初老の男性との会話を繋ぐ精神状況ではなかったのである。

これを、私は「アンヌの地下鉄体験」と呼びたい。

フランスの地下鉄(イメージ画像・YUU MEDIA TOWN@blog
この「アンヌの地下鉄体験」を精緻に描くこの〈状況〉を、「傍観者効果」の心理学で説明することが可能である。

即ち、「責任分散」(他者と物理的に近接することで責任が分散される)と、「聴衆抑制」(皆の前で恥をかきたくない)の心理学である

この「傍観者効果」の心理学に、何をするか分らないと思わせる、複数のアラブ系のチンピラに対する恐怖感が張り付いていて、それで、多くの場合、自分に害を及ぶ危険性を回避しようと動くのである

この現象は、どこの国でも、いつの時代でも普遍的に起こり得るものだが、この映画では、白人社会の中で差別されている移民に対する、反転的な恐怖感が強調されていている点が刮目に値する。

いつもながら、その辺りの乗客心理を巧みに描き切った、ハネケ監督の人間洞察力は出色だった。

 

 2  〈状況〉と〈行動〉を冷厳に描き出す映像作家




些かくどく言及したが、以上の「アンヌの地下鉄体験」を描く映画のタイトルは、「コード・アンノウン」(2000年製作)。

 
ミヒャエル・ハネケ監督
ミヒャエル・ハネケ監督がフランス映画界に進出した記念碑的な作品であり、「感情の氷河化」と言われる、オーストリア時代の初期三部作(「セブンス・コン チネント」、「ベニーズ・ビデオ」、「71フラグメンツ」)とは切れて、「移民」などの社会性を有し、「コミュニケーションの不可能性」(ハネケ監督の言 葉)と言うよりも、「コミュニケーションの困難さ」をテーマにした作品である。

 私が敢えて問題にしたいのは、「アンヌの地下鉄体験」に典型的に表れているように、ハネケ監督の本来の精緻な観察力・人間洞察力によって、特定の〈状況〉に置かれた人間心理の奥深い辺りを描き切っているという一点である。

〈状況〉と〈行動〉を冷厳に描き出すこと。

これが、ハネケ映画の凄みであり、彼の映像宇宙の基本骨格を支えていると言っていい。

特定の〈状況〉に捕捉された人間の〈行動〉を描くことで、人間心理の「見えない部分」を炙り出す。

重要なのは、その「見えない部分」を台詞で説明しないが故に、「見えない部分」への解釈の困難さだけが残される。

これは、「ビジネス」であるが故に、全てを説明してしまうハリウッドや、多くの癒し系の邦画に馴致している観客には、相当程度、不愉快だろう。

しかし、ミヒャエル・ハネケ監督の本意ではない。

観客を不愉快にさせるために、映画を作る監督など存在する訳がないのだ。

「タイム・オブ・ザ・ウルフ」より
私の最も好きな「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)を観れば、彼がヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを確認し得るだろう。

「私 は、すべての作品において“ヒューマニスト”になろうと努力しています。芸術に真剣に立ち向かおうとするならば、そうするしかない。それが必要不可欠な最 低条件です。ヒューマニズムなき芸術は存在しません。それどころが、芸術家の最も深遠なる存在理由です。意思の疎通こそ人間的で、それを拒むのはテロリス トであり、暴力を生むのです」

ハネケ監督の言葉である。

ヒューマニズムとは、人間の様々な事象に深い関心を持ち、それを包括的に受容し、自らを囲繞する〈状況〉から問題意識を抽出することによって、限りなく発展的に自己運動を繋いでいくこと。

ヒューマニズムについての私流の定義である。

〈状況〉から抽出した問題意識によって、自己運動を繋いでいく〈行動〉の総体。

私は、〈私の状況〉から問題意識を抽出し、それを〈行動〉に結んでいく。

だから、脊損者の私ができ得る唯一の〈行動〉を結ぶ。

それが、こんな表現行為である。

ハネケ映画もまた、ハネケ監督自身の問題意識を、映像という格好のアートのうちに表現行為を結ぶ。

そんなハネケ映画を貫流する基幹テーマを、観る者が思い思いに汲み取っていく。

ハネケ映画の「特異性」が、そこにある。

ハネケ監督が育ったオーストリアのウィーナー・ノイシュタットの中央広場(ウィキ)
それは、これまで供給されてきた多くの映画作品群の杜撰さを照射させる、決定的役割を担うアートの独壇場の世界であるだろう。



3  人間の心の「分りにくさ」を、「分り切った者」の如く説明することを拒む誠実さ



ハネケ監督自身は、自分なりにリアルに、且つ、ほぼ確信的に掴んでいながらも、なお「分りにくさ」を抱えているが故に、その解釈を決して観る者に押し付けることがない。

  「人はいつも、眼の前に現れたものを通して物語る。もし説明が欲しいのなら、構造で説明すればいい。物語の構造は何かの説明になっている。だが、それは常 に曖昧で、説明的に物語る方法とは対立する。説明は物語を饒舌に凡庸にする。もし、少々複雑なテーマなら、どう説明する?バカげている」

これも、ハネケ監督の言葉である。

だから、観る者との「分らなさ」の共有を求めていく。

それは、本当のところ、「分らない」にも拘らず、「分った者」のように語ってしまう数多の映画監督に対して、「本当に分っているのか」というシビアな問いかけであると言っていい。

 ここまで書くと褒め殺しになるかも知れないが、「分らなさ」と言っても、「本当に分っていない」数多の映画監督と切れて、ハネケ監督の「分らなさ」は、「分り切った」者のように簡単に語ってしまう危うさを知る者のそれであり、「分らなさ」のレベルが違うのではないか。

質問に対する、素早く、的確なレスポンスを返していくハネケ監督のインタビューに、真摯に耳を傾けるとき、映像を通して常に最適なフォーマットを構築する、抜きん出た能力の断片を感受せざるを得ないである

 思うに現代社会において、氾濫する情報が渦を巻き、それに攪乱されるで、「不安感」を弥増(いやま)していく。

フェイスブック革命・エジプトのデモで(ウィキ)
情報革命が私たちの「分りにくさ」を生み出したという、このパラドックス。

それでも、他人が入手している情報を、自分だけが所有できないという不安に耐えられず、何とかして、「確信」という名の幻想に縋り付くしかなくなっていく。

だから、様々なメディアがリードする情報の共通のコードに縋ることになる。

「分りにくさ」との共存を怖れる心理が、そこにある。

然るに、「分りにくさ」と共存することは、ある意味でとても大切なことである。

自我を安心させねばならないものがこの世に多くある限り、人は安心を求めて確信に向かう。

しばしば性急に、簡潔に仕上がっている心地良い文脈を、「これを待っていたんだ」という思いを乗せて、飢えた者のように掴み取っていく。

人には共存できにくい「分りにくさ」というものが、常に存在するからなのだ。

 それ故にこそと言うべきか、「分りにくさ」との共存は必要である。

 自我を安心させねばならない何かが、引き続き、「分りにくさ」を引き摺ってしまっていても、その「分りにくさ」と共存するメンタリティこそ尊重されねばならないのである。

 ハネケ監督の映像は、最後まで、観る者に「分りにくさ」の不安感の状態に宙吊りにしてしまうのだ。

これは悪いことではない。

ミヒャエル・ハネケ監督
「説明は物語を饒舌に凡庸にする。もし少々複雑なテーマなら、どう説明する?バカげている」というハネケ監督の言葉を、私は挑発的言辞であるとは全く思わない。

このハネケ監督の指摘の文脈と些かずれるが、私はまだ覚えている。

「中国の文化大革命」の動乱期にあって、世界中の多くの知識人が諸手を挙げて礼賛し、太鼓を叩いていた現実を。

現代社会の「分りにくさ」に対して、簡単に答えを出してしまう知性の脆弱性は、今も変わっていない事態にこそ、身震いする思いである。

現代社会の「分りにくさ」と同時に、人間の心の「分りにくさ」もまた、厄介なものでもある。

人間は分りにくいのだ。

なぜ、分りにくいのか。

人間の行動の振れ幅が大きいからである。

人間の行動を惹起する感情が、必ずしも、類型的なパターンに収斂されていかないということ ―― ここに、人間の分りにくさの一つの答えがある。

そこには、人間の様々な欲望や、その時々の気分、意識、身体状況などが複層的に絡み合っていて、それらが、常に特定の状況下で、特定の行動に結ばれるという保証が全くないのだ。

何から何まで、同一の〈状況〉が繰り返されないのである。

この現実を無視できようがないだろう。

恐らく私は、ハネケ監督の世界観・価値観に全面的に共鳴するものではない。

しかし、ハネケ監督の映像を見ていくと、人間の世界観・価値観の差異など、どうでもよくなっていく。

ハネケ監督が学んだウィーン大学(ウィキ)
大体、同じ思考回路を持った人間など存在するはずがない。

「知っていることと、理解することは別物だ」

このハネケ監督の言葉の重さを、私は大切にしたいと思っている。

現代社会で起こっている様々な厄介な問題に対して、私たちはもう、特定のイデオロギーや堅固な思想性によって説明し、解決し得る範疇を遥かに超えてしまっている。

人間社会の現実と、人間の心の「分りにくさ」を、「分り切った者」の如く説明することを拒むハネケ監督の誠実さ。

だから私は、ハネケ監督が提示してくるフォーマットに内包される、それぞれのテーマについて真摯に向き合い、自分なりに思考し、一定の解釈に軟着点を見つけるように努めているつもりである。

 以下、全てが完成形のハネケ映画を製作順に紹介し、蛇足ながら、それについての私自身の短評を添えていきたい。

 なお、この短評は、拙稿 「心の風景・映画史に残したい『名画』あれこれ」と、「特選名画寸評(追加編)」からの引用である。



セブンス・コンチネント(1989年)
 

これだけの作品を、デビュー作から構築してしまうこの監督の力量に脱帽する。

ミヒャエル・ハネケ監督が、現代最高峰の映像作家と呼ぶことに、私は今や躊躇いがない。

 それにしても、これだけの作品を世に放つ才能を持ちながら、50歳近くまで一本の映画も作っていなかったという事実に、よくもまあ、韜晦(とうかい) して居られたものかと思うこと頻りである。

それは冗談だが、編集者・脚本の仕事を手がけていたテレビ局や、舞台監督の仕事で多忙を極めていたのだろう。

狭 隘な鑑賞眼によって「一刀両断」され、今なお、悪罵のターゲットに晒され続けている、「ファニーゲーム」(1997年製作)のアイロニーに内包された破壊 力のレベルと比較するとき、一家心中に振れていく家族の内的風景どころか、他者の介在まで否定され、最後まで、外部環境との接続を断った閉鎖系の世界のう ちに自己完結していく「セブンス・コンチネント」の衝撃度は、言語を絶するほど突き抜けている。

観る者は、この家族それ自身の存在に不安を覚え、「この家族、絶対におかしいYO!」(レビュー)という簡便な結論に落ち着くことで、自我を武装解除する。

テロリストなら問題ないだろう。

彼らを「狂人」と思えばいいだけのこと。

母と娘
しかし、夫婦と娘の3人で構成された家族は違う。

「狂人」と言い切れないから厄介なのだ。

それでも、肝心要のモチーフの「分りにくさ」の問題が尾を引いてしまう。

だから、害を与えるべき特定他者の存在を必要とするテロリストと、そこだけは切れるが、特定他者の存在を必要としないこの家族もまた、「狂人」と思えば不気味な不安から解放されるのだ。

或いは、自分が納得し得るラベリングを、この家族の常軌を逸する行為に貼り付ければいい。

しかし、本作の得体の知れない「分りにくさ」は、ハリウッドの映画文法を壊すことが主目的だった「ファニーゲーム」を呆気なく突き抜けていた。

本作が社会全体のタブーに抵触していたからだ。

「子供は問題なかった。そして予言通り、何人もがドアを鳴らして劇場から出て行った。上映の度に、必ずこうした抗議行動 起 こった。タブーだからだ。通貨を破壊する方が、親が我が子を殺すよりも遥かにショックが大きい。社会全体のタブーなんだ。これは私の独創じゃない。新聞の 記事に、一家がそうしたと書いてあった。私が思いつけたかどうか分らない。実際に一家は銀行に行き、全財産を引き出して捨てた。警察は金を回収できなかっ た。コインが皆、底に詰まってしまって、そのために便器を壊すしかなくて、全部壊したんだ」(ハネケ監督の言葉)
これ以上触れないが、この映画を観て、ここで提示されたラジカリズムに全く関心を持てず、自らの思考にまで知的稜線を伸ばす営為に意味を見いだせない人は、ハネケ作品を観ても不快を感じるだけだろう。

 それでもいいと思うが、「分りにくさ」と共存するメンタリティを観る者に求めてくるハネケ作品を、「分りにくさ」の故に非難することだけは止めた方がいいと思う。

途轍もなく明晰な頭脳を持った映画監督の仕事が、一本でも多く観られるように切望して止まない次第である。


ベニーズ・ビデオ(1992年)



このとんでもない才能を持つオーストリアの映画監督の完成形の作品を観てしまうと、必ずと言っていいほど、私はこの監督以外の映画の批評に入る気分が失せてしまう。

情緒過多・説明過多で、不必要なまでにBGMを多用する映画の批評に向かう気力など、とうてい起こりようがないのだ。

何かどうしようもなく、それ以外の映画が稚拙に見えてしまうのだが、しかし、このような映画の見方は、決して歓迎すべき心的現象ではないことは重々承知しているから、厳として戒めている。

それにしても、この「ベニーズ・ビデオ」が内包する問題提起の根源性に絡まれて、思わず竦んでしまった。

ビデオ撮影マニアのベニー少年が、ビデオ店を覗いていた少女を自宅に誘って、豚の屠殺ビデオを見せた後、父親が勤務する屠殺場から盗んだ屠殺用のスタンガンを見せたことが、少女殺しに繋がってしまったとき、映画の風景が異様な変容を見せていく。

ベニーの部屋に設置されたカメラが、事件の一部始終を記録していたのだ。

そこで記録したビデオを両親に見せることで、両親の意外な反応に当惑するが、この当惑が、観る者の想像を超えるラストシーンに結ばれていく。

「まともな人間は、お前を含めて皆、社会の一員として決まりの中で生きている」

「スクリーンの中のスクリーン」の「現実」を知らされたとき、こんな常識的なことを言っていた父が、怒鳴ることもせず、「誰かに気付かれたか?」、「眠れそうか。明日は登校するな。何か食べて、もう寝なさい」などという自己防衛的な反応をするばかりなのだ。

その直後、別室にこもって、両親が相談するシーンが映像提示される。

当然の如く、「議論」のイニシアチブを取るのは、べニーの父。

「仕事への影響も大きい。通報せずに済む方法は、一つ、始末・・・」

 ここで思わず、妻は笑ってしまう。

日常性からあまりに乖離した、違和感を覚えさせる言葉が、夫から発せられたからである。

人間の心理を鋭利に切り取る会話の挿入に感嘆するばかりだ。

父と子
事件後、べニー少年は、その母とエジプト旅行に出ることで、有罪性の意識を希釈化させるアンモラルな行動に振れていくが、すっかり「死体」の後始末を終えた父の待つ自宅に帰宅したときの、父子の会話があった。

 「聞きたいことがある」
 「何?」
 「なぜ、あんな事したんだ?」
 「あんな事?・・・分らない。どんなものかと思って。たぶん」
 「どうかって・・・何が?・・・そうか」

これだけである。

どんなものかと思って・・・これは私にとって、現実と関わりを持てない人間の言葉だ。なぜなら、人はメディアを通して、人生を知り、現実を知る。そして欠落感を覚える。僕には何かが欠けている。現実感がないと。もし、私が映画しか見なければ、現実は映像でしかない」

ハネケ監督の言葉である。

「ど んなものかと思って・・・」というべニーの言葉に張り付く感覚は、ビデオ三昧の生活の日常性のうちに拾われた「現実感覚」の中で、既に少年の未成熟な自我 が、限定的な生活のゾーンで入手した情報吸収の感度を既定する、経験的なアクチュアル・リアリティ(現勢的現実)の様態を希釈化させている事実を端的に検 証していると言っていい。

「ベ ニーズ・ビデオ」は、ハネケ監督の映像群の中でも、リアルな現代社会が抱える問題のの根源性において、飛び抜けて衝撃度の高い作品で、ごく普通に、テーマ 性に則っただけのアンチテーゼ的な作品に過ぎない、「ファニーゲーム」を観て大騒ぎする数多の観客の存分なナイーブさが、却って滑稽に思えるほどだった。


ファニーゲーム(1997年製作)


この世に蔓延(はびこ)る欺瞞・偽善・虚飾を撃ち抜く、ミヒャエル・ハネケ監督の真骨頂の一篇。

暴力をテーマにした映画の中で、これほどの完成度の高い構築的映像は、かつて一度も観たことがない。恐らく、映像の完成度において、暴力をテーマにした最高到達点の映画であると言っていい。

それほどの映像だった。

多 くの観客を不快にさせ、置き去りにさせた伝説的映像として「悪名」高い、「ファニーゲーム」の挑発性の狙いが、「驚かしの技巧」を駆使した、「視覚に訴え るだけの暴力的描写の連射」を、どこまでもエンターテインメントの範疇で観客の気晴らしを保証する商業戦略の一環として、大袈裟なコンテンツを提供し続け るハリ ウッド映画の欺瞞と虚飾への最大級のアイロニーであることが容易に読解できるし、ハネケ監督自身もまた、「スリラーのパロディ」であるとも吐露しているのである。

 「虚構は、今、観ている映画。虚構は現実と同じくらい現実だ」

 これは、本作の中の、目的不明の2人の殺人鬼の主犯であるパウルの言葉。

この時点で、既に、中流家族の3人の親子を殺害していて、次なるターゲットを屠るべく、2人は動き出し、カメラ目線のラストカットで閉じていくという流れにあった。

 注目すべきは、本作それ自身が「虚構の映像」であることを隠そうとしない演出を見せている点にある。

夏のバカンスを愉悦するために、湖畔の別荘へ向かうショーバー一家。

ヨットを牽いたワゴン車内には、夫のゲオルグ、妻のアナの夫妻と、一人息子のショルシと愛犬が同乗している。

奇妙な「事件」が起きたのは、セーリングの準備をしている父子の留守のときだった。
 
 夕食の支度をするアナの元に、唐突に、肥満気味の青年が訪れて、「卵を分けて欲しい」と言うのだ。

当初、礼儀正しい態度を見せていたペーターの厚顔さを目の当たりにして、次第に神経を苛つかせるアナは態度を硬化させていくが、そこに、もう一人の青年が出現することで、事態は一気に暗転していく。

 もう一人の青年の名は、パウル。

二人の不気味な青年を相手に手こずっている妻を見て、夫のゲオルグは仲裁に入ろうとしても困難であることを実感する。

ゲオルグは、恫喝するパウルの暴言に反応し、ものの弾みでパウルの頬を平手打ちにしてしまった。

ゲオルグがパウルによって、ゴルフクラブで膝の辺りを打ち砕かれたのは、そのときだった。

更に、車内に放り込まれた愛犬の惨殺死骸を見せるパウル。

「お前らは12時間で御陀仏(おだぶつ)かどうか賭けよう。生きてる方に賭けろよ。俺たちは死んでる方だ」

 「クローズドサークル」(出口なしのミステリー)とも言える、恐怖に満ちた殺人ゲームが開かれた瞬間である。


まず、呆気なく殺されたのは、一人息子のショルシだったが、子供を銃殺したことで、一度は引き揚げた二人は、逃亡に頓挫したアナを連れて戻って来た。



殺害の順番の筆頭がゲオルグと決めていたパウルは、その殺害過程や手段について、ゲームの続行を愉悦しようと言うのだ。

 「終わりにしよう。もういい。好きなようにやれよ。それで終わりだ」

 このとき、傷ついて苦痛に喘ぐゲオルグは、吐き出すように言った。

 「まだ、劇場用映画の長さに足りないよ。もういい?納得のいくラストを見たい?」

 ここでもパウルは、カメラ目線でそう言って、観る者を挑発するのだ。

かくて、パウルの主導による殺人ゲームが延長されていく。

 「次に死ぬのは誰か、奥さんが決めていい。ナイフがいいか、それとも銃か」

 反応できないアナに、パウルは遊びの感覚で言葉を添えた。

 「へぇー、このゲームが面白くないか」
 
ゲオルグをナイフで傷つけて、アナに判断を迫っていくパウル。
 
 「ほんの短いお祈りを。お前が間違えずに逆さに言えたら、どっちが先に死ぬか決めていいし。こっちの方が切実かな。苦しまない銃を選んでも」

 パウルが、そう言った瞬間だった。

妻のアナは銃でペーターを撃ち抜くが、慌てふためいたパウルは、「リモコンはどこだ!」と叫んで、映像を巻き戻し、物語を再駆動させるのである。

既にこのシーンによって、本作そのものが「虚構の映像」であることを、作り手は敢えて見せている。

だから、パウルによって巻き戻された「虚構の映像」は、ここでリセットされ、アナによるペーターの銃殺以前の状態にまで、「クローズドサークル」の物語が遡及するのだ。

 リセットされた「虚構の映像」が映し出す、「クローズドサークル」の物語の恐怖はおぞましいまでに陰湿であり、醜悪極まるものだった。

まさに、アナによるリベンジの立ち上げを阻む、このリモコン戻しのリセットのシーンこそ、「奇跡の逆転譚」を懲りることなく垂れ流し続ける、ハリウッドのスリラーへの最大級のアイロニーであることが了解し得るのである。

「ほんの短いお祈り」を言えないことで、夫を銃殺するパウル。

このショットの呆気なさこそ、本作を貫流する映像構成の特色であり、言うまでもなく、そこにハリウッドのスリラーへのアイロニーが張り付いているのは自明である。

ハリウッド映画における暴力描写に、決定的に欠けるもの。

それは、継続的に暴力を受け、人間の尊厳を傷つけられた人格の、その圧倒的な恐怖のリアリティである。

「正義・人道・弱者利得」という理念が、物語の中枢を占有しているからだ。

しかし、私たちが当然の如く決め付けている理念が、この映画には微塵もない。

だから本作は、欺瞞・偽善・虚飾に満ちたハリウッドのスリラーを相対化し切って、それをお伽話のパロディとして屠るために、ハリウッド映画とは真逆の描写を随所に挿入していった。

 まず、ホラー効果を増幅させるための「驚かしの技巧」は、ここには全く駆使されていないし、暴力描写それ自身が描かれることはないのだ。

何より鮮烈なのは、幼気(いたいけ)な少年を、その両親の前で、簡単に銃殺してしまうというシーンを挿入させていたこと。

最初に、呆気なく子供が殺されるシーンなど、予備情報なしに、初めて観る者の誰が想像するだろうか。

子供だけは助かるという、根拠なく勝手に決め付けている観客の、予約済みの物語の欺瞞を揶揄しているのだ。

 その幼気な少年の遺体が、いつまでもテレビ中継の煩い居間の中に転がっていて、テレビ画面には、少年の鮮血がべっとりと張り付いている。

これは明らかに、ハリウッドのタブーとも言える描写の投入である。

そして、我が子が銃殺されたその部屋には、両手足を縛られた母と、ゴルフクラブの一撃のみで骨折して動けなくなった父が、言葉すら出てこない恐怖に呪縛されて、「クローズドサークル」の狭隘なスポットに置き去りにされているのである。

 愛する我が子を喪った衝撃を受容し切れない二人の両親が、如何に、この危険な状況から脱するかという会話を交叉させた、10分間に及ぶ長廻しのシーンである。

カーレースを放送するテレビ画面に大量の血が飛び散っていて、床には撃ち殺されたショルシの遺体が横たわっている。

 ここから、二人が立ち去った後の映像は、10分間に及ぶ長廻しのシーンが描かれるのだ。

 下着姿で両手足を縛られたアナが、何とか立ち上がり、ショルシの遺体に眼を向けることなく、腰を使ってテレビを消す。

 「行ったわ・・・行っちゃったわ」


足を骨折して横たわっている夫に、確認を求めるように言葉をかけた。


夫からの反応はない。

 「ナイフを持って来る」

 そう言って、縛られた状態のまま、両脚飛びで移動するアナ。

居間に一人残されたゲオルグは、動かせない体を半身立ち上げるが、そこまでだった。

号泣するゲオルグ。

そこに、ナイフで紐を切り落し、自由になっていたアナが戻って来て、夫を抱きしめた。

 「落ち着いて。深呼吸して・・・お願い、あなた!いいわね。深く息をして。ここを出なくちゃ。戻って来るかも。支えたら、歩ける?」
 「やってみよう」

 粗い呼吸を続ける夫が言葉を発したのは、そのときだった。

アナは渾身の力を込めて、痛みで苦しむ夫を担ぎ上げ、一歩ずつ移動していくのだ。

 「アナ、見るな!」

 息子の遺体に一瞥した妻を、制止する夫。

ここで、10分間に及ぶ長廻しのワンシーンが閉じたのである。

凄まじいまでのリアリティに、観る者は圧倒されるだろう。

継続的に暴力を受けた者の圧倒的な恐怖の現実が、そこにあった。

 殆ど死を覚悟している心境下にあって、いつ襲いかかってくるやも知れぬ恐怖に震えながらも、必死に助け合おうとする夫婦の振舞いを描く長廻しのシーンに、少なくとも、私は異様な感動を受けた。

身動き取れない夫を、担ぎ上げて移動するシーンは、ハリウッドなら「スーパーウーマン」の馬力を描くことで簡潔に処理したはずだ。

 しかし、本作は違った。

無様とも見えるような格好をして、苦労して担ぎ上げ、容易に移動できない描写を延々と繋ぐのだ。

この何気なくスルしてしまうシーンを描き切った作り手の、その人間心理の洞察力と観察眼の鋭利さに、私は言葉を失った。

 長廻しのシーンの直後、思わず吐き戻す妻を案じる夫に、なお気配りして笑みを送る妻の、人間の限界を超える辺りの行動を、ギリギリまで描き切った一連のシークエンスに、私は言葉を失ったのだ。

 何という、完成度の高さなのか。

これは、人間ドラマとしても一級品なのだ。

この辺りが正当に評価できない批評家連中の偏頗(へんぱ)で、霞がかかったような劣化した能力よりも、遥かに高い映像作家の孤高性を感受した次第である。



コード・アンノウン(2000年製作)


本作は、「小さな断片を示し、その断片の総和が、観客に向かっていささかの可能性を開く」という、ハネケ監督の拠って立つ強靭な問題意識のもとに、現代の欧州社会が抱えている、移民や人種差別などの深刻な問題も射程に入れているが、そればかりではない。

「近くなるほど話さない」と言うように、心が最も最近接しているはずの関係の、「人間が分り合うことの困難さ」をも重要な射程に入れていて、それがラストシークエンスの炸裂となって噴き上げていくのだ。

圧巻だった。

この作品においても、BGM効果によって観客にカタルシスを与え、浄化させてしまうことで自己完結させる手法を取らなかったが、いつものように、音楽を物語内に効果的に挿入させていく手法は、充分に冴えわたっていた。

私にとって、本作の中で最も鮮烈な印象を受けたのが、アンヌに関する一連のエピソードである。

ドラマという虚構の世界で他者を演じ、束の間、その内面世界に侵入し得る、女優という特殊な仕事を通じて、アンヌは様々な表現を求められ、それに応えて、巧みに演じ分けていく。

それ故にこそ、ドラマという虚構の世界で、我が子に平手打ちを加える、「強き、善き母」を演じたアンヌと、何も為し得ず、幼児の命を救えなかった現実のアンヌを哀しく映し出した葬儀シーンとの、この対比効果の切れ味はハネケ映像の独壇場だった。

そ のアンヌと切れて、本作の中で、唯一、「人間が分り合うことの困難さ」を克服せんと能動的に振舞うが故に正義漢ぶりを発揮した、マリからの移民二世・アマ ドゥは、妹の通う聾唖学校で、生徒たちと共に太鼓を打ち鳴らす授業をサポートし、見事にハーモニーのとれた音楽の調和感によって、「人間が分り合うことの 困難さ」に打ちのめされたヒロイン・アンヌの、不安と恐怖の閉鎖系のスポットに風穴を開けていく。

聾唖学校の生徒たちが打ち鳴らす太鼓の音だけが、この映画で唯一、心と心が重なり合って決定的な調和感を紡ぎ出していくのだ。

全てが完成形のハネケ監督の秀作群の中で、「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)、「愛、アムール」(2012年製作)と並んで、私に深い余情を残すに至ったこの映画の感動は、間違いなく、外国映画生涯ベストテン級の名画である。

これほどの名画が、主にDVDでしか鑑賞できない現実に、正直、驚きを隠せない。

それにしても、アンヌを演じたジュリエット・ビノシュの内的表現力の素晴らしさに脱帽する。


ピアニスト(2001年製作)


母 の夢であったコンサートピアニストになるという、それ以外にない目的の故に形成された、実質的に「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、異性関係ど ころか、同性との関係構築さえも許容されなかった事態に象徴されるように、一貫して自己犠牲のメンタリティを強いられてきた娘のエリカは、ポルノショップ と覗き趣味に象徴される、「男性性」の世俗文化とのクロスを介して、男根を喪失した「形だけの女」という自己像(「女性である自己」の現実 に対する嫌悪感)のうちに閉じこもることで、殆ど男性的な性格を身に付けた結果、既に、観念的にはマゾヒズムの世界への自己投入によってしか安寧し得ない 自我を構築してきてしまった。

 母の夢の具現の前では、「父」という、本来の役割を遂行し得ないエリカの父親は精神疾患を患い、まもなく、映像に登場することなく逝去するに至るが、中年女性になっても、「父権」を行使する母との「権力関係」だけは延長されていたのである。

ウィーン国立音楽院のピアノ科教授でもあるエリカが、まさにその「商品価値性」によって、予想だにしない快楽を手に入れる対象人格と出会ったのである。

それがワルターだった。

音楽院の大学院に入学した学生である。

若くハンサムなワルターに関心を持ったエリカが、豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」への愛に惹かれるワルターの前で、自我の奥深くに隠し込んだ本性を吐露していくのだ。

 エリカが書いた、信じ難き内容の手紙を読むワルターの言葉が、嫌々ながらそれを代弁していく。

 「一番の望みは、手と脚を背中で縛られて、母の近くで寝かされたい。但し、ドア越しで母が近づけないこと。翌日まで、母のことは気にしないで、この家の 全ての鍵を持ち去り、一つも残さぬことこれをやると、僕に得が?もし私があなたの命令に逆らったら、ゲンコツで私の顔を殴って。なぜ母親に逆らったり、やり返さないか聞いて。そして、私にこう言って。自分の無能さが分ったかと

 自分への手紙をここまで読んだワルターに、エリカはSMの道具を見せて、更に言葉を添えていく。


「電話を待つわ。あなた次第。嫌いになった?長年の望みだったの。そこにあなたが・・・命令するのはあなた。着る服も決めてあるわ」

 返す言葉を失ったワルターが、重い口を開いた。

 「病気だよ。治療しなくちゃ」

言 うまでもなく、エリカのマゾヒズムの世界への自己投入は、「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、一貫して自己犠牲のメンタリティを強いられてきた 彼女にとって、それ以外にない防衛機制であり、今や自罰によってしか安寧に辿り着けない、屈折した自我の表現様態だったが、一切は、その本来の役割を果た せない父に代わって、「父権」を行使し続けてきた母との歪んだ「権力関係」の産物だったと言っていい。

 エリカの被虐性欲の根柢に横臥(おうが)するのは、コンサートピアニストになれないことで母を悲嘆に陥れた自己への加虐心理であるが故に、ワルターから「病気だよ。治療しなくちゃ」と言われても、「殴りたいなら殴って」と反応するばかりだったのだ。

彼女の母に対する承認欲求もまた、初めて知った青年との身体感覚のリアリティの前で微妙な誤作動を見せていく。

母と縺れ合い、抱き合って、就眠に入ろうとしたそのとき、彼女は突然、母親の上に覆い被さっていくのである。

それは、エリカの中で累加されてきた屈折した感情が、封印し得ない性衝動となって溢れ出たのだろう。

 彼女には、向かっていく対象人格が母以外に存在しないこと。

そこに、彼女の悲哀の極みがあると言っていい。

夜も更けて、ワルターは、エリカの家を唐突に訪れた。

追い返そうとするエリカの母を押しのけて、ワルターは、エリカの望み通りの行為に及んだのだ。

 殴りつけ、蹴り上げていくワルターの加虐行為に、悲鳴を上げるエリカ。

 「お願いだから止めて」

 そこに、殴られ、蹴られ、着衣に血を滲ませた中年女がいる。

エリカは、自分が求めた「愛情表現」の行使によって受けた痛みの前で恐怖し、拒むのだ。

そして、エリカの生身の肉体の中枢を抉(こ)じ開け、ノーマルなセックスに及ぶワルター。

 しかしここでも、女は身体を経由する異性愛の生身の感覚に届き得ず、そんな態度を見た男もまた、「早く帰れってことか」と反応するばかり。

それでも「寸止めの美学」とは無縁な、ごく普通の〈性〉を愉悦する男は、精嚢に満たされたザーメンを放出するためのセックスを、たった1回の射精によって完結することで、女との初めての性行為を果たし得た。

 この日、スケートリンクの控室で認知してしまった、中年ピアニストへの現実。

 「お前が要求するなら、マゾの怖さを見せてやる」

 中年ピアニストに散々振り回されたことに対する憤怒が、恐らく、こんな尖り切った思いに結ばれて、ノーマルな〈性〉を求める青年に、抑え切れぬ情動の噴出を具現させたのだろう。

 豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」への愛に惹かれたワルターの心理から言えば、謎多き年上の女にリードしてもらえるはずだっ た、蠱惑(こわく)的な「性愛」の行方が全く定まらない〈状況〉に翻弄されていて、それでも、そこに存在すると信じる、「奥深い熟女のフェロモンの魅力」を追い続けた果てに知った現実に幻滅し、一気に興醒めしたのだ。

「君のために忠告しておく。男を弄(もてあそ)ぶのは止めた方がいい。愛に傷ついても死ぬことはない」

女との関係に終止符を打ったかのような、ワルターの捨て台詞である。

男の愛に応える術を知らない女だけが、そこに置き去りにされたのだ。

なお、男との愛の継続的な関係の維持を求める女は、男の変容を恐れつつも、覚悟を決めたかのように、翌日のピアノ演奏会に臨むのである。

ナイフを懐ろに入れ、母と共にコンサート会場に現れたエリカは、ひたすら、ワルターの来場を待っていた。

「演奏を楽しみにしています」

  女友達らしき同世代の若者のグループに混じって、悪びれることなく、その一言を放ったワルターは、昨日までの捩(よじ)れ切った関係の噴出の一切が虚構の トラジディーであったかの如く、自分を待つ者を特段に意識させるに足る素振りすら見せず、恰も、全きを得てリセットさせた人格を軽快に開いて見せたのであ る。

一瞬にして擦過して行った男と、そこに置き去りにされた女。

それは、ワルターとの関係の終焉を告げた瞬間だった。

自らの胸を刺し、血を滲ませながら、コンサート会場を出ていく女。

 もう、彼女には、近未来の〈生〉に対する突破口になり得る、残された選択肢は完全に閉ざされてしまったのである。

件の女の自罰志向の極点である、このラストシーンの構図こそ、「権力関係」の中で自己犠牲を強いられてきた屈折した自我の、それ以外にない一つの人生の閉じ方であったのだろう。

  少なくとも、「強いられて、仮構された〈生〉」のみを生きてきた彼女は、彼女の閉鎖系の観念の世界が、普通の欲望系に呼吸を繋ぐ青年の、そのノーマルな世 界と折り合えない現実を認知することで、自分を呪縛してきたものの虚構性を自己の身体感覚のうちに触れてしまったのだ。

「自らの狂気を悟り、最後の一瞬、正気にしがみつく。それこそ、完全な狂気に至る直前の自己喪失を意味する」

 それはまさに、精神疾患直前の晩年のシューマンについて、ワルターにレクチャーしたエリカの言葉だが、それとなく覚悟を決めた彼女の行為をなぞっていく伏線であったという、如何にも文学的な着地点に落ち着くであろう。

 狂気の助けなしに為し得ないが故に、結果的に彼女は、殆ど自己喪失の感覚の中で、ギリギリの際(きわ)で正気にしがみついて、「強いられて、仮構された〈生〉」を抹殺したのだ。

見 たくないもの、触れたくないものから眼を背け続ける者が、しばしば、安直に飛びつくチープな物語のズブズブの情感系言語の、その圧倒的な脆弱さを突き抜 き、剥がし切り、そこで仮構された〈生〉の虚飾と欺瞞の様態を、精緻に練られた高度な知的戦略によって炙(あぶ)り出していく映像宇宙の凄み。

 それが、「ピアニスト」だった。

 これはまさに、「変態映画」の「変態作家」というラベリングを張り付けることで、己が日常と切断することで安寧の境地に至るだろう、「約束された非武装なる虚構の城砦」への潜入という、数多なるお伽噺の幻想をこそ破壊したい集束的画像だったに違いない。

 そう思わせるに足る、存分に毒気含みの構築的映像だった。


タイム・オブ・ザ・ウルフ(2003年製作)


抜きん出て高い論理的思考力を有するばかりか、人間心理の洞察力が鋭い人物が、他の追髄を許さないジャンダルムの如く、優れて構築的映像を世に放つアーティストとして立ち上げてしまったら、殆ど鬼に金棒である。

 紛れもなく、ミヒャエ ル・ハネケ監督が、そんなアーティストの一人であると、私は信じて疑わない。

「ピアニスト」より先に製作予定だった、この「タイム・オブ・ザ・ウルフ」という作品は、一言で説明できないほど、凄いとしか言いようのない映像である。

特に、ダークサイドに彩られた物語のくすんだ風景の枠組みの総体を、根柢から反転させてしまう寓話的なラストシークエンスの凄みは、ミヒャエ ル・ハネケ監督が、ヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを検証する鮮烈なインパクトがあって、私にとって、絶対忘れられない究極の一作と言って いい何かだった。

出色の映像が居並ぶハネケ監督の表現世界の中で、涙が止まらなかった唯一の作品である。

父母と姉弟の構成による一家族が、冒頭から、一家の大黒柱を喪失するシーンが挿入され、ハネケ監督の映像に馴致していない観客は、ここで、「とんでもない映画」と遭遇してしまったというインパクトを受けるだろう。

何某かの事情で、食糧不足に陥った果ての飢餓状態が、先進国(フランス)の一画で惹起しているらしいことは、物語をフォローしていけば分明になるが、この時点では、単に別荘を占拠した強盗犯による家族の悲劇という印象しか持ち得ない。

全ては、ここから開かれていく。

夜が明けて、別荘から持って来た自転車の荷台に息子のベンを乗せて、当て所(あてど)なく、まるで、世紀末のくすんだ風景の中を彷徨う母子3人。

最後まで、「救済」をイメージさせる「命を運ぶ列車」が、束の間、家族の前を通過すれども、必死に同乗を願う彼らを置き去りにしていく。

そんな家族が、数家族の難民が住み着いていた駅舎に着き、合流する。

まもなく、駅舎の周囲には、馬に乗ってやって来る者との交渉によって、大切な水を物々交換で買う人の群れで溢れ返った。

「助けてくれたら、あなたと寝てもいい」

「6人で2杯しかない」と泣き叫ぶ、一人の主婦の言葉である。

他の家族の初老の男から柔和な言葉が挟まれても、「くれないなら、殺して!」と、声を荒げる件の主婦。

 一方、二人の子供を抱えるアンナは、馬に乗ってやって来る者に、「自転車と交換して」と懇願するのだ。

馬を縦横に走らせて「仕事」する者に、「自転車」の存在価値が等価性を持つ訳がないのである。

難民たちは、餓死の恐怖と地続きなのである。

 この恐怖が極点に達したとき、映像総体を根柢から反転させてしまう寓話的なラストシークエンスがインサートされたのだ。

 このラストシークエンスのインパクトは、私がかつて観た、いかなる映画の感動の質とも切れていた。

 これほどの映像を構築するハネケ監督の腕力に脱帽し、敬意を表する気持で一杯である。

デビュー作の「セブンス・コンチネント」を嚆矢(こうし)に、全てが「完成形」のハネケ監督の全作品群の中で、この「タイム・オブ・ザ・ウルフ」が、私のベストワンムービーであるのは言うまでもない。


隠された記憶(2005年製作)



「私たちはメディアによって操作されているのではないか?」

 この問題意識がミヒャエル・ハネケ監督の根柢にあって、それを炙り出すために取った手法がビデオテープの利用であった。

覗 き趣味に堕しかねないビデオテープを、「メディアの真実性を問う」ツールとして巧みに活用し、ミステリー映画として立ち上げることで生み出したものは、今 や、「何を伝えたか」という視座ではなく、「何を伝えなかったか」という鋭利な視座が問われている、高度な科学文明の現状を包括している状況を見れば、既 にメディアの欺瞞性を問うというテーマの帰趨が鮮明化されている事態をも超えて、ビデオテープによって捕捉された対象人格が、ごく普通に遣り過ごしている 虚飾と欺瞞の意識体系の奥深くに封印する「闇の記憶」であった。

  それは、テレビ局という代表的なマスメディアに勤める、人気キャスターの家屋の外貌が、一台の定点カメラで映し出される冒頭のシーンによって開かれた物語 の中で、じわじわと執拗に炙り出されていく。同様に出版社というメディアに勤務する妻を持つ、件の人気キャスターの心中で封印している「疚しさ」を、「闇 の記憶」から炙り出し、追い詰めて、相対的に安定した日常性を破綻させていくのだ。

ただ、この「疚しさ」が、個人的問題の軽微な何かとして処理されない毒性を持ち、じわじわと現在の〈生〉を脅かしていったらどうなるか。

ハネケ監督は、まさにこの類の「疚しさ」が内包する問題に注目し、それをミステリーの体裁を仮構する戦略的映像のうちに立ち上げたのである。

 何より、ハネケ監督にとって、この類の「疚しさ」 が内包する問題とは、「個人の罪と集団(国家)の罪が重なり合う事態」となったときに惹起された心の攪乱であり、それによる、拠って立つ自我の安寧の基盤の破綻の問題でもあった。

然るに、「政治的なメッセージを込めた映画」を嫌うハネケ監督は、その由々しきテーマを、いつものように、「個人が『罪』とどう向き合っているかについての映画」に変えていく。

それ故にこそと言うべきか、ハネケ監督は、ポップコーン・ムービーの乗りで自作を観る者たちへの、適度な警鐘を打ち鳴らす「悪意」を存分に込めて、このような厳しい映像を突き付けてきたに違いない。

 差出人不明のビデオテープが届く事態に不安を募らせていく、テレビ局の人気キャスターの夫と、出版社に勤務する妻。

 夫の名は、ジョルジュ。


ジョルジュとアンヌ
妻の名は、アンヌ。

 そこに送付されていた、子供が血を吐く拙い絵。

 更に、今や介護者と共に暮らす実母が住む、ジョルジュの生家を写すビデオテープが届くに及んで、ジョルジュは忘れていた遠い昔の記憶を想起する。

そのビデオテープと共に送付されていた拙い絵に描かれていたのが、鶏の頸を切って、鮮血が迸(ほとばし)るものだったからだ。

ジョルジュは重い腰を上げて生家に赴いた。

6歳のとき、養子にしていたマジッドを孤児院に送り込んだ過去が、差出人不明のビデオテープの事件に絡んでいると確信したからである。

 その夜、鶏の頸を切断した一人の少年が、傍にいた別の少年に斧を手に向ってくる悪夢を見て、うなされるジョルジュ。

前者の少年がマジッドであり、後者の少年がジョルジュであることは、やがて物語の中で判然とする。

間髪を容れず、次に送られたビデオテープに写っていたのは、とある集合住宅の部屋。

そこにマジッドが住んでいると確信したジョルジュは、翌日、その集合住宅に出向いて行った。

 「驚いたな」と部屋の住人。
 「君は誰だい?」とジョルジュ。

 訪問者であるジョルジュが相手に尋ね、尋ねられた相手が訪問者を特定したのである。

 「何が望みだ?金か?」

 途方に暮れるような攻撃性に、言葉を失う部屋の住人。

それには答えない部屋の住人=マジッドは、逆にジョルジュに問い返した。

 「よく俺を捜し当てたな?」

 ジョルジュも、それには答えず、「この悪だくみの目的は?」などと畳みかけていく。

 「何のことだか分らない」とマジッド。

 相手の反応によって、既に相手がマジッドであることを確信したジョルジュは、その相手にいきなり、ぶしつけな発問を加えるばかりの不毛な時間が流れていく。

  「いつかはお前に会うと思ってた。俺が死ぬまえにな・・・偶然、テレビを見たんだ。数年前だ、ゲストたちと椅子に座り、顔を近づけて、連中と話していた。 確信はなかった。だが、不快な気分になった。不思議だよな。訳も分らず、吐きたくなった。最後に名前を見て、理解できた・・・お前から何を盗ると言うん だ。突然来て、俺が脅迫してると言う。昔と同じだな」

 40年ぶりに会って、相手にそこまで言われても、脅迫を止めろという反応しか返せないジョルジュ。

会話が成立しないのだ。

相手が金銭目当てで脅迫してくると一方的に決めつけ、自分の思いのみを押し付ける男だからこそ、脅迫されるに足る偏見居士であるという、歪んだ自我を自覚し得ない脆弱性が、そこにたっぷりと曝されていた。

しかし、事態は最悪の結果を惹起する。

ジョルジュとピエロ
息子のピエロの家出騒動が出来したが、これをマジッドによる誘拐事件と断定したジョルジュは、警察に連絡し、マジッドが住む集合住宅に赴き、そこにいたマジッドと、彼の息子を逮捕する事態に発展したのである。

 拘留されて、大声で喚き続けるマジッド親子。

 事態が容易に収束し得ないこの夜、思わず、ジョルジュは、一人で嗚咽する。

ジョルジュの自我もまた、クリティカルポイントに達しつつあるのだ。

彼のみが、その内側で必死に秘匿し続ける、過去の暗い記憶に耐え切れなくなったのである。

 翌朝、友人の母に伴われて、ピエロは帰宅する。

親に内緒で、友人の家に無断外泊していたのである。

マジッド親子は「誘拐事件」とは無縁だったのだ。

 この一件は、最も忌まわしい事態を出来させるに至った。

 今度は、マジッドがジョルジュを呼び出したのである。

 「何のつもりだ?」とジョルジュ。

 

マジッド
相変わらず、防衛機制のバリアを攻撃的に張るだけの男が、そこにいる。

 「私とビデオは関係ない。お前にこれを見せたくて呼んだ」

 そう言うや、剃刀で自分の喉笛を掻き切って、その場に斃れるマジッド。

 一瞬の出来事だった。

血飛沫(ちしぶき)が鮮血の赤に染めていく小さなスポットで、その場で立ち竦んで、放心状態のジョルジュ。

 夜の街を彷徨(さまよ)い、深夜に帰宅するや、ジョルジュは寝室に籠ってしまう。

 「恐ろしいことが起きた」

 マジッドの自殺について話す夫。動顛(どうてん)する妻。

 「彼に何をしたの?」

 二人の関係の根柢にあるものを、今度こそ、妻は問い糺(ただ)すのだ。

観念したジョルジュは、妻アンヌへの、事の真相に触れた告白が開かれたのである。

 ジョルジュの、誰にも語ることなく秘匿し続けた、真相の「告白」。

言うまでもなく、6歳のときの「マジッド追放」の顛末の真相である。

  61年10月17日に、民族解放戦線が呼び掛けたデモを怖れた仏警察が、200人のアルジェリア人を溺死させた事件に巻き込まれ、ジョルジュの家で働いて いたマジッドの両親が犠牲になったことで、マジッドを養子に迎えることになったが、それを嫌ったジョルジュがマジッドに鶏の首を刎ねて殺させたことが原因 で、家を追い出されたという真相を、妻に告白するに至った。

 
決して忘れ得ない顛末の記憶を封印していたはずの男の自我が、闇のスポットで怯(おび)え、震えている。

  ジョルジュの内面の振幅の様態は悲哀にも見え、内面的に追い詰められたエゴイストの煩悶のようにも見えるが、一貫して変わらないのは、攻撃的に張り巡らし たつもりの防衛機制のバリアの空洞感が露わにされた醜悪さだが、それが、このような立場に置かれた者の振舞いの中で、益々曝され続けていくのである。

この重苦しくも、そこから抜け出すことが困難な「クローズドサークル」の心理劇のインパクトこそ、犯人探しのミステリーゲームを根柢において相対化し切る何かだった。

 ジョルジュの揺動する自我の、その奥深い辺りまで、深々と描き切った映像の凄みに震えが走った程だ。
 
それにしても、ミヒャエル・ハネケ監督。

とてつもなく凄い映像を作ってくれたものだ。

「神の視線」の投入とも思えるラストカットを、DVDで繰り返し観ながら、その構築力の高さに言葉を失う程だった。


白いリボン(2009年製作)

ミ ヒャエル・ハネケ監督が構築した映像の凄みは、一貫して妥協を拒む冷厳なリアリズムと、曖昧さの中でも重要な伏線を張り、その多くを回収していった心理学 的且つ、論理的構成力の完成度の高さにおいて、最後まで微塵の揺るぎもなかった。既に私にとって、この映画は忘れ難き一級の名画となった所以である。

1913年の夏。

北ドイツの長閑な小村に、次々と起こる事件。

 村で唯一のドクターの落馬事故が、何者かによって仕掛けられた、細くて強靭な針金網に引っ掛かった事件と化したとき、まるでそれが、それまで連綿と保持されていた秩序の亀裂を告知し、そこから開かれる「負の連鎖」のシグナルであるかのようだった。

次いで、荘園領主でもある男爵の納屋の床が抜け、小作人の妻が転落死するが、男爵に恨みを持った小作人の息子は「事件」を確信して止まなかった。

同日、牧師の息子であるマルティンが、橋の欄干を渡る危険行為を、本作のナレーターでもある村の教師が目撃し、本人は死ぬつもりだったと告白。

父に伝えられることを恐れるマルティンには、既に物語の序盤で、定時の帰宅時間に遅れた姉のクララと共に厳しく叱咤されていた。

 以下、その際の父の説教。

 「今夜は、私も母さんもよく眠れない。お前たちを打つ私の方が痛みが大きいのだ。お前たちが幼い頃、純真無垢であることを忘れないようにと、お前たちの髪 や腕に白いリボンを巻いたものだ。しっかり行儀が身に付いたから、もう必要ないと思っていた。私が間違っていた。明日、罰を受けて清められたら、母さんに 白いリボンを巻いてもらえ。正直になるまで取ってはならない」

 「白いリボン」とは、厳格な牧師の父にとっては「純真無垢」の記号であるが、それを巻かれる子供たちにとっては、「抑圧」の記号でしかないことが判然とする説教の内実だった。

秋の収穫祭の日。

男爵家のキャベツ畑が荒らされるが、犯人は、転落死した小作人の妻の息子だった。

その夜、男爵家の長男が逆さ吊りの大怪我を負い、父を激昂させる。

 「犯人は我々の中にいるのだ。私は罪人には必ず罰を与える男だ」

 小作人を集めた前で、村人の半分を小作人に雇う男爵の檄は、村人たちを震撼させるに足る劇薬だった。

まもなく、事件に怯(おび)える男爵夫人は子供たちを連れて、実家に帰っていく。

 冬。

 家令(事務・会計管理、使用人の監督等の任務に就く)の赤ん坊が風邪をひくという小さな出来事を、映像は拾っていく。

その風邪の原因は、赤ん坊の部屋の窓が開いていたことにあり、この辺りから、「事件」、「事故」に子供の関与が濃厚になっていくという伏線が張られていくが、その伏線の回収は遅々と進まず、いよいよミステリーの濃度を深めていくのだ。

また、「事故」が出来した。男爵家の荘園の納屋が火事になり、小作人が縊首しているのが発見されたのである。

 更に、退院したドクターは助産婦との男女関係を続けていたが、彼は信じ難い言葉を吐き、彼女に別れを告げるのだ。

 「お前は醜く、汚く、皺(しわ)だらけで、息が臭い。ふぬけた死人のような顔をして。世界は壊れない。お前にも私にも」

 このように、映像は、この村に住む男たちの専制君主的な振舞いを次々に見せていくのである。

この専制君主的な振舞いこそ、村の子供たちの「従順過ぎる自我」の心理的背景にあることを示していくのだ。

 

アンナ
そのドクターは、あろうことか、14歳の自分の娘であるアンナとの近親相姦の関係にあった。

そのことを助産婦に指摘されたドクターは、「お前は黙って死ね」と罵るのみ。

その辺りに、冒頭のドクターの落馬事故との因果関係があるらしいことを、完璧なまでに論理的な映像は、観る者に提示していくのである。

春。

 愛児のジギと新しい乳母を連れて、男爵夫人は村に戻って来た。

助産婦のダウン症の息子、カーリが顔面血だらけの状態で発見され、視力を失う事件が出来する。

 この辺りで、一連の「謎の事件」の犯人が、村の子供たちの集団的な行為であることが判然としてくる。

神学の授業での「仕切り方」を見る限り、牧師の長女のクララがそのリーダーであることをも、観る者は理解し得るだろう。

まもなく、ドクター、助産婦とダウン症の息子カーリの姿が消え、一連の「謎の事件」の「真犯人」こそ、逃亡した彼らの仕業だという噂が、あっという間に村全体に広がっていく。

教師エヴァ
その後、教師はエヴァと結婚し、徴兵される。

第一次世界大戦が勃発したのである。

終戦後、教師は町で仕立屋を開き、村人たちとは2度と会うことはなかったというナレーションによって、ナレーターとしての教師の役割は形式的には完了する。

 但し、この間、助産婦の離村に際し、彼女からカーリの事件の犯人が判明したと聞いたことから、彼なりに調査していく経緯が描かれるが、そこで得た教師の情報は、牧師の子であるクララとマルティンの姉弟が一連の「謎の事件」に深く関与している事実であった。

  何より、本作を権力関係において仕切っていたのは、領主である男爵でもなければ、インモラルのドクターでもなく、紛う方なく、欺瞞の極致を体現した牧師で あるということは、ジギの事件の直後、「日曜の礼拝の後、牧師の許しを得て、男爵が話をした」というナレーションによっても判然とするだろう。

牧師こそ、プロテスタンティズムによって精神的に統一されていた、

村内における「神の代弁者」だったのだ。

その牧師の欺瞞の極致を、以下のエピソードは雄弁に語ってくれるだろう。

 例えば、牧師が可愛がっていた小鳥を串刺しにした、長女クララの「犯罪性」を明瞭に認知しつつも、普通に堅信礼(プロテスタント諸教会において、幼児洗礼者が教会の正会員となる儀式)を受けさせ、特段に咎(とが)めることをしなかった。

その堅信礼で、聖餐(ここでは、イエスの血としてのワインに口をつける儀式)に尻込みした娘のクララに対して、父である牧師は、クリスチャンとしての資格を強引に付与することで、「犯罪」に関わる娘との「共犯関係」を作り上げてしまったのである。

 クレバーなクララはこのとき、自分の父親の度し難き欺瞞性を見透かして、恐らく、一連の「謎の事件」の主導者としての行為を確信的に延長させてしまったと思われる。

ラストシーン近くで、助産婦のダウン症の児童に対する暴力行為の主導者として、村の教師から疑義を持たれても、父である牧師が、自分たち姉弟を守ってくれるだろうという確信があればこそ、詰め寄る教師に対して、事件との関与を明瞭に拒絶し切ったのである。

 そして、案の定、教師からその件を指摘された牧師は、「名誉」を頑として堅持するが故に、事件の本質を「隠蔽」するに至ったのだ。

 その辺りの会話を再現してみよう。

 

牧師
「先生は、自分の生徒や私の子供が犯人だと言うのかね?」

 これは、教師の間接的な指摘に対する、件の牧師の反応。

小さく首肯する教師に、牧師の反撃は一気に畳みかけるまでには至らなかった。

噴き上がる感情の整理に、ほんの少し手間取ったからだ。

 「分っているのか。君は正気で・・・」

 ここまで言葉を繋いだ時点で、明らかに、牧師の心の動揺が観る者に伝わってくる。

牧師は、そこで一瞬の「間」を取って、それでも収まらない感情を言葉に繋ぐのだ。

 「君がこんな醜悪な話をするのは、私が初めてなはずだ。もし、このことで君が誰かに迷惑をかけたり、誰かを告発して、家族や子供の名誉を公に汚したりすれば、ここで、はっきり言っておくが、君を刑務所に送るぞ」
 「でも・・・」

 反駁するために、教師は口を挟もうとするが、相手の男は、「村の実質的な精神的権力者」としての本性を露わにするのだ。

 「私は牧師として様々な経験をしてきたが、こんな不快な話は初めてだ。君は子供が分っていない。だから、こんな低俗な間違いを犯すのだ。心が病んでいる。 君のような男に、子供たちを任せておいたとは!この件は役所に報告しておく。出て行ってくれ。もう二度と顔を見たくない」

 興奮して捲(まく)し立てているが、そこに垣間見えたのは、「村の実質的な精神的権力者」の相貌を剥(む)き出しにしていく男の本性であった。

 恐らく、薄々感じ取っていた我が子の「犯罪行為」を、このとき確信にまで高めた可能性があったにしても、件の牧師は、その教師に権力的な恫喝を加えなが ら、「許し難き大人」(ドクター)や、嫉妬の対象となる上位階級の子弟(男爵家のジギ)のみならず、遂には、最も立場の弱い発達障害児(ダウン症の児童カーリ)への暴力にまで加速させていったに違いない、長女のクララを庇い切ったのである。

 

この一連の「謎の事件」のエピソードの最終地点にこそ、この村の「負のコミュニティ」の爛(ただ)れ切った様態が露わにされ切っていて、映像に映し出されないものの怖さが沸点に達したと言えるのだ。

そして、この映画の中で由々しき描写は、家令の息子が男爵家の長男であるジギの笛を奪って、ジギを池に放り込むという直接的暴力を行使したことが露見し、父である家令に激しく殴打されながらも、その父が離れるや、此れ見よがしに笛を吹き鳴らすシーンである。

 それは、圧倒的な権力関係で父子関係を結ぶ「負のコミュニティ」にあっても、既に、思春期に達した家令の息子の反抗期現象という、心理学的に目立った枠組みを突き抜けて、少年の暴力的情動が抑制不能な状態を顕在化させている事実を裏付けるものだったと言っていい。

 同時にそれは、父の飼っていた小鳥を串刺しにしたクララと同様に、隠れ忍んで、暴力的情動を形成させてきた「子供十字軍」の「聖戦」が、もはや、悪徳の象徴でもあったドクターの家族を離村させるほどの直接性を持ち得たことを意味するだろう。

 「子供十字軍」の暴力的情動が、その噴き出し口を求めて止まない「病理」を顕在化させてくる辺りに惹起したのは、遥かに巨大な暴力である第一次世界大戦の勃発だったという流れは、この映画の本質的な問題提示をより鮮明にさせる何かだったに違いない。

一切を吸収し、丸吞みしていった〈大状況〉の風景が決定的に変容するところでフェードアウトしていくときに流れる、神を讃える「純朴なる少年少女たち」の透明な声。

 そこで、タクトを握るのは、牧師から、「君を刑務所に送るぞ」と恫喝された教師だったというアイロニー。

今や、この村は、〈大状況〉の風景の決定的変容の坩堝(るつぼ)の中で、一切の矛盾をも溶かしゆくパワーを持ち得てしまったのである。

それは、何かが開かれ、そこで開かれた新しい未知なる世界への誘(いざな)いでもあったということなのか。

このような映像を構築し得たミヒャエル・ハネケ監督の力量に脱帽するばかりだ。

凄い映像作家と言うより外にない。


愛、アムール(2012年製作)


恐らく、このような性格の人が、このような状況に捕捉されたら、このような思いを吐露し、このような振る舞いに及ぶということを真に理解するには、自らが身体介護の経験をした人でも困難だろう。

他 者に対する絶対依存なしに生きていけないような人が、その現実を永久に受容することに対して耐え難い精神的苦痛を感じ、その苦痛がクリティカルポイントの 際(きわ)で継続的に騒いでいて、もう、その歪んだ風景を変容し切れないと括ってしまったら、物語の年老いたアンヌのように、切迫した心境に辿り着くしか ないという辺りにまで持って行かれるはずである。

アンヌは言った。

「長生きしても無意味ね。症状は悪化する一方よ。先の苦労が眼に見えてる。あなたも私も」

知人の葬儀から帰って来た夫ジョルジュに、葬儀の話を求めた妻が、渋々ながら、葬儀のエピソードをユーモア含みで語る夫の話の渦中で、突然、アンヌは本音を吐露するのだ。

一瞬、「間」ができる。

「苦労とは思わん」とジョルジュ。
「嘘をつかないで、ジョルジュ」とアンヌ。

再び、長い「間」の中から、ジョルジュは言葉を繋ぐ。

「もし、逆の立場なら?私にも同じことが起こり得る」
「・・・そうだけど、想像と現実とはかなり違うものよ」
「日々、回復している」
「もう、いいの。あなたには感謝してるけど、もう終わりにしたい。自分自身のためよ」
「嘘だ。君の考えることは分る。自分が私の重荷だと。でも、逆の立場ならどうする?」
「さあ、そんなこと考えたくもない」

成功率の高い手術が失敗に終わり、右半身麻痺になって退院したアンヌは今や、窓の近くに運ばれて来た電動ベッドを中枢の生活スポットとして呼吸を繋ぐ以外になかった。

「もう、入院だけはさせないで」

これが、アンヌの堅固な意志に結ばれ、ジョルジュとの「約束」になっていく。

入院の拒絶が意味する事象が、自宅を「終の棲家」にすることと同義であるのは、言うまでもなかった。

「素晴らしい」とアンヌ。
「何が?」とジョルジュ。
「人生よ。かくも長い。長い人生」

ここで、アンヌを見詰めるジョルジュの「視線」が印象的に映し出された。

「じっと見ないで」とアンヌ。
「見てないよ」とジョルジュ。
「見てるわ。そこまで私もバカじゃない」

このシーンにおけるジョルジュの「視線」の振れ具合が、この物語のエッセンスを凝縮するものであり、本作の全てと言っていいかも知れない。

アンヌの「身体表現」を常に捕捉するこの「視線」の中で、単身で介護するジョルジュは、「気にしている暇がないだけだ」という心境にまで追い詰められていく。

アンヌの尊厳性の最終防衛ラインが、ぎりぎりのところで切れかかっているのだ。

物 語の風景を俯瞰するとき、ジョルジュの援助に向かう感情が、それを乞うアンヌの感情との間に、二人の本来的な均衡感を、ほぼ言語的、且つ、非言語的コミュ ニケーションによって保持し得る最終局面で確認し合ったと感受したとき、ジョルジュは、「安寧の境地への観念的跳躍」に変換させていく究極の行為に流れて いったことを確認せねばならないだろう。


「とても・・・たの・・・楽しかった」

ジョルジュとの最後の会話の中で、50秒ほどの時間を要して、その一言に辿り着いたアンヌは、なお機能する左手を移動させ、ジョルジュの手を包み込んだのである。

アンヌの柔和な「身体表現」に「視線」を落としたジョルジュは、その左手に自らの右手を被せていく。

明らかに、ジョルジュに対する「感謝」と「別離」のシグナルだった。

その瞬間(とき)こそが、アンヌの「身体表現」と、ジョルジュの「視線」との化学反応の極点だった。

これ以上書けないが、内包するテーマごとに、「最適なフォーマット」を構築するミヒャエル・ハネケ監督の最新作には、「自分が本当に愛している人の苦しみを、どういう風に周りの人が見守るか」 というテーマを、重篤な疾病を患う者の日常性の様態を冷厳なリアリティのうち精緻に切り取ることで、それまで散々描かれていた「障害者映画」、「闘病映 画」の欺瞞に満ちた物語を根柢から破壊する凄みに充ちていて、いつもながら、言葉を失う程の一級の名画に仕上がっていた。

繰り返し書いていることだが、それでも敢えて書く。

例外なくベストの映像を構築し続けるるミヒャエル・ハネケ監督は、他の映画監督を常に周回遅れにさせるほどに、現代最高峰の映像作家である。

(2014年5月)


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