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2016年5月31日火曜日

リアリティのダンス(‘13)   アレハンドロ・ホドロフスキー



<「家族のスターリン」を延長できなかった男から解放され、「ただ、風だけが通り過ぎる」記憶を再構成する映画作家の物語>






1  「未来の君は、すでに君自身だ。苦しみに感謝しなさい。そのおかげで、いつか私になる。幻想に身を委ねなさい。生きるのだ」






「お金は血なり、循環すれば活力になる。お金はキリストであり、分かち合えば祝福される。お金はブッダであり、働かなければ得られない。この世の花を咲かすために、お金を使う者には光を与え、冨と魂を取り違え、慢心する者を滅ぼす。お金と人の意識はよく似ていて、意識と死も、よく似ている。死と富も、よく似ている」

ホドロフスキー監督自身による、凡庸な構図の提示から開かれる「拝金主義」に対する批判だが、必ずしも、映像総体を貫流する基幹メッセージになっていないが、「分かち合わなければ価値はない」と言うホドロフスキー監督の言葉を聞く限り、物語の伏流水になっていた事実は否定しがたいだろう。

「初頭効果」(第一印象効果)を言えば、「第八芸術」(無声映画)と区別して、「第九芸術」とも呼称される発声映画(トーキー)が、複数の分野の芸術の混交によって創造される「総合芸術」である事実を、これほど体感させてくれる映像も滅多にない。

「何でもあり」なのだ。


―― 以下、梗概と批評。


議会主導の政治が相応に確立されていたチリでの、軍保守派によるクーデターが惹起した1920年台を背景に、「再構成的想起」(後述)による「家族の再生」をテーマにした物語は開かれていく。

時のイバニェス政権は世界恐慌で大打撃を受け、1931年に崩壊するまで、公共事業を中心にした経済政策で権力を維持していた。

ロシア系ユダヤ人移民の厳格なコミュニストを父に持つアレハンドロ・ホドロフスキー少年(以下、アレハンドロ)が、「一粒の雨を数世紀待っている」(ホドロフスキー監督のモノローグ)チリ北部のトコピージャという鉱山の町を舞台に、感性豊かな自我を育んでいたのは、まさに、このイバニェス政権下であった。

「ウクライナ商会」と母・サラ
サーカス芸人だった父・ハイメの職業は、妻と共に、「ウクライナ商会」という婦人雑貨の店を営んでいた。

「醜いユダヤ人」と軽蔑され、高い鼻と白い肌によって「ピノキオ」と仇名されるアレハンドロは、学校でも、いじめのターゲットにされていた。

また、酒樽に落ちて焼け死んだ自分の父親を忘れられず、あろうことか、アレハンドロを父親と思い込んでいる母・サラからは、常にオペラの歌唱で、「私の父」と呼ばれる始末。

優しい母と違って、アレハンドロの父・ハイメは、少年の成長の大きな壁になっていた。

アレハンドロ
店の壁の中央にスターリンの大きな肖像画を飾る暴力的な父・ハイメから、母の望みで、金髪の鬘(かつら)をするアレハンドロに男らしさを望むあまり、理容院に行かされて、その鬘を剥(は)がされ、痛みに耐えるための暴行を受けた挙句、その暴行で折れた歯を治療するために、麻酔なしで治療を受けさせられるのだ。

「痛みは意志で抑えられる」

その際の、ハイメの言葉である。

そればかりではない。

海辺で、アレハンドロが仏教行者と会ったことに腹を立て、無神論を暴力的に押し付けるのだ。

そして、赤い靴を買ってもらった条件に、トコピージャ消防団のマスコットにされるアレハンドロ。

その赤い靴を、靴磨きの貧しい少年に渡してしまうアレハンドロの優しさは際立っていた。

ところが、靴磨きの少年は、赤い靴を履いていたために、濡れた岩場で足を滑らせ、海で溺れて死んでしまうのだ。

その凄惨な事故の現実を知り、悲嘆に暮れるアレハンドロ。

学校でも孤立し、自分の居場所が見つからないアレハンドロの意識は、今や、宙に浮いていた。

ペストの蔓延(中央がハイメ)
そんな折、街にペストが蔓延し、住民たちはパニックに襲われる。

人智を超えた破壊力を見せつける、「エピデミック」(特定の地域で流行する感染症)の渦中でペストに罹患し、何もできずに倒れている夫・ハイメに向かって、神に祈りながら、「聖水」(放尿)を放出する妻・サラ。

「俺は根無し草だ。ここは俺の国じゃない」

元気を取り戻したハイメはサラに感謝しつつ、そこだけは、はっきりと言い切った。

「貧しい人々を救うんだ。チリは独裁国家のままではいけない。サンティアゴへ暗殺に行く」

かくて、イバニェス大統領暗殺のために、妻子に送られ、旅立つハイメ。

しかし、犬の仮装大会の場で、イバニェス大統領を仲間の暗殺から阻止し、その命を救ったことから、ハイメの運命は変容していく。

イバニェス大統領
イバニェス大統領から褒美を受ける条件で、自ら望み、馬の世話役になるに至るのだ。

馬丁になったハイメは、イバニェスの葦毛(あしげ)の愛馬・ブセファロの世話をするが、愛馬を大切にする大統領を目の当たりにして、なお、そのイバニェスをターゲットにするハイメの暗殺計画は頓挫する。

その代行として、ハイメが遂行したのは、ブセファロに毒草を食べさせ、死なせる行為だった。

衝撃を受けるイバニェスは、ハイメの拳銃を使って、嗚咽の中でブセファロを射殺する。

一方、父親のいない家庭で夜を過ごす不安や、相変わらず、ユダヤ人差別を被弾しているアレハンドロの心の空白を埋めたのは、信仰厚い母・サラから様々な儀礼を受け、くすんだ少年期の孤独を浄化していく。

母の存在だけが、感性豊かな少年の心の拠り所だった。

他方、ブセファロの死を契機に、放浪の旅に出て、その手が麻痺した不自由な手(イバニェス暗殺に際し、緊張感のあまり麻痺)に悩むハイメは記憶喪失症になっていて、「背骨が曲がった女性」(せむし)に救われていた。

記憶を取り戻したハイメは、その「背骨が曲がった女性」から愛の告白を受ける。

しかし、その運命を怖れていたかのように、彼女が縊首(いしゅ)する現場を目の当たりにし、衝撃を受けるハイメ。

「聖なる材木工房」のホセとハイメ
「人殺し」扱いされたハイメが「聖なる材木工房」のホセと出会ったのは、その直後だった。

ホセを「聖者」と呼び、彼の親切な行為に感謝する。

「打ちのめされ、悔いた人は軽蔑しません」

旧約聖書(詩篇51篇)の言葉を引用し、今や、「寄る辺なき関係状況」(私の「孤独」の定義)に捕捉された男の苦悩を癒すホセ。

決定的な悲嘆に暮れているとき、イデオロギーの縛りでしかない無神論などは、呆気なく砕かれてしまうのか。

大恩人のホセが急死したのは、「大いなる祈り」のピークのときだった。

それにしても、一人の人間の〈生〉を繋ぐ状況下で頻発する、他者の〈死〉の意味とは、一体、何を意味するのか。

ハイメの〈生〉には、自らを救う他者の〈死〉を不可避としてしまうというパラドックスこそ、「再構成的想起」による「家族の再生」をテーマにした物語を収斂させる上で、そこだけは、どうしても通過せねばならないレガシーコストだったのか。

いずれにせよ、この辺りは本稿の肝になると考えるので、後述したい。

―― 物語を続ける。

イバニェス暗殺の会議
コミュニストと看做(みな)され、ナチの拷問に被弾するハイメが、イバニェス政権の崩壊の一報を「同志」と呼ぶコミュニストの組織から受け、イバニェス暗殺に打って出たハイメの長旅は終焉する。

この間、成長したアレハンドロと、最愛の妻・サラのもとに帰還するハイメ。

「無駄に犠牲を払わせた。愛される価値もない。俺は臆病者だ」

嗚咽しながら漏らすハイメの懐に、自ら飛び込んでいくアレハンドロ。

「父さんは誰よりも強い!男は怖がらない」

その時のアレハンドロの言葉である。

いつものように、一切を受け入れるサラ。

「独裁者の仮装をして、生きてきたのよ」

スターリンの肖像をハイメの肖像に代えて、それをハイメに撃ち抜く行為を求めるサラの強靭さが際立っていた。

かくて、麻痺したハイメの手が復元するに至るのだ。

まもなく、トコピージャの町を去っていく家族。

「過去との決別を感じ、大人の身体に着陸し、辛い年月の重さに耐えても、心の中にはまだ少年がいる。まるで聖体のように、白いカナリアのように、ダイアモンドのように、壁のない明晰さのように、開かれたドアと窓から、風が通り抜ける。ただ風が、風だけが通り過ぎる」

情緒的なラストシーンもまた、最後まで、ファンタスティックな映像を提示し続けたホドロフスキー監督のモノローグで括られていった。





2  「家族のスターリン」を延長できなかった男から解放され、「ただ、風だけが通り過ぎる」記憶を再構成する映画作家の物語





一つ一つのカットがユニークな構図を成し、それぞれが独立系の要素を表現していて、集積される映像の濃密で多彩な彩りは、イメージの強度から言えば、「背景」で勝負する、極彩色の「映画」の「主張的自己呈示」(観る者に対する意図的な印象操作)と化していた。

だから、観る者にとって、それを受容し得るか否かの問題に収斂されることになる。

以下、そういう「映画」を確信犯的に作っていることが分っていてもなお、グロテスクで下品な描写が気になったのは事実だが、それでも受容し得た私の感懐。

何より、この映画は、親から十分に愛されたことがなかったであろう幼少期のネガティブな自己像を反転させ、「記憶の再構成的想起」(自分の都合のいいように記憶を再構成する)による「家族の再生」をテーマにした物語である。

「記憶の再構成的想起」の主体は、言わずもがな、アレハンドロ・ホドロフスキー監督自身。

監督の少年期がアレハンドロ少年に仮託された物語のコアにあるのは、少年自身ではなく、少年の父・ハイメである。

だから、この映画はハイメの物語となった。

「息子が臆病者だと、からかわれる」

アレハンドロ少年が間断なく浴びる、このハイメの厳格な物言いにシンボライズされるように、一貫して、ハイメという厄介な男は、「家族のスターリン」だった。

「貧しい人々を救うんだ」と言い切ったハイメは、時のイバニェス大統領暗殺のための長旅に打って出る。

その結果、無残なまでに惨敗し、変わり果てた姿で帰還する。

愛馬を喪って悲嘆に暮れる大統領の思いが情動感染(相手の感情が乗り移る)したことも手伝って、過緊張のあまり拳銃を発射できず、その状態のまま、両手が麻痺してしまったハイメは、決定的に打ちのめされてしまうのだ。

行路病者にまで堕ちていったハイメを救ったのは、暗殺の長旅で出会った3人の善人。

いずれも、ハイメの表層的なイデオロギーとは無縁に、「命を懸けて、魂を吹き込んだ善人」だった。

「命を懸けて、魂を吹き込んだ善人」の一人目は、馬の世話役を引退することになったドン・アキレス。

「自分の内側から、純粋な心の声を出すんだ」

脚に障害を持つアキレスは、大統領の愛馬・ブセファロとのコミュニケーション能力の大切さを、ハイメに教えるのだ。

愛情を求める者のように、嗚咽を漏らしながら、自分の惨めな過去の人生をブセファロに語りかけるハイメ。

ハイメとブセファロの距離が一気に縮まり、それに安堵したアキレスは、「故郷に帰る。魂は家に戻りたがってる」と言って、ハイメに掘らせた墓穴に入り、人生を終焉させたのである。

アキレスにとって、「引退」とは、死を意味したのである。

二人目は、「背骨が曲がった女性」。

「いつか記憶が戻ると思って、手紙を書いたわ。運命から逃げられない」

自分の障害の重さに苦しんで来た彼女にとって、記憶喪失者となったハイメへの世話に人生の全てを懸けたのである。

だから、記憶が戻ったハイメと永遠に決別する覚悟を持って、首を括ったのだ。

野良犬のように、ゴミを漁って生きてきた彼女は、人生で初めて得た愛情対象を失う苦しみよりも、死を選んだのである。

「背骨が曲がった女性」
この世に、命を懸けて異性を愛する人間がいる現実を、身を以て示した彼女の「人生の重み」は半端ではなかった。

死の覚悟なしに打って出た、ハイメの「暗殺行」の軽薄感が透けて見えるエピソードでもあった。

十分過ぎるほど打ちのめされ、悔いるハイメの中枢で、何かが壊れ、何かが生まれていく。

そして三人目は、「背骨が曲がった女性」の縊首(いしゅ)で、「人殺し」扱いされ、スラムのような貧村を追われたハイメが出会った、「聖なる材木工房」のホセ。

「打ちのめされ、悔いた人は軽蔑しません」と言って、ハイメの飢餓を満たし、孤独を癒すホセもまた、「命を懸けて、魂を吹き込んだ善人」だった。

そればかりでない。

教会に寄贈するためのホセの椅子磨きを手伝うことで、ハイメは労働の価値と喜びを体感するのである。

「心を込めて、磨きなさい」

ホセの言葉である。

かくて、目を爛々(らんらん)と輝かせて、100脚の椅子磨きを完成させるハイメ。

神への深い感謝の念を込め、椅子磨きを完成させたホセが、教会での「大いなる祈りの舞い」の渦中で急逝したのは、ハイメと共に、「魂を吹き込んだ仕事」に命を懸けていたことの証(あかし)だった。

この世に、使命感を持って生きている者を目の当たりにしたハイメは、もう、イデオロギーという名の観念系を転がせて生きてきただけに過ぎない自己の中枢と対峙し、客観化するのだ。

「俺はバカだ。俺はバカだ」

ホセの死後、教会を去っていく時の、このハイメの嘆息には、「命を懸けて、魂を吹き込んだ善人」たちから、自ずと吹き込まれた魂の新たな息吹が萌え出ていた。

ハイメは変わったのだ。

決定的に変わったのだ。

その後、執拗に受難が続きながらも、ハイメの魂の救済は成就したのである。

もう、「家族のスターリン」という、上汁(うわしる)を吸うだけの欺瞞性など、呆気なく吹き飛ばされてしまっていた。

ところが、帰還するハイメに不安を持つ少年がいる。

アレハンドロである。

「母さんと2人きりでいい。嫌われているから」

アレハンドロ少年の心の風景には、「家族のスターリン」という父のイメージしかないのだ。

「自分がよそ者だと感じる現実の世界は、苦しみと喜びの横糸で、すべてがつながっている」

これが、アレハンドロ少年の心の風景の内実である。

だから、自分の居場所が見つからないアレハンドロは、アイデンティティの空洞で悩む思春期前期の揺動する時間の渦中で、明らかに宙に浮いていた。

海に飛び込もうとするアレハンドロに、ホドロフスキー監督が後方から抱き留め、優しくささやくシーンがあった。

「未来の君は、すでに君自身だ。探し物は自分の中にある。苦しみに感謝しなさい。そのおかげで、いつか私になる。私たちは何かの夢。幻想に身を委ねなさい。生きるのだ」

そんなアレハンドロの内側をぎりぎりに支え切っていたのは、「幻想に身を委ねなさい。生きるのだ」という内的言語であった。

「神はいない。死んだら腐って、それで終わりだ」

父親から無神論を叩き込まれたアレハンドロの内的言語もまた、「死んだら腐る」という唯物論的な思考に変換することの恐怖の狭間で、常に怯(おび)えていたのである。

この父・ハイメの厳格な教えに対する恐怖が、母から受け継いだであろう、心優しい少年の自我に大きな負荷をかけていた。

それでもなお、そのアレハンドロ少年を囲繞する物理的背景は、小人症や、鉱山労働の発破(はっぱ)で喪った両手両腕のない者たち、サーカスの芸人たち、更には、「般若心経」を唱道する裸の行者など、フリークス紛いの大人たちが特定的に切り取られ、アレハンドロ少年の現実の世界は、必ずしも、彩度が低い鈍いトーンに染まっていなかった。

しかし、ハイメの心の風景には、「ロシア系ユダヤ人移民」のため、敢えて、「男としての勇敢さ」を誇示しなければ同化できないようなメンタリティを抱えていたから、余計、厄介だった。

なぜなら、その「男としての勇敢さ」を、息子のアレハンドロに対して過剰に求めてしまうからである。

麻酔なしで歯の治療を受けさせられるアレハンドロ
だから、「家族のスターリン」を延長させるばかりだった。

そんな男が、「愛される価値もない。俺は臆病者だ」と吐き出して、妻子のもとに帰還する。

思いも寄らない人格を引き摺って帰還する夫を抱きかかえるサラは、持ち前の包容力で一切を受容し、過去と決別させる。

そして何より、大きな負荷をかけられていた過去と決別し、「大人の身体に着陸」できたアレハンドロが、「ただ風が、風だけが通り過ぎる」壁のない明晰さのような心の風景の揺らぎを受け、「今」、「ここ」にいるのだ。

これは、「家族のスターリン」を延長できなかった男から解放され、「ただ、風だけが通り過ぎる」記憶を再構成する映画作家の物語だったのである。

(2016年5月)


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