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2016年4月12日火曜日

大統領の執事の涙(‘13)    リー・ダニエルズ




「黒人の家畜化」を拒絶する父と子 ―― その復元の物語







1  同胞たちとの距離を感じつつも、威厳ある振る舞いによって人種間の壁を崩す戦士







【本作は公民権運動を背景に描いているので、公民権運動の流れについては3で後述します】



“闇は、闇を追い払えない。  闇を払うのは光だけ”


冒頭から、「ストレンジフルーツ」(黒人を縛り首にして木に吊るすリンチ)の画像が提示されて、キング牧師の名言が映し出される。

ここから、映画の主人公・セシル・ゲインズの回想シーンが開かれていく。

1926年、ジョージア州メーコン。


「幼い頃から、綿花を摘んできた。きつい労働だ。仕事はきつくても、親父といられた」

家族で綿花採りをしていると、「小屋で仕事だ」と、足に障害を持つ一人の白人管理人(地主の息子)に母親が連れられて行く。

父親の制止を聞かず、追い駆けるセシル。

セシルの父親が妻をレイプした地主の息子に射殺されたのは、父親が抗議の姿勢を見せたからだった。


セシルとアナベス
尊敬する父親を喪って、衝撃を受けるセシルを救ったのは、その綿花プランテーションの女性地主・アナベス。

地主の屋敷で執事=ハウスニガー(黒人給仕の蔑称)の仕事を得るが、母親をレイプした地主の息子に対する恐怖から、精神を破綻した母親を残し、農園を去っていくセシル。

「外の世界は、農園よりひどかった。仕事も食べる物も、寝る場所すらない。白人は黒人を殺しても罰せられなかった」(モノローグ)

店のガラスを割り、喰い物を貪っている時に、ここでもセシルが救われる。

救ったのは執事の黒人。

その黒人の推薦で、ワシントンDCのホテルの執事で働くセシル。

1957年だった。

「私は政治というものに、興味がございません」


グロリア
白人客に尋ねられたときのセシルの答えであるが、この時点で、既に、セシルはメイドだったグロリアという名の妻と、2人の息子を持っていた。

公民権運動に高い関心を持っていた長男のルイスは、思春期反抗の兆しを見せていた。


セシルと同僚のカーター
まもなく、ホワイトハウスの事務主任・ウォーナーに見込まれたセシルが、ホワイトハウスの執事に昇進する。

アイゼンハワー政権下のホワイトハウスでは、「リトルロック高校事件」での州兵の派遣についての議論が交わされていた。

派遣に消極的なアイゼンハワーが、陸軍の派遣を決定する大統領令を発令した。

「大統領の英断だった。初めて白人が、黒人を守るために動いた。大統領は世の中を変えてくれる。息子も分ってくれるだろう」

その時のセシルの言葉である。

父を保守的であると決めつけるルイスとの関係が、政治的文脈の中で、今や、その確執が目立ち始めていたのである。

そのルイスが、テネシーのフィスク大に入学するに至る。

1960年、ルイスはフィスク大において、「シットイン」の活動に参加し、白人からの暴力を受け、逮捕されるのだ。

そのテレビ放送を、ワシントンDCで観ていたセシルは心を痛めるばかり。

裁判所の廊下で、父と子の激しい衝突が、遂に、折り合いがつかない状況を顕在化させていた。

何もできずに、嗚咽するだけのグロリア。

1961年、ケネディ政権が発足する。

共和党のリチャード・ニクソンとの激戦の結果、わずかな票差で破った43歳の大統領である。

アラバマに向かう、「フリーダム・ライダーズ」の活動に参加したルイスのバスがKKKに襲われ、ミシシッピーで拘束されたのは、この直後だった。

「これがアメリカか?」

フリーダム・バスの事件をテレビで観ていた、ジョン・F・ケネディ大統領の言葉である。

「私は黒人の苦難を分っていなかった。デモを見るまで。弟は彼らの姿を見て、考えが変わったと。私もだ」

これも、セシルに吐露したケネディの言葉。

ここで言う「弟」とは、ケネディ政権下で司法長官を務めたロバート・ケネディ(68年に暗殺)のこと。

そのケネディ大統領がテレビを通して、大統領執務室から国民に訴えかけ、公民権法案を提案するが、その直後の映像は、テキサス州ダラスで暗殺されるという衝撃的な事件が起こり、大統領を尊敬していたセシルは慟哭する。

1963年11月22日のことだった。(但し、ケネディ大統領暗殺事件と公民権運動との関連は全く不分明であるが、公民権法は1964年7月に制定)

1964年、ケネディ政権の副大統領を務めていたリンドン・ジョンソンが大統領に昇格し、政権を引き継ぐ。

この時点で、両親との「思想的確執」がピークになっていたルイスが、恋人と共に、マルコムXの講演会に参加する。

セシルとグロリア
そんなルイスの政治的過熱化に不安を抱くグロリアは、仕事一途の夫・セシルに不満をぶつけ、妻の心情を受容したセシルはグロリアを暖かく抱擁する。

一方、ベトナム戦争の泥沼化によって、トンキン湾事件(巡視中の米駆逐艦が北ベトナム魚雷艇の攻撃を受けたという自作自演の事件)を機に「北爆」に踏み切り、本格介入したジョンソン政権への批判が高まっていく。

1968年、テネシー州メンフィス。

キング牧師が暗殺されるという衝撃的な事件が起こり、政治の風景が一変する。

「生きて帰れるか不安だった。初めて、同胞たちとの距離を感じた。変わりゆく世界に、私の居場所はあるのか?」

各地で発生する暴動を目の当たりにした、セシルのモノローグである。

「キング牧師は非暴力にこだわったから殺された。これからは政治参加だ」

既に、ブラックパンサーで活動しているルイスの言葉である。

父子の口論のあげく、7年ぶりに戻って来たルイスは家を出て行くことになる。

一方、弟のチャーリーは兄と異なった行動を選択する。

「兄さんは国と闘う。俺は国のために戦う」

チャーリーが「戦う」と言い切ったこの国の政権は、現在、ニクソン政権下にある。

そのニクソン大統領は、キング牧師の暗殺後、急速に台頭してきているブラックパンサーへの対策に苦慮していた。

「この運動を黒人の経済活動に発展させ、黒人の企業家を援助すれば?融和問題は裁判所に。黒人票を取り込めたら、次の選挙も勝てる」

ホワイトハウス内でのニクソン大統領の発言である。

公民権運動の行方を分断化し、過激派のブラックパンサーと一線を画す戦略を採ろうとするのだ。

1969年のことである。

「マスコミは我々を“テロリスト”と。テロリストとは、他人を脅し、怯えさせる者だ。被害者はこっちだ。満足に道も歩けなくて、何が平和共存だ。天井が落ちても、家主は家賃を取るだけで、修理なんかしない。黒人社会を苦しめてきた。不正を正す時だ。一人殺されたら、倍にして返す」

ブラックパンサー党本部、オークランドでのヒューイ・ニュートンのアジである。

この演説に疑問を抱くルイス。

明らかに、武器を持って戦うことに違和感を覚えるのだ。

かくて、警察との銃撃戦で、パンサー党員の多くの党員が殺害される事件が頻発する。

そして、「俺は国のために戦う」と言い切って、ベトナム戦争に従軍したチャーリーの戦死が伝えられ、衝撃を隠せないセシルとグロリア。


父と子
「時が過ぎても、胸の痛みは去らなかった。ルイスとは絶縁状態だった」(セシルのモノローグ)

1974年、第二期ニクソン政権下で、ニクソン大統領は、民主党本部盗聴侵入事件に端を発する、ウォーターゲート事件で辞任するに至る。

次々に変わる大統領。

フォード政権からカーター政権へ。

そんな中で、有色人種の失業率を下げるというスローガンを掲げ、パンサー党から離れたルイスは、民主党から下院議員選挙に出馬するが、あえなく落選する。

1986年、レーガン共和党政権が誕生する。

年老いたセシルは、再び、ウォーナーに待遇の改善を申し出る。

「私は勤めて20年以上になりますが、その間ずっと、黒人スタッフは白人より給料が低いままです。是正をお願いしたい。何年も前に、そうすべきでした。白人と同額の給料を払っていただけなければ、私は辞めます」


正当な要求をするセシル
このセシルの正当な要求に、「では、辞めたまえ」と言い切るウォーナーに、セシルは今度ばかりは引き下がらない。

「大統領が、この件でお話ししたいそうです」

低所得層に理解を示すレーガン大統領を利用したセシルの戦略は、見事に実を結ぶのだ。

かくて、レーガン夫人の要請で、華やかな公式晩餐会に、夫婦ともども招待されるに至る。

セシルにとって、ここまでの地位に上り詰めた男の誇りよりも、違和感を覚える気分の方が大きかった。

ルイスたちの運動について記した本を手に取り、息子を受け入れる心境に達するセシルは、仕事に対する熱意を失っていく。

妻と共に、故郷に戻るセシル。

意を決して、セシルはレーガン大統領に辞職を申し出る。

「君は最高の執事だ。家族同然だよ。君は国のために尽くしてくれた」

レーガン大統領からの言葉である。


感謝の思いを伝えるセシル。

その直後のセシルの行動は、今や、ルイスとの心理的・政治的距離を埋めつつあった、元老執事の直截(ちょくせつ)な思いを具現するものだった。

人権法案を潰し、南アのアパルトヘイト政策を支持するレーガン政権を、強烈に非難するルイスに会いに行くセシル。

父を目視し、自ら近寄っていくルイス。

「何しに?」とルイス。
「デモに参加しようと…」

言葉を噛みしめながら、自分の意志を息子に伝える父。

「仕事をなくすよ」
「お前を失った。すまなかった…許してくれ」

抱擁し合う二人。

父と子の関係が復元された瞬間だった。

2008年。

「グロリアと私は、毎晩、投票所を見に行った。我らのバラク・オバマに投票する場所を、ただ、微笑んで眺めていた」(モノローグ。)

今や、ルイスは議員になっていたが、何十年もの間、連れ添ったグロリアは逝ってしまった。

そんな中で、父子が支援する47歳のオバマが次期大統領に当選する。

オバマ大統領の演説をテレビで観て、涙を流すセシル。

ラストシーン。

ホワイトハウスに招かれたセシルは、オバマ大統領に会いに行くのだ。

「公民権運動を闘った勇気ある人々に捧ぐ」

このキャプションがエンドロールとなって、民主党支持者が占有するハリウッドのリベラル派を結集した映画が閉じていく。




2  「黒人の家畜化」を拒絶する父と子 ―― その復元の物語




アメリカという大国が抱え込んだ闇の歴史は、「ネイティブ殺し」と「黒人抑圧」によって典型化された欺瞞なる構造的矛盾である。 

それは、「デモクラシー」をセールスして止まない国が、その内側に抱えた、最もアンタッチャブルな歴史的現実そのものである。

「ネイティブ殺し」の歴史的隠蔽化は、先住民族としてのインディアンの各部族の古典的叛乱を完全制圧し、その後、彼らに「定着民」としての最低限の生活権を強制的に保障することによって、「西部開拓史の輝くべき栄光」の歴史に掏り替えることに成就したかに見えた。 

しかし、「黒人抑圧」の歴史の闇の隠蔽化については、現代史に入っても、なお根深く残る南部の諸事件の連鎖や、北部諸都市での黒人犯罪、ロス暴動等で、決してそれが、過去完了した問題でないことを浮き彫りさせているのである。

黒人と白人の結婚を形式的に禁止する「異人種間結婚禁止法」が、この国で厳然と存在(アラバマ州で2000年になって撤廃することで、ようやく終止符)していたという歴史的事実の持つ重みは圧倒的なのである。 

思えば、奴隷解放宣言(1863年)に至るまで、この国には「ワン・ドロップ・ルール」(黒人の血が一滴でも混じっている者=黒人)という観念が形成されていたことで、その一滴の血の「汚れ」に対する意識は過剰に膨らまされていったに違いない。


セシルの父と少年時代のセシル(綿花畑)
思うに、綿花の広大なプランテーションが生まれ、その労働力として、アフリカから大量に黒人奴隷が組織的に移入されてくるようになって、南部の社会風景は、19世紀半ばには400万人にも及ぶ数の奴隷労働者たちの存在を無視できないものに変貌する。 

約60年間で、300万人以上の黒人奴隷が増強されてしまったのだ。 

その理由は、産業革命を経たイギリスの綿花の需要が飛躍的に拡大したためである。 

しかし、奴隷としての黒人と、彼らを使役する白人との近接度は決定的に乖離していたから、白人プランターの意識裡に、黒人の存在は、殆ど、動物的価値以上の何ものも持ち得なかった。

まさに黒人の存在は、納屋で藁(わら)を集めて寄食するだけの待遇で充分な何者かであった。 

ここで重要なのは、アメリカ黒人の存在価値は、一介の奴隷としての価値以上のものではない現実の認知からスタートしたということである。 

「黒人は人間ではない」 ―― この「黒人の家畜化」という発想が、南部白人の対黒人観のスタートラインにあった。

この認識を持たない限り、黒人差別の核心に肉薄することなど叶わないだろう。

このラインが恒常的に維持される限り、そこに白人と黒人の対立など成立しようがないし、ましてや、両者の近接度が深まるなどという事態が生まれようがないのである。 

これが産業革命から数十年も経った時代の、アメリカ南部という、特有の空間の下で形成されていた日常的な観念であったのだ。 

しかし、歴史が動いた。 

南北戦争と、この国の、その後の激烈な展開が、黒人差別を拡大する結果を招き、そのことで耐えかねた黒人の度重なる暴動が頻発したのである。 


キング牧師
更に、歴史は動いた

20世紀に入ってからの公民権運動の南部への波及は、キング牧師に象徴される黒人自身の意識の覚醒と、その覚醒した意識を身体化する様々なデモンストレーションによって、黒人たちはその内側から変化の波を作り出したのである。 



―― さて、この映画のこと



この映画を要約すれば、以下の把握に収斂されるだろう。

冒頭の「ストレンジフルーツ」の画像の提示に象徴されているように、本作は、波乱の思春期を経由することで、「黒人の家畜化」を拒絶し、自らの才覚で「大統領の執事」にまで上り詰めた人生に誇りを持つ父親・セシルと、その父親の庇護のもとで、波乱の思春期を経由することなく、「黒人の家畜化」を強いた者たちへの抵抗に正義とアイデンティティを保持していく長男・ルイスとの深刻な確執を通して、「自由民主主義」という世界システムを確立し、誇示したはずの国民国家の戦後史にあってもなお、「黒人の家畜化」という発想から解放し切れないこの国の暗部を抉(えぐ)り出した作品である。

以下、「シットイン」の活動で白人からの暴力を受け、逮捕された際に、裁判所の廊下での父と子の激しい衝突。

「革新的な運動なんだ」
「刑務所に入るのが?誰が学費を出してる?お前は法を犯した。殺されるぞ」
「好きな席にも座れない世の中って?権利のための闘いだ!黒人に対する認識を変えたいんだ!」
「親不孝者め!生意気言うと殺すぞ!」

ルイスの心情の根柢には、「執事」という父親の職業を恥じる思いがある。


ルイス
その「執事」である父親から学費援助を受ける後ろめたさが、押し付けがましく指摘されることで炙(あぶ)り出されてしまうので、余計、苛立たしいのだ。

「執事は立派な職業だ。彼らは勤勉に働くことで、紋切り型の黒人像を変えた。高いモラルと威厳ある振る舞いによって、人種間の壁を崩していった。執事やメイドは従属的と言われるが、彼らは戦士なのだ」

ルイスと活動を共有していた、キング牧師の言葉である。

このキング牧師の言葉は、ホワイトハウスの事務主任・ウォーナーに対して、待遇の改善を求めるセシルの「威厳ある振る舞い」によって検証される。

それも、2度に及ぶ戦略的交渉によって、待遇改善を勝ち取るのである。

セシルはタフネゴシエーターでもあったのだ。

従って、自らの才覚で「大統領の執事」にまで上り詰めた人生に誇りを持つセシルもまた、一貫して「黒人の家畜化」を拒絶する戦士なのである。

しかし、キング牧師の暗殺事件によって、ルイスの行動は一気に過激化する。

ブラックパンサーで活動しているルイスが、シドニー・ポワチェ主演の「夜の大捜査線」(1967年製作)を巡って、父との政治的対立を深めていく。


「夜の大捜査線」より
「白人の理想とする黒人像さ」とルイス。
「黒人の闘いを描いている」とセシル。
「白人が受け入れやすい形でね。ヘボ役者さ」
「アカデミー賞を受賞したんだぞ。バリアを破った」
「奴の中身は白人だよ。白人にへつらう黒人」
「何なんだ。ベレーなんか被って、偉ぶって。好き勝手なことぬかして。学業はほったらかし。この家から出ていけ!」

遂に、感情的対立にまで膨張し、殴り合うような状況になった。

「お前の持つすべては、その執事が与えたの」

この母の言葉で、もう、父と子は折り合うことができなくなっていく。

「黒人の家畜化」を強いた者たちへの抵抗に、正義とアイデンティティを保持するルイスにとって、理不尽な暴力を振るう白人への抵抗には、今や、キング牧師の「非暴力不服従」という選択肢はあり得ないのだ。

我が子と折り合うことができなくなったセシルの内側で変化が生まれたのは、華やかな公式晩餐会に招待されたことが契機になった。

「給仕するのと、されるのでは大違いだった。執事たちは白人向けの顔をまとっていた。私自身、そうやって生きてきたのだ」

晩餐会に招待されたときの、セシルのモノローグであるが、彼は自らを客観化することで、否が応にも、「白人向けの顔をまとっていた」自己像と出会ってしまうのである。

しかし客観的に捉えるならば、晩餐会への自分の出席が「お飾り」である分っていても、どれほど時間がかかろうとも、このような行為の累積こそが、セシルなりの「差別撤回闘争」であると言っていいのだが、セシルは「白人向けの顔をまとっていた」自己像に虚しさを覚えてしまう。

南アのアパルトヘイト政策を支持するレーガン大統領の言葉を耳にして、少年時の凄惨な「フラッシュバルブ記憶」(トラウマになるような記憶)を鮮明に思い出すのだ。

気分が沈んでるとき、ルイスたちの運動について記した本を手に取るセシル。

「息子は犯罪者ではなく、アメリカの良心のために闘ったヒーローだった」

セシルは初めて、息子を受け入れる心境に達したのである。

心境の決定的変化が、仕事に対する熱意を奪っていくのは、この誠実な男にとって、殆ど約束された心的過程だった。

自らが捨てた故郷に戻り、この帰郷が辞職に繋がった時、息子との関係が復元されていく。

息子との関係を復元させ、今や変化を恐れず、「黒人の家畜化」を拒絶し続ける男が、映像を通して封印していた怒りを表現する。

「アメリカ人は、自国の歴史の暗部に、ずっと目を背けてきた。海外の歴史には、あれやこれや言う。強制収容所がいい例だ。アメリカでは、同じような人種隔離が200年も続いていたのだ」

本作の基幹メッセージである。



このメッセージを送波したいがための映画だった。




3  公民権運動 ―― その紆余曲折の歴史




ここから、歴史の時系列に沿って、アメリカ公民権運動の紆余曲折の歴史を簡単にフォローしていきたい。

「プレッシー対ファーガソン裁判」と呼ばれる裁判がある。

「分離すれど平等」という主義のもと、公共施設での黒人分離は人種差別に当たらないとした、最高裁判決で有名な裁判である。

1896年5月のことである。

この判決によって、黒人の「人種分離」が合法的に進められた結果、「ジム・クロウ法」と呼ばれる人種差別法が、1876年から1964年にかけて南部諸州(ジョージア州、アラバマ州、ミシシッピ州など)で決定的な影響力を与えるに至る。

米国版アパルトヘイト政策である。

このような理不尽な状況下で惹起したのが、「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」(アラバマ州)だった。

市営バスの白人優先席に座っていた、一人の勇気ある黒人女性がいた。

ローザ・パークス
彼女の名は、のちに「公民権運動の母」と呼ばれるローザ・パークス。

職業婦人であった42歳のローザは、百貨店での仕事を終え、帰宅する途中だった。

当然ながら、ローザは白人の運転手から席の移動を命じられるが、断固として拒否する。

そのため、彼女は「人種分離法」違反で警察官に逮捕され、投獄されるに至る。

1955年12月1日のことだった。

この「ローザ・パークス逮捕事件」に衝撃を受け、激しい抗議運動を始動する覚悟を決意した、バプテスト派(聖書に基づく素朴な信仰を重んじ、個人の良心の自由を大事にする教派)の26歳の若き牧師がいた。

キング牧師である。

この抗議運動の先頭に立ったキング牧師の徹底した「非暴力・不服従」の行動は、「モンゴメリー・バス・ボイコット」と呼ばれる382日間に及ぶ運動に結実され、彼の運命に重要な変動をもたらしたばかりか、アメリカ全土に広範な広がりを見せる公民権運動の重要な起点になっていく。

全米を揺るがす公民権運動の背景に、1954年の「ブラウン判決」の存在があった事実を無視できないだろう。

米国最高裁が、「人種分離した教育は不平等である」という信念のもとに、公立学校における黒人と白人の別学を定めた州法を違憲と認め、「人種隔離違憲判決」と呼ばれる画期的な判決である。

この判決の影響は決定的に大きかった。

「ブラウン判決」の結果、合衆国憲法修正第14条(法の下における平等保護条項)に違反するという判例が確立されたことで、「分離すれど平等」という欺瞞的な「プレッシー対ファーガソン裁判」の根柢が覆され、公民権運動への道を開いたのである。

かくて、徹底した「非暴力主義」を貫徹するキング牧師の運動は、様々な場所に居座る「シット・イン」と呼称される「市民的不服従」の戦術を生み出していく。

本作でルイスが身柄を拘束された、1960年に始まった「シット・イン」は、業務妨害の抗議によって暴力を被弾する事態にも見舞われるが、マスメディアの援護も手伝って、一般市民の賛同を得ることで、加速的な広がりを持つ運動に発展する。

テネシー州ナッシュビルのダウンタウンのランチ・カウンターで、人種差別の撤廃を求める、大学生を中心とした3ヵ月間に及ぶ「ナッシュビル座り込み」は、公民権運動の画期点になっていく。

この間、公民権運動における重要事件と言われる「リトルロック高校事件」(1957年)が惹起する。

黒人受け入れを決定したリトルロック高校(アーカンソー州)において、一部の白人が黒人生徒の排斥運動を開始したことで、州知事が州兵を出動させ、学校を閉鎖し、黒人学生の入学を妨害するという事件に発展し、入学する9人の黒人学生の護衛のために、アイゼンハワー大統領は空挺部隊を派遣するに至り、入学する黒人学生を護衛させた。

公民権運動が全米規模で盛り上がりを見せた「リトルロック高校事件」は、すべての高校で融合教育が実施された1972年において終焉する。

そして、「I Have a Dream」(「私には夢がある」)という、キング牧師の演説の言葉で有名な、人種差別撤廃を求める「ワシントン大行進」が遂行される。

1963年8月28日のことである。

キング牧師などの指導の下に20万~30万人が、ワシントンD.. を埋め尽くすこの日こそ、人種差別撤廃を求める公民権運動が最高潮に達した政治集会であると言っていい。


ワシントン大行進
しかし、「ワシントン大行進」の2年後、厄介な事件が惹起する。

アラバマ州セルマで、公民権運動家の無抵抗のデモ隊を白人警官が襲い、多数の重軽傷者を出すという「血の日曜日事件」である。

この事件はテレビで報道されたことで、公民権運動を後押しする結果を生み、「国民共同体としての国家」の側面を損なうコストを累加させてしまうのだ。

1965年のことである。

ベトナム戦争にアメリカが本格参入した年でもあった。

更に、事態は悪化する。

ノーベル平和賞を授与されるほどの影響力を与えた、キング牧師の「非暴力・不服従」の運動が、あろうことか、そのキング牧師の暗殺事件(1968年4月)によって、公民権運動の生命線であった「非暴力・不服従」の理念が反転し、マルコムXの影響下で、非合法的な手段を用いる過激な運動形態へと変容していくのだ。

映画で描かれていたが、1960年代後半から1970年代にかけて出来した、ブラックパンサー党(「黒豹党」)による急進的な黒人解放闘争がそれである。

共産主義の思想で理論武装したヒューイ・ニュートンとボビー・シールが組織し、民族的アイデンティティの象徴(「ブラック・イズ・ビューティフル」)としてのアフロヘアーの髪型と、黒づくめの着衣で固め、帝国主義との闘争を目的とした「革命的民族主義」を標榜し、エドガー・フーバー率いる連邦捜査局 (FBI)との闘争を具現化するのである。

更に、思想的不一致でブラックパンサー党を離党したストークリー・カーマイケルは、スニック(SNCC=学生非暴力調整委員会)を組織し、同様に急進的活動を実践していくが、先進国の極左運動が約束されたように辿る道をトレースする。

大衆の継続的な支持を受けることなど叶わず、加速的に運動は萎み、沈静化するのだ。


ロサンゼルス暴動
しかし現在も、全米各地で人種差別感情を元にした、白人による有色人種に対する暴力事件や冤罪事件、人種差別的な扱いは数多く起こっており、1990年代に至っても、ロサンゼルス暴動での「ロドニー・キング事件」のようなヘイトクライム(憎悪犯罪)が起きている他、クー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体が、南部を中心に各地で活動を続けている。

奴隷貿易の歴史から始まったこの問題の深刻さは、現代史に至って具現した、表面的な福祉政策の充実化等(アファーマティブ・アクション=積極的差別是正措置)の制度的処方によっても、逆差別による「ホワイト・バックラッシュ」(白人の人種差別主義者による巻き返し)という厄介な問題等が存在し(映画「クラッシュ」)、なお容易にクリアし切れないテーマを内包している。 

個人的に特別な能力や才覚を持ち、周囲からの差別の視線の集中砲火にあっても、倒れないほどのパワーを内蔵するごく一握りの例外を除けば、「黒人問題」の現在的課題の克服は依然として先送りにされているのである。  

それでも現在は、西瓜を盗んだだけで、黒人たちが首を吊るされなくなった事実だけは認知すべきであろう。

【参考資料】  

 人生論的映画評論・続「それでも夜は明ける」  人生論的映画評論「ミシシッピー・バーニング

  

(2016年4月)


2 件のコメント:

  1. こんにちは。毎回深い掘り下げには頭が下がります。
    人種問題に関しては、本当に日本は幸せな国だぁと思います。すれ違う人がみんな日本人だなんて、本当に日本くらいなんじゃないでしょうか。でもほとんど難民を受け入れないとか、そういう事で本当に良いのかどうかは、非常に難しい問題ではありますね。自分たちだけ幸せで良いのだろうかと、時々思ったりします。
    黒人の問題(いや白人の問題と書くべき?)に関しても、ほとんどの日本人が実感として考えた事も無いのではないでしょうか。
    幸い私は映画が好きなので、「マンディンゴ」で、ずっと黒人の子供の腹を踏んで毒素を移そうとしている牧場主の異常さや、「ロバート・デ・ニーロのブルーマンハッタンⅠ」における「ビーブラックベイビー」(白人と黒人が入れ替わり、白人に恐怖体験をさせる活動。その警官役がデニーロでしたhttps://www.youtube.com/watch?v=D7fER8ogiNo)などで少しは意識を持ていました。それでも実感として黒人差別に触れた事があるかというと、ほとんどありません。というか、黒人の友達を持つという機会が、私たちには無いような気がします。
    一度だけこんな体験があります。
    横浜中華街で、後輩と店を探していたところ、店の前でたたずむ黒人がいました。話しかけてみたところ、アフリカのある国から来た人で、豚肉を食べてはいけない宗教らしく、何を食べたら良いのか分からなかったそうです。そこで3人で一緒に店に入りましたが、なかなか小さい店なだけに目線が厳しい感じがしたのを覚えています。
    そして、彼に日本で何をしたいか?と言ったら、フーゾクに行きたいと言います。そこで、関内まで連れて行き、変な店に入らないように案内する事になりました。すると、どの店も「黒人はNG」と言います。しかたがないので、ポン引きに「どこかないか?」と聞いたら、「黒人はあそこが大きいから女の子が嫌がる」と言います。これには困りました。正直に伝えるべきか悩みましたが、そのまま「Your penis is too big」と伝えたら、「Why does he know that?」という落ちになりました。
    結局、その日は気をつけるポイントだけ伝えて別れましたが、3ヶ月後突然会社に電話してきて、「今日アフリカに帰る。あの夜が楽しかった。ありがとう」と言っていました。
    結講いろいろな国を旅した私でも、黒人との個人的な思い出はその程度です。
    でも考えてみたら、それも彼らとしか体験出来なかった差別体験だったのかもしれませんね。
    20年以上前になりますが、姉がアトランタで日本語教師をしていた時に、キング牧師の生家というのに行った事があります。少し危険だと聞いていましたが、全くそんな事も無く、私の中に残っているイメージは、映画「ビッグ」の中でトム・ハンクスが遊んでいたような全く普通の町並みです。
    最後に書いてあったように、今は以前より確実に暮らしやすい環境になった、そう考えないと前には進めないような、悲しい歴史だと思います。

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    1. コメントをありがとうございます。
      本当に色々な経験をしているのですね。そこでも、マルチェロヤンニさんの偏見のない暖かい人柄が表れていると感じます。
      個人的見解ですが、私は外国人労働者を制限付きで受け入れるべきだと考えています。グローバル社会の中で、日本だけがガラパゴス化してはいけないと思うからです。難民に関しては、去年、シリア難民を3人受け入れただけで、未だ我が国では、異民族との距離感が根強いので、難民を受け入れるには高いハードルがあります。
      黒人問題については、アファーマティブ・アクションに対する、非白人層にまで及ぶホワイトバックラッシュが増えているアメリカの現実は変わりませんが、映画でも描かれていたように、黒人奴隷のルーツではないとは言え、オバマ大統領の誕生はアメリカの歴史の中で画期的なものです。
      既存の政党に対する不信感が高まっているアメリカの政治状況を考えるとき、今のアメリカには、何か目に見えない大きな胎動を感じざるを得ません。しかし、ダブルスタンダードの国とは言え、ベンチャー企業に惜しげもなく投資をする懐の深さがあり、さすがに、自立自尊の精神で歴史を切り拓いてきた国だと痛感します。

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