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2013年8月10日土曜日

生きるべきか死ぬべきか(‘42)        エルンスト・ルビッチ



<複層的に絡み合っている「笑いのツボ」の嵌りよう>




1  複層的に絡み合っている「笑いのツボ」の嵌りよう



正直言って、この「名画」は、私には全く嵌らなかった。

一言で言えば、面白くないのだ。

恐らく、私の「笑いのツボ」に嵌らないのだろう。

「笑いのツボ」は多岐多様であり、個性的であると同時に、年輪を経て変容していく要素などを考えると、複層的に絡み合っているので、一概には何とも言えないのである。

当然、秀逸なエスニックジョークへの反応も、本作を受容する米国人とも相当の誤差がある事実を認知してもなお、「純国産」の「笑いのツボ」を持つ私が、異なった「笑いのツボ」を持つ人に合わせることなどあり得ない。

だから、物語の基幹的なコンセプションであることが了解済みでも、ヨーゼフが演じるハムレットの「TO BE OR NOT TO BE」のくどいほどの連射や、ロンドンに拠点を持つ「自由ポーランド軍」に属する、ポーランド空軍将校・ソビンスキーの浮気相手である、ヒロインのマリアの「ベッド闖入」の唐突なカットを見せつけられても、「クスクス笑い」など全く起きようがなかった。

マリアヨーゼフ
何より、マリアの夫・ヨーゼフが演じるハムレットの決め台詞(「TO BE OR NOT TO BE」)を、「途中退席」のシグナルとして、マリアが待つバックステージに移動するショットと、この「途中退席」によって自信を失うヨーゼフの滑稽譚の単彩色の構図は、少なくとも、このようなスラップスティック性と馴染まない私の「笑いのツボ」に嵌りようがなかったのである。

この映画を、「一級の名画」と称えるのは無論自由だが、踏み込んで言ってしまえば、長い映画史の一つのエポックメイキングの役割を果たし得たという評価の「記憶」のうちに、それを「研究」するシネフィルの占有感を満たすマスターピースとしてのみ、希少価値を有する作品の命を繋いでいく運命を免れないのではないか。

恐らく、リアルタイムで観た人たちの、ナチスに対するカタルシスを存分に被浴し得た、毒気満点のコメディであったかも知れないが、ナチス風刺のドラマが量産されている現代にあっては、残念ながら、「時代限定」の「賞味期限」の制約性を突き抜けられないのではないか。

そこまで言っても非礼であると全く思えないのは、ヘイトスピーチに決して呑まれることのない「批評の自在性」によってのみ、真に、「表現の自在性」が保証されると思っているからである。

以上、批評家の評価の高いこの「名画」が、私の「笑いのツボ」の欠片をも拾えなかった根拠の一端を提示した次第である。

そんな私が、返す返すも思うこと。

それは、コメディにおける「笑い」を定義するのは極めて難しいという事実である。

激しい身体的動作を伴い、アドリブやギャグの連射による「ドタバタ喜劇」であるスラップスティック・コメディもあれば、困難の果てに「予定調和」の軟着点を見出すハートフルコメディもある。

「純国産」の「笑いのツボ」を持つ私にとって、絶妙な「間」で勝負するオフビートコメディは、最も好むコメディのジャンルであると言っていい。

だから、コメディにおける「笑い」の要素を決めつけるのは、この上なく困難であるし、無理があるだろう。

そう思いながらも、以下の稿で、私は敢えて、「コメディにおける『笑い』の要素」について言及したい。



2  コメディにおける「笑い」の要素



当然ながら、殆ど独断的私見であるが、コメディにおける「笑い」の要素を敢えて定義づければ、以下の要素の集合であると考えている。

第1に、「分りやすいこと」
第2に、「キャラクターの求心力の強度」
第3に、「状況の中で形成された空気からの『逸脱感』」
第4に、「『逸脱感』を惹起させる絶妙な『間』」

 以上、これらの要素の集合によって、観る者に、「緊張の緩和」を具現する「笑い」が自然に生まれると考える。

この映画が、シチュエーション・コメディであるのは重々承知の上で言及しているが、本作の場合、私が勝手に定義したコメディにおける「笑い」の要素の、いずれにも嵌らないのである。

エルンスト・ルビッチ監督(ウィキ)
それどころか、ドイツ出身の映画監督・エルンスト・ルビッチによる、ハリウッド特有の間断ない台詞回しによって、他愛ないギャグの応酬の雑駁(ざっぱく)さが目立ってしまって、ナチス・ドイツに占領されたシェイクスピア劇団が、ヒットラーとナチに化け、一致団結してワルシャワを脱出する危うい〈状況〉を描く、「大いなる心意気」の物語のうちに、コメディにおける「笑い」の要素を集合させた「風刺の一撃」のパワーが、最後まで溶融し得ていないという印象を拭えないのである。

 一切は、「芸術性」を担保する故なのか、敢えて、スクリューボール・コメディ基調の、趣向を凝らしたかのような物語構成で流してしまったために、「分りやすいこと」という、コメディの「必要条件」が削られてしまったこと。

 これが気になったのだ。

「分りやすいこと」 ―― これがコメディの生命線であると、私は考えている。

 この見解は、一貫して変わらない。

「チャップリンの独裁者」より
それは、いつもながら、「風刺」と「哀感」をコメディの筆致で絶妙にまとめた、「チャップリンの独裁者」(1940年製作)の「分りやすさ」と比較すれば、一目瞭然である。

邦画で言えば、「男はつらいよ」の1作から8作までの、「爆笑コメディ」の破壊力を持つ映画には、私が定義したコメディにおける「笑い」の要素の全てが収まっている。

個人的には、山下敦弘監督の「リアリズムの宿」(2003年製作)の、オフビート感満載のコメディを最高傑作と考えているが、意外に知られていないこの作品に詰まった「笑い」の要素は出色であった。

私の「宝物」と言っていい。

最後に一言。

私が思うに、本作の「瑕疵」は、以下の文脈で説明できるように思われる。

シチュエーション・コメディとしての「芸術性」を相殺しない限り、コメディにおける「笑い」の要素を拾い上げられない二律背反性の制約の中では、なお「芸術性」を担保するのは、本質的に難儀な表現的営為であるということ。

これに尽きる。

人を笑わせるのは、感動させたりするよりも、如何に艱難な表現的営為であることか。

 芸術的営為と言い換えてもいい。

そのことを、痛感させる「名画」でもあった。

(2013年8月)

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