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2014年6月11日水曜日

偽りなき者(‘12)    トマス・ヴィンターベア


<「爆発的共同絶交」を本質にする、集団ヒステリー現象の爛れ方を描き切った傑作>




 1  固有の治癒力という「特効薬」と暴力的な「排除の論理」 ―― 地域コミュニティの諸刃の剣



置かれた立場の弱い特定他者が犯したとされる、反証不能の忌まわしき行為に対して、大きな影響力を持つ者の、客観的合理性の希薄な思い込みが独り歩きし、一気に確信にまで下降した幻想が、近接度の高い周囲の者たちをインボルブしてしまうとき、相当程度の確率で、そこに「犯罪」が生れてしまうだろう

地域コミュニティの構成員同士の近接度の高さが、ここでは、その内側に本来的に有する、固有の治癒力という「特効薬」を無化してしまって、件の特定他者への集中攻撃を連射する事態を生んでいく。

事実無根であっても、忌まわしき行為に関わる情報は、あっという間に、地域コミュニティの構成員の間に尾ひれを付け伝播し、受容されてしまうのだ。

それは、情報社会における「サイバーカスケード」(ネットでの異端狩り)にも酷似するが、「爆発的共同絶交」を本質にする集団ヒステリー現象である。

固有の治癒力という「特効薬」を発揮する一方、コミュニティの暗黙の掟に背馳する者や外部侵入者を「特定敵対者」としてラベリングし、徹底的に排除していくのだ。

コミュニティの構成員にとって、徹底的に排除していく行為こそ、紛うことなく「絶対的正義」となる。

時にはヘドニズムを隠し込み、殺意を剥き出しにした破壊力で犠牲者を甚振(いたぶ)り、存分にハンティングしていくのである。

 この異様な状況下では、極端に振れれることで均衡を保持する、リスキーシフトの危うさが常態化されてしまうから厄介なのだ。

固有の治癒力という「特効薬」と、暴力的な「排除の論理」。

それは、閉鎖系に自己完結していく地域コミュニティの諸刃の剣と言っていい。

本作では、その両面が対極的に描かれていて、それが観る者に相当のインパクトを与えている。

―― ここから物語に入っていく。

暴力的な「排除の論理」によって激越に被弾される、先の特定他者の名はルーカス。

 
ルーカス
失業の果てに転職した、離婚歴のある幼稚園教師である。

 前妻から「42歳で幼稚園勤めなんて情けない」と軽侮されるが、本人は幼稚園の男児に絡まれて、楽しそうに相手をする真面目な中年である。

そのルーカスに対して、思い込みによる暴走で追い詰める起動点となった、大きな影響力を持つ者の名はグレテ。

 ルーカスが勤める幼稚園の園長である。

反証不能の忌まわしき行為とは、自らが通う幼稚園女児に性的虐待をしたという疑いをかけられたこと。

しかも、大の親友・テオの子供であった。

忌まわしき行為の「被害者」である、幼稚園女児の名はクララ。

ルーカスの幼稚園に通っていて、単に独占意識が強いだけで、明確な異性感情に届き得ぬ幼さの制約下にあって、「大好きな小父さん」という思いで、誰よりもルーカスに懐いている女児である。

では、そこで何が起こったか。

いつものように、幼稚園男児たちに纏(まと)わりつかれて、楽しそうに遊ぶルーカス。

それを見て、笑みを湛えるクララ。

そんなクララが、ルーカスの唇にキスをしたのは、ルーカスが遊びの中で死んだ真似をしているときだった。

幼女のナイーブな気持ちを忖度し得ないルーカスは、唇にキスをした行為を優しく咎め、自分へのプレゼントを他の男児に上げるようにアドバイスする。

些か包容力の欠けるルーカスの行為を考えれば、多感なクララの心が傷つき、悄然として俯(うつむ)き、意気消沈したのも首肯し得る。

そんなクララの沈み切った様子を目視した園長グレテが、慰撫する気持ちも手伝って、事情を聴くために近づいた。

以下、クララとグレテとの会話。

 
クララ(右)とグレテ
「ルーカス、大嫌い」
 「仲が良かったのに」
 「よくないわ」
 「どうして?」
 「すごくバカだし、変な顔してるし、おちんちんがあるもの」
 「男の子は、みんなそう。パパやお兄ちゃんもよ」
 「でも、ルーカスのは、ピンと立ってるの。すごく太い棒みたいに」
 「なぜ、そんなことを?」
 「だって、本当だもの」
 「何かあったの?」

首を横に振るクララ。

 「このハートをくれたんだけど、私は欲しくないの」
 「良くないことだわ。捨てなくちゃ」
 「今年、サンタさんは来る?」
 「さあね、どうかしら」
 「来るわ」
 「いい子にしてれば、きっとね」

 ざっとこんな会話だったが、クララから発せられた言葉の下品な内容に驚いたグレテが過剰反応し、幼女への性的虐待の事件と決めつけ、一気に情報を拡大させるに至ったのは、園長として理解できなくもないが、一方的に子供の話を信じるグレテの心の振れ具合には、包摂力が顕著に欠けた大人の対応としてあまりに不適切だったと言う外にない。

「クララは想像力が豊かな子だけど、これは、ただの想像とは思えない」

 グレテの言葉である。

 「私は子供を信じる。ウソをつかない」

これもグレテの言葉だが、その相手は、事情を説明せんと迫るルーカスだった。

 
ルーカスクララ
実は、クララから発せられた下品な言葉には伏線があった。

「見ろよ。すげえ太い棒だろ。空に向かってピンと立ってる!」

これは、その意味すら理解し得ないクララの前で、クララの兄・トルステンと、彼の友人間の会話の中で発せられた言葉である。

女性の画像を見てジョークを飛ばし合う思春期の少年たちの、年齢相応の他愛ない会話が毒性の強い言語記号と化して、クララの短期記憶にリンクしてしまったのである。

 下品な言葉が内包する現実をイメージできない幼女の脳裏に、一過的に張り付いた言語記号がクララの嘘の軽量感を炙り出すが、それが大人の思い込みに変換されたとき、事態は劇的に一変する。

クララが吐いた言語記号を思い込みによって受容した、グレテの主観の暴走が開かれるからである。



2  「爆発的共同絶交」を本質にする集団ヒステリー現象の爛れ方



思うに、医療費無料、大学までの無料教育の実施に象徴される世界最高水準の社会福祉国家、階級差別解消のシンボルとしてのチボリ公園やアンデルセン童話、更には、「共生社会」という理念を掲げ、世界のフリースクール運動に大きな影響を与えた「フォルケホイスコーレ」の好感度の高さなど、「幸福大国」というイメージで、多くの日本人に憧憬の念を抱かせるデンマークへの比較的固定化された「幻想」があるが、それも全て、高福祉高負担国家である現実の裏付けによって可能である事実を忘れてはならない。

「他人と比べることで幸せを感じるのではなく、与えられた命は同じで自分自身の価値観で幸せを感じるのです」(サイト・「幸福大国デンマークのデザイン思考」)

要するに、ヨーロッパの多くの国々がそうであるように、社会民主主義の伝統的な価値観が息づき、「大きな政府」に呼吸を繋ぐデンマーク人の「自己責任」(日本限定の物言いで、こんな言葉さえ使われることもない)の堂々とした「生き方」が、ここにあると言うべきなのか。

コペンハーゲン(ウィキ)
それは、ゼロリスク幻想に呪縛され、「自己責任」という当然過ぎる言葉に過剰に反応し、なお「世間体」、或いは、身近な集団内での他者の視線を意識する傾向が強く、「勝気」(「強気」にあらず)のメンタリティーを有する我が国の「国民性」と比較するとき、「他人と比べること」から解放されにくいという一点によって、恐らく、デンマークの多くの人々との「幸福観」の微妙な価値観の相違を見出すことが可能であるのかも知れない。

 ここで、本作との脈絡で言えば、子供に対する体罰が法律で禁じられている国の人々にとって、「私は子供を信じる。ウソをつかない」と言い切った、幼稚園園長・グレテの言葉の背景が透けて見えるだろう。

 同時にそれは、「幸福大国」・デンマークにおいてもなおと言うべきか、児童虐待が深刻な問題となっているという報告と重ね合わせることで、閉鎖系に自己完結していく地域コミュニティの諸刃の剣の、「共生社会」という美し過ぎるイメージのうちに隠し込まれた風景を垣間見ることもできるのではないか。

 そう思う。

 ―― 物語を追っていこう。

 グレテの依頼によって、オーレという名のグレテの旧知の男性による、クララへの一見、柔和な尋問が開かれた。

 しかし、この尋問には誘導性が濃厚で、相手の意図すら理解できないが故に、尋問の時間のストレスの累加が、クララから「決定的証言」を引き出すという、名うての刑事張りの「仕事」が「成就」するが、オーレという恰幅ある男でなくとも、幼女相手なら特段の能力も不要だろう。

 ともあれ、この時点で確信を得たのか、グレテは保護者会を開き、ルーカスによる「性的虐待」の事件を説明する。

 
マルクス
観る者と本人だけが知る、ルーカスの「性的虐待」が「忌まわしき事件」となったとき、警察が動き、一人息子で、別れた妻と暮らしていたマルクスの目の前で、逮捕されるに至る。

 「痴漢冤罪は悪魔の証明」と言われる共通の文脈において、ルーカスの冤罪もまた、「悪魔の証明」と化していく。

 幸いにして、「悪魔の証明」の壁にぶつかったのはルーカスだけでなく、警察も同じだった。

 頼りないクララの「決定的証言」はグレテ限定の「確信」であって、他の幼児たちの「証言」も決定力を持ち得ず、まもなく、ルーカスは証拠不十分で釈放される。

 尊敬する父と抱き合うマルクス。

 「存在しないものを、子供たちが詳しく話すのは、よくあることだ。ただの遊びか、想像力か、親から聞いたのか、またはテレビで見たのか。“子供は真実を話す”と思われがちだが・・・そうでもないこともある」

これは、親しい狩猟仲間であり、マルクスの名付け親でもあるブルーンの言葉。

ブルーンだけは、ルーカスの友人の中で、唯一、彼の無罪を信じていたのである。

因みに、ブルーンの言葉の中の「存在しない物」とは、警察の調査の中で、子供たちが一様に話していた「ルーカスの家の地下室」のこと。

これでは、「決定的証言」とは縁遠い。

 当然、起訴される事態にならず、晴れて、ルーカスは自由の身となった。

ブルーン(中央)
ところが、行政警察活動という公権力から解放され、ルーカスが自由の身となった瞬間から、今度は、地域コミュニティの暗黙の掟への背馳者に対する、暴力的な「排除の論理」という最も厄介なペナルティが、ルーカスに襲いかかってくるのだ。

そのペナルティが、「爆発的共同絶交」を本質にする集団ヒステリー現象と化していく。

 物語で描かれる厄介な現象の一切は、ここから、その爛れ切った風景を剥き出しにしていくのである。

刑事事件で裁かれることのなかった、掟への背馳者への集合的暴力が抑制系を失ったとき、もう、誰も止める力を持ち得ず、共同体が隠し込んでいた裸形の攻撃性を露わにしていくのだ。

幼稚園教師の職を失ったルーカスに襲いかかる、途絶えることのない「爆発的共同絶交」の連射。

その爛れ切った風景の一つの極点 ―― それは、辺鄙(へんぴ)な町のスーパーへ食料品を買いに行ったときのこと。

スーパーの店長の命令で、ルーカスに食料品を売らないのだ。

それでも店内を離れることなく、食料品を求め続けるルーカス。

この山間(やまあい)の町には、他に食料品等を売るスーパーが存在しないのである。

 しかし、ルーカスがスーパーを去って行かないのは、食料品への拘泥ばかりではない。

 スーパーを去って行けば、犯してもいない自分の罪を追認したことにもなる。

だから、この執拗な行為は、ルーカスの人間の尊厳を懸けた戦いなのだ。

 

そんなルーカスの執拗な行為に、スーパー店員たちの容赦のない暴力が襲ってくる。

それでも反抗を止めないルーカス。

 この気迫に圧倒されたスーパーの店長は、ルーカスに食料品を売るに至った。

まもなく、顔中傷だらけになってスーパーを出て来たルーカスを、家族を乗せた車内から視認するテオ。

明らかに、ルーカスに対する同情の念が生まれている。

 それでも何もできない。

 ルーカスのみならず、テオも煩悶しているのである。

 そんな折、突然、ルーカスの家に大きな石が飛んできて、窓ガラスを破砕する事件が発生した。

外に出たルーカスが、そこで見たのは、ポリ袋に入った愛犬ファニーの死骸だった。

衝撃を受け、怒りを鎮められないマルクスに危害が及ぶ事態を恐れて、ルーカスは別れた妻の元に一人息子を返した後、意を決した行為に振れていくのである。



 3  清浄な信仰空間を破壊する男、「真実の声」を嗅ぎ取って嗚咽する男 ―― 和解の夜への軟着点



教会でクリスマスイブの礼拝が行われていた。

表面的に清浄な空気が漂う信仰空間のただ中に、ドレスアップしたルーカスが現れた。

 驚く人々。


静かに着席し、礼拝に参加するルーカス。

彼の視線には、そこだけが特化されたように、テオ夫妻の内緒話が捕捉され、にわかに苛立つ様子を見せていく。

 矢庭に立ち上がったルーカスは、テオの元に歩み寄って、怒りをぶちまけるのだ。

「僕に何か言いたいのか?さっさと言え!」

 繰り返して「言え!」と叫ぶ。

 「やめろ!落ち着け、ルーカス」とテオ。
 「異常者!」とアグネス。

テオの妻である。

その瞬間、ルーカスの一撃がテオを頬を激しく打った。

暴行を止めないルーカスに対し、テオは黙って耐えている。

「止めなさい!異常者!」

制止しようとする周囲。

「テオと話したい。見てくれ。僕の目を見るんだ」

テオの首を捕まえて正対し、抑え切れない感情を噴き上げるルーカス。

「何が見える?どうだ?何か見えるか?何も・・・何もないんだ。もう、僕を苦しめるな。頼むから、止めてくれ。いいな?もう消える」

ルーカスとテオ
そう言って、教会から去っていくルーカス。

 このときのルーカスの感情の炸裂は、思えば、事件以前に、ルーカスに「別れた女房と息子」との関係を聞いたテオが、「順調だよ」と答えたウソを見破って、「視線が定まらず、あちこち動く」と看破したエピソードを伏線にしたものだった。

 だから、一貫して抵抗しないテオの心情には、「大親友」と誇った友人の弾劾的行為に張り付く、「真実の声」を嗅ぎ取った者の人間的感情が広がっている。

 彼は抵抗しないのではなく、抵抗できなかったのだ。

 人間的感情の広がりが捕捉する「真実の声」が、その夜、明らかにされていく。

 浅い眠りに就いていたクララの元に、父のテオが近づいていく。

 「ルーカスね。こんなことになるとは思わなかった」

 父のテオをルーカスと間違えて、そのルーカスに幼女は吐露したのである。
 
 幼児自我の安寧の発信基地しての、「家族という物語」に十全な満足感を得ていないのか、「線」のエピソードに象徴されるように、自分の進むべき「道」が分らないほどに、判断力が相対的に脆弱なクララにとって、自分がついた何気ないウソが、自分のコントロールの及ばない状況に膨張していくさまを見ても、何も為し得ないのは当然過ぎる成り行きだった。

 嗚咽するテオ。

 「ルーカスじゃない。父さんだ・・・世の中には、恐ろしいことがあまりにも多い。だが、皆で力を合わせれば打ち勝てる」

 一切を了解し、真実に辿り着いた男の涙は止まらない。

 「哀しいの?」
 「そうじゃない。ルーカスは、父さんにとって誰よりも大切な親友だ」
「私、いけないことを言ったの?ルーカスは何もしてない。何も・・・」

 黙って頷くテオ。

 その直後、妻の反対を押し切って、孤独なルーカスの家に食事を届けに行くテオがいた。

 
教会でのテオ夫妻
クリスマスイブの夜、二人の和解が完結した瞬間だった。



 4  癒しの「特効薬」と同居する、「特定的敵対者」を仮構してしまうコミュニティの構造的脆弱性



翌年の晩秋。

風景は一変していた。

マルクスが猟銃を持つことが許される年齢に達していて、少年から青年への通過儀礼を祝うパーティが開かれていた。

「爆発的共同絶交」という、掟への背馳者への集合的暴力など、まるで存在しなかったかのような、コミュニティの固有の治癒力という「特効薬」の効能が、そこに堂々と現出しているのだ。

「皆で力を合わせれば打ち勝てる」

クララに吐露したテオの言葉が、具体的な形で現われたのである。

この映画の作り手は、その辺りの事情を全く描かない。

観る者に委ねていると言ってもいい。

しかし、この映画を緊張含みでフォローし続けてきた観客が、ごく普通に考えられる軟着点の中枢にあるイメージは、事件と関わった者たちへの、勇敢なるテオの真相告白というエピソードであるだろう。

そのとき、何が起こったのか。

起こり得る蓋然性の高さで言えば、自分の嘘から招来した忌まわしい出来事を認知する能力を持たない、クララへの心理的ペナルティというよりも、そのクララを誘導尋問した挙句、性的虐待の変質者を作り出した幼稚園の園長・グレテに関わる、某かの「省略されたエピソード」ではないのか。

それが、新たな集団ヒステリーが惹起したというイメージは拾いにくいが、この閉鎖系のコミュニティが、常に、「ハンター」たちによる「特定的敵対者」を仮構せなばならない構造的脆弱性を有することは、ルーカスを執拗にハンティングした事実から充分に推量できる。

ルーカスとマルクス
だから、そこには、人間の尊厳を最後まで貫こうとした男による、「コミュニティへの同化」などというチープな文脈で説明し得る何ものもなく、コミュニティそれ自身が本来的に内包する癒しの「特効薬」が、テオの真相告白によって、一過的な集団ヒステリーの自壊を告げる役割を果たしたに過ぎないだろう。

ルーカスは逃げないことによって、最後まで人間の尊厳を守り切ったのである。

その辺りの感傷的なエピソードを省略してもなお、この作り手が、「予定調和」の柔和なる癒し系でエンディングする物語を決定的に反転させたこと。

これが、この映画の本質を凝縮させているのだ。

 ―― 本稿の最後に、その反転的状況性を描いたラストシーンの意味を考えてみる。

私にとって印象深いのは、息子と共に狩りに行ったルーカスが、一頭の鹿を凝視しているシーンである。

明らかに、ここでルーカスは、地域コミュニティという「ハンター」たちによって生命を脅かされ、人間の尊厳を冒す「妖怪」と闘い続けて疲弊し切った果てに残された心的外傷が、今なお、自分の心の奥深くに張り付いている現実をイメージさせる構図だった。

自分もまた、あの鹿のように、言語的コミュニケーションの介在の寸分の余地なく、一方的に狩猟の対象として狙われていたのだ。

そう思ったのだろう。

その延長上に、一発の銃弾が自分を狙い澄ましかかのように飛んできた。

このシーンを、現実と見るか、幻想と見るかについては解釈の分れるところだが、少なくとも、この映画の作り手は、それが現実であろうと幻想であろうと、「排除の論理」で動く地域コミュニティが隠し込む「悪意」の存在を、決定的なラストの括りのうちに表現したのだと思われる。

だから、「犯人は誰か」などという詮索は、ここでは全く無意味になる。

ルーカスの愛犬ファニーを惨殺した犯人すら不分明なまま、物語を閉じていくのだ。

そこに残されたのは、一方的に指弾され、甚振(いたぶ)られた者の恐怖感が、簡単な「和解の儀式」によって浄化され、解決するものではない重い現実のうちに、この閉鎖系のコミュニティのスポットで呻きを上げているのである。

 
決定的なラストカット
「ハンター」たちによる「特定的敵対者」として被弾され続けたルーカスの、心の奥深くに張り付く恐怖を、削り切った描写の果てに映像提示した決定的なラストカットによって、この映画は不朽の名画の地位を確保したと言っていい。 

チープなサスペンス映画の狭隘なカテゴリーを突き抜けて、徹底した人間ドラマに昇華し得たのだ。

それにしても、ルーカス役を演じたマッツ・ミケルセン。

感情の難しい機微を完璧に演じ分けた、その内的表現力の凄みは圧巻だった。

オーレ・クリスチャン・マセン監督による「誰がため」(2008年製作)で、ナチス占領下のデンマークのレジスタンス闘士の人間臭さの印象を想起させ、我が邦画の甘さを打ち砕くほどに、「演技」の薄っぺらさを感じさせないリアリティーに息を呑むほどだった。


【余稿】

6月11日現在、トマス・ヴィンターベア監督の「光のほうへ(2010年製作)を観終わって、あまりの切なさに涙が止まらない。その構成力の見事さに震えが走った。改めて、凄い映画監督であることを実感する。「偽りなき者」と同様に、一片の決め台詞なしに、る者の心の芯に深々と訴えかけてくる力がある。私にとって、絶対、目が離せない映画監督になった。ただ、素晴らしいの一言である。

(2014年6月)



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