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2015年12月8日火曜日

声をかくす人(‘11)      ロバート・レッドフォード

<「国の混乱を防ぐために真実を捨てることができる者」と、「人間の尊厳を守るために真実を捨てることができない者」との闘いの物語>



1  「戦時に法は沈黙する」―― その政治力学と闘う弁護士の絶望的な風景



ロバート・レッドフォード監督の真骨頂とも言える傑作。

普通の人々」(1980年製作)、「クイズ・ショウ」(1994年製作)と並んで、私の最も好きな映画である。

いつものように、声高に叫ぶハリウッド流の演出とは切れ、淡々と冷静な筆致で描き出した映画だからこそ、観る者に強烈に訴えかけてくる。

且つ、ジェームズ・マカヴォイの圧倒的な演技力が本作の訴求力を高めていた。

素晴らしい俳優である。

―― 以下、梗概と批評。

1863年、

南北戦争の渦中で重傷を負った、北軍大尉・フレデリック・エイキン(以下、フレデリック)が自軍に救出される冒頭のシーンから開かれる物語は、「運命の日」に繋がっていく。

その日、国務長官・ウィリアム・スワードが、南部の男によって深傷を負う事件が惹起する。

同時進行的に、ワシントンのフォード劇場で、妻・メアリーらと観劇中のリンカーン大統領が、ボックス席に侵入した男によって、デリンジャー(小型拳銃)で銃撃されるに至る。

「専制君主に滅びあれ!南部は復讐せり!」

ジョン・ウィルクス・ブース(ウィキ)
そう叫んだ男の名は、ジョン・ウィルクス・ブース(以下、ブース)。

シェークスピア役者で名が知れた、南部連合(合衆国からの脱退を宣言した南部の7州が結成した連邦)の支持者の俳優である。

南北戦争末期に当たる、1865年4月14日のことである。

この甚大な事件の指揮を執るのは、陸軍長官・エドウィン・スタントン(以下、スタントン)。

ブースの共犯者として最初に名が挙がったのは、逃亡中の21歳のジョン・サラット(以下、ジョン)。

その母親・メアリー・サラット(以下、メアリー)は下宿屋を営む寡婦。

次々に、共犯者が一斉検挙されていく。

当然、暗殺団の拠点となった下宿屋の捜索が行われ、メアリーが共犯の容疑で逮捕された。

逃亡中のブースも農場の納屋で発見され、捜索隊によって殺害されるに至る。

配下の将校9名を裁判官に選んだ軍法会議(軍の刑事裁判所)にかけられることになり、上院議員のリヴァーディ・ジョンソン(以下、ジョンソン)がメアリーの弁護を依頼され、フレデリックを随伴させて法廷に向かうことになる。

「推定無罪も証明責任もなく、公平な陪審員もいない」

フレデリックに語ったジョンソンの言葉である。

かくて、7人の容疑者が法廷に引き出された後、「国家反逆行為を援助し、容疑者を潜伏させた」容疑で、デイビッド・ハンター少将(軍法委員会の委員長)からメアリーの罪状が問われるが、きっぱりと「無罪です」と答えるや、法廷にどよめきが起きる。

ここで、司法長官を務めた履歴を持つ南部出身のジョンソンが、軍法会議で民間人を裁くことの無効性を説き、ジョセフ・ホルト陸軍法務総監(以下、ホルト)らとの激しい議論の応酬が展開される。

フレデリックジョンソン
そのジョンソンから、メアリーの弁護の担当を求められたフレデリックは拒絶するが、ジョンソンの強い要請に押し切られるに至った。

「私は南部生まれのカトリック。何よりも献身的な母親です。人殺しではありません」
「それだけでは無罪になりません」

相互に信頼関係を築けない初対面の、フレデリックとメアリーの会話だった。

アンナ
メアリーから頼まれて、監視官付きの下宿屋を訪ねたフレデリックは、メアリーの娘・アンナと会いに行く。

逃亡中のジョンの部屋を調べた結果、アメリカ南部連合の首都・バージニア州リッチモンド行きのチケットを確認し、ジョンの友人の存在を知り、下宿人名簿を点検しようとした時だった。

何者かによって部屋に石が投げ込まれ、フレデリックが急いで部屋の外に出るが、何の手掛かりも掴めなかった。

「あなたのことが理解したくて」

フレデリックの恋人・サラの言葉である。

かくて、そのサラが傍聴席にいる中で法廷が開かれる。

検察官・ホルトが、ジョンと同級であり、メアリーをよく知る検察側の証人としてワイクマンを出廷させる。

この法廷で明らかになった事実。

それは、ワイクマンを追求するフレデリックが、リッチモンド行きのチケットの所有者であり、彼が大統領暗殺計画を知っていた可能性を示唆するものだった。

そのことは同時に、メアリーの有罪性を高めるものでもあった。

以下、フレデリックとジョンソンの会話。

「彼女は有罪です。弁護など無理です」
「有罪の証拠はない」
「無罪の証拠もありません。無理です」
「では、こうしよう。彼女の有罪を証明したら、弁護人を降りていい」

フレデリックメアリー
覚悟を決めたフレデリックは、メアリーと接見するが、息子のジョンが暗殺計画に加担せず、リンカーン大統領の誘拐こそが本来の目的だったと言うのだ。

「リンカーンを誘拐し、南軍の捕虜と交換しようとしたの」
「なぜ、警察に言わない?」
「息子が仲間だったのよ」
「だが、誘拐から暗殺に計画を変更した」
「いいえ。息子は違います。息子は人殺しじゃないわ」

この会話の中で、「戦って死ぬなら本望だよ」と言い放つ、ジョンの行動を止めようとするメアリーの回想シーンが挿入される。

「暗殺の共犯である可能性はある」と指摘するフレデリックに、「分りません」と答えるメアリーの、嗚咽交じりの悲痛な表情が映し出された。

法廷シーン。

ジョセフ・ホルト(ウィキ)
ホルトの証人として、メアリーの家を調べたスミス少佐が出廷する。

スミス少佐が言うには、ジョンがブースを深く崇拝する証拠の写真を確認したというもの。

更に明らかになったことは、下宿屋に訪ねて来た男と面識がないと、メアリーがスミス少佐に答えたにも拘わらず、その男が、今、容疑者として法廷内にいるルース・ペインであるという事実だった。

ルース・ペインこそ、国務長官と、長官の息子を刺傷させた男である。

メアリーの立場が益々不利になっっていく状況下にあっても、フレデリックは必死に弁護する。

メアリーの視力の悪さを指摘することで、ルース・ペインを見間違えたのではないかと言うのだ。

どこまでも合理性に拘泥するフレデリックの姿勢は、一貫して誠実である。

「この裁判は、条約より平和を守る効果がある。迅速で断固とした判決こそ、南部の新たな陰謀を防ぎ、北部から復讐の念を取り払う。世界は変わった」

フレデリックの姿勢の一貫性を目の当たりにしたスタントンが、ジョンソンに語った言葉である。

一方、「食事拒否」の抵抗を崩さないメアリーの体調悪化に不安を抱くフレデリックは、メアリーの精神異常の危うさをホルトに訴える。

その結果、「拘禁性ノイローゼ」の危機から解放されたメアリー。

そのメアリーに、ジョンの隠れ家を尋ねるフレデリックに対して、メアリーは「私は敵?」と答えるばかりだった。

「命を救いたい」
「息子の命と引き換えにして?」

これ以上、反応する術もないフレデリック。

この孤立無援な状況下で開かれた法廷で、益々、孤立していくフレデリック。

居酒屋の主人・ロイドによって、ブースの双眼鏡をメアリーとワイクマンから渡され、“ロイド、火器の用意を”という指示があったことを証言するのだ。

火器とはライフル銃のこと。

しかしフレデリックは、ジョンこそがロイドの店に火器を運んだ事実を証明する。

息子の命を守りたい一心のメアリーが、自分を無罪にするためのフレデリックの弁護を大声を上げて拒絶する。

弁護側の証人には裏切られ、友人や恋人も去っていく孤立無援な状況下で、フレデリックはジョンの姉のアンナに、「母は無罪です」と証言させて退廷させられる始末だった。

「弟なしでも母は救える?」とアンナ。
「多分、無理だ」とフレデリック。

かくて、フレデリックの最終弁論が開かれる。

「メアリー・サラットが告発された真の理由は明白です。それは息子のジョンです。ブースを家に招いたのは彼です。ロイドの居酒屋に銃を隠したのは彼です。ジョンが暗殺の共犯なら、彼が罰を受けるべきで、こんな貧弱な根拠で母親が有罪になるなら、誰もが有罪です。復讐の念でメアリー・サラットを罰し、神聖な法を傷つけないでください」

そして、裁判官の判決が決定される。

メアリー・サラットには同情の余地があるということで、彼女以外の3人の被告人を死刑に処すこと決定する。

スタントン
しかし、この結論に納得しないスタントンは、全員の処刑をホルトに命じるのだ。

その結果、メアリーは、「大統領暗殺の共謀、副大統領暗殺の共謀、国務長官暗殺未遂の共謀」で有罪となり、絞首刑に処するという判決が下る。

この事実を知ったアンナは泣き崩れ、逃亡中のジョンにも知らされ、彼複雑な表情が映し出される。

「実の息子さえ救わない命を、なぜ君が救う?」

最も無念な思いに駆られるフレデリックが、単刀直入に、ジョンソンに突きつけられた言葉である。

それでも、処刑を翌日に控え、不当な判決に憤怒する彼の権力への闘争心は萎えない。

「正義に関わることです」と語り、判事から「人身保護令状」(注)への署名を得たフレデリックは、その「人身保護令状」を手にしてスタントンに会いに行く。

「国務長官が刺殺されそうになり、大統領が頭を撃たれて国中が混乱に陥った時、秩序を回復し、正義を守るのが先か、それとも、暗殺者の権利を守るのが先か?」

このスタントンの物言いに、フレデリックは反駁(はんばく)する。

「あなたの言う正義は復讐です」
「復讐など考えたことはない。だが、国を建て直すためなら、私は何でもやる。私も憲法を尊重しているが、いくら尊重しても、国が倒れたら意味がない」

この後、通常裁判所への移送をスタントンに要請したフレデリックは、その旨をメアリーとアンナに伝える。

フレデリックに感謝するメアリー。

しかし、メアリーへの刑の執行の通告する軍の刑吏官が現れて、「人身保護令状」が出ていることで対抗するが、大統領命令の文書を見せられ、もう抵抗する術がなかった。

叫び、泣き崩れるアンナに、「いつも一緒よ。愛しているわ」という言葉を残し、刑吏官に連行されていくメアリー。

「戦時には法は沈黙する」

フレデリックの前に立ち塞がるホルトは、共和政ローマ期の政治家として有名な、キケロの「国家論」の中の言葉を引用する。

処刑台に連れて行かれるメアリーの表情には、覚悟を括った者の意思が見られた。

絞首刑を執行されたメアリー(左・ウィキ)
3人の死刑囚と共に、絞首刑に処せられるメアリー。

16か月後。

逮捕されたジョンに、既に、弁護士を辞めたフレデリックが訪ねていく。

母の処刑を信じていなかったと言うジョンから、尽力してくれた感謝の礼を言うために、フレデリック拘置所に呼ばれたのである。

「あなたの方がいい息子でした」

メアリーの遺品を渡そうとした時のジョンの言葉である。

「メアリー・サラットの処刑から一年後、最高裁は、戦時でも民間人を軍法会議で裁くことを禁じた。北部と南部人からなる陪審員は、ジョン・サラットの判決で合意に至らなかった。彼は釈放された。弁護士を辞めたフレデリック・エイキンは、『ワシントン・ポスト』祇の初代社会部長になった」

エンドロールへと繋がるキャプションである。


(注)不法に拘禁されている者を解放するために、その身柄の提出を命じる令状で英米で実施されている。(アメリカ法資料【人身保護令状】/PDF)



2  「国の混乱を防ぐために真実を捨てることができる者」と、「人間の尊厳を守るために真実を捨てることができない者」との闘いの物語



簡単に、南北戦争の歴史的背景に言及しておきたい。

生産効率性が悪いという理由のみで、黒人奴隷制への反対を標榜し、1854年に結成された共和党に結集する、商工業が中心の社会であった、当時の北部資本家たちが奴隷制度を採用しなかったのに対して、広大な農地に大量の資本を投入し、亜熱帯地域に耐え得る綿花プランテーションという生産形態が、奴隷制という生産様式に最も好都合だった農業中心の南部州との経済構造・社会構造・政治的風土の違いが、南北戦争の根柢にあった。

工業経済化を進めることで、工場労働者としてのみ黒人を求め、奴隷制度を不要とする北部と、英国への綿産業向け原料供給地としての農業経済を継続し、自由貿易を志向する南部との経済的風景は、別々の国と思えるほどの状況下にあって、アメリカ全体を統合する意思を持つリンカーンの大統領選の勝利を契機に、合衆国からの分離独立を辞さない南部諸州と、連邦維持を目指す北部諸州との対立が尖鋭化し、この根源的な対立がアメリカ合衆国史上最大、且つ、唯一の大規模な内戦を惹起させる。

青が北部(アメリカ合衆国)諸州、赤が南部(アメリカ連合国)諸州(ウィキ)
1861年から1865年にかけて起こった南北戦争である。

その結果、国力に勝る北部が南部連合(脱退を宣言した7州)に勝利し、合衆国は南部諸州の離脱阻止・連邦への再統合を可能にした、「国民国家」として発展を続けることになるに至った。

―― 以下、批評。

「国の混乱を防ぐために真実を捨てることができる者」と、「人間の尊厳を守るために真実を捨てることができない者」

この映画の基本的な対立の構図である。

それは、統治機構としての「国家」に立脚する者と、国民共同体としての「国家」に立脚する者との対立の構図である。

この対立の構図に妥協点が生まれなければ、当然、確執が解けず、争いになる。

しかも、この対立の主体が、権力を占有する為政者と一個人の争いとなれば、多くの場合、この争いの「勝者」が前者に帰結することは自明である。

だから、この物語の主人公である、一介の弁護士の闘いの風景が壮絶なものになる。

基本的に、この映画は、「戦時に法は沈黙する」という為政者側の「正義」を行使する政治力学に対して、「約束された刑罰」に殉じるしか選択肢を持ち得ないと括った被告人の人権を守るために、「法の正義」を拠り所にして闘った弁護士の物語であると言える。

ここで重要なのは、強いられて弁護を引き受けたという経緯とは無縁に、若き弁護士自身が被告人の無罪を盲目的に信じ切っていた訳ではないということである。

「無罪かどうか分らない」と言い切る若き弁護士の主張の根拠が台詞にもあったが、近代法の基本原則である、「疑わしきは罰せず」という「推定無罪」に拠っているのは間違いない。

「推定無罪」とは、決定的な証拠に基づいた有罪宣告まで、被告人は無罪とするという基本原則だが、フランス人権宣言(1789年)で規定されていたものの充分に守られず、国際的に明文化されのは、国連総会によって採択された、1966年の「自由権規約」(市民的及び政治的権利に関する国際規約)まで待たねばならなかった。

若き弁護士が最後まで拘泥したのは、民間人を軍法会議にかけるという誤った裁判で、「約束された刑罰」のスケープゴートにされる一人の女性被告人の人権侵害が、「戦時に法は沈黙する」という為政者側の「正義」の名によって遂行されるという、あってはならない「国家犯罪」への異議申し立てである。

従って、この対立の構図は、二つの「正義」の衝突であると言っていい。

具体的に言えば、為政者側の「正義」を代弁する陸軍長官・スタントンと、「法の正義」を拠り所にする、元北軍大尉の弁護士・フレデリックとの衝突である。

そのフレデリックが、人間の尊厳を守るために真実への追及を捨てず、女性被告人・メアリーの人権の擁護に動き、「負け戦」にも拘わらず、スタントンとの闘いに全人格的に自己投入する男の孤独なメンタリティが、一貫して、物語を支え切っていくのだ。

「正義だけで国は守れん。誰かが責任をとらねば、国民が承知しない」

スタントンの言葉である。

「ならば、夫人ではなく息子を」

フレデリックは反駁する。

「私はどっちでも構わない」

エドウィン・スタントン(ウィキ)
スタントンは、そう言ったのだ。

この一言の中に、この映画によって指弾される為政者側の「正義」の欺瞞性が凝縮されている。

「北部と南部人からなる陪審員は、ジョン・サラットの判決で合意に至らなかった。彼は釈放された」

メアリーをスケープゴートにすることで為政者側の「正義」の行使が自己完結してしまえば、もう、そこに加える何ものもない。

エンドロールへと繋がるキャプションの一文にあったが、今更、ジョン・サラットの共謀罪の容疑を蒸し返すことは、統治機構としての「国家」に立脚する者にとって、一害あって百利なしなのだ。

「私はどっちでも構わない」という恐るべき言辞の本質が、ここにある。

だからこそと言うべきか、為政者側の「正義」の圧倒的な力学的脅威に抗するには、「法の正義」を拠り所にするだけの弁護士の闘争の風景は、無謀な「非対称戦争」(両者間の「軍事力」が極端に異なる戦い)のイメージを印象づける。

「国を建て直すためなら、私は何でもやる」と言い切る男に、「人身保護令状」を突きつけても、大統領命令の文書一枚で、為す術なく、武装解除されてしまうのだ。

それでも、恋人を失い、「もし裁判に勝ったら、お前は裏切り者だ」とさえ友人に誹議(ひぎ)されながらも、フレデリックの「法の正義」を拠り所にする絶望的な戦いを支えていた、人権擁護に立脚する堅固なヒューマニズムの内面風景は、観る者の心を打つ。

私の定義によれば、ヒューマニズムとは、人間の様々な事象に深い関心を持ち、それを包括的に受容し、自らを囲繞する〈状況〉から問題意識を抽出することによって、限りなく発展的に自己運動を繋いでいくこと。

弁護士・フレデリックの場合は、「自らを囲繞する〈状況〉から問題意識を抽出」したのではなく、敢えて火中の栗を拾わざるを得ない〈状況〉に追い込まれた挙句、その〈状況〉に深く関与していく心的行程の中で、絶望的な戦いを引き受けるに至ったのである。

しかし、彼の絶望的な戦いは、限りなく発展的な、彼の自己運動を繋いでいく心的行程の変容が生み出したものであるが故に、退路を断って、苛酷な〈状況〉の渦の中に自己投入していかざるを得なかった。

弁護士・フレデリックは、その〈状況〉の渦中で、「自分の生き方」を確認し、動いていったからである。

印象深い一つのエピソードがある。

「自分より大きな存在に尽くしたことは、おあり?」

「拘禁性ノイローゼ」の危機から解放された時のメアリーの発問である。

「4年間、自分より大きな存在のために戦いました」

これが、フレデリックの答え。

「なら、同じ立場ね」

メアリーの言葉である。

メアリーにとって、「自分より大きな存在」が何を意味するか不分明だが、それが「南部連合」であろうが、「息子」であろうが、いずれにせよ、彼女が、「尽くす=守るに足る大きな存在」を持っている事実を検証する会話である。

そして今、弁護士・フレデリックは、「法の正義」を拠り所に、「人間の尊厳を守るために真実を捨てることができない者」として、「国の混乱を防ぐために真実を捨てることができる者」との闘いのうちに、「尽くす=守るに足る大きな存在」を見出し、闘い切ったのである。

メアリー・サラットの処刑から一年後、最高裁は、戦時でも民間人を軍法会議で裁くことを禁じた。

絶望的な風景に彩られた男の孤独の戦いは、アメリカ史上、最初の女性の死刑が執行されるという悲劇を生むが、言論の自由を規定した「修正第1条」の汚点を曝したこの悲劇によって、くすんだ歴史の中枢に風穴を開けるに至ったのである。

フレデリックの英雄的行為は余りに眩いが、このような男の出現を、しばしば歴史が生み出していくというダイナミズムがあるから、気の遠くなるような私たちの歴史の風景を、ほんの少しづつでも前に動かしていくのだろう。

そう思わせるに足る良い映画だった。

【参考資料】  拙稿 人生論的映画評論・続「それでも夜は明ける」(2013年製作) アメリカ法資料【人身保護令状】/PDF


(2015年12月)

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