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2015年9月6日日曜日

真珠の耳飾りの少女(‘03)        ピーター・ウェーバー

<心理的・身体的接触の快楽を観念の世界に昇華し切った名画の風景>



1  「フェルメール・ブルー」の鮮烈な青の世界を全身の感性で理解する少女



「お前を働きに出すなんて・・・食べ物に気を付けてね。雇い主はカトリックよ。祈りの言葉が聞こえても、耳を塞いで」

職人の父が事故で失明したことで、貧しい家族の家計を支えるために奉公に出る娘に、言い聞かせる母のこの言葉から映像は開かれる。

時は1665年。

場所はオランダのデルフト。

見習い奉公に出る娘の名はグリート。

16歳である。

そのグリートの奉公先は、今では、「オランダ黄金時代の絵画」の代表的画家とされ、その生涯の大半をデルフトで過ごしながら、40歳代前半に家計が破産し、死去したとされるヨハネス・フェルメール(以下、フェルメール)。

到着早々、恐らく、「牛乳を注ぐ女」のモデルとなったであろう台所担当の貫禄ある召使い・タンネケから、グリートに与えられた仕事は、運河の水を使う洗濯、掃除、台所仕事、市場への買い出し等々、子沢山のフェルメール家の日常生活に関わる一切のもの。

但し、フェルメールが打ち込む、制作中のアトリエへの立ち入りは禁じられる。

そんなグリートが、フェルメール家でいきなり経験するのは、カトリック教徒であるフェルメール夫人・カタリーナ(以下、カタリーナ)の階級意識丸出しの冷たい態度だった。

6人の子供を持ち、現在妊娠中のそのカタリーナに促され、アトリエでの掃除のため、まだ見ぬ「天才画家」の部屋に入り、静かに窓を開け、外光を取り込む。

ここで、脚が止まった。

グリート
制作中の「真珠の首飾り」(「真珠の首飾りの女」とも言う)を視認したグリートの目は輝き、息を呑む。

そこに義母・マーリアが現れ、この絵はまだ「3カ月かかるわ」と言われるグリート。

それは、グリートが「フェルメールの絵画」と衝撃的な出会いをした瞬間だった。

しかし、多くの子供や使用人を抱え、破産の危機への不安を絶えず感じているカタリーナの不機嫌の原因の一つが、肝心の夫の絵画の完成が遅れているという事実が判然とする。

「奥様はカンカンだ。食器を投げ、旦那様の絵をズタズタに。旦那様は黙って耐えてるよ。その日以来、奥様はアトリエに入らないのさ」

タンネケから、グリートが直接聞くフェルメール家の事情である。

そして、7人目の子を産むカタリーナと、それを見守るフェルメールが、今、グリートの眼の前にいる。

ファン・ライフェン。

フェルメールのパトロンである。

そのパトロンに、出産祝いを兼ねて、「真珠の首飾り」の完成祝いの招待状を届けるグリート。

ファン・ライフェンの部屋の左手には、半分ほど布に覆われた状態の「二人の紳士と女」が置かれ、他にも「牛乳を注ぐ女」やデルフトの風景画など、数多くのフェルメールの作品が集められている。

「お前の主人は、素晴らしい画家だ。デルフトで一番だ。私の肖像画も描いた。わが墓標になるだろう」

ファン・ライフェンの言葉である。

ファン・ライフェンの妻をモデルにした「真珠の首飾り」の絵を見たライフェンは、出産祝いの場で、この絵画の秀逸性を、「色彩と遠近法と幻想性」という一言で説明する。

そのライフェンから次の画題を聞かれたフェルメールは、「まだ決めていない」と答えるばかりだった。

そんな折、カタリーナからアトリエの掃除を任せられていたグリートが、「窓を拭いたら光が変わります」と申し出るエピソードがある。

このグリートの申し出に驚きの表情を隠せないカタリーナは、それでも窓拭きを命じた。

夫の芸術を理解し得ないし、特段の関心を見せないカタリーナにとって、このグリートの申し出は不意を突かれる思いだったのだろう。

そのグリートの窓拭きを後方から見ていたフェルメールは、それに気づくグリートの作業に、「そのまま」と言って、窓の傍でポーズを取らせるに至る。

フェルメールグリート
この日はそれだけだったが、フェルメールの心に何某かのインスピレーションを与えたことが読み取れる。

程なくして、それが具現化する。

「カメラ・オブスクラ」が、フェルメールのアトリエに登場するのだ。

当時、ピンホール(針穴)カメラと同じ原理を有する、「カメラ・オブスクラ」はデッサンを描くために使用された光学装置で、これがカメラの起源になっていくが、フェルメールが「カメラ・オブスクラ」を使用し、「牛乳を注ぐ女」などの名画を描いてきた事実は、よく知られるところである。

そして、「真珠の耳飾りの少女」(「青いターバンの少女」とも言う)もまた、「カメラ・オブスクラ」を使用した名画の結晶点になっていくが、この時点で、未だフェルメールの視野に入っていない。

この「カメラ・オブスクラ」をグリートに覗かせ、そこに映るモデルの人形を見せるフェルメール。

驚き、興奮するグリート。

「何が見えた?」とフェルメール。
「絵です。でも・・・なぜ、絵が中に?」とグリート。
「レンズだ。向こうから、反射光が入ってくる。それで箱の中に絵が写るんだ」
「本物?」
「映像だ。光の絵だ」
「箱を覗いて描くの?」
「参考になる」

これだけの会話だったが、未知のゾーンに踏み込んだときの感動と興奮が、グリートの心を捉えてしまった。

しかし、フェルメールとグリートの物理的近接は、娘のコルネーリアの嫉妬の対象になっていく。

それでも、グリートの意識が、フェルメールの絵画の世界の虜(とりこ)になっていくのを妨げる何ものもなかった。

「水差しを持つ女」。

製作中のこの絵を凝視するグリート。

「色が合いません」

彼女はすっかり、一代の芸術家の作品世界の有能な観察者になっていくようだった。

「下塗りの色だ。深みが出る。光の中の影だ。乾いてからブルーを薄く塗ると、黒が透けて見える」

更に、窓を開け、空の雲の色をグリートに問うた時の彼女の反応は、フェルメールを刺激するのに充分だった。

「白です。いえ、白じゃない。黄色、ブルー、灰色。色が混じってます」

当時、理論化されていなかった「色の三原色」(赤・青・黄の三色)、「光(色光)の三原色」(赤・緑・青の三色)、「色の三属性」(色相・彩度・明度)や、「補色調和」(赤と青などの色の相乗効果)の原理は、ルネッサンスを経由し(ラファエロは赤・青・黄の三原色を使っている)、近・現代社会へと進むに連れ、光を色彩に変えた近代絵画の画期点において、色彩と配色が重要な表現の手段と化し、絵画の歴史を形成していくが、外光が反射して差し込み、そこで輝いて見える部分を限りなく白く、明度を上げた点描を特徴にする「ポワンティエ」と呼ばれる表現技法こそ、17世紀のオランダ黄金時代の画家・フェルメールの、光と質感に富んだ精密で写実的な風俗絵画の世界だった。

「フェルメール・ブルー」の鮮烈な青の個性豊かな世界が、それを全身の感性で理解する少女との間に、その純粋なまでの表現フィールドを作り出しつつあったのだ。

かくて、妻に内緒で顔料の買い物を依頼したり、フェルメール絵画の精密な技法の初歩のレクチャーを受けたりする日々を繋いでいくグリート。

また、色を混ぜる仕事(絵の具の調合)をグリートに命じるフェルメール。

そして、屋根裏部屋で寝るようになったグリートは、フェルメールの絵画の制作のアシスタントのような仕事を負い、それを淡々と遂行する少女がいる。

「水差しを持つ女」の下塗りが、少しずつ完成に向かっていくその名画を凝視し、堪能する少女が、今、そこにいるのだ。

「水差しを持つ女」
因みに、私のフェルメールとの出会いは、窓枠に右手をかけ、テーブルの上の水差しを掴みながら、物思いに耽っている若い女性の風俗画、即ち、この「フェルメール・ブルー」全開の「水差しを持つ女」に言い知れぬほどの感銘を受けたことが嚆矢(こうし)だった。

寓意を含んだ絵画の一般的解釈(「虚栄」のメタファーの宝石箱と、「純潔」のメタファーの水差しとの内面的葛藤)については後(のち)に知ることになるが、「煩悶する女」というイメージが私の感性に刷り込んだ名画は、まさに「究極の風俗画」と言っていい何かだった。

この「煩悶する女」というイメージこそ、フェルメールとの出会いによって、子沢山の邸で働くグリートが被弾する嫉妬や悪意の対象になっていく、自らの煩悶(節制心をもって守られてきた「純潔」と、身分と年齢を超えた「異性愛」との葛藤)に心理的にトレースするものなのか。

8人目の子供を身ごもったカタリーナに、優しく労(ねぎら)うフェルメールを視界に収めたグリートの複雑な表情が映し出された後、働き始めてから付き合っている精肉店の若者・ピーターと愛情交換する少女もまた、そこにいる

まるでピーターが、フェルメールの代替の異性であるかのようだった。

そんな折に出来した、一つの看過し難い「事件」。

「べっ甲のクシ」がグリートに盗まれたと断定し、それを否定するグリートの言葉を無視し、「厄介な娘だわ」と捨て台詞を残して去っていくカタリーナ。

コルネーリア
グリートを憎むコルネーリアの悪意が、一人、暴れていた。

「私は盗んでいません。助けて」

傍らにいるフェルメールへの助けを求めるグリートを救済するために、フェルメールは家の中を狂ったように家探しし、コルネーリアのベッドに隠されていた「べっ甲のクシ」を見つけ出すに至る。

かくて、義母のマーリアに鞭を打たれるコルネーリア。

「疫病神ね。仕事を怠けてコソコソうろついて」

コルネーリアの罪でありながら、グリートに向かって放たれるカタリーナの言葉には、理不尽なまでの毒気が含まれていた。

まもなく、この理不尽なまでの毒気が、物語の本線に甚大な影響を与えていくの



2  「補色調和」の構図の際立つ「最高芸術」が完結したとき



寡作なフェルメールの次の画題が決まった。

パトロンであるファン・ライフェンの強引な押し付けで、あろうことか、使用人のグリートがモデルになったのである。

その噂を聞き、恋人のピーターは、「深入りするな。惑わされるな」と忠告するが、グリート自身が、「ライフェンの言いなりにはならないわ」と言い切って、モデルになることを拒む。

ピーター
そんなことを言われても、ピーターは信じない。

なぜなら、グリートのモデルを最も切望しているのが、フェルメール自身であることを確信しているからである。

集団肖像画を描きながら、同時にグリートを描くことを決めたフェルメールは、前者の仕事の苛立ちの中で、眼の前にいるグリートに「頭巾を折れ」と命じる。

頭巾を折ってもイメージに合わないフェルメールは、今度は「外せ」と命じたのである。

それを拒絶するグリート。

「顔を見たくても、頭巾が邪魔だ。布を頭に巻け」

ここまで命じられ、頭巾を取り、美しい赤毛の髪が、映像で初めて映し出される。

素顔を凝視し続けるフェルメール。

しかし、画題の構図に悩むフェルメール。

そんな折、カタリーナに求められて首飾りをつけるフェルメールの中で、インスピレーションが湧いたようだった。

かくて、青いターバンを巻いたグリートがアップで映し出されていく。

「口を開けて。少しだけ。唇を舐めて」

繰り返されるフェルメールの要求に、その度にポーズを作るグリート。

それでも満足がいかないフェルメール。

何かが足りないのだ。

その足りないものが、真珠の耳飾りであると直感したフェルメールは、その真珠を自分の妻・カタリーナに付けて見せたのである。

「ごらん。真珠と瞳の輝きを」

使用人としての本業に勤(いそ)しむグリートに、それを見せるのだ。

当然の如く、激怒するカタリーナ。

自らに非がないにも拘わらず、頭を下げるグリート。

明らかに、ここでは、芸術家としての「最高芸術」を構築するためのモチーフが決定的に優先されているが、夫の芸術作品を商品価値としか考えないカタリーナにとって、この行為は妻としての誇りを傷つけられた者の侮辱以外の何ものでもなかった。

自分の雇い主であるカタリーナに遠慮してか、真珠の耳飾りを付けることを拒むグリート。

「構図に耳飾りが必要だ」
「バレます」
「必要なんだ。君の絵だ」
「心まで描くの?」

短い会話だが、芸術家の魂の真髄と、その魂の中枢に届き得ない一人のモデルとの、埋めようがない落差が、ここに滲み出ている。

ファン・ライフェングリート
この直後、ファン・ライフェンによるグリートへの強姦未遂事件が起こったが、こんな野卑な男でも、フェルメールの殆ど唯一のパトロンであるが故に、「最高芸術」のモデルを継続しなければならない心理圧は、しばしば、フェルメールへの異性感情を封じ込めてしまうのである。

ある意味で、義母のマーリアは、フェルメールの「最高芸術」の達成のために何が必要であり、何が不必要であるかについて最も知り尽くしているクレバーな女性である。

当初から、グリートには、絵画芸術に対する審美眼があると見抜いているのだ。

だから、寡作である娘婿が逸早く仕事に取りかかり、それをファン・ライフェンに引き取ってもらうことを最優先事項にしているから、ライフェンの強姦未遂を知っていても、見て見ぬ振りをする。

かくてグリートは、お互いに異性感情を容易に隠し切れない複雑な状況下で、それでも、フェルメールの「最高芸術」の達成を「共有」せんとする思いの中で、彼にピアスの穴を片耳に開けてもらい、真珠の耳飾りを付けるに至る。

「私を見ろ。顔をこっちに向けて。見て」

ポーズをとるグリート。

「それでいい」

そこに映し出されたのは、青と黄の「補色調和」の構図の際立つ相乗効果だった。

いつもそうであるように、グリートがフェルメールへの異性感情を封じ込めたリバウンドは、同じ階級のピーターとの性的処理に向かっていくのだ。

しかしこの日は、ピーターから求婚され、それを受け入れるグリート。

笑みが洩れていた。

今や、マーリアから預かった真珠の耳飾りを返還するグリート。

フェルメールの「最高芸術」の仕事が完結したのである。

仕事が完結しても、使用人としての立場であるが故に、自分を巡るフェルメール家での争いが延長されていた。

夫婦の争いの原因は、「真珠の耳飾りの少女」の絵画にあった。

絵を見せることを求めるカタリーナに、フェルメールは重い腰を上げ、完成した「真珠の耳飾りの少女」を妻の眼の前に提示するのだ。

「汚らわしい。なぜ、私じゃないの?」

カタリーナ
嗚咽しながら、カタリーナはそう言い切ったのだ。

「君には理解できない」とフェルメール。
「彼女は分るの?」とカタリーナ。

そう言ったあと、激情に駆られたカタリーナは、コテを手に持ち、その絵を引き裂こうとするが、フェルメールに押さえつけられ、吐き出し尽くせない情動が号泣の中で暴れていた。

「あの女を追い出して!」

そう叫んだあと、グリートを睨み、「家から出てけ!」と狂ったように罵倒する。

自分の真珠を勝手に使い、それを作品に仕上げた事実を知ったカタリーナの憤怒は、今や、文字も読めないグリートへの嫉妬心を超え、憎悪感にまで膨らみ切っていたのだ。

追い詰められたグリートは、フェルメールに視線を向けた。

助けを求めているのだ。

しかし、フェルメールはグリートの視線から目を逸(そ)らした。

全てが終焉した瞬間である。

フェルメール家と訣別するグリートの虚しさだけが、邸の小さなスポットで漂動していた。

グリートを決定的に失う瞬間に立ち会ったフェルメールの、名状しがたい煩悶がワンカットで映し出される。

邸を出ていくグリートは、後方を振り返る。

フェルメールへの決別の視線を放つのである。

その直後の映像は、グリートの家を訪ねて来たタンネケが、恐らく、フェルメールから依頼された真珠を届けに来るシーンだった。

その真珠を無造作に握りしめるグリート。

「汚らわしい」とまで言われた女によって捨てられたであろう真珠が届られけても、心から喜べるわけがないのだ。

それでも、彼女にとって、それは自分が尊敬し、深く愛し、その助手にもなり、遂には、「自分の心を写し取る」ような、フェルメールの「最高芸術」とも思しき作品のモデルになっていた過去を、否が応でも想い出さざるを得ない、唯一無二の何ものかだった。

グリートが忘れようとしても忘れられない作品(「真珠の耳飾りの少女」の実際の絵画の大写し)を想起するラストカットは、映画的成就の結晶点であると言っていい。

本作は、一度観たら、脳裏にこびり付いて離れないような粘着力を持つ傑作である。

感銘も深かった。

非言語コミュニケーションの底力を感受させるこういう映画こそ、私の好みである。



3  心理的・身体的接触の快楽を観念の世界に昇華し切った名画の風景



シュザンヌ・ヴァラドンという画家がいる。

シュザンヌ・ヴァラドン(ウィキ)
モーリス・ユトリロの母である。

エコール・ド・パリ(モンマルトルやモンパルナスで、ボヘミアン的な生活をしていた画家たち)の画家・ユトリロは、シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、養育を祖母に丸投げされた不遇な生活環境の影響下で、幼少時より情緒不安定であり、飲酒癖のある祖母の養育の劣化も手伝って、生涯、アルコール依存症に苦しんだ履歴はよく知られている。

ユトリロの煩悶は同情するに余りあるが、何より看過し難いのは、ドガ、ロートレック、ルノワール、エリック・サティらのモデルになり、彼らとの性的関係も疑われる画家以前のシュザンヌ・ヴァラドンのパートナーについては諸説あり、未だに分っていなという事実である。

本作を観て、私が真っ先に想起したのは、サーカスのブランコ乗りになる経緯を経て、モデルから画家に転じたこのシュザンヌ・ヴァラドンのこと。

彼女の変転の履歴を思うと、まるで、モデルと画家の関係の基本パターンであるかのように曲解するイメージを持つが、多くの場合、その決めつけが誤読であることを知るべきであろう。

モデルと画家の関係は様々で、奇妙な糸で絡まっているという印象が強い。

それ故、その関係は包括的に説明し得るほどの基本パターンなど存在しないと考える方が正解である。

本作で特化された、フェルメールとグリートの関係もまた複層的で、簡単にラベリングできないが、これだけは言える。

「君には理解できない」

美少女のモデル・グリートに対して嫉妬する妻・カタリーナへの、フェルメールの決定的言辞である。

フェルメールのグリートへの感情の中に、異性感情が包含されていた事実を否定すべきもないが、しかし彼には、その感情を抑制する能力があり、その抑制能力を推進力にして、崇高な高みにまで昇華した作品を構築したのである。

なぜなら、そうしなければ、寡作な画家の「最高芸術」が構築し得ないのだ。

フェルメールにとって、グリートはどこまでも、「恋を夢見る純潔な精神」の持ち主でなければならなかったと、私は考えている

思うに、フェルメールは、自分が納得するようなインスピレーションが湧くまで、深く考えを巡らし、長い時間をかけて構想していくタイプの典型的な画家だった。

だから、寡作になる。

「真珠の耳飾の少女」(青いターバンの少女)もまた、例外ではなかった。

然るに、他の多くのフェルメール作品と切れ、この作品には、フェルメール特有の寓意が内包されていない。

「心まで描くの?」と問うグリートの言葉が、この作品の本質を端的に伝えていると言っていい。

無論、この映画はフィクションである。

実際のモデルすら特定できないのだ。

「北のモナ・リザ」と称される名画・「真珠の耳飾の少女」が「肖像画」ではなく、画家のイマジネーションで描かれる、「トローニー」という独自の絵画様式であるとされているのである。

だからこそ、モデルと画家という特殊な関係、その心理的・身体的な近接感を蠱惑的(こわくてき)に特化させた映画の訴求力の高さが、観る者に忘れ得ない鮮烈な印象を残す傑作に結実したのである。

この関係が、心理描写で埋め尽くされていたこと。

これが勝敗の分かれ目だったと言っていい。

この勝負を制したこと。

これが大きかった。

フィクションを前提として批評すれば、フェルメールとグリートは、お互いに異性感情を抱懐し合っていた事実を否定すべくもないだろう。

しかし、異性感情があっても、その感情は封じ込められていた。

その感情を解いてしまったら、心まで描き出し、寓意を捨てた「最高芸術」の達成点が自壊する危うさを露呈してしまうだろう。

先述したように、思春期後期=青春期前期の「恋を夢見る純潔な精神」が悪びれる様子もなく、邪念のない無垢な内面風景のうちに的確に表現すること ―― これが全てだった。

清浄(しょうじょう)な少女の心まで描き出した稀有な傑作の拠り所が、そこにある。

「私を見ろ。顔をこっちに向けて」と指示され、唇の濡れた感じを示す効果を狙って、唇を少し開かせ、小さな笑みをフェルメールに送る。

そこで描かれた少女は、左の体を横を向けて、その柔和な視線をフェルメールに向けていた。

決め台詞を一切捨てて構築したこの物語は、特化された二人の交叉の中に特別な感情表現すら擯斥(ひんせき)し、一貫して、非言語コミュニケーションの交叉を累加させていくのだ。

非言語コミュニケーションの底力を、これほどまでに観る者に提示した映像を、ミヒャエル・ハネケ監督の作品以外に私は知らない。

瑞々しいまでの質感を生むこの作品は、崇高な風俗画として昇華されたのだ。

それは、お互いの異性感情、とりわけ、フェルメールの異性感情をぎりぎりに抑制し、寸止めし得るプロ意識が機能していることで可能になった達成点だった。

グリートにとっても、フェルメールの存在は、異性感情含みの憧憬対象であるが故に、フェルメールとの心理的・身体的接触の特化された時間を、観念の世界に昇華することで充分だったのである。

この心理的・身体的接触の特化された時間の快楽を、観念の世界に昇華することで生まれた世界こそ、対象人格の心の風景まで描き出し、寓意を捨てた「最高芸術」のそれ以外にない結晶点だったのだ。

―― 因みに、フェルメールの内面世界を完璧に、且つ、魅力的に演じたコリン・ファースの言葉を引用したい。

「グリートの色彩感覚、構成力に気づいたフェエルメールは、はじめて自分のことを理解する人がいることを知った。それまで彼は自分が周囲の誰からも理解されないと思い、アトリエに自分だけの世界を作っていたんだ。

それゆえにフェルメールは身分や年齢さえも越え、彼女に惹かれていく。でも周囲の状況もあってグリートとの距離を保とうとする。作品を描くことに集中しようとするが、それも出来ない。会いたい気持ちも抑えようとするため、2人の気持ちもすれ違ってしまう。当然、2人の関係は苦しみになっていったんだ」(CINEMATODAY・コリン・ファース単独インタビュー『真珠の耳飾りの少女』より/筆者段落構成)

とても納得がいく説明である。

だからこそ、煩悶の累加の中で異性感情を抑制、まさに、その抑制能力を推進力にして、崇高な高みにまで昇華した作品を構築したという心理の振れ方が、エロスを感受させるという表層的感覚を超え、非言語コミュニケーションの交叉のうちに痛々しいまでに描かれていたのである。

更に、コリン・ファースは言い切った。

「この映画は決して美術の勉強映画ではない。画家とモデルの親密な関係が、どれほどの強さのものなのかを表現できればと思っていた。絵の謎が解かれ、家族が崩壊していくほどのね」(同上)

「画家とモデルの親密な関係」が、家族崩壊させていく破壊力をも内包する危うさ。

これは、本作のラストで描かれていた。

「あの女を追い出して!」

狂ったように叫ぶカタリーナに追い詰められたグリートは、フェルメールに視線を向けたが、救済を乞われた肝心のフェルメールは、グリートの視線から目を逸(そ)らしてしまったのだ。

この時、フェルメールにとって、「自分のことを理解する」最高のモデルであった「グリート」よりも、8人目の子供を身ごもった「カタリーナ」=決して捨てられない「家族」を選択したのである。

フェルメールは、オランダ黄金時代の「市民社会」に呼吸を繋ぎ、人間洞察力の鋭利な観察者として、その「市民社会」を描き切った理性的市民であったということだ。

以上のコリン・ファースのインタビューは、自らが主演した作品に対する、極めて的確な批評になっていて、感嘆すること頻(しき)りだった。

「真珠の耳飾りの少女
―― 稿の最後に、進化心理学の視座で、根強い階級意識と嫉妬によって、荒れ狂ったように叫んだカタリーナの心理について書き添えておきたい。

進化心理学の現在の仮説の一つでは、パートナーの不貞が、それぞれの男女にもたらす適応上の問題に、男女差があることが確認されている。

妻の浮気が、自分の遺伝子を残せないのではないかということに拘泥する男性の問題(父性の不確実性)に対して、女性の場合は、夫の浮気から生じる適応上の問題によって、その夫の経済的資源が別の女性に費やされる不安・恐怖が嫉妬の根柢にあるというものである。

男性の嫉妬は、妻が他の男性と性的関係をもった状況で強度を増すのに対して、女性の嫉妬は夫が別の女性に経済的資源を投資しようとすること、即ち、別の女性に心が移りつつある状況で強度を増すと考えられているのだ。

更に、本作でのカタリーナの心理には、唯一の「テリトリー」であるフェルメール邸が、身分や年齢が異なり、「純潔」を装う「女」・グリートによて奪われ、自分が排除されるという妄想にまで膨らみ切っていたこと。

この不安・恐怖の感情が大きかったのだろう。

切にそう思う。

【参考資料】  「進化と感情から説き明かす社会心理学」(北村英哉、大坪庸介著 有斐閣アルマ刊)  「CINEMATODAY・コリン・ファース単独インタビュー『真珠の耳飾りの少女』」


(2015年9月)

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