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2015年7月19日日曜日

蠢動 -しゅんどう-(‘13)       三上康雄

「人間道」によって削がれる「武士道」の脆弱さ ―― 本格派時代劇の醍醐味



1  絶望的な叫びに変換され、理不尽な世界に堕ちていった男の無念さ



享保(きょうほう)20年。

山陰・因幡藩(モデルは鳥取藩)でのこと。

「三年前の飢饉から、ようやく立ち直った矢先に、御公儀の無理難題。更に此度(このたび)のことを・・・頭の痛いことばかり・・・」

因幡藩城代家老・荒木源義(以下、荒木)が、傍らにいる城代家老付用人・舟瀬に吐露した言葉である。

ここで言う「三年前の飢饉」とは、江戸四大飢饉の一つである享保の大飢饉のこと。

享保の大飢饉の凄まじさは、イナゴやウンカ(イネの液を吸って枯死させる天敵)の害虫と冷夏によって惹起した飢饉であり、西日本各地が凶作に見舞われ、甚大な被害をもたらしたばかりか、米価高騰に起因する打ちこわしが、幕府の膝下である江戸で激発的に引き起こされた事実で判然とするだろう。

物語を続ける。

藩士たちの激しい寒稽古の、気合のこもった声が、荒木の耳に聞こえてきた。。

それを高見から覗く荒木。

この寒稽古を仕切るのは、荒木の娘婿である因幡藩剣術師範・原田大八郎(以下、原田)。

原田の指名を受けた藩士たちの稽古の風景は、何か命を懸けたような尖りを見せたことで、同時に見聞していた新陰流の剣術指南役・松宮の怒りが炸裂する。

「御城代様の前で無様なものを!

この指摘を受け、荒木は原田に意見を求めた。

「本日は剣術の試合ゆえ、この者の行いは許されるものではございません。が、もし、真の戦ならば、このような剣術もあり得るものかと。いかなる策をろうしても、敵を倒し、生き延び、新たな敵に立ち向かい、主君を守る。これもまた、忠義かと心得ます」

この原田の具申に、荒木はきっぱりと答えた。

「今は大平の世。強いばかりが良いというものではないぞ。原田、剣の心が乱れていては、武士道を極めることはできぬぞ」

この冒頭のシーンが、冷厳なリアリズムで貫徹するこの映画のエッセンスを、端的に表現していると言える。

重臣の会議の場で、舟瀬から、公儀剣術指南役・松宮が、「我が藩の内情を探っている」という報告を聞いた荒木は、時の将軍・徳川吉宗が勧めている玉川治水献上金(江戸時代には、多摩川を玉川と呼称されることが多かった)に関わっているらしいと反応する。

この時点で、公儀剣術指南役・松宮が、公儀隠密であることが疑われ、戦々恐々とする重臣たち。

要するに、玉川治水献上金を供出すれば、因幡藩が苦労して貯めた秘匿の余剰金を失ってしまい、更に、その秘匿の余剰金の存在を知られたら、幕府の改易(取り潰し)の危険性が高まるので、その不安に怯(おび)えるばかりなのである。

そんな状況を知ることなしに、剣の道を貫かんとする若者がいた。

先の寒稽古で激しく立ち回り、松宮を怒らせた香川廣樹(ひろき/以下、香川である。

彼は、かつて改易の危機の時、腹を切ることで、辛うじて改易の危機を免れた父を持つが故に、藩に対する特別な感情を隠し切れないのだ。

元々、因幡藩に徳川家との姻戚関係が保持されていたことで、一人の藩士の犠牲のみで改易を免れたという経緯を持っていたのである。

一方、公儀隠密という疑念を持たれた松宮は、因幡藩の「隠し田」・「隠し蔵」を発見できずにいたが、連日のように山野に立ち寄られる不安を覚える荒木は、「武家諸法度」違反と言われ、一切の責任を負って泥を被った香川の父が作り上げた、「隠し田」・「隠し蔵」を守り切る覚悟を決めていた。

「香川が藩を救ったのだ」

これが、荒木の強い思いであるが、リピートされる説明台詞には、少々ゲンナリする。

ともあれ、「因幡藩の内情を全て探った」という、松宮が幕府に送る文書を手に入れたことで、荒木は、松宮が剣術指南役という肩書を持つ公儀隠密である事実を知るに至る。

因みに、松宮の正体は、警備を職務としていた紀州藩からの役人たちをルーツにする、将軍吉宗が創設した情報収集機関として名高い「御庭番」(おにわばん)の中で、遠国の実情調査という重要な任務を担う「遠国御用」(おんごくごよう)の幕臣であると思われる。

かくて、公儀の使者が因幡藩に向かったという情報を得た荒木は、もう、一刻の猶予も争えない状況に追い詰められていく。

伯耆(ほうき)藩への剣術修業を望んでいた香川が、他の藩士と争い事を起こしたため、松宮の怒りを買い、夢破れた香川の中で、松宮への不満が一つのピークに達しつつあった。

無論、この時点で、松宮が公儀隠密である事実を知る由もなかった。

親切な弟思いの姉・由紀に謝罪するばかりの香川だけが、の情勢と無縁な距離にいるのだ。

「今は我慢だ。我慢こそが真の強さだ。お前を見ていると、熱くなるばかりで、燃え盛る火のようだ。火ではなく水だ。澄み切った水のような剣。水のような澄み切った心でなければならぬ」

自分の剣の修行のことしか頭にない香川に対する、厳しくも、原田の心のこもったアドバイスである。

「とうとう、俺の夢が叶った」

情勢が一変し、伯耆藩への剣術修行が叶えられた香川の歓喜の思いが、姉・由紀との婚礼間近な木村への、この一言に表現されていた。

香川由紀
木村に別れを告げ、姉・由紀に見送られながら、「春の祝言には戻ってまいります」と言い添えて、香川は旅立っていく。

しかし、香川の伯耆藩への剣術修行は、相互に憎み合う公儀剣術指南役の松宮を、香川に暗殺させたことにすることで、公儀が因幡藩にやって来る一両日中までに事態を処理しようと図る荒木・舟瀬らの画策だった。

要するに、因幡藩の安泰を保証する唯一の手段として、香川一人を犠牲にする酷薄な手立てを講じたのである。

そこに、旅立っていく香川の嬉々とした表情と、藩を守るために講じた手立てに煩悶する荒木の表情が対比的に映像提示されていた。

既にこの時点で、城代家老・荒木から松宮への暗殺の命令が、原田に下っていた。

そして、闇の中での斬り合いによって、松宮を斃す原田。

原田の任務が終焉した瞬間である。

少なくとも、原田はそう考えた。

ところが、その松宮の死体の傍らに、香川が失くした姉からのお守りが、何者かによって置かれるに至る。

何者かとは、荒木・舟瀬らの画策によって動く因幡藩士の面々だった。

この陰謀を、松宮を斃した原田が荒木から聞かされ、煩悶を深めるばかりだった。

「松宮は新陰流の使い手。無頼の徒に斬られるわけがない。さすれば、松宮殺害のわけを私恨によるものとするには香川しかおらぬではないか。藩を守るためには致し方ないことだ」

この時、原田自身が犠牲になると申し出るが、それをきっぱりと否定する荒木の次の一言は、この映画の本質を衝くものだった。

「そなたの藩での立場をよく考えてみよ。咎(とが)を背負えば、公儀の追及は藩にまで及ぶことは必定。藩はどうなる。そなたの気持ちはよく分る。しかし、ここは耐えよ。藩のため。いや、民のためだ」

原田城代家老・荒木
藩命に逆らえない自分の立場を理解するが故に、この荒木の上意(上位の者からの命令)に無言を貫く原田。

松宮への暗殺の際に、命のやり取りをする剣を磨いていた原田は今、裸身を水で清めるのだ。

意に沿わぬ藩命を引き受けざるを得ない原田にとって、既に「心の浄化」を果たし得ない状況下では、せめて、「罪」=「穢れ(けがれ)の重荷を払拭する「禊祓」(みそぎはらい)の手立ては、神道的な「身体の浄化」以外しかなかったのだろう。

荒木から聞き及び、原田だけが知り得ている情報を、多くの藩士たちは知らない。

その藩士たちに、船瀬は香川の殺害を命じたのである。

香川の親友であり、由紀との婚礼を控えている木村は反対するが、当然、叶わぬ相談だった。

かくて、その木村も加わって、香川殺害の上意を受けた藩士たちが動いていく。

雪が降りしきる山陰の白銀の世界を、伯耆藩に向かって、香川は独歩ている。

勝手な振る舞いに走る香川を嫌う草加(くさか)を先頭に、彼を追う藩士たち。

その後、藩士たちは二手に分かれる。

原田草加を先頭にする藩士たちに、福音寺に向かう原田とは別に、迂回路での追跡を命じ、香川を見つけ次第、伝令役を使って自分に知らせることを確認させ、再出発させたのである

香川の無罪を信じ、それを自ら確認するために討っ手(うって)の一行に加わった木村が、その香川を福音寺で見つけたのは、その直後だった。

事情を知らない香川は木村と再会を喜ぶが、それは一瞬の出来事でしかなかった。

「貴様は、松宮様殺害の下手人だ!」

この伝令役の言葉に当惑するまもなく、伝令役の剣が香川に襲いかかる。

それを止めようとした木村が、伝令役の刃の犠牲になって絶命するに至るのだ

事情を察知できない香川の心は混乱し、ただ、自分の討っ手(うって)になっている藩士たちから逃げていくしかなかった。

今や、因幡藩では、幕府からの使者・西崎が到着していて、荒木が丁重に応対していた。

その西崎は、松宮殺害の一件の説明を受け、事件の解決と献上金の問題に言及し、それを受け入れる荒木。

一方、伯耆藩への書状の中身が白紙になっていることを知り、初めて、自分が騙されていたことを知る香川。

逃げる香川と追う藩士たちの構図が交互に入れ替わり、陣太鼓の音声が男たちの情動に被(かぶ)さっていく。

それは、戦鼓(せんこ)が高鳴って、戦場と化した白銀の世界が鮮血の赤に染められていくシグナルでもあった。

既に、国境(くにざかい)に達しつつあった香川に追いつく藩士たち。

草加は、香川を発見したら原田に連絡するという指示を違(たが)え、異議を唱える藩士の忠告を無視し、一斉に抜刀し、香川に向かって行くが、憎悪の感情で固まっている香川の気迫漲(みなぎ)る殺人剣の前に、一人また一人と斃されていく。

最後に、腕に自信がある草加との一対一の壮絶な血闘の結果、頸動脈から血飛沫(ちしぶき)を噴き上げて絶命する草加の死体が、他の藩士たちの死体に加わっていくだけだった。

思うに、単に、香川に対する個人的な反感で動いた男よりも、父に次いで、自分もまた、藩の犠牲に貶(おとし)められていく激烈な憤怒を心理的推進力にする男のほうが、ノルアドレナリン・アドレナリンを分泌する「闘争・逃走反応」による「火事場の馬鹿力」が強度を増すのであろう。

そんな男の前に、遅れてやって来たのが原田だった。

「なぜ、このようなことに。なぜ、俺を討たなければならないのですか。なぜ、多くの者が斬り合わなければならないのですか。原田様、お答えください!これが武士道か!」

この香川の叫びに、原田は何も答えない。

答えられないのだ。

黙って剣を抜く原田と香川との、正真正銘の一対一の斬り合いが開かれていく。

相打ちになり、共に傷を負う二人だが、余力のある原田は香川に止めの一撃を加えられないでいた。

血闘シーンが終焉するが、映像は、深傷(ふかで)を負って城に戻って来た原田を映し出す。

香川を討ち取った証として、彼の髻(もとどり)を、右胸に包帯を巻いた原田が持ち帰って来たのだ。

「下手人とは言え、松宮を斬っただけのことはありますな。いや、大勢の命を犠牲にしてまでもの、お上に対する貴藩の忠義心、よく分り申した。しかと公儀に伝えおきますぞ」

藩士たちを相手に戦い抜いた香川の実力を評価し、それを報告に来た原田の忠義に感嘆する西崎の言葉である。

しかし、その西崎が、因幡藩の急ごしらえの陰謀を見抜けないわけがなかった。

「これで、今しばしの安泰でござるな。今宵だけでも」

香川の生首ではなく、誰の者か特定できない髻(もとどり)を見せられても、百戦錬磨の公儀の使者である西崎を騙すことなど不可能なのだ。

しかし、西崎のこの言葉が、煩悶を重ねた末の、それ以外にない選択に流れざるを得なかった荒木を刺激し、思わず、睨み返す荒木がそこにいた。

ラストシーン。

月明かりの下で、一人の男が、地虫の蠢動(しゅんどう)の如く這っている。

「うああぁ~!!!」

その男・香川の叫びである。

原田によって命を救われながらも、理不尽な世界に堕ちていった香川の無念さを、それ以外にない絶望的な叫びに変換されるラストカットに結ばれたのだ。



2  「人間道」によって削がれる「武士道」の脆弱さ ―― 本格派時代劇の醍醐味



封建的主従関係の概念としての、江戸時代の幕藩体制の代名詞のように言われる「改易」とは、大名の領地を没収し、その身分を権力的に奪う「取り潰し」のことである。

後(のち)に許され、大名や一族の者が小大名や旗本に取り立てられるケースもあったが、基本的に「改易」になれば、城と領地は没収となり、多くの家臣は禄を失って浪人となる運命を免れない

考えてみるに、酷薄とも思える幕府の「改易」、なぜ可能だったのか。

それを簡潔に要約すれば、こういうことである。

即ち、各藩の大名が所有する領地とは、徳川幕府から領有することを認められた土地であり、幕府に代わって年貢取り立てを依頼されたが故の領地であるということ。

従って、幕藩体制の藩の存在のあり方は、「国盗り合戦」の「戦果」として、領主自らが勝ち取った土地が領地となることが可能だった戦国時代の領主と、その一点において決定的に異なっていのである。

言ってみれば、徳川幕府が全土を支配し、それを大名に預けるという制度のである。

幕府による「改易」の数値は230以上にも及ぶが、その過半が家康・秀忠・家光の三代に集中しているのは、「ウィナー テイクス オール」(勝者総取り)という野蛮な「国盗り合戦」が蔓延(はびこ)った時代との決定的訣別をつけるために、治安・平和・民心の安定の基盤の構築に専心した江戸時代初期の統治能力の苦労の産物と言っていい。

「武家諸法度」
そのことは、文武両立の奨励・新規の築城の禁止・自由結婚の禁止・キリスト教禁止令(鎖国政策)等を制度化していた、大名統制の法令である「武家諸法度」を繰り返し改訂している事実で判然とするだろう。

そして、1635年に体系的に斉一化された大名統制策の一つである、江戸幕府の重要な法令・「参勤交代」(妻子を人質として江戸藩邸にとり、諸大名を江戸と領地に1年交代で居住させた制度)を義務づけていたシステムに象徴されるように、諸大名の軍事力を低減させる思惑があった事実を知る必要がある。

何より、身内に対しても厳しく統制する幕府の基本スタンスを継続させていたが故に、260年以上の長期にわたって、300近くもの藩を支配し得たと言えるのだ。

従って、家老を中心とした合議制による藩運営を保持しながらも、諸大名(藩主)の悪政や、領地支配に失敗した藩に対する最大のペナルティが、「改易」あったのは必至だった。

大名廃絶政策としての「改易」の主因が「世継ぎの不在」であったため、公儀の認可によって養子を儲けたり、血縁者を世継にしてお家再興を図る諸藩の努力には涙ぐましいものがある。

しかし一方で、最大の懲罰である「お家お取り潰し」は、単に「世継ぎの不在」=「お家断絶」と違って、映画でも描かれていたように酷薄さを極めるが、だからと言って、幕府への直接的反乱など起こりようがなかった。

例えば、元禄赤穂事件(1702年)が有名だが、この事件を幕府への直接的反乱と呼ぶには無理がある。

主君・浅野内匠頭の遺恨を晴らし、一人の老人の首を取っただけの事件であるからだ。

そのことは、主君の遺恨を晴らしたことで、時の五代将軍・徳川綱吉も、四十七士の「忠義」を讃えてい逸話でも判然とする。

大体、幕府への直接的反乱と呼ぶなら、城の明け渡しという幕府からの命に背き、赤穂城に籠城し、そこで一戦を交えるべきであったが、結局、その選択肢に振れなかったのだ。

遺恨を晴らした後でも、赤穂浪士は自らの運命を幕府に丸投げしたのである。

これでは、とうてい幕府への反乱と呼ぶことはできないだろう。

思うに、江戸幕府への本格的な反乱があったとすれば、幕府の屋台骨が揺らいでいた幕末期における、外様大名・毛利氏を藩主とする長州征伐(幕長戦争)くらいしかなかったということである。

幕藩体制を仮構した徳川幕府の底力を見る思いがする。

要するに、酷薄とも思える幕藩体制の維持は、それなしに治安・平和・民心の安が確保し得なかったのだ。

地方分権的なイメージを被(かぶ)せつつ、本質的には、徳川幕府による中央集権的な国家構造を構築することで、安定的な主従体制=幕藩体制を確立したということである。

―― ここから、映画で繰り返し語られた「武士道」について、簡単に言及したい。

「武士道の美学」という爛れ切った情感体系。

まず、私には、この認識がある。

挑発的に言えば、勝気(虚栄心)であるが、決して強気(闘争心)のメンタリティを持ち得ない国に、「武士道の美学」など、本気で存在すると考えているのだろうかという疑義を呈したい。

闘争心の持続力に欠如する、この国の男たちの自我に、「武士道」のDNAが流れていないことは自明である。

「神」という絶対的な存在によって相対化される内的規範を持ち得ない、私たち日本人の「宗教的空洞」を補填するために、敬虔なキリスト者であった新渡戸稲造が、アメリカのプロテスタントの職業的・日常的倫理観の高潔さに感銘を受けて、1938年にアメリカで刊行し、その著が逆輸入されたあげく、ようやく人口に膾炙(かいしゃ)したのが、かの有名な「明治武士道」=「武士道」(矢内原忠雄訳 岩波文庫)であることは周知の事実。

近世以降の封建社会における武士階級の倫理規範とされ、未だに厳密な定義は存在しない「武士道」が、支配階級としての武士の間で理想主義的な精神的倫理として定着したと言っても、それが「太平の世」という経済社会的条件が形成されていたからであり、それ故に、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付たり」というフレーズだけが特定的に切り取られて喧伝された、「葉隠」という有名な著述が禁断の書であった事実を無視する訳にはいかないのである。

ところが、「葉隠」を読んだ者には了解済みだろうが、この筆録記録が、緊張感がなくてダラケた生活に甘んじる、当時の武士のマナーを説いたマニュアル本であり、特段に〈死〉を美化したものではない事実は既に検証されている。

そんな筆録記録でも封印せねばならないほどに、幕府を恐れる藩主らの脆弱さが垣間見えてしまうのである。

それは、「生死」という二者択一の状況下においては〈死〉を選ぶことを勧めた、「葉隠」に収斂されるとする「武士道」の精神が、近世において「共通認識」としての規範体系を持ち得なかったことを意味しているのだ。

それ故に、近代社会に入って、「強き日本人」を育成する必要から、曲解された「葉隠」に象徴される「武士道精神」の立ち上げの故に、「死に場所」を求める男の行動規範のモデルを提示せざるを得なかった、時の為政者の苦労がかえって透けて見えるのである。

言ってみれば、「武士道」とは、天下泰平の世になって、水も漏らさぬ幕藩体制を築いた江戸幕府が、堅固な主従関係を構築するために、武士の社会道徳の規範にまで昇華させていった観念体系の仮構の産物であり、それが「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」という倫理的な濃度の高い理念に結晶化されたものなのである。

―― 本作で強調された「武士道」も、この文脈で考えれば分りやすいだろう。

三上康雄監督が刀剣研究家・深海信彦(全刀商理事長)との対談で語っているように、物語の中で「武士道」を貫いた者は一人もいないのだ。

「藩のために切腹して果てた香川の父しかいないのです」

三上康雄監督の言葉である。

「忠義」の極点である〈死〉を貫徹したのが、物語の中に登場してこなかった「香川の父」こそ、「改易」を免れるため、「隠し田」・「隠し蔵」を守り切って一切の責任を負って泥を被割腹した人物だったというわけだ。

「香川が藩を救ったのだ」

荒木舟瀬
因幡藩城代家老・荒木のこの言葉が、物語の中で鮮烈に響くのは、「香川の父」だけが「武士道」を貫いたからである。

藩士たちの激しい寒稽古の場で、後(のち)に公儀隠密であることが発覚するが、新陰流の剣術指南役・松宮から指弾された、因幡藩最強の剣術指南・原田が返答した内実が、以下の言葉。

「いかなる策をろうしても、敵を倒し、生き延び、新たな敵に立ち向かい、主君を守る。これもまた、忠義かと心得ます」

ここまで言い切った原田でさえ、「武士道」を貫くことができなかった。

主君を守るため、藩を守るため、そして民を守るために、荒木・舟瀬の命令を遂行し得ず、殺害すべき後輩の香川に止めの一撃を加えられないだ。

当然ながら、その身を解放された香川は、父のように、自分だけ犠牲になって、詰め腹を切らせられる行為に振れることなく、理不尽な状況下で叫びを結ぶだけだった。

人身御供(ひとみごくう/組織の犠牲にされること)にされた香川には、藩への怨念の深さだけが生き残され、それが彼の人格総体に張りついていて、決して消えることがないだろう。

だから、急所を外して脇腹を突いた原田との「死闘」に敗れ、髻(もとどり)を失なった、ラストカットでの香川の叫びが切実であり、絶望的だったのである。

「心が武士だから武士」(深海信彦理事長の言葉)と言っても、この状況下で、香川がこの心境に達するのは不可能である。

彼もまた、「刀は武器ではなくて精神」(三上康雄監督の言葉)という「武士道」を貫くことが困難なだ。

「お前を見ていると、燃え盛る火のようだ。火ではなく水だ。澄み切った水のような剣。水のような澄み切った心でなければならぬ」

原田の心のこもった、この忠告を聞く能力を有しない香川という男から「武士道」の真髄を究めるイメージを感受するのは殆ど困難である。

香川を信じ切って行動する木村も然り。  

或いは、香川への個人的反感が心理的推進力になっていた草加も然り。  

煩悶する荒木
そして、その香川を人身御供(ひとみごくう)にした張本人の荒木に至っては、香川への同情心を最後まで捨てられず、映画の中で煩悶するシーンばかりが目立つのだ。

要するに、揃いも揃って、「武士道」の脆弱さを見せつける映画だった。  

彼らは、「武士道」より「人間道」(三上康雄監督の言葉)に振れてしまうのである。

「人間道」によって削がれる「武士道」の脆弱さ。

これが、本作を観た私の率直な感想である。

―― 最後に、批評的視座で本作への不満を追記しておきたい。

主題がダイレクトに伝わってきて、大きな破綻も見られないが、平岳大(原田)、若林豪(荒木)、中原丈雄(舟瀬)、目黒祐樹(松宮)、 脇崎智史(香川)、栗塚旭(西崎)の迫真の演技が重厚、または出色であっただけに、ズブの素人のような無名の若い藩士たちの演技力の拙さが目立ってしまって、正直、観ていて気遣わしいほどだった。

それは、プロの映画作家としての演出の切れ味を、期待したほど感受できなかったこととも、恐らく無縁でなかったと思われる。

構成がフラットなエピソード繋ぎになっていて、編集段階で修正できなかったのだろうか。

加えて言うならば、原田の抑制された煩悶を余情含みで描けたら、平岳大(ひらたけひろ)の内面描写がいっそう際立っていたのではないか。

酷薄な幕藩体制をワンカットで衝くラストは素晴らしかった。


【参考資料】 <蠢動-しゅんどう-> 対談 映画監督三上康雄×全刀商理事長深海信彦  拙稿・人生論的映画評論: グラン・トリ

(2015年7月)


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