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2012年11月23日金曜日

まほろ駅前多田便利軒(‘11)    大森立嗣



<実存的欠損感覚を補填する心的旅程の艱難さ>



1  実存的欠損感覚を持つ二人の男



 実存的欠損感覚を持つ二人の男がいる。

 一方の男は、不確実性の高い、見えにくい未来に向かうことで欠損の補填をしようと、辛うじて身過ぎ世過ぎを繋いでいる。

しかし、男の心奥に潜むトラウマが、いつもどこかで、その補填の営為を過剰にしてしまうのだ。

自我の再適応メカニズムとしての「防衛機制」を過剰にしてしまうからである。

もう一方の男は、過去に搦(から)め捕られ過ぎていて、不確実性の高い、見えにくい未来に向かえない。

男の心奥に潜むトラウマが、男の自我をすっかり食(は)んでしまっているから、未来に向かう熱量を簡単に自給し得ず、〈生〉と〈死〉の見えない危ういラインの攻防の只中で、生産性の削られた時間の海を漂流するばかりだった。

従って、男には、実存的欠損感覚を補填しようという営為が見られないが故に、辛うじて、身過ぎ世過ぎを繋ぐ「相棒」との物理的共存の中にあっても、その心理的風景の乖離は決定的だった。

具体的に書いていく。

愛する妻に裏切られたばかりか、その妻との間に儲けたに違いないと信じようとする子供まで喪った男にとって、そこで負った忌まわしき経験は看過し難いトラウマと化して、男の人生を実存的に揺さぶっていく。

「夫婦愛」という物語が、単に、物理的共存の延長線上で招来する、〈性〉を脱色していく倦怠期という名の些か手強いイニシエーションによってではなく、最愛の妻に不倫された最悪の現実によって袈裟斬りにされたのだ。

この精神的リバウンドは、その後も長く続くであろう、件の男の人生の実存の基盤を危うくさせていく。

そんな男が、「便利屋」という不安定極まる職業を選択したのは、規律正しいサラリーマン生活によっては得られない「職業利得」があると信じたからだろう。

「あんたにとって、あのチワワは義務だったでしょ。でも、あのコロンビア人には違う。チワワは希望だよ。誰かに必要とされるということは、誰かの希望になるってことでしょ」

これは、客から預かったチワワが夜逃げの産物と知って、そのチワワを引き取ってくれる対象人格を探しているときに、「便利屋」の「相棒」から放たれた言葉。

同時にそれは、「便利屋」稼業の男と「運命の出会い」をする、二人の男が抱える実存的欠損感覚の本質を言い当てる物言いでもあった

「誰かの希望になる」ことで、「誰かに必要とされる」存在になっていく。

それこそ、最愛の妻に袈裟斬りにされた挙句に、「我が子の病死」という甚大な心的外傷を抱えて生きる男にとって、せめてもの贖罪への方略は、「誰かに必要とされる」存在になっていく以外になかったのだろう。

然るに、男の心奥に深々と澱む心的外傷を癒すのは容易ではない。

前述したように、「便利屋」稼業の男の心的外傷の重篤性から忖度(そんたく)すれば、決して消えることがない忌まわしき記憶を時間の海に流せないまま、知らずのうちに、いつもどこかで、その補填行為を過剰にしてしまうだろう。

そのとき、自我の再適応メカニズムとしての、男の「防衛機制」が過剰になってしてしまうのは、「誰かに必要とされる」存在になっていくという補填行為の反覆それ自身が、贖罪の実感濃度を高めていく心理的効果を分娩するからである。

「誰かに必要とされる」存在への潜在的希求に誘(いざな)われて、「便利屋」稼業に自己投入する心優しきナイーブな男が、呆気なく袈裟斬りにされていくこの国の、ごく普通の男女関係の様態が露わにされる物語の主人公の名は、多田啓介。

未来に向かう自給熱量を繋いでいくことによってしか、忌まわしき記憶を希釈化させたという幻想を持ち得ない悲哀を封印して、「今、このとき」の時間の海の適水温を測って必死に回遊する、三十代の働き盛りの男である。

そんな男が不安定な自営業を選択したのは、その心理的風景において必然的だったのだ。

それは、男の人生にとってトラウマの修復過程であると同時に、アイデンティティの再構築を賭ける人生への自己投入であったと言えるだろう。

その意味で、多田の視線は細々としているが、しかし、それ以外にあり得ないと思える未来像に辿り着くための、極めてポジティブな行程だったのである。



2  実存的欠損感覚を補填する心的旅程の艱難さ



実存的欠損感覚を深々と負っている、もう一方の男には、多田のような未来像を描けない。

幼児虐待のトラウマによって傷つけられた尊厳を修復するには、今や、「近くて遠い存在」にある、多田という、中学時代での小指切断事故以来の因縁を持つ、生真面目な男以外に辿り着くしかない辺りまで追い詰められていったのか。

幼児虐待のトラウマを延長させている、もう一方の男の名は行天春彦(ぎょうてんはるひこ)。

独特のフラ(何ともいえぬ可笑しさを持つ落語用語)の律動感に乗せて喋る三十男には、見かけの相貌性の内奥に潜む「狂気」の突沸(とっぷつ)が、多田との再会のシーンで捨てられた包丁から、憎悪の対象人格であった親への殺意のイメージラインを想像し得るものだった。(これは、多田に語った行天の元妻の吐露のシーンで露呈されていた)

行天春彦(左)と多田啓介
行天の実存的欠損感覚のルーツの根深さは、この男の人生の再構築の可能性を困難にする印象を拭えなかったものの、多田との1年間近い「便利屋」稼業の物理的共存によって、心理的最近接を果たした後、二人の別離による物理的共存を解消する経緯を通過したことで、相互に「気になる他者性」の濃度を高めるに至り、このプロセスが、包丁を捨て切った男の「帰還」というラストカットに結ばれていったのである。

それは、幼児虐待のトラウマの克服という、行天春彦の実存的欠損感覚を埋める心象風景を必ずしも十全に検証しないが、少なくとも、実存的欠損感覚を埋めるに足る彼の旅程が、「気になる他者性」の濃度を決定的に高めた「相棒」との3度目の「出会い」の中で、過去に縛られ過ぎていた振れ具合の微調整を能弁に語るものだったと言えるだろう。

多田啓介と行天春彦。

この二人が内包する実存的欠損感覚の違いとは何だろうか。

それを私は、「疾走感」と「鈍走感」の相違というイメージで把握している。

多田啓介は、疾走することを捨てられない男である。

見えにくい未来に向かう「希望」を捨てていないからである。

希望を捨てている人間が、「相棒」救出のために疾走する訳がないのだ。

そんな多田の走りのイメージと切れて、行天春彦は、最後まで自分のペースを崩すことなく鈍走を繋ぐ男であった。

それは、自分のペースを崩すことを嫌う固有の性格に起因するというよりも、何か特定の目的のために、我が身を捨ててまで、疾走・激走することが叶わないというイメージの方に寧ろ近いだろう。

だから、本作の物語イメージを要約すれば、以下の文脈のうちに括られると、私は考える。

「疾走感」への「希望」イメージを捨てられない多田啓介の生き方と、まるで気の入っていない、「鈍走感」を繋ぐ時間に絡まれている行天春彦の生き方との対比の中で身体表現されていて、そこに仮構された関係の脆弱性が、物語の終盤に用意された一連のシークエンスのうちに昇華されていくということ。

大森立嗣監督
そして、このシークエンス(注1)こそ、作り手の主観的意図とは無縁に、そこに多くの「親子関係の歪み」のエピソードが幾つか拾われていたにしても(注2)、私には、「関係の希薄な時代状況下にあって、負のイメージに浸かった人生の再構築は可能か」という、それ以外に収斂しにくい、提示された主題への最も由々しき解答であると把握している

そのとき、まさに、「相棒」の屈折の一端を知るに至ったこと(注3)で、「ドラッグ漬けの狂気のストーカー」に狙われた行天の命を救わんとして疾走する多田と、命を狙われても、相変わらずゲーム感覚の乗りで、〈生〉と〈死〉の見えない危ういラインの際(きわ)を鈍走する行天の人生の様態が、鮮やかに浮き彫りにされているのだ。

愛情を相手にどうやって与えるのか、与えられるのか。自分が愛情をどう受け止められるのか。今の時代には難しく、やりにくくなったことを『まほろ』という架空の街で、彼らの中での自然体で上手くやっていくという感じです。映画の中では、お弁当屋さんに離婚の話をしたり、便利屋として依頼された仕事以上のことをするといったようなことが出てきますが、人を信頼する、お互いを認めるというような、人として大切なことを描きたかったんです」(大森立嗣監督インタビュー・映画エンタメ情報 シネマカラーズ)

因みに、これは、本作の作り手である大森立嗣監督言葉。

またしても、「愛情」という言葉のリピートには辟易するが、ここまでテーマの間口を広げてしまったら、邦画の射程に収まる過半の物語が該当してしまうので、結局、何も語っていないのと同義になってしまうだろう。

やはり本篇は、どう考えても、そこだけは充分な「間」をとって作画された、多田啓介と行天春彦の生き方の対比の中で、同様に深い心的外傷を抱えて生きる男たちの、「人生の再構築の可能性」についの物語であると言う外にないのである。

私はそう思う。



3  〈生〉と〈死〉の見えない危ういラインの攻防の物語



以下、「人生論的映画評論」の視座で書き添えたい。

実存的欠損感覚を持つ男たちが集合し、慰め合って魔法をかけ合っても容易に欠損感覚を埋められないだろう。

然るに、実存的欠損感覚を持つ男たちの頼りなき旅の果てに何も待っていなくても、何も待っていなかったという辛さの中に、この鈍い歩みをきちんと受け止めて、受け止めた場所から、なおフラフラした鈍い歩みを続けていくしかないのである。

実存的欠損感覚を持つ男たちの固有の足掻きから、ほんの少し勇気ある気分に届くには、足掻きを継続する執着心と言えるような何かが必要だからだ。

病人が病人を救うのは困難であるか、または、あまりに冒険過ぎるというのは、恐らく真実であるだろう。

しかし、そこに見えない磁力が作用したかのように、何となく集合せざるを得なかった、件の者たちの頼りなき旅の、そのフラフラした鈍い歩みを続けていく執着心が脆弱であっても、依然として、風景の霞んだ足掻きを継続することなしに、彼らの固有なる航跡を描いていくのは困難であるに違いない。

だから、ほんの少し勇気ある気分に届いたという幻想を推進力にして、その足掻きを継続せねばならないのだ。

それは、自らの弱さを執拗に補完する営為に、過剰なエネルギーを蕩尽することによって失われる時間の負の連鎖を、とりあえず休眠させる効果にはなるだろう。

それは、決して青春の特権ではない。

人は大抵、そのような醜悪さを晒さずに生きていけないのだ。

しかし大切なことは、その自己認知を、汚れの見えない浅瀬で済まさないことである。

 どれほど辛かろうと、それを存分に吐き出し、吐き出し尽くした果てに待機する未来像を朧(おぼろ)げに信じ、なお風景の霞んだ足掻きを継続するしかないのだ。

 それはもう、〈生〉と〈死〉の見えない危ういラインの攻防であると言っていい。

 本作もまた、この〈生〉と〈死〉の見えない危ういラインの攻防の物語であると言えるかも知れない。

 佳作である。


(注1)チワワを引き取ってくれた、コロンビア人娼婦への付け回し行為を止めないストーカーを殴り飛ばしたことで、この男から包丁を持って追いかけ回される行天の身を案じて、多田が「相棒」を救助するために疾走するというシークエンス。

(注2)見栄のために、我が子の夜間の送り迎えを「多田便利軒」に依頼する母と、その子の関係性の歪み。義母から金を毟(むし)り取る我がまま息子(件のストーカー)が、行天を刺傷した後、行方を晦(くら)ましても、警察に捜索願い出す義理の母親。この二つのケースが、「血縁を超える愛情関係」の是非の問題提示として、本作では象徴的に描かれていた。

(注3)この時点で、多田は行天の元妻から、精子提供のための形式的な結婚するに至った事実。そして、幼児虐待された過去を持つ行天が親殺しを考えていたこと。更に、製薬業界の営業マンだった男が、突然職を辞しながらも、僅かな金をその元妻に送り続けていた事実、等々。

(2012年11月)

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