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2016年8月30日火曜日

未来を生きる君たちへ(’10)   スサンネ・ビア


左からモーテン、アントン、エリアス、クリスチャン
「やられたら、やり返す」 ―― それは、人類が本能的に獲得してきた「生き延び戦略」の結果である





1  暴力・復讐・悲嘆・許し・親愛・友情・理想・喪失 ―― 二つの家族が交差し、負ったものの重さ 





デンマークの海沿いの町に住むエリアス少年。

そのエリアス少年は、地域医療に従事する内科医の母・マリアンと、年の離れた弟・モーテンと暮らしているが、アフリカで、「国境なき医師団」を彷彿とさせ、難民キャンプに避難している人々の治療に奔走する外科医の父・アントンがいる。

尊敬する父・アントンのキャンプには、胎児の性別を当てる賭けのために、妊婦の腹を切り裂き、それをゲームとして愉悦する、「ビッグマン」と呼ばれる悪逆非道の男がいて、連日のように、アントンは「ビッグマン」の犠牲者たちの手当てに追われていた。

その父・アントンが、久しぶりに母国の地に帰って来る。

エリアスとクリスチャン
「完全無欠」の人格者と信じて止まない、父との再会に胸躍らすエリアスは、「ネズミ顔」と呼ばれるいじめられっ子であるが、英国からの転校生・クリスチャンの出現によって、周囲の人間関係に変化が生まれる。

そのクリスチャンは、末期癌に苦しむ大好きな母の死で、対象喪失の悲哀の極点にあった。

「自慢の息子だ。ママもそう思うよ」
「もういいよ、パパ」
「もっと話をしよう」
「僕なら大丈夫」

母の葬儀で、アンデルセンの童話の一節(「夜鳴きうぐいす」)を朗読する、気丈なクリスチャンと、彼の父・クラウスの短い会話である。

一方、自転車のタイヤの空気を抜かれるいじめの横行で、学校から転校を求められ、それに強く反発するエリアスの母・マリアンは、いじめのリーダーがソフスである事実を告発するが、「両親とも別居していて、うまくいっていないようだし」と言われ、激昂するばかりだった。

妻を諫(いさ)めるのは、温厚な性格のアントン。

その日もまた、「スウェーデン人」とバカにされていたエリアスを遠目に見て、やり場のないクリスチャンの悲哀が、思春期前期の攻撃性を推進力にして、特定他者に向かって一気に亢進し、尖り切った行動に変換するのは必至だった。

それが、エリアスのクラスの不良グループのリーダー・ソフスに対し、ナイフを手に持ち、激しい暴行を加え、大怪我を負わせる事態を惹起する。

この一件は警官が介入する事件にまで進展し、二人の親を巻き込むが、肝心のクリスチャンだけは、「やり返さなかったら、皆に殴られる」と父に反発する。

「戦争はそうやって始まる」とクラウス。
「最初が大切なんだ。パパには分らない。どの学校も同じさ。これでバカにされない」とクリスチャン。

クラウスとクリスチャン
その是非の問題をスルーすれば、クリスチャンの物言いは的を射ていた。

そのクリスチャンと違って、アントンを「理想の父親像」と慕うエリアスの強い思いが、夫婦関係がうまくいかない両親との距離感を歪めさせていた。

「私たちは自慢の夫婦だと信じてた。簡単に離婚する夫婦とは違うという自信があった。愛し合っていると」
「今もそうだよ」

その両親の、携帯での会話の断片である。

浮気したことで謝罪するアントンと、それを受け入れ切れないマリアンとの落差は、容易に埋められないようだった。

アントン(右)とラース
エリアスの弟・モーテンがブランコの取り合いで、他の子供と争いとなっている現場に立ち会ったアントンが、相手の子供の親・ラース(車の修理工場の経営者)から、一方的に平手打ちに遭うというトラブルが起こったのは、この直後だった。

相手の親に無抵抗だったアントンに、不満を持つクリスチャンとエリアス、モーテン。

「怖いの?」
「そうじゃない。やたらに人を殴るなんてよくない。それでは世界はおかしくなる。奴はバカだ。殴り返せば、私もバカだ。刑務所行きで父親は不在。奴の勝ちだ」

父と長男の会話である。

その後、クリスチャンとエリアスを随行させ、「奴はバカ」と言い切ったラースの車の修理工場を訪ねるアントン。

「殴った理由を知りたい」とアントン。
「俺の子に触るから。スウェーデンへ帰れ。お前の言葉は理解できない」とラース。
「腕力に自信があるから、私を殴った」
「そうだ」
「君みたいな愚か者は、暴力で人を支配するが…」

そこまで言った瞬間に、今度は、ラースの左手がアントンの頬を強く叩いた。

「君が怖くないと、子供たちに見せたい。君は私を傷つけない」

暴力を振るわれても、アントンはラースの修理工場を訪ねた理由を話すのだ。

更に、相手の愚かさ加減を指摘するアントンに、ラースの暴力は止まらない。

「奴は殴るしか能がない。負け犬の大バカ野郎だ」

連れて来た3人の子供に、そう言い聞かせるアントン。

このエピソードの直後、アフリカに戻るアントン。

一方、アントンの説明に納得できないクリスチャンは、消極的なエリアスを無理に誘い込み、祖父が残した作業場で、花火用の火薬を使って爆弾作りにのめり込んでいく。

目的は、ラースへの仕返しである。

そんな中で、クリスチャンと付き合うようになって、エリアスに変化がみられることに不安を持った母・マリアンは、クリスチャンの父・クラウスに相談に行く。

ナイフの一件で、クラウスはクリスチャンに説諭するが、全く聞く耳を持たない息子。

「パパは大ウソつきだ!ママも分ってた」
「ママが生きてたら、すごく悲しむぞ。なぜ、こんな仕打ちを。パパが何かしたか?」
「誰とキスしてもいいけど、善悪を説教するな!ママを死なせた。パパが見放したから死んだ」

「善悪を説教するな」とまで言い切る、クレバーなクリスチャンは、自分の母に延命治療をしなかった父を非難してるのだ。

そんな折、アフリカの紛争地域では、由々しき事件が発生する。

アフリカの紛争地域でのアントン
相変わらず、「ビッグマン」の犠牲者たちの手当てに追われるアントンは、武装した兵を連れ、感染症で化膿してい足の治療を求めにキャンプにやって来た、「ビッグマン」の治療を、周囲の反対を押し切って遂行する。

「医師として、最善を尽くすだけ」
「ここでは皆、殺される。男も女も子供も。俺がやらなくても、誰かが殺す」

アントンと「ビッグマン」の会話は、当然の如く、全く噛み合うことはない。

その「ビッグマン」の犠牲となった女性の死を凌辱した男に対する、アントンの理性的対応は遂に切れてしまい、治療を終えた「ビッグマン」の私兵たちをキャンプから追い出した。

丸腰になった「ビッグマン」を、彼を憎む難民たちの怒りが炸裂し、なぶり殺しにしてしまうのだ

それを目視するアントンの心は、自分が犯した矛盾に煩悶するばかりだった。

のアントンに、スカイプを活用した国際電話で、エリアスは爆弾作りの計画を話そうとするが、「ビッグマン」の一件で、すっかり疲弊し切っていたアントンの反応は要領を得ないものだった。

かくて、遂行される爆弾事件。

しかし、路上駐車していたラースの車に爆弾を仕掛け、導火線に点火して走り去るが、折り悪く、爆発の直前に、ジョギング中の母子が車に近づいて来ることに気づいたエリアスは、咄嗟に飛び出し、その母子を救おうとしたが、思わぬ悲劇が出来する。

爆風を直撃したエリアスが被弾してしまうのである。

あってはならない事故を目の当たりにしたクリスチャンは、狂ったように叫び続ける。

同様に、マリアンが受けた衝撃は甚大で、大怪我を負ったエリアスの面会に来たクリスチャンを、「息子を殺した。甘やかされた問題児が。他人の命まで支配できると思って!出てって!」と叫び、追い返してしまう。

幸いにして命の別条はなく、後遺症もないことを担当医から知らされ、安堵するマリアン。

急遽(きゅうきょ)、アフリカから戻って来たアントンも、言葉を発することができたエリアスを見て、様々な思いを巡らせていた。

アントンとマリアン
自分の浮気によって妻を苦しめていた過去を深く反省し、離婚の危機にあった二人の関係は修復されていく。

一方、息子が犯した犯罪によって煩悶を深めたのは、クラウスだった。

「妻が気の毒で、辛かった。どうすれば元通りになれるんだろう。クリスチャンは…可愛い息子だ」

そのクリスチャンが失踪し、心配するクラウス。

エリアスとの秘密の場所である埠頭(ふとう)のビルの屋上に上り、クリスチャンは自殺を図ろうとする。

クラウスから相談を受けたアントンは、埠頭のビルを知っていたので、屋上に上り、エリアスが無事であることを伝え、クリスチャンの自殺を食い止める。

この辺りが、いかにもハリウッド的な「奇跡の救出譚」の出来過ぎの展開に、些か引いてしまうが、総体的には悪くない。

「ママが恋しい・・・」
「生きてる者と死者の間には、見えない“幕”がある。愛する人や親しい人を失ったときに、その幕は取り去られる。死を見るんだ。とてもはっきりと、でもほんの一瞬だ。その後、幕は元の場所に戻り、私たちは生きていく。以前と変わらずに」

嗚咽しているクレバーな少年に、難しい人生の問題の一端を語り、少年を救うアントン。

ビルの下で待っていた父と、力強く抱擁を交わすクリスチャン。

少年は決定的に救われたのだ。

エリアスとクリスチャンの友情も、二人が成長した分だけ復元する。

ラストシーン。

アフリカに戻り、難民キャンプの子供たちから歓迎を受けるアントンがいた。





2  「やられたら、やり返す」 ―― それは、人類が本能的に獲得してきた「生き延び戦略」の結果である





主題が先行し、状況が作り出され、そこで翻弄される者たちの心理を精緻に描いた秀作。

とても良い映画だった。

以下、この映画、観る者に問いかけらた厄介な問題に対する、私なりの答えを提示したい。

ここでは、理不尽な暴力に対する、「非暴力・不服従」という観念体系の問題にテーマを特化して、考えてみたい。

レビューに目を通したら、「やられたら、やり返す」という言葉が、あまりに綺麗事に使用されていることに、正直、違和感を覚え

W.D. ハミルトン
「やられたら、やり返す」 ―― それは、人類が本能的に獲得してきた「生き延び戦略」の結果であって、人間が進化的に手に入れた「包括適応度最大化」(生物の利他的行動を進化の観点から説いたW.. ハミルトンの仮説)の産物でもある。

そのことは、「やられっぱなし」の状態を放置していたら、「強い者勝ち」の状況を許容してしまう現実が跋扈(ばっこ)することを意味する。

「やられたら、やり返す」ということは、必ずしも、身体的暴力を肯定するものではないのだ

例を挙げてみよう。

なぜ、ノーベル平和賞を受賞していないガンジーが、「マハトマ」(偉大な魂)という尊称を受けたのか。

「非暴力(アヒンサー)」という、古代インドの宗教に共通する重要な思想の理念でありながら、「無抵抗主義」とは全く無縁な「不服従」という観念体系を有し、それが人々を動かし、且つ、動かした人々との協力によって、歴史を変えるパワーを持ち得たからである。

しかし、「非暴力・不服従」という観念体系の具現が、歴史を変えるパワーを持ち得たのは、ある意味で、様々な偶然性の集積であると言える。

独立運動を戦う相手国が、戦勝国であっても、国力の衰退が顕著であり、まして、本国から遠く離れているばかりか、3億5千万の人口を抱えるインドという人口大国を、高々、10万の英国人が統治することの難しさに直面していた英国であった事実。

これが大きかった。 

そして、露骨な帝国主義的政策を受容しないような国際的世論が形成されていた、「時代状況」という妖怪の凄み。 

これも大きかった。

加えて、ガンジーの「非暴力・不服従」という観念体系が、土着商品の愛用奨励(スワデーシー)による英国製の綿製品の不着用の呼びかけや、英貨排斥(イギリス商品のボイコット)、そして、アフマダーバードからダンディ海岸までの380kmに及ぶ「塩の大行進」、等々に代表されるガンジーの戦略・戦術(第一次、及び、第二次「非暴力・不服従運動」)は、恐らく、それ以外にない有効な方略として、まさに絶妙のタイミングで遂行されていったのだ。 

このガンジーの戦略・戦術は、主に、米国のジャーナリストを介して国際的世論を動かしたのである。

これが最も大きかった。

「やられたら、やり返す」という、人類が本能的に獲得してきた「生き延び戦略」が、必ずしも、身体的暴力を肯定しない典型例が、ガンジーの「非暴力・不服従」という観念体系のうちに体現されているのである。

その「非暴力・不服従」という闘争戦術を受け継いだ、キング牧師が主導した公民権運動が一定の成果を収め、良かれ悪しかれ、「アファーマティブ・アクション」(積極的差別是正措置)に繋がったのも、運動の背景なった国家が、今なお様々な問題があるにしても、20世紀に、WTO(世界貿易機関)・市場経済と共に、「自由民主主義」という世界システムを確立した国民国家・アメリカであった事実と無縁ではないだろう。

然るに、この「非暴力・不服従」という闘争戦術が、ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党)に通用するのか。

水晶の夜事件
「水晶の夜」(クリスタル・ナハト)で襲撃、放火されたユダヤ人のインテリ層が、当時、ナチスの意図をほぼ正確に見抜いていたにも拘らず、危機脱出に緩慢だったユダヤ人がいたことが示すのは、「正常性バイアス」(都合の悪い情報を過小評価する傾向)の心理で説明可能だが、それでも、まさか、組織的なホロコーストの断行までは、多くのユダヤ人の想像の域を超えなかったに違いない。

この世の中には、「非暴力・不服従」どころか、完全に無抵抗であっても、全く通用しない国民国家がゴマンとあるということだ。

「非暴力・不服従」の典型的ケースとも言える、チベット僧の焼身自殺が多発しても、消火したあと、なぶり殺しにする、共産主義を政治的思想にする国民国家が、この世にある現実の理不尽さ。

そこには、一方的に「やられっぱなし」の状態が続き、「やられたら、やり返す」という、人類が本能的に獲得してきた「生き延び戦略」すらも無化されてしまっているのである。

ケネス・ウォルツ
残念ながら、この世には、一方的な暴力の攻勢に対して、相手の暴力と均衡を保持することでしか、「相対的平和」 (極端に言えば「相互確証破壊」) を確保し得ない現実が存在するのだ。(米国の国際政治学者・ケネス・ウォルツ提示した、「ネオリアリズム」という国際関係論でもいい)

この問題は、基本的に、いじめのケースでも同じこと。

ピアプレッシャーの心理の影響下で、自己解決能力を持ち得ない子供の集団内にあって、「やられたら、やり返す」という有効な選択肢が解体され、「抵抗・不服従」の機能を失った特定の子供に対して、私たち大人は「我慢しろ」と言えるのか。

一方的に「やられっぱなし」の状態を、件の子供に求めるのか。

その状態を放置しておくならば、相当程度の確率で、件の子供への暴力的攻勢は、いよいよ膨張し、自我が壊された挙句、その子供が自死する悲劇を防ぐことは困難になるだろう。

ここではっきり言えるのは、この状態の放置が、人類が言語獲得以前から確保していた「道徳的怒り」の感情を放棄することになるのだ。

それは「不正義」の許容になる。

「正義」(JUSTICE)とは、「社会正義」(SOCIAL JUSTICE)の視座で考えれば、「公正」の観念をコアにした、「ルールに守られ、秩序を維持し得る状態」。

これが「正義」である。

いじめの問題で呼ばれるエリアスと両親
従って、「ルールなきアナーキーな状態」の放置こそ、「不正義」の本質である。

だから、自己解決能力を持ち得なかった子供には、何某かの形で、大人の介在を求める義務を課す。

切要なのは、その義務をルール化することである。

罰則規定のない条例化・法制化を整備し、教育機関で徹底的に情報の共有を図り、ごく普通の日常性として浸透させていくことである。

映画の中のエピソードとして、私が想起するのは、ラースに対するアントンの反応である。

「奴は殴るしか能がない。負け犬の大バカ野郎だ」と答えたアントンが守ったのは、「プライド」という個人レベルの自己満足であるということ。

やられっぱなし」のエリアス
しかも、「殴られても痛くない」と言い切ったアントンの言葉には嘘がある。

殴られて痛くないなどということは、常識的に考えられないからだ。

それは、「暴力で受ける身体的苦痛」を一般化する発想であって、本質的に、相手の暴力に対する行為が、「非暴力・不服従」の観念体系を絶対化するものであって、それを全く自覚できない相手の行為を認めさせる危うさを含むものである。

連れて来た3人の子供に言い聞かせるアントンに、「でも、自覚してない」と答えるクリスチャンの正当な反応に、「だが、愚か者だ」という答えしか持ち得ないアントン。

要するに、そんな「愚か者」に対する、「的確・適正・公正」で、「本質的」な答えを持ち得ないアントン矛盾が露呈してしまうのである。

アントンの「非暴力・不服従」の観念体系をエリアスに当て嵌めることが、何を意味するの考えてみれば瞭然とするだろう。

やられっぱなし」の状態を放置することを意味するのだ。

やられっぱなし」の状態を、「非暴力・不服従」という観念体系で合理化するのは、矛盾がないのか。

ビッグマン
アントンの「非暴力・不服従」という観念体系が脆弱なのは、「非暴力・不服従」が通用しない「ビッグマン」への「道徳的怒り」の感情を抑えられず、遂に、キャンプ地の難民たちによる殺害行為に及んだエピソードによって瞭然とするだろう。

「非暴力・不服従」だから、自分では殺せない。

「ビッグマン」への憎悪が激しい難民たちを使嗾(しそう)するかの如く、アントンがビッグマン殺に加担した事実は否定しようがないのだ。

だったら、最初から、「ビッグマン」の治療を拒絶し、持ち前の「非暴力・不服従」という観念体系で闘えばいいこと。

しかし、その行為は、「殴られても痛くない」という範疇を超えているから、自分の命だけは差し出せないということか。

やられっぱなし」の状態を、「非暴力・不服従」という観念体系で、一切を合理化する行為の矛盾が、そこに垣間見えるのである

ここで、議論を本質的な問題に収斂させたい。

「やられたら、やり返す」という「報復性」の問題を考える上で非常に興味深いのは、ゲームの形で一般化した「ゲーム理論」である。

その「ゲーム理論」(自分の得点を高くするにはどうするか、という手立てを求める数学理論)の一つに、「囚人のジレンマ」という有名なゲームがある。

「囚人のジレンマ」とは、二人の人間(囚人)に、「協力」か「非協力」かという二つの選択肢が与えられた際に、自己の利益を最大化するような非協力行動を選択した方が好結果を得られるが、しかしそれは、双方の囚人に該当することであって、双方の囚人非協力行動を選択した場合、却って、双方ともに望ましくない結果が生じる状態(ジレンマ)が生まれるというゲームである。

この囚人のジレンマ状況の中に、ロバート・アクセルロッド(アメリカの政治学者)が実験した、「応報戦略」という名の「しっぺ返し戦略」ある。

この囚人のジレンマ状況で、いかにして、「互恵的利他関係」が達成・維持されるかを理解するための戦略である。

まず、ゲーム理論に関わる研究者を、繰り返し、囚人のジレンマ状況での戦略選手権に招待する。

応募された戦略を総当たりで対戦させ、その得点を比べたら、優勝したのは、初回は協力し、それ以降は、相手が前回に選んだ選択を模倣するという戦略だった。

これは、応募された戦略の中で最も単純な戦略であり、「応報戦略」として広く知られるようになった。

多くの批判を受けていることを承知で、ロバート・アクセルロッドは、「応報戦略」の強さの秘訣として、次の4つの特徴を挙げている。

 「上品さ」(自分から進んで非協力を取らない)

 「報復性」(相手が非協力を取ったら、即座に非協力で返す)

 「寛容さ」(かつて、非協力を取った相手でも、再び協力してくれれば、すぐに許してやる)

 「分りやすさ」(前回の相手の取った手を、そのまま返す「応報戦略」は、その行動方針が相手に分る)

従って、「上品さ」と「寛容さ」を備えているので、「応報戦略」は協力的傾向を持つ戦略と相互協力を達成しやすい(相手は非協力よりも、相互協力を達成する方が、得点が高くなる)ことが分る。

しかし、その一方で、その「報復性」の故に、非協力的な戦略から簡単に搾取されることがない。

また、その「分りやすさ」のために、「応報戦略」と対峙する相手は、「応報戦略」に付け入る隙がないこと、更に、「応報戦略」を上手に実行しようと考えれば、自分も協力するしかない現状が、逸速(いちはや)く理解できるのである。

つまり、「囚人のジレンマ」に陥った状況下で、最も高い得点が得られる「応報戦略」の有効な理由は、相互協力を達成しやすいことと、非協力的な戦略の搾取を許さない点にある。

これが、「応報戦略」という方略の最大、且つ、合理的な戦略である所以なのだ。

そして、この「応報戦略」は、「人の善意は信じるが、やられたらやり返す」という対他戦略と、基本的に同質の構造性を持つということ。

更に言えば、智略を駆使した「やられたらやり返す」という対他戦略が、「やられっぱなし」の状態を放置することで生じる「独裁者利得」を押し返す、私たち人類の進化の産物であること。

この一点に尽きるだろう。

人類の進化の知的過程の産物としての、このように複雑で、リアル構造性を理解することなしに、綺麗事満載の情感的な物言いで、人間の複雑さを簡便に処理することだけは止めた方がいいと思う。

【ここまで読んで頂いて、心から感謝します】

【参考資料】 社会心理学(北村英哉・大庸介著 有斐閣アルマ 2012年、P156-157)  (人生論的映画評論 「ガンジー」より 

(2016年8月)


2 件のコメント:

  1. こんにちは。
    学生の頃に学ぶ、ガンジーの「無抵抗主義」。
    「非暴力・不服従」と分解分析した時、「不服従」が抵抗であり、戦いだったと捉えられるということでしょうか。
    【「やられたら、やり返す」という観念が、必ずしも身体的暴力の肯定ではない】つまり、不服従という行為に、やり返すという能動的な反応を込めるという事でしょうか。
    少し私には分かりづらいところもありましたが、確かに、「不正義」のもとで裁かれる人間の気持ちは辛いと思います。実際、会社というのは秩序を守る力学が上から下に働いているので、上が「ルールなきアナーキーな状態」だと、本当にきついです。

    しかしその不正義の元でも、不服従という能動的なアプローチで現状を打破出来るかもしれない。
    うーん、確かにそう思う事もないですが、その正義か不正義かの判断を私が正しく判定出来ているのかの煩悶が生まれてしまい、つまりそれほどには自分に自信がないので、私は不服従ですら体現する事が難しい状況にあります。
    日本人に多い、優柔不断な人間という事です。

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    1. コメントをありがとうございます。
      マルチェロヤンニさんのおっしゃる通り、「非暴力・不服従」=「無抵抗主義」ではありません。そして、「非暴力・不服従」の戦いは、とても困難なものです。一切はケースバイケースで、相手の出方に応じて、フレキシブルに対応していくことこそが肝要なのであって、それが、状況に応じて反応する「応報戦略」の本質だと思います。
      私が本稿で書きたかったのは、「やられたらやり返す」という言葉が、「際限ない暴力性」というイメージでラベリングされている現実に対して、些かアカデミックに異議申し立てをしたいという一点にあります。無為無策こそ、状況を悪化させる最悪の選択肢であると考えています。

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