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2013年4月11日木曜日

愛の嵐(‘73)         リリアーナ・カヴァーニ



<男の「加害者性」によって被弾した女の、明瞭な「被害者性」の残酷の極点>



1  地獄を通過して来た者の健全な復元は困難である



これは、加害者であれ、被害者であれ、「地獄を通過して来た者の健全な復元は困難である」という問題意識の下、本来、特化された「狂気」の空間で死ぬべきはずだった男と女が、時代が移ろっても、空洞化された魂に何も埋められず、ただ漫然と生き長らえている心的状況下で、運命的な再会を果たしたことによって化学反応を起こし、彼らの「遅すぎた死」に追いついていく物語を、一貫して、頽廃的な映像イメージの内に描き切った秀作である。

絶対的な「権力関係」しか存在しない強制収容所の、その出口なき閉塞状況下で、感受性が最も昂ぶる青春前期の身体の総体に、否応なく刷り込まれた倒錯的な性愛によって、その後の人生のクリアな導入口を塞がれてしまった女がいる。

そして、その女に、倒錯的な性愛を刷り込んだ男がいる。

しかし、男と女の権力関係を支えていた、拠って立つ絶対的な国民国家の物語が自壊したとき、女は解放され、男は地下に潜った。

逼迫した状態下で、地下に潜った男が依拠した物語は、「栄光のナチズムの復興」を唱導する男たちの、愚昧なる時代錯誤の秘密組織だった。

旧ナチス党員の逃亡支援のために結成されたと言われる、SS(親衛隊)の残党組織 ―― 「オデッサ」である。

ここで注意すべき点は、「オデッサ」の本質が、「栄光のナチズムの復興」という幻想になく、ただ単に、自らが犯してきた人道犯罪を否定することで、「神」からの罰を免れる程度において、自我が「贖罪意識」に捕捉される心的行程を屠ってしまう防衛戦略にあるということ ―― これに尽きるだろう。

その「オデッサ」と思しき組織に形式的に潜入するだけの男の人生は、深い冥闇(めいあん)の森の中で、自らを投げ入れるべき「物語」を抱懐し得ないニヒリズムに捕捉されていて、その魂には、生気の欠片を見出すことが難しかった。  

「僕は敢えて、ドブネズミの人生を選んだんだ。夜、働くには訳がある。光だよ。私には、光が眩しいんだ」

男が依拠した秘密組織に吐露した言葉こそ、魂を吸い取られた男の人生の、寒々しい風景の弾力性なき様態だった。

オペラ指揮者夫人のルチア
クリアな人生の導入口が塞がれた女もまた、「解放感」という心象風景には、とうてい繋がり切れない、ただ漫然と、アッパーミドルの生活を形式的に謳歌する境遇を手に入れただけで、空洞化された魂の立脚点と化すような、生気が宿るような彩りとは無縁であった。

男の名はマクシミリアン(マックス)。

元ナチス親衛隊の高級将校である。

現在は、ウィーンの2流ホテルのポーターとして、隠れるように身過ぎ世過ぎを繋いでいる。

青春前期のユダヤ人の少女の名は、ルチア。

現在は、高名なオペラ指揮者の夫人に収まっていた。



2  特化された「狂気」の空間として機能した、強制収容所の爛れ切った生態



特化された「狂気」の空間として機能した強制収容所で、何が起こっていたのか。

映像が、冒頭近くから、ルチアのフラッシュバックとして映し出したのは、遊園地の回転ブランコに乗って燥(はしゃ)ぐ子供たちを、まるでゲームの如く、マックスと思しき親衛隊員が標的にして銃撃するシーン。

このシーンとクロスカッティングされたのは、回転ブランコの餌食にされなかったルチアを、マックスが入所検査の場に立ち会って、執拗に8ミリカメラに収めるシーンだが、美少女のルチアに眼をつけた最初の「出会い」でもあったとも思われる。

ゲームの如く子供たちを虐殺する行為と、入所検査の場でルチアをカメラに収めるマックスの常軌を逸した振る舞いは、彼の性的嗜好の爛れ切った生態を露呈するものだった。

そして、極めつけは、強制収容所でのSSの破廉恥なパーティーのシーン。

ナチの軍帽を被り、サスペンダーで吊ったズボンを穿いて、上半身裸になった少女ルチアが、まるでヌードショーを披露するように、物憂げな声で歌うのだ。

歌の名は、「望みは何と訊かれたら」。

何が欲しいと聞かれれば
分らないと答えるだけ
良いときもあれば
悪いときもあるから
何が欲しいと聞かれれば
小さな幸せとでも言っておくわ
だってもし 幸せ過ぎたら
悲しい昔が恋しくなってしまうから

本作で、ここだけが特化された絵柄として、あまりに有名なシーンである。

そして、SSの連中を愉悦させた、強いられた「ワンマンショー」の報酬が返ってくる。

イエスへの洗礼で知られる、洗礼者ヨハネの首を求めたヘロディアの娘・サロメの逸話(マルコ・マタイ・ルカによる福音書ほか)をなぞるように、普段から苛めの被害に遭っていたと訴える、少女ルチアの困惑に反応したマックスが用意したのは、収容所内の男の首であったという、頽廃の極致の風景が止めを刺すに至る。

「地獄に堕ちた勇者ども」より
それは、「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年製作)における幼女姦のシーンに象徴される、怠惰と頽廃を極めた突撃隊(SA)を粛清(長いナイフの夜)したSSもまた、頽廃芸術(ドイツ表現主義等)を批判するナチスの権力が揺るがなくなるプロセスに沿うように、その懐の内部での爛れの相貌を剥き出しにするエピソードでもあった。

絶対的権力は絶対に腐敗する。

まして、生殺与奪の権を一方的に掌握する者と、一方的に掌握される者との関係である「権力関係」が下降されていくほど、強制収容所という、特化された「狂気」の空間で形成された両者の関係は、限りなく絶望的に堕ちていく頽廃性を曝すだろう。

この生殺与奪の権を一方的に掌握するマックスの性的嗜好の暴走によって、否応なく刷り込まれた倒錯的な性愛の餌食にされたのが少女ルチアであるが、それが命の代償になることで、ただ一人、この少女だけが生還を保証されたのである。

加えて、少女期に刷り込まれた倒錯的な性愛が、児童性的虐待に限リなく近い、一種の「性化行動」(不適切な性的関心や性的行為を示す)を顕在化させて、いつしか、その暴力性は、もう、それなしに済まない「快楽」を随伴させてしまっていた。

それが、少女ルチアの強いられた「ワンマンショー」の中で、「被害者性」を希釈化される印象を視覚的に与えるほどに反転され、シャッフルされていたのである。

思うに、緊張と興奮感の強度によって、倒錯的な性愛による「快楽」が、脳の記憶にベッタリと張り付いてしまったら、その「非日常の日常」の時間の累加の中で、「被害者性」を希釈化された少女の未成熟な自我は、「性依存症」に嵌っていく泥沼のトラップから解放されにくくなるだろう。

性的対象に依存している、「非日常の日常」の時間の累加は、脳内から放出される快感物質の故に、生殺与奪の権を一方的に掌握される不安から、一時的に逃避できるメカニズムの形成を必至にするのだ。

これが、特化された「狂気」の空間として機能した強制収容所の、存分に爛れ切った風景の様態だった。

少なくとも、観る者に提示した映像イメージは、以上の文脈に収斂されるもの以外ではなかった。



3  男の「加害者性」によって被弾した女の、明瞭な「被害者性」の残酷の極点



そんな男と女が運命的な再会を果たしたことで、抜け殻のような、それぞれ人生の空洞を埋めるに足る肉欲的な同化・融合を果たしていく。

「あなたが欲しい」

女の言葉である。

「忘れた過去が、再び戻った」

女の客室から出て来たときの、男の言葉である。

強制収容所という名の、絶対的な「権力関係」の中で刷り込まれた異常な性愛の倒錯感が、この運命的な出会いによって劇的に復元したとき、男と女は、二人の交叉を禁じた「オデッサ」と思しき組織によって、有無を言わさず、出口なしの絶望的な閉塞状況への潜入を強いられていく。

秘密組織にとって、強制収容所という、特化された「狂気」の生態を知るルチアの出現は脅威であるが故に、当然の如く、抹殺すべき対象以外ではなかった。

それが、彼らの「組織防衛」という名の、自己防衛の醜悪なるルールの実態なのだ。


映画 「オデッサファイル」より


元SS隊員たちによって構成される、秘密組織の醜悪なるルールを知るマックスは、逃亡の困難な状況下で、ホテルのポーターの職を辞し、ルチア共々、自分のアパートに「籠城」する。

そのルチアの鎖を外したマックスには、こんな絶望的な「作戦」しか持ち得ないのである。

この異様な〈状況性〉の相貌は、自由社会に変容したはずの戦後体制においてもなお、かつて、ナチスが作った強制収容組織の、極私的なミニ宇宙と言っていい。

二人は、戦後十数年を経て、再び、外部から途絶した強制収容スポットの、極私的なミニ宇宙を仮構してしまったのである。

そこに形成された「権力関係」には、生殺与奪の権を一方的に掌握した男の暴力性と切れていた分だけ、倒錯的な愛の炸裂が、閉鎖空間を自在に暴れるに至ったのだ。

「いつ、終わるの?」
「終わらせたかったら、警察に行け」

外出すらも儘ならない状況下で、食の供給が断たれる危機に陥ったことで、僅かに手に入れた食糧を貪りながら、倒錯的な愛をも貪り合っていく。

人間の「生得的解発機構」(「本能」)の自在な振れ合いが底割れしつつも、それでもなお、このミニ宇宙の強制収容スポットは、闇の中での倒錯的な愛を繋いでいく。

しかし、肉体的な衰弱がピークアウトに達したとき、二人は、かつてそうであったような「権力関係」をトレースした出で立ちで、朝靄に包まれる黎明の時間の中に、その身を解放していくのだ。

その身を解放した男と女が、秘密組織によって呆気なく銃殺されてしまったのは、ドナウ川に架かる橋梁を渡っているときだった。

それは、彼ら自身が望んだ、それ以外にない選択だった。


王宮からドナウ川を望む・ブダペスト(イメージ画像・ウィキ)
彼らの「道行」の形象が語るものは、本来、〈生〉と〈死〉の極限の世界を揺動した、強制収容所という名の、出口なき絶望的な閉塞状況下で、自己完結すべき運命を負った、その約束された〈死〉に、遅ればせながら、今、ようやく追いついたというイメージを残す何かであった。

蠱惑(こわく)的な臭気を暴力的に嗅ぎとられた挙句、人格の総体に否応なく性的倒錯を刷り込まれて、辛うじて、命を永らえることを保証された女と、確信犯的な残酷を心地良く弄(もてあそ)ぶ時間の渦中に、一回的に自己完結することで、既に、「戦後」への身体の延長を予約していない男には、無意識裡に約束された〈死〉の世界への、心身の投入の接合点だけが待機していたと言えるのだ。

彼らには、「戦後」は存在しなかったのである。

だから、「戦後」の生気なき、空洞化された魂の揺曳は、最後まで、自らが拠って立つクリアな物語に繋ぐことができずに彷徨するだけだった。

彷徨するだけの人生は、充分にそれだけで、彼らの〈生〉に新たな息吹を吹き込む心理的根拠を失っていた。

彼らの人生は、絶対的な「権力関係」によって仮構された時空の中で自己完結してしまっていたのである。

彼らの運命的な出会いは、単に物理的に呼吸を繋いでいただけの人生に、なお、彼らの身体が記憶した倒錯的な性愛によって復元していく幻想を、束の間放っただけで、それは運命的な徒花(あだばな)でしかなかったのだ。

―― ここで、私は省察しつつ、確認したい。

戦後、それぞれの〈生〉を繋いでいたマックスとルチアが再会した後、女を貪る男を受容し、寧ろ、それを積極的に求めていく女の性的嗜好性の様態が描かれていたことで、そこに「道行」に流れていかざるを得ない、絶望的な「愛の共犯性」を印象づけるからと言って、生殺与奪の権を掌握した男との間に、暴力的に結ばれた「権力関係」の只中で、児童期をほんの少し脱したばかりの少女の心身に、倒錯的な愛を刷り込んでしまった男の「加害者性」と、それによって被弾した女の、明瞭な「被害者性」を、私たちは峻別せねばならないということである。

そこにこそ、「被害者性」の残酷の極点が寝そべっているのだ。

このような由々しき把握なしに、私たちは、この二人の爛れ切った愛の様態を、その「共犯的関係性」のうちに結んではならないということ ―― これに尽きるだろう。

どこまでも、二人の関係は、出口なしの絶対的な「権力関係」が分娩したものであって、それ以外ではないのだ。



4  心身いずれも生還できなかった不幸の極致



映画夜と霧」より
「すべての囚人がそうだと思いますが、いまだに完全な開放感はない。収容所の恐怖感を引きずりながら、現在の生活と比較して考えてしまう。そのあまりにも違うギャップに苦しい気持ちになる。収容所で受けた苦しみによる障害者ということです。いつも何かに脅えたりこだわったり。自らの内側と外側の葛藤に悩んでいる」(「夜と霧」をこえて ポーランド・強制収容所の生還者たち 大石芳野著 日本放送出版協会より引用・ブログから転載)

「私には生きる喜びがない。常に収容所時代のことがあり、日常的な生活が普通の人のようにできにくい。私もかなりの変人です。私たち元囚人が集まると皆同じ感じ方をしている。そして、いつもそのことが問題になる。元囚人同士の理解と、一般の人の理解とは違う。それが皆いちようの感じ方です」(同上)

「私の息子にも孫にも、私が収容所にいたことによる弊害が認められるのです。神経過敏、不安、恐怖感、集中力の低下、周囲の環境に順応できない。絶え間ない自己分裂といったものがある。こうした弊害が原因でしょうか。息子は離婚しました。心臓外科医なのだが進むべき方へ向かわないで軌道から離れてしまう。孫は少しの物音にも異常な反応を示す。どれも皆私のせいなのです。1941年8月から私はこの病気にかかり始め、そして49年に生まれた息子に影響を及ぼし、さらに73年、76年生まれの二人の孫にまで影響を引きずったのです」(同上)


解放されたダッハウ強制収容所の囚人(ウィキ)
これらの報告を読む限り、強制収容所からの生還者が、如何に自分の〈生〉に対して、生物学的なラインを繋いでいたとしても、その精神世界に生命の息吹を吹き込むことの難しさを物語っている。

ごく少数の信念・信仰のフィールドでの確信犯を除いて、普通の人格のサイズを持った人間が、「収容所経験」での破壊力の被弾を希釈化させ、それを突き抜けていくのが如何に困難であるかということは、例えば、ごく身近で起こった事件を見ても検証できるだろう。

私が想起するのは、「三井物産マニラ支店長誘拐事件」である。

1986年11月15日。

フィリピンのマニラ郊外で、武装した5人組に誘拐された若王子信行氏(三井物産マニラ支店長)が、 長い監禁生活の果てに解放されたのは、翌年の3月31日だった。

この間、約140日。

誘拐事件の主体は、フィリピン共産党の軍事組織である新人民軍(NPA)。

犯行動機が、確信犯的なコミュニストの政治的背景とは無縁に、身代金目的の誘拐事件であったが故に、余計に厄介だった。

組織の末端のメンバーによる犯行だったからだ。

中央が若王子信行氏
しかし、結果的に、マスメディアのセンセーショナルな報道の影響で、フィリピン政府やカトリック教会などがネゴシエーションに動き、人質と引き換えに、相当額の身代金が支払われたことで、一件落着し、若王子信行氏は無傷で解放されるに至った。

これで、全て決着し、若王子信行氏は、帰国後に、同社札幌支店長に異動され、英気を養う環境が整えられたが、何と2年にも満たないうちに、膵臓癌のため急逝したという報道に接して驚かされた記憶が、今でも鮮烈に残っている。

享年55歳の急逝は、あまりに速すぎる死であった。

結局、誘拐事件の心労から、若王子氏は解放されていなかったと考える外にないのだ。

思うに、誘拐事件の渦中で、若王子氏の自我は、いつ殺されるか分らない恐怖の日々に摩耗され尽くしてしまったのだろう。

苦痛を伴う残酷な結末を覚悟して耐え切れる程、人間は強靭ではないのである。

合理的に計算する余地を残して、拉致・監禁されるような身代金目的の誘拐事件のイメージを、このような状況で持ち得る訳がないのだ。

私は、ふと、こんなことを考えてみた。


アポトーシスの主経路(ウィキ)
人間には、プログラムされた細胞死=細胞の自殺」という、細胞遺伝学的研究から定義された分子生物学の概念がある。

アポトーシスとか、テロメアという言葉である。

どれほど気持ちを自覚的に保持していても、いつ殺されるか分らない恐怖の日々に摩耗され尽くされた自我は、いつしか復元力を失って、その本来的な生存の防衛戦略の内部システムが、十全に機能し得ない状態に流されていったとき、もう、そこでは、細胞の自殺のリスクを極限的に高めてしまうのではないか。

細胞が破れることなく萎むようにして消滅していった果てに、周囲の組織への浸潤性を有し、増殖・転移していく「悪性腫瘍」に侵されていったとすれば、若王子氏のケースは、身体が生還しても、精神が生還できなかったことによって、生還し得たはずの身体を蝕んでいくという反転的現象を惹起したのではないか、などと考えてしまうのである

要するに、死を極点にする「非日常」の時間と最近接した自我が、極度の過緊張の状態に拉致されてしまえば、「細胞の自殺」の速度を亢進させてしまうのではないか。

そんなことを、つらつら考えてみるのである。

そして、本作のルチアのケースは、どうだったのか。

明瞭な「被害者性」を負ってしまったルチアのケースこそが、ここでは由々しき問題となる。

心身いずれも生還できなかった不幸の極致が、そこに垣間見えないだろうか。

出口なしの強制収容所で強いられた、極度の過緊張の常態化によって、破壊の危機に晒された自我が、ギリギリに〈生〉を繋いでいったとしても、すっかり壊された彼女の思春期の身体は、もう、醜悪な男の身体に憑かれてしまって、「リプロダクティブヘルス」(注)というイメージで語られる、健全な〈性〉への交通を遮断された負の記号を被されてしまったと言っていい。

この不幸の極致は、強制収容所からの生還者の不幸の極致と同義なのだ。

本作は、その一点を履き違えたら、とんでもない誤読をする映画と化すだろう。


(注)WHO(世界保健機関)の定義によると、身体的・精神的・社会的に良好な状態を意味する概念で、健康的、且つ、充足した性生活の営為を保証することが前提になる。

(2013年4月)

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