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2012年2月15日水曜日

ゴッドファーザー('72)        フランシス・フォード・コッポラ

<深く重厚な人間ドラマに収斂されていくアメリカン・ノワールの最高達成点>



1  父と子の血の宿命の帰結点



瀕死の重傷から生還した一人の男がいる。

影響力の相対的低下という、自らが置かれた厳しい状況がそうさせたのか、或いは、それまでの自分の生き方を、「愚か者」という風に相対化できるほどの年輪がそうさせたのか、それ以外に流れようがない生き方でイタリア系マフィアのボスに上り詰めた男が、重量感のある濁声(だみごえ)で、眼の前にいる三男に静かに吐露していく。

「お前だけには・・・私は生涯をファミリーに捧げてきた。愚か者にはなるまいと。大物に操られて踊る愚か者にはな。弁解はすまい。私の人生だ。だがお前は、操る側の人間になれると。上院議員とか、知事とかにな」

男の名は、ビトー・コルレオーネ。

「ドン・ビトー・ゴッドファーザー」である。

眼の前にいる三男の名は、マイケル。

第二次大戦の英雄として復員して来て、家族の稼業とは無縁な若者であったが、ニューヨークの敵対組織から命を狙われていた父を救った縁で、ファミリーの跡目を継ぐはずの、長男のソニー(画像)の無惨な死によって空洞化した権力を、いつしか、頼りない次男のフレドに代って継承するに至ったという経緯を持つ。

「僕は、別の権力者に」
「だが、充分な時間はなかった」
「なって見せる。必ず」

短い会話の最後に、「最初に会談を持ちかけて来た者は裏切り者だ」と言い添える父は、どこまでも「ドン・ビトー・ゴッドファーザー」という相貌を崩さなかった。

この会話のシーンが挿入されたのは、今や、沸々と滾(たぎ)ってきた長尺な映像が決定的な大団円を迎える直前だった。

なぜなら、この会話の直後に、「ドン・ビトー・ゴッドファーザー」の死が待機していたからである。

ゴッドファーザーの情感的な「遺言」を、マイケルが力強く受容してくれた安堵感からか、長男を喪った失意を抑えるために貯留したストレス等々、「王国」の危機の再構築への自給熱量の臨界点を超える辺りまで、その人格総体のうちに背負ってきた重荷を降ろすかのように、良くも悪くも、一代の傑物の人生の終焉は、呆気ない幕切れを迎えるに至った。

ゴッドファーザーに相応しい屋敷の広い中庭で、可愛い孫と遊戯の只中に襲ってきた心臓発作の転倒によって、そのまま蘇生することなく絶命したのである。

そこに、権力関係の空洞化が生まれた。

それは、国家間規模で言えば、「軍事」の空白の怖さである。

紛争の発生のリスクをマキシマムに高めるからだ。

イタリア系マフィアのボスの一人の死もまた、この文脈をなぞるものだった。

権力関係の空洞化の間隙を縫って、一気呵成(いっきかせい)に襲いかかって来る敵対組織への予防外交のラインを越えて、父から認知された「自在性特権」の利得も手伝って、二人の兄との知的・人格的乖離の際立つ、戦略的な頭脳の主であるマイケルの反転攻勢が開かれていったのは、先制攻撃を畳み掛けていくという方略だけが組織防衛になるという確信があったからである。

加えて、父の頑健な肉体を壊した者たちへのリベンジを経験したマイケルには、長男のソニーの命を奪った者たちと、掟破りの裏切り者を裁く必要もあった。

また、マフィアとの関係において没交渉だったマイケルにとって、「最初に会談を持ちかけて来た者は裏切り者だ」と言い添えた、父の「遺言」を忠実に実践躬行(じっせんきゅうこう)することは、苛烈な人生を繋いできた父の豊富な経験知を合理的に吸収していく知恵でもあった。

シチリアのマフィアには、「ファミリー」としての紐帯の強化を図るために、当然の如く、成員たちに組織の秘密防衛が求められが故に、これに背馳(はいち)する行為に走った者は制裁する。

これを「オメルタの掟」と言う。

現にマイケルは、葬儀中に会談を持ちかけて来た古参幹部(テッシオ)を殺害することで、「ドン・コルレオーネ」というファミリーのボスにまで上り詰めていったのである。

それは、父と子の血の宿命の帰結点だったのか。



2  「僕が父さんを守る」 ―― 物語の梗概①



ここまでの物語の梗概を、簡単にまとめてみよう。

NYのドラッグの売人であるソロッツォから、ビトー・コルレオーネが商売のパートナーとしての危険な仕事を持ちかけられたことから、全てが開かれた。

「麻薬に手を出せば、その友人を失う。彼らは、賭博は無害だが、麻薬は害毒だと。私自身は商売に善悪はないと。だが、あなたの商売は少々危険だ」

これは、ビトー・コルレオーネが麻薬売買の美味しい話を断ったときの、毅然とした言葉である。

各方面に強力なコネを持つビトーの政治力が期待されていたが故の商談だったが、この破談によって、タッタリア・ファミリーの後ろ盾を持つソロッツォから恨みを持たれて、ビトーの襲撃事件が惹起した。

しかし、危うく一命を取り留めたビトーの存在によって、ソロッツォの立場は暗転する。

絶対にしくじってはならない「仕事」に頓挫したギャングは、拠って立つ権力の脆弱性を露わにするばかりなので、今や、ソロッツォにとって、瀕死の重傷を負って入院しているビトーの命を完全に絶つことだけが、闇の世界で生き残る唯一の選択肢となっていくのである。

腐敗警官を丸め込んだソロッツォは、ビトーの保護という本来の目的を持つ警官を、ビトーの入院する病院から引き揚げさせ、あとはヒットマンを送るだけ。

この危険な状況を察知したのが、ビトーの三男のマイケルだった。

父の事件をペーパーで知ったマイケルは、父が入院する病院に駈けつけた。

襲撃の追い打ちへの不安が過(よ)ぎったのである。

この迅速な行動は、次男のフレドが襲撃現場にいたにも関わらず、銃弾の連射で崩れ落ちていった父を見て、傍らで泣き崩れる態度とあまりに対照的だった。

「僕が父さんを守る」

病室で昏睡状態の父に、強い意志を表現するマイケル。

父の眼から涙の筋が滲んでいた。

強靭な精神と体力を持つビトーは、このような状況下にあっても、「ドン・コルレオーネ」の名に恥じない男であることを、映像は静かに映し出すのだ。

父を守るべき一人の警官すらいない病室の父を守るため、マイケルは獅子奮迅の活躍をする。

マイケルの不安が当ったのである。

ナースに手伝わせて病室を移した後、見舞いにやって来たパン屋に頼み込んで、ビトーを守るファミリーの成員に成り済ましてもらったのである。

「手をポケットに入れ、銃があるふりを」

マイケルはそう言って、パン屋に見舞いの花束を捨てさせ、病院の玄関に立たせたのだ。

まもなく、病院にやって来た一台の車には、ヒットマンらしき男が乗っていたが、駐車する間もなく、そのまま通過していった。

「よくやった」

煙草の火をつける手が、小刻みに震えるパン屋。

パン屋にライターの火を差し出すマイケルの落ち着き払った態度は、「僕が父さんを守る」と言い切った若者の胆力を充分なほど体現していた。

「恐怖支配力」こそ、胆力の本質である。

それは、第二次大戦の英雄として、険しい前線を潜り抜けてきた者の「恐怖支配力」の実相と言うより、ゴッドファーザーのDNAを垣間見せる何かであった。

然るに、マイケルの当該行為は、恋人のケイと共に、マフィアのファミリーとは無縁な人生の予約された軌道を、決定的に転換させていった最初の契機となった出来事だった。

ここから、「ドン・コルレオーネ」を襲撃した者たちの復讐劇が開かれていくからである。



3  「これは私情ではない。ビジネスだ」 ―― 物語の梗概②



「これは私情ではない。ビジネスだ」

ソロッツォ殺しを引き受けたマイケルの、凛とした宣言である。

停戦を申し入れて来たソロッツォを屠らない限り、父の安全を保証できないと考えた末での判断を下したマイケル自身が、穏健派のトムらを説得して、その重大任務を引き受けたのである。

本作の中で最も緊張感溢れる、レストランでの射殺事件である。

ソロッツォと悪徳警官を、トイレに隠し込んでいた拳銃で射殺し、古参幹部のクレメンザらのレクチャー受けた通りに、振り向くことなく、その足で逃亡した事件である。

それは、既に「父の防衛」という最初のイニシエーションを通過して来た男が、今や明瞭な意志を抱懐して、ファミリーの世界に自己投入した瞬間だった。

ファミリーというの疑似共同体に自己投入した男は、ファミリーの敵対組織から報復を受ける事態を惹起させる運命から逃れられないのだ。

だから逃亡せねばならない。

マイケルが逃亡した先は、ファミリーのルーツであるシチリアだった。

出稼ぎ移民の供給地として有名な、陽光眩いシチリアの地で、尖り切っていた若者の自我は解放され、地中海に浮かぶ長閑(のどか)な南国の空気を存分に吸って、NYの濁り切った異臭を浄化させていく。

解放的な南国の空気が心理的推進力となったのか、そこで知り合った土地の女に一目惚れするや、間髪を容れずプロポーズし、婚姻するマイケル。

あってはならない悲劇は、そのマイケルの眼の前で出来した。

マイケルの命を狙うヒットマンが、じわじわと包囲網を縮め、彼が運転する車を爆破する事件が起こったが、しかし、車を運転していたのはマイケルの若い妻だった。

信じ難い新婦の死。

危うく難を逃れたマイケルは、今や、ファミリーの重要な一員として認知され、抹殺の対象人格として特定化されていたのである。

この時点で、マイケルは、長男ソニーの凄惨な死を知らされていた。

我儘な妹コニーへの義弟(カルロ)のDVに怒ったソニーが、義弟の陰謀とも知らず、ボディーガードなしで飛び出していく振舞いに象徴されるように、持ち前の直情径行の性格が災いして、まんまと敵対組織(バルジーニ)が仕掛けたトラップに嵌り、まるで、アーサー・ペン監督の「俺たちに明日はない」(1967年製作)の、ボニーとクライドの「予約された自爆」のイメージをなぞるように、有料道路の料金所で、蜂の巣状態と化すほどのマシンガンの乱射を浴びて絶命したのである。

「これが息子が死にざまだ」

激しく揺動する心情を封印した、「ドン・コルレオーネ」が洩らした一言だ。

それは、ファミリーの危機を認知した男の癒されぬ悔しさでもあった。

同時に、ファミリーに最大の危機が迫っていることを実感したとき、ほんの少し前まで、ファミリーとは無縁な「一般人」であるという自己像によって相対化してきたマイケル自身の立場を、このような外的環境の決定的な変容の中で再構築するに至る、シチリアの事件の衝撃が、敵対組織への激しい憎悪に転化していくのに時間を要さなかったのは、ファミリーの拠って立つ基盤が崩されつつある危機に直面した現実の認知と大いに関与するだろう。

その間、NYでは、体力を回復させた「ドン・コルレオーネ」の尽力があって停戦が成立した。

あれほど嫌っていたドラッグ密売を認めることで、マイケルのNY帰還を具現させたのである。

マイケルの安全は担保されたのだ。

NYに戻って来たマイケルは、かつての恋人ケイにプロポーズし、結婚するに至る。

「ドン・コルレオーネ」の影響力の顕著の低下を、最小限に留めるための唯一の戦略 ―― それは、頼りない兄フレドに代って、胆力と戦略的頭脳を有するマイケルが二代目を継ぐことだった。

それ以外にない選択肢に到達したとき、坂道から転げ落ちるかの如き組織の劣化の歯止めが、ギリギリのところで奏功したのである。

以上が、本稿の冒頭での、父と子の重々しい対話までの物語のアウトライン。

緊迫感溢れる映像の訴求力の高い物語を、ここからは時系列にに沿って進めていこう。


マイケルに家督を譲った「ドン・コルレオーネ」が呆気なく逝去したのは、その直後だった。

ここから、マイケルをドンとする新しいファミリーの立ち上げが劇的に展開していくのである。

新しいドンとなったマイケルにとって、自らが拠って立つ、ファミリーを権力的に包囲する敵対勢力の一掃が至上命題となった。

これが、ファミリーの命運を決定づける、報復と征服に関わる、一世一代の勝負を賭けた爆轟(ばくごう)になっていくのだ。



4  「いいだろう。今回だけ質問に答えよう」 ―― 物語の梗概③



折しも、妹コニーの赤子の幼児洗礼式の日。

マイケルが赤子の名付け親として、神に誓いを立てていた。

幼児洗礼式で、神父の前で誓いをするマイケル。

そこだけは、清冽なローマカトリック教徒としての、従順さを身体表現する男を演じるファミリーの新しきドン。

再現してみよう。

「あなたは主イエス・キリストを信じるか」と神父。
「はい」とマイケル。
「聖霊と聖なる教会を信じるか」
「はい」
「あなたは悪魔を退けるか」
「退けます」
「あなたは悪魔の所業を退けるか」
「退けます」
「その誇示を」
「退けます」
「あなたは洗礼を受けるか」
「はい」
「神と子と聖霊の御名により、平穏と主の恵みを。アーメン」

如何にもローマカトリック教会の幼児洗礼式らしく、赤子の成長を全人格的に支える義務を負う、代父(ゴッドファーザー)となったマイケルの信仰生活の形式的な風景が映し出されていた。

しかし、その清冽な風景が強調されるほど、このシーンとクロスカッティングされる濁り切った風景の欺瞞性は、力の論理で生きる者たちの、愛憎渦巻く、虚構に満ちたファミリーを描く物語の極北的描写であった。

言うまでもなく、「神=善=祈り」という宗教的なイニシエーションが、「悪魔=悪=殺戮」という圧倒的な暴力との対比で描かれることで、本作が暴力肯定の映像でないことが判然とするだろう。

ともあれ、この陰翳深い映像は、マイケルの指示によって動くヒットマンたちが、敵対組織のドンらを悉(ことごと)く屠っていくシーンがクロスカッティングされて、鮮烈に映し出されていく。

「ドン・コルレオーネ」との長い紐帯(ちゅうたい)の関係を保持してきた、クレメンザを筆頭とする男たちの反撃が開かれたのである。

命を賭けた者たちの「攻撃的大義・忠義」は、殆ど惰眠を貪る敵対組織のファミリーたちの、脳天気な「防衛的大義・忠義」を蹴散らしていくのだ。

NYでのマフィア相互間の大抗争は、「攻撃的大義・忠義」に拠って立つ者たちの完全なる勝利によって閉じられた。

「オメルタの掟」に背馳(はいち)した者たちをも粛清していく、マイケルの計算尽くのシナリオの帰結点は、妹コニーの夫であるカルロの抹殺であった。

コニーへのDVで、直情径行のソニーを誘い出すことで、マシンガンの乱射を浴びせて蜂の巣状態にした、敵対組織(バルジーニ)のトラップに嵌め込んだ裏切りへの代償である。

当然の如く、この事実はコニーの激怒を誘発し、半狂乱状態にさせるに至った。

それを視認した、マイケルの妻ケイもまた、総身に戦慄が走る程の激しい衝撃を受ける。

「本当なの?」

執拗に迫るケイ。

煩わしい妻の追求に、感情を必死に抑えた沈黙の「間」を破って、夫としての「役割」を兼務するマイケルは、威圧的に反応した。

「いいだろう。今回だけ質問に答えよう」

浄化し得ない空気の、言いようのない「間」が生まれる。

「本当なの?」とケイ。

ここで分娩された「間」は、夫婦という形式的なカテゴリーに収斂し切れない、一人の人間の拠って立つアイデンティティの、その由々しき安定的確保に関わる時間の圧倒的な重量感を乗せて、闇の空間の限定スポットを占有していた。

「ノ―だ」とマイケル。

それだけを待っていた者の子供のような感傷を見透かした男と、見透かされた空気を読むことから、敢えて隠し込もうと逸(はや)る女の耐性限界の沸点を、観念の世界で浄化したかのように振舞おうとする、次代の権力者の妻という名の女。

ただ、濁った空気の浄化だけが必要だったのだ。

だから、この究極の幻想の人工的な時間に流れ込んでいったのだ。

安堵の表情を浮かべて、夫に抱きつく妻。

「一杯だけ付き合って」

そう言うや、居間に行って、カクテルを用意する妻。

その間、マイケルの周囲に組織の者が集合し、「ドン・コルレオーネ」と言って、丁重な挨拶を繋いでいく。

その挨拶に答えるマイケルは、「ドン・コルレオーネ」という、新たなゴッドファーザーの誕生を自認する者の威厳を身体表現するのだ。

「ドン・コルレオーネ」の舎弟の一人が、カクテルを運ぼうとするケイの視界を扉で遮断したのは、カクテルを夫の元に運ぼうとする瞬間だった。

新たなゴッドファーザーの特化された権力空間を占有することで、この屋敷内にも、「オメルタの掟」で心理的に武装された権力関係が存在することを示して見せたのである。

それは、「家族を大事にしない男は、男じゃない」と、かつてソニーに説諭し、「家族愛」の中枢的価値を抱懐して生きてきた「ドン・ビトー・コルレオーネ」の深い情感濃度と切れて、どこまでも理知的に動く新たなゴッドファーザーが成す、この夫婦の近未来の暗転を予約させるイメージのうちに、夫婦関係の情緒的な繋がりの限定的推進力の脆弱性を顕在化させた、殆ど完璧なラストカットの構図だった。

陰謀と背馳、裏切りと嫉妬が渦巻く、ファミリーというの疑似共同体に関わる物語の、この完璧な括りに、観る者は絶句するだろう。

これ程の映像を構築する映画作家(画像)がいて、これ程の映像の中で、完璧に演じ切った俳優たちが存在した。

それ自身、殆ど奇跡的快挙といっていい。

凄い映像としか評価し得ない作品が、ここにあった。



5  映像でしか表現できない作品としての価値



凄い映像としか評価し得ない作品としての価値は、映像でしか表現できない描写が、少なからず存在したということでも判然とするだろう。

その一。

ファーストシーンにおける、眩いばかりの陽光の下での娘の結婚式で表現される底抜けの明るさと、ブラインドが降ろされた屋敷内での、闇の世界に生きる者のくすんだ色彩感の、鮮明なコントラストの構成力。

前者の光のイメージの強さが、後者の闇のイメージの暗鬱な世界を効果的に炙り出すという手法は、政府系機関の副総裁の娘と秘書の結婚式から開かれる渦中において、不正入札事件で警視庁捜査二課の刑事が慌ただしく動く、黒澤明監督の「悪い奴ほどよく眠る」(1960年製作)のファーストシーンから着想した構図であったと言われるが、本作の提示したイメージ喚起力は、映像表現の独壇場と言っていい抜きん出た構築力を達成していた。

「ドン・ビトー・コルレオーネ」の相談処理の「仕事」が同時進行することで、闇のような屋敷内での陰翳感が鮮明に炙り出されていったのである。


娘に乱暴したチンピラへの制裁を依頼する葬儀屋に対して、かつて自分から避けていたのに、困った時になると助けを求める態度を戒め、友情の証として、「ゴッドファーザー」という尊称を身体表現することだけを要請する、「ドン・ビトー・コルレオーネ」の嗄(しゃが)れ声が、闇の世界に生きる者のくすんだ色彩感に溶融して、およそ活字文化の及ぶところではなかった。

屋敷内と屋敷外を完全に切断する、このシークエンスの伏線は、自我の武装を解除するはずの屋敷内でも光と闇が存在することを示す、ラストカット(画像)の決定力によって回収されるに至るのだ。

頑健な扉によって切断されてしまうラストカットのインパクトは、そこに至るまでの複雑に捩(ねじ)れ切った映像構成力が、その一点に流れ着く、集合された情動の最終到達点だったのである。

その二。

瀕死の重傷を負った「ドン・ビトー・コルレオーネ」が、その劣化した体力に引き摺られるように、一貫して笑みを見せない男の孤独の哀感のうちに、旺盛な権力欲の後退を深い陰翳を湛えて表現し切っていた、マーロン・ブランド演じる、「ゴッドファーザー」の圧倒的存在感の精緻な描写。

これもとうてい、活字文化の及ぶところではないだろう。

マイケルに権力を移譲することによって、初めて眩い陽光の下で、孫と戯れる「ドン・ビトー・コルレオーネ」から零れる笑み。

一人の男の晩年の懊悩を深々と描き切った、「ドン・ビトー・コルレオーネ」の陰翳深き存在感は、権力を継続させることの重量感を累化させていく「陰」から、その権力を譲ったことで得た安堵感による「陽」への変容でもあった。

初めて見せた陽光下での笑みが、闇の世界で生きた者の生命を奪い取っていくという描写の流れ方は、優れた映像によってのみ刻まれた、それ以外にない絵画的構図の決定的な表現様態であったと言える。

その三。

「ドン・ビトー・コルレオーネ」によって権力を譲られたマイケルが、愛児の洗礼式に臨むラストシークエンス。

ここでは、そのマイケルによって命令された、敵対勢力への暗殺指令がクロスカッティングされることで、「神=善=祈り」と「悪魔=悪=殺戮」のコントラストを効果的に炙り出す表現達成力は、欺瞞に満ちた人間の深奥に迫る映像の独壇場であったと言っていい。

まさに、映像によってしか表現し得ない件の構築力こそ、本作をアメリカン・ノワールの最高傑作と言わしめる所以であったのは間違いないだろう。



6  深く重厚な人間ドラマに収斂されていくアメリカン・ノワールの最高達成点



ともあれ、フィルム・ノワールの本作によって浮き彫りにされる、「ファミリー」に呼吸を繋ぐ者たちの世界のうちに拾いあげられた、多岐にわたる問題の多くは、私たちの日常・非日常の営為の中で看過し難い厄介なる事柄に満ちていた。

本稿の最後に、それらをピックアップしてみよう。

「養育・教育の艱難(かんなん)さ」、「DNAの支配力」、「血縁幻想の支配力と虚構性」、「恋愛と結婚の乖離感」、「近代家族の情緒的結合の求心力」、「郷土愛の深さ」、「帰属組織への適応性」、「政治力の有無」、「権力関係の多様な様態」、「愛憎の爛れ方」、「『男の観念』と『力の論理』という 極道の情感体系と、その一般化の様態による『父』の有りよう」、「DVの破壊力」、「警察機構と組織暴力の癒着」、「権力及び、権力関係の空洞化=『軍事』の空白の怖さ⇒紛争の発生の危うさ」、「自己実現の突破力」、「欲望の稜線の臨界点」、「信仰への欺瞞的潜入」、「組織のリーダーシップの有りよう」、更に、「寛容とイントレランス(不寛容)」、「迎合と裏切り」、「排除と統制」、「秩序と混迷」、「理性と情動」、「怯懦(きょうだ)と冷静」、「懊悩と葛藤」、「抑制と炸裂」、「叙情と叙事」、「安寧と落胆」、「宿命と強迫的な力学」、「強靭さと脆弱性」等々の、様々な人間学的問題が包括されていた。

そこには、不必要な描写や人物造形の転がし方で小遊びすることで、精緻な人間描写による、緊迫感に漲(みなぎ)る物語を弛緩させる一切のトラップの挿入を拒絶する、凛とした姿勢が一貫していて、組織暴力の権力関係の空洞化の間隙を縫って出来する抗争と、その空洞を突破する基幹のストーリーが、深く重厚な人間ドラマに収斂されていく圧倒的表現力の、抜きん出て完成度の高い、その構成力と主題提起力による映像構築力の凄みにおいて、アメリカン・ノワールの最高達成点であるばかりか、映画史上に恒久に残る文化遺産であると評価する思いには、初見時から全く変わりない。

但し、個人的には、「カンバセーション盗聴」(1973年製作)のような、男の孤独の極みを描き切った映像の方が性に合っているが、これは単に好みの問題に過ぎないだろう。


(2012年2月)

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