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2014年6月18日水曜日

光のほうへ(‘10)     トマス・ヴィンターベア


色褪せてくすんだ映像で匍匐する兄弟の遣り切れないほどの切なさ>



 1  「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命



本作のあとに創られる「偽りなき者」(2012年製作)と同様に、本質に関わらないエピソードを大胆に切り捨てて構成された映画の切れ味は出色であり、映像総体の訴求力は抜きん出ていて、俳優・演出ともに素晴らしく、正直、落涙を抑えるのに苦労したほどである。

紛れもない傑作である。

3人の主要登場人物の内面風景に近接してしまえばしまうほど、そこで醸し出されるどうしようもない切なさの感情は筆舌に尽くし難かった。

人間心理の奥深くに肉薄する精緻で、構築的な映像の独壇場の世界に脱帽する。

「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命から免れ得なかった男と、その男の「守るべき者」との出会いによって、中途半端な堕ち方で絶望の際(きわ)を這っている男の、その中枢を変容させていくイメージで閉じる人間ドラマの秀作。

これが、本作に対する私の基本的理解である。

中枢を変容させていくその男の名は、ニック。

「シェルター」(一時的な生活保護施設)暮らしで呼吸を繋ぎながら、アルコールを摂取し、ジムで肉体を鍛えているが、笑みの拾えない男のイメージからは、自らの身体を痛めつけることそれ自身が目的化しているようにしか見えない。

それは、不満の捌け口を、公衆電話に繰り返し拳をぶつけて、手ひどい怪我を負った自傷行為のエピソードに象徴される。(この自傷行為についての言及については、本稿の肝になるので後述する)

そのまま放置しておけば、傷口が化膿して壊死してしまうのだ。

包帯を替えるだけで、手当てを施す様子なく、それでも構わないという荒れた感情が、彼の心の中に垣間見られる。

ニック
包帯を替える度に傷の膿が爛れ切っている現実を、なお放置する男の心は、自死に向かう意思というよりも、まるで、死神の迎えを待っているかのようなのだ。

人生に明瞭な目的を持ち得ない空洞感が漂流している風にも見える。

ニックを愛する女がいない訳ではない。

現に、息子を失ったことが原因で別人格になったような、ソフィという同じシェルターの隣人に愛されていて、心配もされている。

しかし、暴行罪で刑務所に入っていたニックの心の風景には、最も愛したはずのアナという女性と別れた孤独感、虚無感が広がっている。

「妹に捨てられ、ヤケになり、知らない男に暴力を振った」

街で偶然、チンピラたちに暴行され、倒れていたアナの兄・イヴァンと再会したときのイヴァンの言葉である。

ニックには、アナだけが救いだったのだ。

ところが、アナはニックを捨てて、行方をくらました。

アナがニックとの子を妊娠し、その出産を心待ちにしていたニックの願望と切れて、彼女は人工中絶してしまったのである。

ニックにとって、子を育てることは、特別の意味を持っていた。

「我が子」という名の、「守るべき者」の「父」に成り得なかったニックの心の闇は、いよいよ広がっていくばかりだった。

一方、「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命から免れ得なかった男の名は、不詳である。

不詳だが、一貫して「ニックの弟」とか、「マーティンの父」という呼ばれ方をしている。

この辺りについての言及についても後述する。

ニックの弟は妻を交通事故で喪い、今は、幼稚園に通う一人息子のマーティンとの父子家庭を結んでいた。

しかし、喪った妻共々、薬物依存症の泥沼に嵌っているニックの弟は、家庭内でトイレを利用して薬物を摂取する生活を常態化していた。

薬物依存症の泥沼に嵌っているニックの弟とマーティン
その常軌を逸した風景の意味を理解するマーティンは、父に空腹を訴えた際に、「トイレに行くからテレビでも見てろ」と言われ、「サンドイッチを作る」という父の反応に対して、「やっぱりいいよ、トイレに行って」とまで答えるのだ。

幼稚園児がこんな余計な心配をする分だけ、本来、伸び伸びと開放系に駆動する子供のエネルギーが、閉鎖的に結ばれる父子関係での、安定的な愛情の確保に向かう熱量に吸収されてしまうのである。

空腹を我慢してテレビに見入る子供は、父からの愛情確保のために、こうして抑圧した自我を作り上げていく。

そんなマーティンにも、子供ならではの自尊心がある。

幼稚園の弁当を友人から分けてもらえと、父から言われたときのこと。

「嫌だ!今日だけじゃないもん!こんなの、もう嫌だ!」

そう叫んだ後、嗚咽するマーティン。

自尊心があるのは、子供の自我が致命的な損傷を受けていないことを意味する。

それは、否定的メッセージを一方的に刷り込まれれて育っていない証左でもあった。

金のために強盗に押し入る愚かな父親でも、マーティンの自尊心を傷つけない限りの愛情をたっぷりと注いでいたのである。

ニックの弟にとって、マーティンだけが唯一のアイデンティティだったからである。

ニックの弟とマーティン
その事実を切り取ったエピソードがある。

生活保護を担当するケースワーカーからも憂慮され、厳しく指摘されたときのこと。

「夫婦共に薬物中毒だったと?あなたは今も?」
「絶対にありません」
「顔色が悪いようですが。事は重大なんですよ。育てられないなら、息子さんを引き離さざるを得ません。それと生活保護ですが・・・」
「もう、いいんです。何とかなりますから」
「3日分なら前払いできますので」

ケースワーカーの申し出に対して、ニックの弟はきっぱり言い切った。

「俺には息子しかいない。大切なのは息子だけなんだ」

この心情には嘘がない。

だからこそ、「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命が余計に切ないのだ。



2  色褪せてくすんだ映像で匍匐する兄弟の遣り切れないほどの切なさ



この映画の巧みな構成力に感嘆する。

ニックとニックの弟のパートに分れた構成の中で、前半は、ニックのパートが描かれ、後半は、ニックの弟のパートに引き渡され、マーティンとの切ない父子関係が丹念に描かれていく。

ただ、この二つのパートには微妙な時間差がある。

この映画の肝とも言えるニックの自傷行為が序盤に登場するが、既にこの時点で、兄弟(年の離れた赤ん坊の弟を含めて、異父兄弟と思われる)は、母親の葬儀で再会を果たしていて、ニックの弟は兄から譲られた遺産金を元に、ヤクの売人にシフトしつつあった。

このことは、ニックの弟が乗ったバスから、アナの兄イヴァンがチンピラたちに殴られている現場を視認している事実によって確認できる。

即ち、ニックの弟のパートは、ニックと再会以前の極貧の状況下で、隠れ忍んで薬物を注入する、その凄惨な生活の内実を描くことに重点が置かれていたという現実を強調しているのである。

その現実の中枢にマーティンがいる。

だから、余計、切ないのだ。

繰り返すが、「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていくニックの弟の運命が、初めから約束されてしまっているから、余計に切ないのである。

そして、この父子関係の切なさを最も感じていたのがニックだったという真実の伏線は、ラストシークエンスで最終的に回収されるに至るが、その煩悶の一つの極点が彼の自傷行為であった。

観る者は、この時間差を利用した巧みな構成力を知るに及んで、ニックという、この映画の主人公の内面風景の揺動感が、単に、自暴自棄の愚か者の行為という短絡的な把握から解放されるのである。

―― 以上の解釈の延長上に、時間を遡及して、あまりに切な過ぎる物語を追っていく。

母親の葬儀でのニック兄弟再会
ニックと弟との再会が具現した。

アルコール依存症(日本精神神経学会は現在、「アルコール使用障害」という病名の新しい指針を公表)だった母親の葬儀の場である。

 ニックとマーティンとの初めての出会いでもあった。

「クスリをやっていない」

そういう弟の言葉を、心の底から信じないニックの気がかりは、マーティンのことのみ。

「あの子が心配なんだ」

今にも死にそうな、弟の青ざめた顔色を見れば、誰でも感じるだろう。

だからニックは、嫌い続けていた母の遺産金を受け取らないという理由をつけて、その全てを弟に譲ったのである。

しかし、ニックの弟は、母の遺産金を資金にして、あろうことか、ヤクの売人になっていく。

それこそ、ニックが最も恐れていた事態であったに違いない。

時すでに遅し。

一攫千金を求めるニックの弟の救い難さは、奈落の底に墜ちる際(きわ)にまで堕ちていくシーンを、嫌と言うほど見せつけられることで、寛容な観客も絶句するだろう。

誰よりも、そんな不安も抱懐してか、ニックは、弟に無言電話をかける重要なシーンがある。

改めて、このシーンの意味を考えてみたい。

なぜニックは、弟に無言電話をかけた後、自傷行為に及んだのか。

これが、私の問題意識の中枢にある。

前述したように、それ以前に、ニックは母の葬儀の際に弟と再会し、弟の子であるマーティンとの初体面を済ませていた。

この事実は、母の葬儀の際に、ニックの右手に包帯が撒いていないこと、そのとき、弟に書いてもらった電話番号の紙を受け取っていたことで判然とする。

このときニックは、弟の「薬をやってない」という弁明を信じず、眼の前の父子に対して憂慮の感情を持ったはずである。

それが貧困絡みであると考えたのか、無駄だと思っていても、母の遺産の全てを弟に譲渡した。

その心理を読解すれば、弟に譲渡したと言うよりも、「マーティンを飢えさせるなよ」というメッセージが含まれていたはずである。

これ以上、一緒にいても、ニックは弟の嘘を聞くだけの不毛性を感受し、早々と立ち去って行った。

ニック
そんなところだろう。

しかしニックは、マーティンのことが気がかりでならなかった。

少なくとも、今でも、元気に過ごしているという確認を得たかったと思われる。

だから電話したのである。

ニックの内部で、少年期に赤ん坊を死なせてしまったトラウマがフラッシュバックしたのではないか。

弟以上に、ニックが、このトラウマを抱え続けていることは、彼に関わるエピソードを仔細に観察すれば自明であると言える。

私にとって印象深いのは、幼稚園から強引に連れ去った息子をソフィから預かっても、その息子の意思が父親との共存を望んでいる事実を知ったとき、ソフィを裏切っても、その息子を警官に引き渡した行為。

これは、極めて重要なエピソードである。

ニックの行為は、「常に、子供第一」なのである。

これは、ラストシーンで完璧に回収されるから、説明不要だろう。

ついでに書けば、ソフィを裏切ったことで孤独に陥っている当人を慰撫するために、好きでもない女とのセックスの相手になるというニックの優しさは、ネグレクトを受けた者の決定的な「愛情欠損」の様態の風景と切れていた。

恐らく、乳幼児期のニックは、人を充分に愛することができる程度の養育をされていたのだろう。

「ニックとアナの愛は、本作におけるひとすじの希望です。私たちは彼がかつては、人を愛することができたということを知ることができます。アナの存在はニックとっては“過去”ですが、物語のなかでは“未来”の象徴です。ニックとアナのラブストーリーは終わってしまいましたが、ふたりの結びつきは残っています。私たちは、ニックの身に起こった過酷な運命を知りつつも、彼が人を愛することができるということ、そして再び人を愛したいという希望を持っていることに気がつくでしょう」(INTRO | 作品情報・監督の言葉より)

トマス・ヴィンターベア監督
トマス・ヴィンターベア監督の言葉である。

ここに、付け加える何ものもない。

映像をフォローしていけば、誰でも感じること。

ニックの自傷行為に拘泥する問題意識の延長上に、物語を追っていく。

フラッシュバックを惹起したニックの中で、マーティンが無事に育ってくれているか、或いは、弟がマーティンをネグレクトするのではないか、などという不安が一気に噴き上げてきた。

しかし、今の自分には何もできない。

過去のトラウマを克服する機会が、一貫して、ニックに与えられていないのである。

その苛立つ思いを自制できず、唐突に膨張する情動の氾濫。

それが、ニックの自傷行為の背景にあったのではないか。

私はそう考える。

そして、この自傷行為が自罰行為へと自己膨張したとき、自らを人身御供(ひとみごくう)として、犯してもいない殺人事件の犯人にまで下降してしまうのだ。

ここまでニックは、自己を追い詰めないと気が済まないのか。

その心の闇の風景の広がりに、身震いするほどである。

色褪せてくすんだ映像で匍匐(ほふく)する、ニック兄弟の遣り切れないほどの切なさが、激しく胸を衝いてくる。

そんな映画なのだ。



3  塀の中にいる父と、塀の外にいる息子との物理的距離の、永遠に埋まらないほどの絶望感



ニックの弟の逮捕
そこにしか辿り着かない場所に、ニック兄弟は呑まれていった。

拘置所である。

ニックの弟が塀の中にいる理由は明瞭だが、ニックの場合は、ソフィを殺害したイヴァンの身代わりとなったこと。

それ以外ではなかった。

「自分自身をみんなと共有する女性なので、笑顔と肉体で彼らに奉仕します」(前出)

ソフィの人物造形に関わる、トマス・ヴィンターベア監督の言葉である。

「笑顔と肉体で彼らに奉仕」するソフィだったが、相手が悪かった。

妹アナの乳房に触れる行為に象徴されるように、「瞬間的に頭が飛ぶ」と言うイヴァンの中枢に巣食う精神病理の様相は、ソフィの「奉仕精神」を〈性〉の挑発と捉え、200キロ近い体重で貪っていけば、相手は悲鳴を上げるだろう。

悲鳴を上げられて動顛したイヴァンが、ソフィを黙らせるために犯した行為が「殺人事件」に結ばれるのは必至だった。

では、なぜニックは、イヴァンの身代わりとなったのか。

ニックの性格傾向を考えると、巨漢なために女から遠ざけられ、益々、女に飢えているイヴァンのストレスを解消させる目的でソフィを紹介したが、情動のコントロールが効かないイヴァンが、思い余ってソフィを殺害した事件に責任を感じたこと ―― これが大きかった。

「彼はとても傷つきやすく、誰かが助けてくれることを熱望しています」(前出)

イヴァンとニック
これも、イヴァンについてのトマス・ヴィンターベア監督の言葉である。

監督が言う、「助けてくれる」「誰か」とは、ニックのこと。

久しぶりに再会しただけのイヴァンのために、不毛な喧嘩を強いられたり、女の世話までするのである。

この男の責任感の強さと、相手を思いやる優しさは尋常ではない。

しかし、この男の性格傾向の根柢に張り付いているネガティブな感情を思うとき、愛情対象を失い、人生に目的を持ち得ず、彼の母がそうであったように、アルコール漬けになっている彼の中には、常に、「生きていくこと」の営為に対するハードルの低さを感じざるを得ないのである。

だから、イヴァンの身代わりとなったと言うよりも、ニックの弟のように、「マーティンが全て」というようなアイデンティティを持ち得ない人生に、早々と見切りをつけていたように思われるのだ。

ニックの懊悩の深さは、その不幸な生い立ちによって決定づけられた苛立ちを随伴する分だけ、自己崩壊感覚の内的風景と同義であるようでもあった。

一方、「マーティンが全て」というアイデンティティで生きるニックの弟は、施設に預けられているマーティンと、電話で話すことが許された。

「パパ、いつ会えるの?」
「いつかな。しばらく先になりそうだ。皆、やさしい?」
「ウサギがいる」
「ウサギか?そうなんだ」
「会いたいよ」
「ああ、パパだって会いたいよ。でも心配ない。マーティン?」

ここで、マーティンの泣き声が漏れて来て、心配する父。

「聞いているか?泣くなよ」
「だって・・・」
「甘えられる人は?」
「いるよ。でも皆、食事してる」

父と子
泣きながら話すマーティン。

「じゃあ、お前も食べに行け」
「今すぐに?」
「そうだ。今すぐに。いつも想ってるよ。じゃあな」
「切っちゃうの?」
「切らないよ。お前が切れ」
「パパが切って」
「分った。“いちにのさん”で切ろう」

こうして、父と子の最後の会話が閉じていった。

塀の中にいる父と、塀の外にいる息子との物理的距離は、永遠に埋まらないほどの絶望的な距離を表現するようだった。

あまりに切なすぎる会話に、これ以上、加える言葉を全く持ち得ない。

その直後の映像は、拘置所の中庭で、偶然、再会する兄弟。

「おい、兄さんだ」

鉄格子のフェンスの向こうにいる弟に気づいたニックが、声をかけた。

「ニック」

笑みで反応する弟。

「何てザマだ」
「言えた義理か」

ニックも笑みで反応する。

見詰め合う二人。

「いつ、ここに?」とニック。
「3週間前」
「マーティンは?」
「どこか知らない・・・兄さんを想っていた」
「俺もだ。もっと話したかった」
「もっと沢山、会えば良かったよ」
拘置所の中庭でのニック
「電話しようとしたんだ」
「あのとき、俺たちは悪くなかった。良い兄貴だったよ。精一杯やった。俺も頑張ったよ」

弟は、無言電話の相手を特定できていたのだ。

その弟は、今、生後まもない赤ん坊を、必死であやしていた少年時代の「悲劇」について語ったのである。

唐突な話題の転換に異様な雰囲気を感じ取った兄に、最後の一言を放つ弟。

「でも、これまでだ」

その一言が聞き取れなかった兄が執拗に聞き返すが、刑務官に促されて、弟は去っていく。

叫びながら呼びかける兄は、急に襲ってきた右手の痛みによって、そこで卒倒した。

包帯を解いた右手の壊死が復元力を失って、頑健な男の体力を奪ってしまったのである。



4  受容され、リラックスできる時間をもっと保証してあげれば、「まだ、間に合う」のだ



ニックが覚醒したとき、既に、彼の右手は切断手術を受けていた。

あるはずもない右手が痛む幻肢痛を、捜査官に語るニック。

事件当時、右手を使えないニックが、遺体に残された両手の痕と矛盾するが故に、釈放されるに至るが、この間、弟の自殺を知ったニックは深い衝撃を受けたことで、捜査官に促され、漸く事件の真相を語ったのである。

釈放後、ニックが真っ先に向かったのは、かつての恋人・アナのところだった。

その用件は、イヴァンに会ったら、この辺りに近づかないことの伝言の依頼だった。

かつての恋人・アナとニック
どこまでも、責任感の強い男である。

そして、その日がきた。

ニックの弟の葬儀の日である。

教会のトイレで再会したニックとマーティン。

既に喪ったニックの右手には、包帯が巻いてあった。

そのニックはマーティンと短い会話を交した後、礼拝堂に入って行った。

ニックの弟のケースワーカーと、マーティンの通う幼稚園の先生も参列していて、マーティンに声をかけ、隣に座ることを勧めた。(ケースワーカーが常に子供の問題に対応する辺りが、さすが、「高福祉高負担国家・デンマーク」の底力である事実を認めざるを得ない)

「おじさんと座る」

マーティンは、そう答えて、ニックと共に、前の方の席に並んで座った。

「パパと座った席だ」

ニック兄弟の母の葬儀の日のことを言っているのだ。

「そうか・・・あとで、君の名前の由来を教えるよ」

ニックは、そう言った。

マーティンは父に作ってもらった、怪傑ゾロを意味する、「Z」と大きく書かれている紙を見せた。

この父子は、深い情緒的な繋がりの中で、二枚の同じ紙を共有し合っていたのである。

「離れていても、パパと一緒なんだ」

マーティンはその紙を左手に持ち、右手を伯父の左手に被せていく。

感極まって、小さく嗚咽を結ぶニック。

その顔を見上げるマーティン。

葬儀が始まった瞬間だった。

ニックは今、彼の内深くに張り付いている、少年時代の忘れ難いひと時を嫌でも想い出さずにいられない。

ニック(右)と
映像が用意たラストシーンは、あの日の小さくも、彼らなりに真剣に遂行した出来事だった。

「それを言うの?」と弟。
「静かにしろ。教会みたいにやるんだ。始めるぞ」と兄。

年の離れた赤ん坊に、「神の子」として、新しい生命を与える証とする洗礼を始めるニック兄弟。

「父と聖なる聖霊の名により、汝に命名する。“マーティン”」と兄。
「聖霊の名において、汝の名は、“マーティン”」と弟。

マーティンとの絆が延長されていくイメージを残す、この決定的な構図こそ、ニックを苦しめてきた少年期のトラウマを浄化する、一縷(いちる)の希望を印象づけるカットだった。

―― そして、ニックの内深くに張り付く、あの日の悲劇。

「可愛いな」

そう言って、生後まもない赤ん坊をあやすニック兄弟。

乳児をネグレクトする母親に代わって、兄弟は、スーパーで万引きしたミルクを与えていく。

「ママはどこだろうね」

タバコをふかしながら、赤ん坊に語りかけるニック。

まもなく、赤ん坊の名前を付けるために、適切な名を電話帳から探していく兄弟。

「マーティン」

これが、赤ん坊の名前として選択された。

そのマーティンに洗礼の真似事をするが、兄弟は入信の儀式を執り行っているのだ。

その後、帰宅した母親は、アルコールのことにしか関心がなく、それをニックが盗み飲みしたと決めつけて平手打ちを繰り返すが、気丈なニックは全く平伏(ひれふ)すことがない。

それどころか、転倒して失禁した母親を感電させてしまうのである。

いつものように、その母親が外出した後、赤ん坊の泣き声に気に留めることもなく、兄弟は隠し持っていた酒を飲み、部屋中、騒ぎ続けていた。

赤ん坊が息を引き取ったのを知ったのは、兄弟が眠りから覚めた後だった。

衝撃を受け、叫喚するニック。

これが、ニックの生涯のトラウマと化していく。

このトラウマが、ニックの人生に深い陰翳を鏤刻(るこく)するのだ。

そのニックが、今、その赤ん坊の名前を持つ弟の子の親代わりとなって、深い陰翳を払拭し、昇華する人生のイメージのうちに結ばれていくのである。

まだ、間に合う。

マーティンの健全な自我形成のアウトリーチの時間に、「まだ、間に合う」のだ。

マーティンをアダルトチルドレンにしてはならない。

大きな養育者の包括力をもって充分に愛され、受容され、リラックスできる時間を、もっと保証してあげれば、「まだ、間に合う」のだ。

ネグレクトのチェーン現象を、マーティンの代で止めねばならない

そんなメッセージを、この映画から感受したい。

―― 本稿の最後に、トマス・ヴィンターベア監督の言葉を援用して一言。

「“マーティンの父”か“ニックの弟”としてしか言及されないのは、とても興味深いことです。それが、彼のアイデンティティのすべてであり、生きる意味なのです。もし息子がいなかったら、すでに薬物の過剰摂取で亡くなっていたでしょう。息子の面倒を見ることで彼は生き長らえています」

ニックの弟の人物造形に関わる、トマス・ヴィンターベア監督の言葉である。

私は、「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命から免れ得なかった男が、“ニックの弟”としてしか言及されなかったのは、このような人生の選択肢に呑み込まれていく、一つの典型的パターンとして記号化された人物造形と考えている。

それにしても、心に染みる良い映画だった。


(2014年6月)

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