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2012年1月25日水曜日

ソナチネ('93)     北野武


<「約束された死」という「絶対状況」から逃げられない男の「心理的ホメオスタシス」 ―― 北野武流バイオレンス映像の最高到達点>



1  〈死〉と隣接する極道の情感体系で生きる男のアンニュイ感


「ケン、ヤクザ止めたくなったな。何かもう、疲れたよ」

物語が開かれてまもないこの台詞が、本作に相当の重量感を与えている。

この台詞の主は、北嶋組幹部である村川。

村川組組長である。

北嶋に呼ばれて、北嶋組の事務所に向かう車内で、村川組組員のケンに吐露した言葉だ。

そして、この台詞を補完する重要な言葉が、物語の中盤に村川の口から吐露されているので、その部分の会話も再現しよう。

村川の会話の相手は、幸。

レイプされていた所に通り合わせた村川が、強姦魔に絡まれて、射殺した因縁で、村川に寄り添うようになった若い女の名である。

詳細は後述するが、場所は沖縄でのこと。

「平気で人撃っちゃうの、凄いよね。平気で人殺しっちゃうっていうことは、平気で死ねるっていうことだよね」と幸。
「へへへへへ」


女の唐突の物言いに、村川は笑うばかり。

「強いよね。あたし、強い人大好きなんだ」
「強かったら、拳銃なんか持ってねえよ」
「でも、平気で撃っちゃうじゃん」
「怖いから撃っちゃうんだよ」
「でも、死ぬの怖くないでしょ?」
「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」

一貫して無駄な描写や説明的台詞のない北野映画の中で、唯一、投入された説明的台詞だが、しかし、その内実の形而上学性の濃度の高さを考えると、説明的台詞の範疇を突き抜けているとも言えるだろう。

その形而上学性の濃度の高い村川の言葉に、当然の如く、「あたし、強い人大好きなんだ」と反応する幸には理解不能であったが、この言葉ほど、このときの村川の心情を言い当てている表現はないのだ。

要するに、死に対する恐怖が継続力を持つと、その恐怖から解放されたいと思う感情に支配され、その解放感が推進力となって、却って、「死にたくなっちゃううんだよ」という負の情動に駆られ、自死に振れていくリスクを高めてしまうのである。

この村川の心情は、明らかに、「ヤクザ止めたくなったな。何かもう、疲れたよ」という心情の延長戦上にある。

また、この村川の心情が、堅気(かたぎ)になったはずのかつての舎弟が、今なおヤクザ稼業に身を置く中途半端さを、厳しく指弾するシーンは印象的だった。

「ご無沙汰しています」とかつての舎弟。

舎弟の名は津田。

今は喫茶店のウェイターをしているが、久し振りに、津田が村川組の事務所に顔を出したのを目視した村川は、厳しく咎めた。

「お前、組辞めて、田舎帰ったんじゃないのか」

弁明するだけの津田。

「ボーイならボーイらしい格好をして働けよ」
「ハイ」
「ふざけたことやってたら、ただじゃおかねェぞ、この野郎!」
「すいません」
「帰れ!」

一喝されて帰った津田が、性懲りもなく、再び村川の前に顔を出した。

後述するが、村川組の沖縄行きが決まった際に、村川に自己紹介する応援のチンピラの中に津田がいたのである。

「何でお前、そこにいるんだ」

村川をまたも怒らせた津田が、沖縄行きのヤクザ連中の面々の中に含まれていなかったことは言うまでもない。

これは、堅気になることを、普通の生活者の日常性と接続し得る唯一の保険と考えているような心境にまで、シノギで羽振りがいいが故に、シマ(利権)を守るために心労が累積していた村川の思いがストレートに表現されたエピソードだった。

現に彼は、堅気の男がノミ行為で得た金を村川組に収めないことを許さず、クレーンで海中に投棄させるリンチを命じたものの、その始末に関して、村川組幹部の片桐に任せたまま、現場を離れていくようなアンニュイ感を露わにしていた。

シノギを無視されたヤクザが逆に反駁(はんばく)されたら、それを許容する訳がない。

「男の観念」と「力の論理」の情感体系で生きることで、〈死〉と隣接する極道稼業の面々が、面子(メンツ)を潰されるような行為を許したら、他のヤクザ連中からシマを荒らされるからだ。

まさに、こんなヤクザ稼業への心労の累積が、沖縄行き行き以前の男の自我を巣食っていたのである。

しかし、事態は、村川の心情をせせら笑うように展開していった。


2  シンプルな構成の物語の簡潔な梗概


ここで、シンプルな構成の物語を簡潔に書いておこう。

今やシノギで羽振りがいい、北嶋組幹部である村川は、北海道での抗争によって3人の舎弟を喪った代償として、現在のシマを直接の北嶋組組長から譲り受けていたが、その北嶋から沖縄行きを命じられる。

北嶋組の友好組織である沖縄の中松組が、敵対する阿南組と抗争中ということで、中松組への助っ人になって欲しいというのが、その理由。

北海道での抗争の一件があって、気乗りがしない村川は、上下関係の厳しい上部組織の命令を断れず、村川組幹部の片桐や組員のケン、更に、助っ人数人を連れて沖縄へ行く。(画像は、沖縄の中松組。右は中松組幹部・上地役の渡辺哲)

村川組の沖縄行きは、村川組のシマを狙う北嶋組幹部の高橋と、敵対組織の阿南組と組むための北嶋組組長の陰謀であったが、真相を知る由のない村川には、沖縄に着くや否や、命を狙われる危険に遭うことで、自分たちの沖縄行きが、却って抗争中の阿南組を刺激する逆効果をもたらしたことを、中松組幹部の上地から知らされるに至る。

まもなく、村川組の助っ人や中松組組員から犠牲者が出るに及んで、中松組の配慮で、生き残った5人は、海の近くの廃家に身を隠し、そこで、見えない敵との命の遣り取りの不安に怯(おび)えつつ、中松組幹部の上地や弟分の良二たちのサポートを受けることで、異界のような島での非日常下の生活を繋いでいくのだ。

村川が強姦魔に犯された幸と出会ったのは、生き残った5人が海の近くの廃家で、「遊び」の世界に潜り込んでいる矢先の時期だった。

因みに、生き残った5人とは、村川、片桐、ケン、そして中松組幹部の上地、良二である。




3  海辺の廃家を基地にした「遊び」の世界の炸裂


かなりの蓋然性で死を約束させられた5人、とりわけ、ペシニズムの色濃い村川は、〈状況〉の苛酷さをストレートに受け止め、不安を隠し切れない片桐のリアルな反応と切れて、片桐を除く3人と共に、「遊び」の世界に潜り込んでいく。

ここでは、それぞれに意識の濃度の差が明瞭にあったとしても、「約束された死」という「絶対状況」から逃げられない男たち(正確には、「男たち」ではなく、「男」)の、「遊び」の世界の炸裂についてフォローしたい。

「遊び」の発端は、いつしか友情を育んでいたケンと、中松組組組員の良二の危険な「遊び」。

海辺で、頭上に乗せたビール缶を、至近距離で拳銃で射抜く「遊び」だ。

如何にも、チキンゲームを好むヤクザらしい「遊び」だが、ここに村川が加わって来て、村川主導による、チキンゲームの極北のようなロシアン・ルーレットが開かれた。

過緊張のケンが冷やかされる結果となった、このチキンゲームのオチは、拳銃に銃弾が装填されてなかったという他愛のないもの。

しかし、銃弾が装填されてなかったロシアン・ルーレットのシーンは、〈生〉と〈死〉の見えない際(きわ)の中に押し込められた状況の、非日常が分娩する恐怖と隣接するイメージに結ばれていく。

その夜、村川が見たロシアン・ルーレットの夢は、銃弾が装填されていた拳銃で、こめかみを撃ち抜くというリアルな恐怖を随伴するものだった。

このカットの挿入で、この構図が物語総体の括りになることが充分に想像し得るだろう。

ロシアン・ルーレットから開かれた「遊び」は、中松組幹部の上地による沖縄特有の、リズミカルな手踊り(カチャーシー)に継承されて、〈生〉と〈死〉の見えない際(きわ)の中に押し込められたの自我を武装解除させていくのだ。

海辺の廃家での紙相撲から、大相撲並みの本格的な土俵を身近な海草で作って、砂浜での相撲に興じる男たち。

アロハを着込んだ片桐を、「似合わないよ」といって哄笑(こうしょう)する村川の表情とは切れて、自我を武装解除できない片桐だけが、「遊び」の世界に潜り込めないのである。

いつしか、そんな片桐の表情に自然な笑いが生まれてきて、誰もいない土俵の中で、一人土俵をとる変容を見せていくが、常に一歩遅れるのは、未だ4人+1人(幸)が先行する、非日常の尖りを溶かしていく裸形の世界に溶融し切れないからだった。

夜になっても、「遊び」の世界が、なお延長されていた。

「落とし穴」を作って、笑い転げる村川。

幸と釣りに行く村川。

驟雨(しゅうう)に遭って、幸の裸を見て愉悦するが、何も起こらない。

このストイシズムが、北野武流バイオレンス映像を貫流している。

この夜は、再びカチャーシー。

手踊りするのは、仲良しコンビ。

ケンと良二だ。

二人のカチャーシーを厳しく指導するのは、名手の上地。

そして、「遊び」の世界のピークアウトは、浜辺での花火の打ち合い。

この花火戦争で、拳銃を使う村川。

夜間の花火戦争で映し出された光の点滅が、ラストでの最終戦争の伏線となって回収されるに至るのだ。

浜辺での花火の打ち合いの後、映像が映し出したのは、仲良しコンビの「遊び」の世界。

フリスビーを投げ合って、それを銃で撃つ。

全く当らないので、今度はフリスビーをボール代りにして野球に興じていた。

それを、廃船を陽射しよけにして見ている村川と幸が、声もなく笑っているばかり。

フリスビーが上に舞い上がって、それを追って来たケンの脚が、村川と幸の前でピタリと止まった。

投手役の良二の脚も止まり、凍りついた表情を残して、走り去って行く。

釣り人に偽装したヒットマンの拳銃の射程距離の中枢に、ケンの小柄な身体が捕捉されたのだ。

身動きできないで、その場で固まってしまったケンに向かって放たれた銃丸が、ケンの眉間を貫いた。

村川と幸の眼前に、崩れゆくケンの身体。


拳銃を持っていない村川は、まんじりともしないで、舎弟の〈死〉を視認するが、声を上げられないで呼吸音を封印するのみ。

ヒットマンの視界に収まっていない村川は、危うく難を逃れたのである。

見事な構図の後に待つ構図もまた、説明的描写を拒否する映像世界の独壇場だった。

その独壇場の映像は、生き残った仲間が遠望する浜辺を占有し、眼前で喪った舎弟への弔いを印象づけるように、一人、フリスビーを投げている村川のロングショットを映し出して、「遊び」の世界の終焉の構図のうちに括られていった。


4  「防衛的大義」の陰翳感  「攻撃的大義」の突破力


「今回のコンセプトは、死ぬってわかってる奴が、日常的にビリビリ死ぬことを常に考えてるわけではない。完全に死ぬことっていうのは命題としてあるんだけど、そこに行くまでは結構のんびりしてるっていうのが好きっていうかね。(略)死なんていうのは一応究極の行為だけども、それは一瞬にして現れるだけで、その前の段階ってわりと皆のんびりしてるんじゃないかと思う。

それはまあ、特攻隊もそうだったろうし、俺が講談社に殴り込んだのもほとんどそうだったし―― 直前まで皆でワイワイカラオケうたって飲んでて、それでいきなり行ったわけで。だから、死なんていうのは一応究極の行為だけども、それは一瞬にして現れるだけで、その前の段階ってわりと皆のんびりしてるんじゃないかと思う。

この間『平成教育委員会』のプロデューサーが自殺したんだけど、それもいきなりなんだよね。だから、どうもそういうもんじゃないかなあっていうかね。死のうとかいう奴が、べつに死ぬまでの過程で常にこんなふうに考えてるわけじゃなくて、ちょっとはあるんだろうけど、それまではわりかし普通にのんびりしてたり笑ったりなんかしてるっていう」(筆者段落構成)

これは、「武がたけしを殺す理由・全映画インタビュー集」(北野武著 ロッキング・オン刊 2003年)の中での、北野武監督(画像)自身の言葉だが、言葉の意味は良く分るが、些か粗雑過ぎないか。

特攻隊の例を出しているが、一概に、「そこに行くまでは結構のんびりしてる」という風に収斂されないのは事実。

人それぞれであるということ。これに尽きる。

実際のところ、特攻出撃直前まで悠然と落ち着き払っていた者もいたし、飲酒で荒れ狂う者もいたらしい。

知覧の「三角兵舎」の話は有名だが、残されている記録写真を見る限り、敵の目を欺くため林の奥に作った、半地下壕の三角屋根の兵舎の中で、特攻出撃前夜に隊員同士、和やかな談笑をする余裕を印象づけている。


しかし、そこは遺書を認(したた)める「聖地」でもあった。

静かに瞑想に耽って、穏やかな心境を維持しようと努めるメンタリティには、「約束された死」という「絶対状況」に向かう覚悟への内的時間を継続させるという、他人には見えにくい固有の世界が張り付いていたのだろう。

何より、彼らには「大義」があった。

〈死〉に向かう彼らの肉体を駆動させるに足る「大義」があった。

と言うより、本音では「敗北の戦争」と認知する知性が機能し得ていても、片道切符の「約束された死」という「絶対状況」に向かうには、それによって縋るしかない「大義」なしに、彼らの自我は壊れてしまうのだ。

だから彼らは、「大義」の正当性のうちに一切の情動を自己投入していくことで、「意味のある死」という幻想に潜り込んでいったのだろう。

「出撃に際して、兎角(とかく)死ぬことを考えがちだ。これは大いなる誤りである。我々の眼前には『死』ということは毛頭ない。任務遂行のただ一字あるのみである。死に行くのではなく、敵撃滅に行くのである。我々の一挙手一投足は、今後の国の運命にかかわる。これを思えば、この五尺の肉体がどうなろうともまったく問題にならぬ。(略)火達磨となって、最後まで死力を尽くして突っ込むのだ」

これは、YouTubeに投稿された「出撃2時間前の特攻隊員の手記」の一文である。

「我々の一挙手一投足は今後の国の運命にかかわる」と信じ切ることで、この若者は「我々の眼前には『死』ということは毛頭ない」と書き残した。

しかし、この文脈が抱え込んでいる内実は、自らの〈死〉が「犬死」でないと言い聞かせることで、「絶対状況」下の「約束された死」という不可避なデスティニーが内包する「負の情感」を、「意味のある死」という使命感に満ちた「正の情感」のうちに反転させたい思いであると言っていい。

然るに、彼らの自我に捕捉された「大義」が拠って立つものの基盤が脆弱なため、〈状況〉を突き抜ける「攻撃的大義」にまで昇華し得ず、特攻隊という「絶対状況」に追い込まれた者の、余裕なき「防衛的大義」の陰翳感の異臭を放つ空気を払拭し得なかったのである。

元禄赤穂事件を見れば瞭然とするように、〈状況〉を突き抜ける「攻撃的大義」が最も強いのだ。

「防衛的大義」の陰翳感と「攻撃的大義」の突破力。

哀しいかな、特攻隊には、その「攻撃的大義」による堅固な武装性が剝落していたのである。

翻って、そのことを考えるとき、堅固な武装性の程度は不分明であったとしても、フライデー襲撃事件の当事者である面々には、紛う方なく、「攻撃的大義」による情動の激発的集合があったと思われる。


但し、元禄赤穂事件は例外としても、フライデー襲撃事件の当事者である面々には、「三角兵舎」で遺書を認(したた)める特攻隊のように、「懲役刑」を約束されたかも知れないが、「絶対状況」下の「約束された死」という「負の情感」が張り付くことはなかった。(画像は、「フライデー」発行元の講談社本社。左が旧社屋、右の高層ビルが新社屋)

この違いを軽微なものとして処理することはできないだろう。

ともあれ、「フライデー」のターゲットにされた一般女性に対する暴力的な取材によって、守られるべきプライバシーが蹂躙された理不尽な振舞いへの激情的憤怒が、憎悪という継続力を有する感情が決定的な推進力となっていたので、「防衛的大義」にも届かないチキンハートの面々に対する、宴の時間を繋ぐ余裕含みのパワーが集合し、特段の感情の補完なしに「討ち入り」を可能にさせるに足る、「攻撃的大義」による情動炸裂を導いたのである。

ついでに書いておこう。

「平成教育委員会」のプロデューサーの自殺の一件については、全く不分明なので、北野武監督の言う通りかも知れないが、私事を書けば、若き日に自殺した親友が、その直前に暗鬱な表情を見せて私に会いに来たものの、そのシグナルを完全に誤読してしまった苦い記憶があり、一生忘れ得ないトラウマのようになっている。

〈死〉を前にした者が発信するシグナルの読み辛さ。

こういう厄介な問題が、どこまでも観念でしかない〈死〉という事態と無縁に生きている者には、「当事者性」が包含する問題の難しさとして、既に、能力の範疇を超えて存在するようだ。

ここから、本題のテーマに戻る。

「そこに行くまでは結構のんびりしてるっていうのが好きっていうかね」という北野武監督の言葉を曲解するつもりはなく、彼もまた普遍的現象として語っていないことは、物語を観れば、「何、バカなことやってんですか」と意見する片桐の例のように、「結構のんびり」できない者の人物造形によっても理解し得る。

では、なぜ、村川たちは、あれ程までに「結構のんびり」できたのか。

以下の稿で、それをテーマに批評を繋ぎたい。


5  「約束された死」という「絶対状況」から逃げられない男の「心理的ホメオスタシス」


追われるようにして、辿り着いた沖縄の海。

ブルースカイとブルーオーシャンの果てしない広がりの中では、点景でしかない廃屋の生活拠点は、そこに隠れ込んだ5人のヤクザにとって、「前線」の生臭さを嗅ぎ取るようなイメージとどこかで決定的に切れていた。

既にこの時点で、村川組の面々には、加勢の軍団として遥々やって来た沖縄での中松組の抗争が、中松組組長自身から、殆ど虚構の情報でしかない事実を知らされていた。

元々、沖縄行きを渋っていた村川にとって、「攻撃的大義」の突破力で押し切るような自給熱量の欠落もあって、その後に惹起した、命の奪い合いという厄介な事態を乗り切ったにしても、腑に落ちる格好の軟着点を手に入れることで、ヤクザの情感体系を充足させるに足る極道の行動規範に関して、どこかで、「我関せず」という投げやりな思いが塒(とぐろ)を巻いていたと思われる。

それでも、いつ襲って来るかも分らない敵に備える事態を強いられて、感情と現実が微分裂したかのような迷妄の中で、非日常下の日常性を繋いでいく外的状況に捕捉されたとき、唯でさえ、極道稼業に心労を累加させていた村川は、それ以外にない世界に潜り込んでいく。

「遊び」の世界への潜入である。


「幼児退行」と言ったら大袈裟かも知れないが、「遊び」の世界に耽溺する村川のゲームに、危機意識の希薄な舎弟のケンと中松組の良二は、退屈凌ぎの気分で自己投入していく。(画像左は、ケン役の寺島進、右は良二役の勝村政信)

一方、抗争の長期化を想定していない中松組幹部の上地もまた、村川が先行するゲームの世界に自然に溶け込んでいく。

上地のカチャーシーに象徴される、南国特有の沖縄の、鷹揚で解放感に満ちた、緩々(ゆるゆる)の世界の求心力は、異文化の臭気を存分に吸収する村川組の面々にとって、彼らの「遊び」の世界の律動感を決定づけていく。

体が緩み、心が緩む。

彼らの命を守るはずの拳銃が、「遊び」の世界の中の不可欠なアイテムとして機能することで、「前線」の生臭さを削り取る武装解除への振れ具合を加速させていくのだ。

非日常下の日常性の仮構による、ゆったりした時間が流れていく中で、今や、彼らの拠って立つ、極道の行動規範が分娩した「防衛的正義」の建前すら剝落していく。

この事態を異様な現象と把握していた片桐だけは、件の「防衛的正義」とは無縁に、「抗争のリアリズム」を放擲(ほうてき)していなかった。

彼はただ、アロハシャツを着て、ゲームの世界に合わせているだけなのだ。

一方、このような緩々の時間を捨て切れない村川の心理を分析すれば、以下のような把握のうちに要約できるだろうか。

即ち、「約束された死」という「絶対状況」から逃げられない男の、「心理的ホメオスタシス」という文脈である。

簡単に説明すると、こういう風に把握できるだろう。

「生体恒常性」という概念のうちに集約されるホメオスタシスとは、内部・外部環境によって生じた変化が出来したとしても、常に、生体の状態が一定に保持される生物固有の状態のこと。

「負のフィードバック作用」と呼ばれる、この作用の司令塔は、自律機能の調節を行う総合中枢である間脳視床下部であり、心臓の拍動や興奮の喚起といった物理的・精神的な刺激に反応する交感神経と、脈拍が緩やかになることで緊張状態から解放される副交感神経機能という、異なる二つの神経の均衡を司る自律神経系である。

この自律神経系やホルモン分泌の内分泌系が、「負のフィードバック作用」に関与することで「生体恒常性」を保証していくが、このホメオスタシスの生理的機能が精神面にも及ぶと考えるのが、「心理的ホメオスタシス」という仮説であって、この機能の過程が人間の心理的なバランスを保持させている。

これが、情動が生命を管理するホメオスタシスに関わる、人間の複雑な情動のメカニズムの一つの様態であると考えれば分りやすいだろう。

ヤクザ稼業への心労を累加させていた本作の主人公が、「約束された死」という「絶対状況」下にあって、「遊び」の世界に潜入していった心理的文脈を読み解くには、「心理的ホメオスタシス」という仮説によってしか説明できないのである。

従って、この文脈の根っこには、〈死〉と隣接する極道稼業と切れた、もう一つの、普通なる堅気の世界への情感回路が媒介されているようにも見えるのだ。

言葉を変えれば、抗争への嫌気が、村川をして、このようなゲームの世界によって相対化されていったということになるのだろう。

要するに、ゲームの世界によって相対化されるに足る濁った心情が、村川の心理の根っ子にどっぷりと張り付いているのだ。

それが、ロシアン・ルーレットの悪夢のカットで映像的に提示されていたと見れば、村川の心理の振れ具合が読み取れるのではないか。

拠って立つ精神面の安寧の基盤を、敢えて仮構せねばならない村川の、内なる濁った心情を浄化すること。

この内的要請が、異常なまでに「遊び」の世界に潜入していった、村川の自我を駆動させたのである。

私はそう思う。


6  「約束された死」を自己完結させた男の物語



釣り人に偽装したヒットマン(画像)によってケンが殺され、次いで、エレベータ内での銃撃戦では、片桐も上地も殺されてしまうに至る。

エレベータ内での銃撃戦の描写の凄さは、映像の見せ場の一つだが、ここはスル―しよう。

生き残った村川と良二は、エレベータ内で生き残っていた北島組幹部の高橋を捕捉し、事件の真相を聞き出すが、敵対組織であったはずの阿南組と組むために、羽振りが良い村川組を犠牲にして、中松組を解散させようと目論んでいたという、北島組組長の野望については、村川の想像の及ぶところであった。

高橋こそが、その野望の旗振り人であったと確信していた村川が、良二を促し、車ごと爆殺する。

そして、ここからは、「約束された死」の帰結としての「自爆」に流れ込む、極めてナルシズムの濃度の高い、見事に切り取られた構図の連射による映像が一気に開かれていく。

マシンガンを右手に抱え込んで、良二が停電させたホテル内での最終戦争である。

無論、そこには良二が随伴していない。

堅気願望の彼だけは、死なせる訳にはいかないからである。

大勢の敵を相手にした、たった一人だけの最終戦争を、些かスタイリッシュな映像は、村川の放つマシンガンの発砲の光が炸裂し、屋外に駐車させていある無機質な車の鋼板に乱反射するカットを切り取ることで、観る者に、夜間の花火戦争(画像)で映し出された光の点滅を想起させて、執拗に続く最終戦争が、異常なまでに「遊び」の世界に潜入していった男の「幼児退行」のゲームを、無惨に壊した狡猾な者たちへの情動爆発であったことを示唆して閉じていくのだ。

ラストカット。

女が待つパラダイスの世界に向かって、海辺への県道を走り切った後、路傍の一角で停車し、ロシアン・ルーレットの悪夢を確信的になぞるように、「約束された死」の帰結としての「自爆」に流れ込んでいく。

こめかみに当てた拳銃が火を噴いて、「約束された死」を自己完結するのだ。

これは、「約束された死」を自己完結させた男の物語以外ではないのだ。

余情の残るラストカットのうちに、それ以外にあり得ない括りを見せたナルシズムが、遠慮げに、そこだけは小さく表現されていた。


7  ローキーな気分を払拭し得ない〈内的状況〉の燻り ―― ロシアン・ルーレットの悪夢を具現して終焉させる物語を支配するもの


―― 今回の映画ですが、殴り込みに行ってあのまま主人公が生きて帰ってきてもよかったわけですよね。それをどうしても殺すんですよね、死ななきゃ絶対駄目なんですね。

「決着つかないんだよね。あそこで殺しに行って、機関銃撃つ前に『やっぱり帰ろう』っていう感じもあったの。だけどさ、ただでさえ失礼な映画なのになんでそんなことするんだつていう、三度まで編せないっていうのあって。一応最後死なないとお客納得しないかな(略)結局最後自殺するぜっていうのが、やっぱり日本人はいいかなっていうね」(「武がたけしを殺す理由・全映画インタビュー集」北野武著 ロッキング・オン刊 2003年)

これも北野武監督の言葉。

ここで北野武監督は、「一応最後死なないとお客納得しないかな」ということを言っているが、それは彼独特の照れ隠しのような気がする。

本作を見る限り、明らかに、本作は〈死〉を前提にして作られた映画としか思われないのだ。

「ヤクザ止めたくなったな。何かもう、疲れたよ」

映像序盤での、村川の言葉である。

前述したように、この言葉の意味は、単に堅気になりたいというようなフラットな感情の表現ではない。

〈生〉と〈死〉の危うい際(きわ)の中で、ヤクザ稼業を繋いでいくことの空虚感が、そこに投影されているのである。

この空虚感には、〈生〉と〈死〉の危うい際を彷徨する「暗い情念」が張り付いていて、それが、自分の生き方を能動的に選択していく近未来のイメージを削(そ)ぎ落しているのである。

ヤクザ稼業を止めたくても止められないという諦念のようなものが、村川の危うい自我を雁字搦(がんじがら)めに縛っていて、それが虚空を彷徨っているのだ。

「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃううんだよ」

この村川の言葉もまた、この文脈の延長上で把握できるだろう。

結局、生命の安全を堅固に確保していくという自我機能の相対的劣化が、ここに垣間見られるのである。

フライデー襲撃事件(1986年12月)に見られるように、恐らく、北野武監督の内側に巣食う「暗い情念」のようなものが、本作の中に投影されていると思えるからこそ、この映画が計り知れないパワーを持ったのではないか。

殆ど他人には見えにくい「暗い情念」が、本作の中に念写されているのだ。

だから、これは凄い映画になった。


まるで死神に取り憑かれたような村川の人物造形の中に、本作で仮託された作り手の、騒いで止まない情動の肝を見ることができるのである。

沖縄行きを頑として断り切れない辛さこそ、村川の自我に重く負荷されたヤクザ稼業への心労感の表れだが、村川は恐らく、その時点で、「暗い情念」のイメージとは程遠い沖縄という、特別なる「異界の地」が自らの墓場になることを妄想していたはずである。

だからこそ、「遊び」の世界への自己投入による「心理的ホメオスタシス」という、人間の本来的な機能が駆動したのではないか。

だから、相対的に劣化していた彼の自我は、「心理的ホメオスタシス」に流れていくレベルの、ギリギリの「健全性」が保持されていたとも言えるのだ。

そして何より、本作で特定的に拾い上げられていたロシアン・ルーレットの悪夢のカットが、村川の人生の括り方を想像し得るに足る重大な伏線になっていた。

マシンガンでの最終戦争の突入によって、辛うじて守られた生命を自らの手で終焉させる。

それは、「約束された死」以外の何ものでもないイメージをなぞるのだ。

パラダイスに充ちた女との逃避行を拒み、ロシアン・ルーレットの悪夢を具現して終焉させる物語の総体を考えるとき、多分にナルシズムの臭気が感じられるものの、そんな感傷を超えた厄介な際(きわ)の只中に、どこかで燻(くすぶ)るローキーな気分を払拭し得ない特殊な時期が分娩した〈内的状況〉の渦中にあって、村川=北野武のイメージの重なりを見ない訳にはいかないのである。

それは、ロシアン・ルーレットの悪夢を具現して終焉させる物語総体に張り付く、ローキーな気分を払拭し得ない〈内的状況〉の燻りと言っていい何かだったのか。


8  「攻撃的大義」の虚しさを印象づける極道稼業の融通不自在の悲哀


本作をまとめてみよう。

〈生〉と〈死〉の見えない際(きわ)の中に押し込められた、「約束された死」という「絶対状況」下にあって、それが分娩する恐怖を希釈化するには、限りなく、普通の日常性に近いイメージを被せた時間の中に潜り込んでいくこと。

それが、物語の過半を占有する男の「遊び」の世界への潜入だった。

〈死〉と隣接する、極道の情感体系を繋いでいく行程の総体に疲弊し切っていた男が、有無を言わせず押し込められた世界は、男が忌避し始めていた〈死〉と最近接する世界のリアリズムだった。

だから男は、この世界のリアリズムの渦中で、「遊び」の世界に潜り込む。

しかし、潜り込んでも忍び寄って来る、「約束された死」の恐怖との十全な折り合いがつくことなく、結局、事件の本質を知った男による最終戦争に自己投入していく以外になかったのである。

これが、この映画の基本的な骨格であり、この骨格の中で重要な時間を占有する「遊び」の世界の本質が、「心理的ホメオスタシス」であったということ。

その辺りに、本作の基幹テーマが垣間見えるだろう。

男にとって、堅気になることだけが唯一の保険であったが、それが幻想に過ぎないリアリズムの重量感をも感受していた男には、もう、どこにも逃げ場所がないのだ。

そんな男には、「なんくるないさー」(「なんとかなるさ」)のイメージを有する、沖縄の緩やかな世界と完全に乖離した、闇の世界での命の遣り取りを不可避とした。

沖縄の緩やかな世界で駆動する舎弟を喪った男には、同様に斃れていった仲間たちの〈死〉を犬死させないための「生き方」=「死に方」だけが、唯一の選択肢だったのだ。

男は、マシンガンを片手に、今や自分と敵対する親分衆たちや、その舎弟たちとの最終決戦しか選択肢が残されていなかったのである。

堅気になることの担保を持ち得ない男が、せめて成し得る行為は、なお生き残った、沖縄の若き極道を堅気にさせてあげることだった。

だから男は、「殺すためだけの拳銃」を持たせなかったのだ。

若き極道もまた、一度だけ、復讐のために、男から「殺すためだけの拳銃」を持たせる配慮を受けたが、彼は拳銃を持つことを拒み、貴重な車を犠牲にしてまで、最大敵対者を爆殺したのである。

「約束された死」の決定的な記号である最終戦争を、運良く(と言うより、「運悪く」)生き延びた男には、自分を待つ女の世界への生還という逆転劇が生まれるに至ったかに見えた。



女のもとに走る男の車が、女との物理的距離を最近接させた辺りで停車し、そこで男は躊躇なく、自らのこめかみに向かって銃丸を放ったのだ。

観る者を納得させるために男を殺さざるを得なかったと語る、作り手の思いとは裏腹に、映像で映し出された男のラストカットは、極道の情感体系で生きてきた者の、それ以外にない自己完結の有りようであったことが印象づけられるのだ。

男には、女との刹那的な時間を繋ぐだけの、「逃避行」という名の逆転劇の選択肢に流れ込んでいくことを、初めからイメージ化されていなかったはずだ。


女が待つ海辺の空気の、そこだけは緩やかに開かれた、沖縄の清澄な空気を嗅ぐこと。

だから男は、その空気を嗅ぐためだけに車を走らせたに違いない。

既に堅気になる保険を捨てていた男には、「防衛的忠義」を押し付けた自分のボスの裏切りのために、無惨にも命を落とした極道仲間への「防衛的大義」を捨てていないことを、自ら具現する以外になかったのであろう。

男にとって、海辺の一角で興じた「遊び」の世界のパートナーたちは、何より代え難い「戦士」だったからである。

それは、極道の世界で生きる者が、拠って立つ「攻撃的大義」と言っていいが、このような、「欲得」のために命の遣り取りを不可避とする世界での、「攻撃的大義」の虚しさを印象づける本作を通底するのは、普通の日常性に戻ることの困難さを内包する極道稼業の、拠って立つ情感体系の尖り切った融通不自在の悲哀である。

これが、北野武流バイオレンス映像の最高到達点と思われる、本作に対する私の批評のエッセンスである。


(2012年1月)

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