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2013年4月25日木曜日

リアリズムの宿(‘03)       山下敦弘



癖になるほど面白いオフビートコメディの最高傑作>


序   癖になるほど面白いオフビートコメディの最高傑作




何度観ても、笑いを堪えられず、ラストの「小さな救い」では心を打たれ、涙を誘われてしまう80分間の短尺の映画に詰まっているものは、オフビート感満載の滋養ある青春ドラマの訴求力の結晶である。



ひたすら、人間という厄介な存在に興味を持つ作り手の、その観察眼の鋭い切れ味は、決して「空白」の時間に流れない、人間同士の内的交叉が生む絶妙な「間」の中で、「情感」の出し入れの営為を惜しまない、この国の人々の呼吸のリズムを把握する能力の高さに起因するのだろう。


山下敦弘監督の独特の空気感が支配する、その映像宇宙が縦横に弾けた本作は、癖になるほど面白いオフビートコメディの最高傑作として、今でも、等価交換不可能な私の宝物となっている。




1  二人の若者の距離感を通して生まれる、「間」の感覚の軽妙な可笑しさ



見るからに寒々しそうな、初冬の曇天の日。

荒波寄せる日本海に面する、鳥取県鳥取市河原町に国英(くにふさ)駅がある。

ウィキによると、駅舎内部に乗車駅証明書発行機があるだけで、木造駅舎は待合所以外の部分が解体されていて、難読駅名として知られている無人駅である。

その駅舎の小さな構内の一画に、大人一人分の距離を保持して、二人の若者が気まずそうに、無言で立っている。

そこに、背の高い若者の携帯が鳴った。

「あ、俺だ。ちょっとすいません」

隣に立つ男にそう言って、その若者は、駅舎の寒々しい構内を離れて、携帯を取った。

「もしもし、船木。今、どこ?え、マジで。え…えまじで?2度寝?…5度寝じゃねぇよ、全然笑えねえよ…こっち着いちゃってるからさ。…え、来てるよ、挨拶したよ。しない訳ねぇじゃねぇか、顔、知ってるんだから。いや、だから直接しゃべったことねぇから…うん、大丈夫だけど、とにかく早くこっち向かってよ。うん・・・」

ここで、若者は、構内で待機しているもう一人の若者と交代し、携帯を渡した。

「もしもし、まだ家出てないの。…うん…うん。で、俺どうすればいいの?… 知ってるけど。行こうと思えば。いや、怒ってないよ。あ、怒ってないけど、来てよ早く。…うん…うん、分った。あ、坪井さんて俺より上?…いや年……あ、下!下!オーケーオーケー!うん、分った分った。じゃ」

携帯を切ったその若者は、駅舎の構内で待機している、先の若者に携帯を返した。

「ありがとう」
「何て、言ってました?」
「…うん…まぁ、色々言ってたんだけど・・・とりあえず俺、旅館の場所知ってるから・・・」
「はい」

ここで、相当長い「間」ができる。

「旅館の場所知ってる」と言いながら、ずっと沈黙を保持する男の「非行動」を感受した背の高い若者は、一言、言葉を添えた。

木下(左)と坪井
「行きますよ」

遠慮げにそう促されて、「非行動」の若者は、何も言わず、先に歩いていく。

その後に付いていく背の高い若者。

これが、本作の冒頭のシークエンス。

4分間の長回しである。

観る者に提示されたのは、二人の若者が相互に顔を知っている程度の関係であること。

そして、何某かの目的で鳥取県に来たが、二人の若者を仲立ちし、この「旅行」のプランナーらしき男が、まだ来ていないという事実である。

その理由は、件の男が寝坊してしまったこと。

その名は、船木。

「非行動」の若者の名は、木下。

後に、背の高い若者の名は、坪井という事実が分明になる。

以上、群を抜いて面白い本作のエッセンスが、この冒頭のシークエンスのうちに象徴的に描き出されていると思えるので、その詳細を再現した次第である。

この冒頭のシークエンスのうちに象徴的に描き出されていたもの ―― それは、「友達の友達」という内実の乏しい関係であるに過ぎない、二人の若者に特化された関係が表現する、対象人物間の心理的距離感を通して、そこで生まれる「間」の感覚の軽妙な滑稽感であり、且つ、その時間が延長されていくときの、「非日常」のゾーンに侵入していくが故に醸し出すだろう、「間」の感覚の微妙な交叉が累加されていくイメージに結ばれる滑稽感であると言っていい。

その名前を記憶する程度の範囲でしか、相手をよく知らない。

知らないけれど、この居心地が悪い「非日常」のゾーンを突破せねばならない。

木下が拘泥したのが、何より、話法のスタイルであったという事実は興味深い。

相手が敬語で話す年齢の確認か否かについて、木下は拘泥したのである。

この国では、相手との適切な距離感が測りにくいとき、話法のスタイルを定めるために、年齢差や学年差を確認する場合が多い。

「俺より下!オーケーオーケー!」

この反応で、木下が了解し得たのは、敬語で話す緊張から解放された一縷(いちる)の安堵感である。

それは、仮に議論になったとしても、自分から譲歩する必要がないという程度の安堵感である。

二人の若者の関係の中で形成された空気が作る、居心地悪き「間」の感覚を埋めるのは「言葉」だが、その「言葉」を積極的に紡ぎ出せないときでも、私たちは、沈黙という名の内的世界が生む「間」の渦中で、言語化し得ない寸止めの際で「言葉」を創り出しているのである。

「言葉」を切に必要とするのは、近接する他者との関係が希薄であればあるほど、積極的に紡ぎ出されねばならないからである。

それは、「『間』の日本文化」(朝文社刊)で、剣持武彦が書いているように、「『間』」という概念が、空白な状態とか、あるべきものが欠落した状況をいうのでなく、むしろ、積極的に創造されたものとしての『間』である」のだ。

積極的に創造されていくメンタリティが向かうのは、大抵、相手との闘争回避の方略の駆使である。

それは、物理的に近接する他者との関係を、限りなく友好的に仮構せねばならないからである。

即ち、「間の文化」の本質には、「鋭角的闘争回避の心情」が隠し込まれていると、私は考えている。

 柔道、剣道、空手、野球、相撲、等々の「間のスポーツ」は、生け花や茶道に象徴される伝統的な「間の文化」と、その根源的メンタリティにおいて殆ど重なり合っていると言えるのである。

 全てにおいて、儀式的な振る舞いが魂に脈略する形式主義の様相を呈していて、その中枢には、「間合いの精神」が重要視されているのだ。

 その「間」の中で、私たち日本人は紛れもなく、短絡的に炸裂しないレベルの、「鋭角的闘争回避の心情」というスキルを身に付けてきたのである。

 このスキルの累加の行程を通して、「察しの文化」を構築してきたのである。

閑話休題。

かくて、「鋭角的闘争回避の心情」というスキルを身に付けている途上にある、普通の若者然とした木下と坪井は、状況悪化の空気が漂流する中で、当然、そこで言い争うことなく、居心地悪き「間」の感覚を感受しつつも、何とか、駅の小さな構内から一歩前に進むことが可能だったという訳である。

それこそが、80分という尺の短い個性的映像を凝縮した、この冒頭のシークエンスの象徴性が際立つ所以であった。

4分間の長回しで露わにされた、不安含みの「友達の友達」という内実の乏しい関係が、ここから開かれる滑稽だが、しかし、相応に「滋養充分」な経験を累加させていくことで、「非日常」のゾーンが分娩する時間に捕捉された、都会育ちの観念系先行の若者たちにとっては、得難き人生訓になっていく。

以下、その辺りの問題意識を以って、この一級のコメディを批評していきたい。



2  脆弱な「防衛機制」を削り取っていく「リアリズムの宿」の最終到達点



二人の若者の「旅」の目的がロケハンにあるという事実は、共通語を捨て切ったタクシードライバーとの滑稽な会話の中で明らかにされるが、肝心の船木なる人物が不在であることによって、宿泊予定の宿もリザーブされていないから、ロケハンどころの問題ではなくなった。

いつもと変わらぬ日常性を繋ぐ世界の土手っ腹に、3人で初めて成立する「チーム」の媒介項の不在(船木)によって半壊した状況下で、ロケハンという目的の達成が壊されることで置き去りにされた二人の若者が、丸ごと、「非日常」の緊張感を引き摺る形で潜り込んでいく。

当然、本来の目的の達成とは無縁な「非日常」の様相を武装解除された、惨めな「心の構え」で潜り込んでいっても、「友達の友達」という、内実の乏しい関係を昇華できないのは当然だった。

「木下さんは、あんまり喋るとか、嫌いなんですか?」
「聞かれたら答えるよ」

これが、二人の意味のない会話の中で拾われていた。

後述するが、二人の若者は、第三者の介在によって一定の距離を縮めていったが、二人だけになると、どうしても発展的な言語交通に繋げないのである。

年齢差の問題を包含する、「鋭角的闘争回避の心情」というスキルを相応に内包する二人の若者がそこにいて、それが、微妙に揺動する空気が作る「間」を埋められないからだ。

発展的な言語交通に繋げないエピソードは、同じ浜辺での無味乾燥な遣り取りのうちに止めを刺すだろう。

日本海(イメージ画像・ブログより)
荒涼とした日本海の浜辺。

そこに、手持ち無沙汰の二人が身を置いている。

海に向かって、坪井が物を投げているのを見て、木下はほくそ笑んだ。

「何すか?」と坪井。
「こうゆうとこ来てやることないと、無意識に何か投げちゃうよね」と木下。
「そうすか。こうゆうとこ来てやることないと、砂に何か書いちゃいますよね」と坪井。

木下もまた、砂に何か書くというような、手持ち無沙汰のさまを露呈していたのである。

ロケハンという本来の目的は、船木の不在と、埋め難い関係性の浮遊感によって自壊してしまっていて、糞詰まりの状態を延長するばかりだった。

暖を取る敦子
そんな二人の下に、半裸の女の子が走り寄って来たのは、そのときだった。

泳いでいたら、衣服も何もかも、全て流されたというのだ。

女の子の名は、敦子。

21歳で、東京の原宿から来たと言う。

焚き火で暖を取り、簡単な会話を交叉させていき、まもなく、敦子のために間に合わせの服を買って来て、会食をするに至る。


二人は温泉街の宿に同宿するほど敦子と意気投合し、女湯に3人で入る程の「おいしい時間」を共有する。

敦子(左)
敦子という第3者の介在によって、男二人の味気ない空気を抜け出して、いつになく饒舌な木下が舞い上がっていた。

「何かテンション高いっすねぇ」と坪井。
「全然一緒だよ」と木下。
「結構、可愛いっすよねぇ」

こんな調子で、「おいしい時間」を共有していた二人だが、温泉宿のバーで、「性」に関わる話題を敦子に突っ込んでいた「童貞男」の木下の、要領を得ない滑舌にインボルブされた坪井は、6年も付き合っていた恋人と別れたばかりの事実を告白する。

その直後の坪井の悪酔いを、気乗りのしない木下が介抱するが、密かに思いを寄せる敦子との「おいしい時間」の共有をダメにされた不満が、木下の態度のうちに明瞭に露呈されていた。


ロケ地三朝温泉(みささおんせん)(ウィキ)
このような交叉を経て、短い期間だったが、そこで共有した、ほんの少し風景の異なる、「非日常」の経験の積み重ねの中で、いつしか、二人はお互いの距離を縮めていく。

プライバシーを語り、発想や意見の違いを口論するまでに至るのだ。

「あ、出てないわ。女の人、出てないですよね」

これは、ひょんなことで宿泊するに至った民家で、殆ど留守番のような感じで暇を持て余している二人だったが、テレビゲームで時間を潰す木下に、転寝(ごろね)していた坪井が、木下の作った自主製作映画に対して、抑制気味に発問した言葉。

「だから、女の匂いって何だい?」

童貞を自ら公言した木下は、坪井の発問に尖りを感じてしまったらしい。

「え?」

思いもかけぬ木下の反駁に、戸惑う坪井。

「じゃ、あれかよ。戦争映画は、戦争に行った奴じゃないと撮れないって言うの?」
「別にそういうこと言ってないでしょ」
「自分は、6年間女と同棲したことあるから、何?その、恋愛映画撮る資格あるって言いてぇの」
「ひがんでる」
「ひがんでねぇよ」
「そういうこと言われると、腹立つんだけど」

本気で怒って、黙り込む二人。

長い「間」の中で、睨み合っている二人がそこにいた。

これは、退屈なだけの二人の若者との共有する時間に飽きた敦子が、不意に去っていった後、たまたま食堂で出会った、地元の気のいいヤクザ風の男から誘われ、その家に厄介になった木下と坪井が、決して声高ではないが、物語の中で初めて見せる、感情を露わにした本音の言い合いである。

いつしか二人は、互いの自我をコンフリクトし合う関係にまで進んでいたのである。


それも、敦子という、メタファーのイメージが漂う「謎の女」との「おいしい時間」の共有が、二人の関係の形式性を溶かしていく推進力になっていたのだろう。

それは、二人の隔たった距離感の中で作られる「間」が生む、隠し込まれた言語交通のバリアの一角が、崩れ出していった事実を検証する由々しきシーンであった。

「鋭角的闘争の回避の精神」の中に潜入していく余分な時間が、ここに至って削られていたのである。

「リアリズムの宿」
そんな彼らが、最後に到達したのは、「森田屋」という名の「リアリズムの宿」だった。

今にも喘息で死にかかった主人がいて、そこで吐き出される激しい喘息音は、同じ空間に呼吸を繋ぐ二人の若者の、脆弱な「防衛機制」を削り取っていく。

隣の部屋から、この家の祖父が寝込んでいて、都会からの「客」を見ているようなのだ。

「セッティングできました」

「森田屋」の唯一の働き頭である、子持ちの女将の言葉で部屋に案内された二人は、物置部屋のような「客室」を見て、思わず、「あのう、この部屋しかないんですか?」と聞き返す始末。

「風呂、いつでも入りますけん。もう、皆、入りましたけん」

更に、「リアリズム」が追い打ちをかけていく。

小さな電気ストーブがあるだけで、お膳には汚れが目立つ風景を目視して、無言の二人の若者。

「リアリズムの宿」の風呂場
食事の支度をしている女将の後方から、全裸になって風呂場に向かう坪井が、そこで眼にしたのは、湯垢とカビだらけの風呂場の汚れ切った風景だった。

浴槽の蓋を開いてみたら、異臭が漂っているのだ。

子供のいる貧しい所帯の人たちが、一日の疲れを癒すために入浴した後の浴槽の異臭は、日本海に面した過疎地の一画が発する、しごく日常的な生活の臭気以外の何ものでもなかった。

「止めた方がいい」

客用の浴衣に着替えて、部屋に戻った坪井と入れ替わりに、木下が風呂場に行こうとするときに放った、この坪井の一言で、入浴シーンなしで、あとは期待できない食事を待つのみ。

大鍋の味噌汁を運んで来た、女将の子供の小学生がおたまを落として、その替えを要求しても、反応しないで戻ってしまう小学生。

この子なりに、勉強の合間で母の手伝いをしているので、予定外な要求に対する世間擦れした対応ができないのだろう。

ロケ地・鳥取県の紅葉スポット「芦津渓谷」(イメージ画像・ブログより)
夕食と言っても、大きな鍋に、殆ど中身の入っていない味噌汁が提供され、その食事も「宿」のイメージと乖離する風景に、二人の若者は為す術がなく、「もう、食おう。ね」という坪井の一言のうちに収斂されるしかなかった。

そして、ツインという名の臭気の漂う、2つ並べたせんべい布団。

そこで、二人は噴き出してしまうのだ。

滅多に経験できないような時間の中で、急速に擦り寄っていく二人の若者の感情の変容は、ロケハン目的で過疎の町に降り立った彼らにとって、未知のゾーンでの「リアル」な経験こそが本物の滋養になるという、まさに「青春の旅」の一駒として貴重な情景を検証するに足るものだった。

円滑で発展的な言語交通に繋いでいくシーンについての詳細は後述するが、ファーストシーンでシンボライズされた、「間」の取り方を十全に測り切れない二人の若者の「青春の旅」は、せんべい布団に包まれた笑いのうちに昇華されていくのだ。

笑いとは緊張の緩和である。

彼らは、「友達の友達」という内実の乏しい関係が生む緊張を、最終的に解きほぐすに至ったのである。

観る者が、含み笑いを抑えるのに苦労するような、丸ごとオフビートの映画は、実質的に、このシーンで閉じていったと言えるだろう。

以下、稿を変えて、本作を総括してみたい。



3. 非日常的な「コント」→「ハネムーン」から、「リアリズム」という日常への変容の風景




ラストシーンで登場するJR山陰本線・岩美駅(ウィキ)

主人公二人の若者が宿泊した宿と、そこで経験した出来事を俯瞰するとき、私はこの物語の流れの要諦を、簡便に、「コント」→「ハネムーン」→「リアリズム」という風に解釈している。

二人だけのときは、彼らのプライバシーや映画観の違いなどの交叉が小出しにされても、溶融できずに宙に舞っている浮遊感だけが印象づけられるばかりだった。

ところが、そこに第三者が介在することによって、彼らの距離感が生む「間」が希釈化され、そこで生まれる言語交通は、相対的にグラデーションの明度を良好な風景のうちに変容させていく。

ウィスキーのボトル騒動や、外に備えてあるだけの、「露天風呂」という名の五右衛門風呂、バンジージャンプの傷の話などで相応に盛り上がった、最初の宿での外人の主人との滑稽な交叉は、殆ど「コント」の乗りであると言っていい。

そして、「コント」の乗りの滑稽譚の後に待ち受けていたのは、正体不明の半裸の女の子との絡み。

フォトジェニックな映像美を提示した敦子との出会い
半裸の女の子、即ち、敦子との絡みを通して、寡黙な木下のテンションを高めに誘導していく半面、年下の坪井の失恋譚のエピソードを拾い上げていった挙句、そこだけは目立って、デヴィッド・リーン監督の「ライアンの娘」(1970年製作)のように、フォトジェニックな映像美を提示し、視覚刺激満載のサービス付きで出現したと思ったら、ふらっと消えていく敦子の情感の揺動を乗せた、束の間の「ハネムーン」のゾーンが挿入されることで、浮遊感だけが印象づけられた二人の希薄な言語交通の交叉のうちに、頼りなげだが、手持ち無沙汰の糞詰まりの状態を解放系に変換させていく、鮮度良好の換気孔が相応に配備されていくようだった。

彼らにとって、この「ハネムーン」のゾーンへの侵入は、隠し込まれたプライバシーが顕在化(「異邦人」の挿入の絵柄の見事さ)していく契機ともなることで、極めて「おいしい経験」であったと言える。

「ハネムーン」
しかし、「ハネムーン」の後に待ちうけていたのは、正真正銘の「リアリズムの宿」だった。

日本海の荒波が怒号するように騒ぐ、厳しい風土で生きる生活者の裸形の様態を露わにする、旅館とは名ばかりの「全身リアリズム」の世界が、都会育ちの観念系先行の若者たちの中枢を、ほぼ完膚なきまでにに生獲してしまったのである。

彼らにとって、このゾーンを通過していくことで体感した時間は、決して、「一日でも早く忘れたい何か」ではなかった。

それは、彼らの魂の土手っ腹に、「旅のリアリズム」が、このうえなく大切な滋養になることを決定的に検証する何かだった。

「コント」の宿で
この検証は、それまでの「コント」→「ハネムーン」の懐の中でも、「滑稽」と「小さな救い」という潤滑剤を供給し、手持ち無沙汰の二人の言語交通の換気孔を配備させていく程度において滋養になったかも知れないが、しかし、この「リアリズムの宿」だけは、自主製作の映画を創る志を持つ若者の、その魂の中枢に噛みつくほどの学習を濾過させていったのだ。

それが、以下の会話のうちに収束されていったのである。

詳細に再現してみよう。

異臭のする布団に包まっている二人。

突然、坪井が笑い出す。

「何?」と木下。

坪井の笑いにリズムが合っている。

「いや、ちょっと思い出しちゃって。ここ、ツインって」

ここで、爆笑する二人。

「味噌汁多いよな。ハハハ」

木下も笑いが止まらない。

「風呂、汚ねえし。ハハハ」

坪井の笑いも止まらない。

「子供多いし」と木下。
「旦那、死にそうだし」と坪井。

「リアリズムの宿」を愚弄する会話のように聞こえるが、彼らは、決して「宿」を兼営する家族を軽侮している訳ではない。

軽侮しているなら、その不満が怒りに結ばれているはずである。

同様に経済的に困窮している彼らの反応は、「リアリズムの宿」が放つ「全身生活臭」の中に、風土に呼吸を繋ぐ人々の逞しさを感じ、彼らなりに受容しているのだ。

彼らの笑いには、自己基準の「アート」に拘泥する者に特有の、膨らみ切った毒気がないのである。

低層生活者への視座を捨てない、自主創作活動への「原点回帰」を確認したと言い換えてもいい。

現に彼らは、一頻り笑い転げた後で、ユーモアなしの会話に踏み込んでいく。

本作で初めて、二人は、本来のテーマに寄り合っていくのだ。

「勝手に消えやがってよ」

勝手に消えていった敦子と二人
彼女に気があった木下が、笑い含みで、敦子の話題に振れた後、そこだけは真剣に、坪井に話しかけた。

「戻ったら忙しい?」
「まあ、バイトありますけど」
「いや、映画の方」
「ああ・・・別に大丈夫ですよ」
「じゃ、帰ったらさあ・・・」
「ハイ」
「何か。何か書いてよ」
「一緒に書きましょうよ」
「いいよ」

この直後、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の朗読が、「宿」の子供の声を介して、冥闇の画像の中で聞こえてくるが、このカットなしに、底辺に生きる者への思いに同化する、作り手のメッセージは充分に理解できるものだっただけに、敢えて、原作に妥協するような構図の提示に違和感を覚えたのは事実だが、物語総体の中では抹消的な問題に過ぎない。

それ以上に、二人の若者の感情の溶融は、「リアリズムの宿」が放つ「全身生活臭」を受容するが故に生まれた決意表明だったということに尽きるだろう。

それは、自分たちが都会に戻って開かれる、その創作活動の滋養になるイメージを暗示する情報源と化すに違いない。

彼らのロケハンの成就は約束されたのである。

翌日、「家出娘」を想起させる敦子の正体が明瞭になり、束の間、「ハネムーン」の時間を共有した質感を有した者の簡便な別離を経た後、5度寝の船木が現れて、物語を引っ張り切った二人の後方から、遅れた分だけの距離を開けるかのような歩行を繋ぐカットのうちに、上出来のコメディは閉じていく。

結局、本作は、非日常的な「コント」→「ハネムーン」から、「リアリズム」という日常への変容の風景を見せることで、「リアリズムの宿」という「全身リアリズム」に辿り着くまでの、オフビート感満載の滋養ある青春ドラマだったのである。

山下敦弘監督
「主人公のふたりの男は東京で自主映画を作っている男たちで、そのふたりがサエない旅を通して少しだけ前向きに心を通わせていく。映画だけじゃなく、何か作品を作っている人はどこか生身の人間が苦手なんじゃないかと僕は思う。人間が嫌いなのではなく、逆に興味があり、好きだからこそ臆病になってしまう。誰にも強要されない自主映画を作ってる主人公のふたりは、まさにそういう人間だ。つまり、僕自身でもある。結果、なんともやさしい映画が出来上がった。 ひとりでじっとしていたら、そこにドラマは生まれないが、人と向き合いながら歩き続ければ小さいながらもドラマが生まれると思う」(Director's Notes・『リアリズムの宿』 公式サイトより)

これは、山下敦弘監督の言葉。

まさに本作は、「コント」=「滑稽」、「ハネムーン」=「小さな救い」、「リアリズム」=「原点回帰」を作品に包括させる、山下敦弘監督の映像宇宙の独壇場だった。

(2013年4月)

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