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2013年12月8日日曜日

女相続人(‘49)      ウィリアム・ワイラー



<「過剰学習」なしに突き抜けられなかった女の自立と再生の物語>



1  心理描写に優れたウィリアム・ワイラー監督の傑作群の一つの極点



本作は、紛れもなく、一級の名画である。

常に高い水準の作品を世に出してきたウィリアム・ワイラー監督の傑作群の中で、「ローマの休日」(1953年製作)や「ベン・ハー」(1959年製作)と言った、人口に膾炙( かいしゃ)された作品よりも、私は、「大いなる西部」(1958年製作)、「噂の二人」(1961年製作)のような心理描写に優れた作品の方に愛着が深い。

そして、何と言っても、本作の「女相続人」。

これは絶品である。

心理描写に優れたウィリアム・ワイラー監督の作品の一つの極点が、この映画にはある。

ところが、これほどの名画が観られることのない理由の一つに、映画を紹介する日本の解説の、本作のヒロインの人格像に対する信じ難き偏見があると、私は考えている。

例えば、以下の通り。

「もてない余りに意地悪くなった女の心情を余す所なく語って、世の独身男性の心胆寒からしめるものがあるのだ」
「父の死に際も看取らない氷の女」

これは、「allcinema」のライターの一文。

正直、この一文を読んで呆れ返ってしまった。

この「allcinema」のライターは、ヒロインの心理の振れ方を、一体、理解できているのか。

人間の心理の振れ方を精緻にフォローし得ない映画ライターの一文に接して、この国の男たちのナイーブさに遣り切れない思いを隠せなかった。

本作の梗概は、至って簡単だから、「Yahoo!映画」の解説をベースにまとめてみる。

NYの高級住宅地に邸を構える医師オースティン・スローパーは、社交的でない一人娘キャサリンの行く末を案じていたが、彼女を家事や刺繍に閉じこもらせていたのは、彼が亡妻を理想化し、その人格イメージを娘に押しつけていたことで、この父娘関係の歪みが顕在化するのは必至だった。

そんな折、「お前は昔から取り柄のない娘だ」と父から見下されていたキャサリンの前に現われたのが、ハンサムな青年モリスだった。

モリスの出現で、胸躍らせるキャサリンの心は、財産目当てと疑う父との縁を切ってまで、駆け落ちする覚悟ができていたが、約束の夜、とうとうモリスは姿を見せなかった。

劇的なまでの「キャサリンの変貌」が出来したのは、この由々しき一件からだった。

 ウィリアム・ワイラー監督
以下、詳細な批評を結んでいきたい。



2  「過剰学習」なしに突き抜けられなかった女の自立と再生の物語



本作のヒロインに見る「女の怖さ」、「悪魔の笑み」、「女の執念」、「女の嫉妬」、「女の恨み」等々。

想定内のこととは言え、本作のヒロインが表現した「キャサリンの変貌」に対する、こんな類いのレビューが多かったが、私はこういう一元的な見方を排したい。

「『過剰学習』なしに突き抜けられなかった女の自立と再生の物語」

結論から言えば、これが、本作の批評に添えた私のサブタイトルである。

根拠は簡単である。

そのまま推移すれば何でもなかったのに、「この女は、まだ俺に未練がある」と傲慢にも信じ込んでいたのか、「適当に言い訳すれば結婚できる」などと考えた挙句、性懲りもなく、自分が踏み躙(にじ)った女の元に訪ねて来る男の愚昧さ。

その間、幾年もの歳月が流れているのだ。

「あの夜、姿を消したのは君を愛していたからだ。僕のために財産を棄てさせられなかった」

その男・モリスは、厚顔にも、弁明にもならないそんな言い訳を、いけしゃあしゃあと言い放って見せるのである。

ではなぜ、あの夜以降、その言い訳を手紙に書いて送らなかったのか。

児戯的な言い訳で、既に遺産相続した、「うぶで世間知らずのお嬢さん」を口八丁で籠絡(ろうらく)すれば、「いかず後家」にならずに済むという身勝手極まりない幻想を、キャサリンの人格像に張り付けていたと思える、この自惚れの強さに呆れるほどである。

キャサリンとモリス
この男・モリスが、これまでも、このジゴロ的なトラップだけで生きてきたのか否か不分明だが、少なくとも、幾年もの歳月の重量感を無視して、性懲りもなく、キャサリンの元に訪ねて来る振舞いを見る限り、「遊び金」が尽きたらジゴロ的な人生を繋いでいくという人格イメージを払拭できないのである。

思うに、「女の怖さ」、「女の執念」、「女の嫉妬」等々と見下して、キャサリン=「悪魔の如き女」のイメージのラベリングづけが絶たないが、元々、モリスが性懲りもなく訪ねて来なければ、何も起こらなかった物語の流れを忘れてはならないだろう。

綿密な計画性を抱懐したキャサリンの、モリスに対するリベンジのプランなど存在しなかったからである。

一時(いっとき)、「夢」をセールスする、結婚詐欺師としての「巧みなる身体表現能力」の欠片すらなく、見映えとソフトな語り口だけで人生を軽走してきた感の強い、モリスという軽佻浮薄な男には、自分が踏み躙(にじ)ったピュアな女の変貌の可能性について、パンフォーカスに把握する能力が不足し過ぎていた。

「キャサリンの変貌」というリバウンドを想定し得ない程度の能力で、恐らく今までもそうであったように、女に貢がせるテクニックの成功報酬だけで人生を軽走してきただろうツケが、性懲りもない再訪によって返報されるのは必至だったのだ。

「失敗は失敗のもと」

心理学者、岸田秀の言葉である。

 モリスの犯した決定的瑕疵は、ある種のタイプの女が垣間見せる、この心理を経験的に踏襲したものであると言っていい。

「失敗は失敗のもと」とは、「失敗のリピーター」の「専売特許」のこと。

失敗をするには失敗をするだけの理由があり、それをきちんと分析し、反省し、学習しなければ、かなりの確率で、人は同じことを繰り返してしまうということである。

 甘い蜜を求めて出費した大金が戻って来ない苦い体験に懲りずに、熱(ほとぼ)りが冷めたら再び同じことを繰り返す厄介な人が、私たちの周囲にいないだろうか。

或いは、常に見映えの良い異性を好きになるから、殆ど類似した失恋のパターンをなぞるのは、何も、「フーテンの寅さん」ばかりではあるまい。

恋愛の世界における これらのリピーターたちは、精神分析的に、「本当は失敗を求めていたんだ」と強引にこじつけることには些か無理があるだろう。

彼らにしたって、恋愛の成就を願って出費が嵩(かさ)み、時には、気も狂わんばかりに胸を焦がしたはずである。

恐らくそこには、深い心理学的背景が見え隠れするだろうが、彼らにはそれが見えないのだ。

見えないから、彼らの反省は通り一遍のものに終始し、自己の本質に迫れず、やがて、時の流れが痛みを中和して、又候(またぞろ)、蜜の香りに誘(いざな)われていくという負の人生循環に嵌るのである。

 対象が惹きつける快楽が、頓挫による反省的学習を常に少しずつ、しかし確実に上回るから、彼らは「失敗のリピーター」であることを止めないのである。

モリスの経験則にインプリンティングされたデータマイニング(集めたデータのルール化)には、「俺に失恋しても、優しく接すれば再びなびいてくる」という独善的な幻想が隠し込まれていたと思えるのだ。

性懲りもなく再訪したモリスの軽走感覚は、彼の貧弱な経験則の稜線上に拾える何かだったと考えられる。

然るに、キャサリンは、この陳腐なトラップに嵌らなかった。

この視座こそ、本作の肝である。

「キャサリンの変貌」

これが、優れて学習的だった。

「過剰学習」と言ってもいい。

キャサリンとモリス
と言うより、「過剰学習」なしに、彼女の自立と再生の物語が遂行し得なかった。

私は、そう考えている。

この「過剰学習」を通して、「キャサリンの変貌」の中で見逃してはならないこと ―― それは、彼女が「手痛い失恋」の経験で自己を矮小化しなかったという一点に尽きる。

キャサリンは、自分を軽侮し続けてきた父と、ピュアな異性愛を貫徹しよとする女心を踏み躙った男たちのエゴに、「手痛い失恋」という一件による「過剰学習」を通して、「私を舐めるな」という表現を身体化し得るまでに、「主張できる自己」を構築し切っていたのである。

それは、個人の尊厳を傷つける者たちへの貧弱な想像力に対する、それ以外にない身体表現だったのだ。

キャサリンは、もう、嗚咽するだけの「お嬢さん」ではなかったのである。



3  尊厳を傷つける無頓着な行為への手痛いリバウンド ―― 「キャサリンの変貌」の本質



ここで、「キャサリンの変貌」について考えてみたい。

キャサリンは「手痛い失恋」を経験することで、自分を「母のモデル」の「失敗作」として見下していた父によって形成された、父と娘との「権力関係」の悪しき様態の本質をを見抜くに至った。

少なくとも、それによって、自分を支配し続けた男の「権力関係」から脱却できたのである。

ここに、その端的な例証がある。

父と娘との、「権力関係」の悪しき様態の本質を娘が見抜き、それを無化するに至る重要な会話である。

以下、「手痛い失恋」後の、父娘のシビアな会話を再現する。

「婚約を破棄したのか?もし、そうなら立派だ。お前を見直す。辛かったことだろう」
「分るの?」
「時が解決してくれる。誉めるべき言葉も見つからん。何より誇りに思う」
「棄てられたの。モリスに棄てられた。それでも誇りに?やさしくしては、お父様らしくないわ」
「私のせいだと言うのかね。いつか、私に感謝する日が来る」
「お父様は私を欺いたのよ。ハンサムな男に好かれるはずがないと思い、私を守るフリをしたんだわ」
「彼はお前を愛していない」
「それは分ってる」
「20年後でなくて良かった」
「お父様と20年暮らして、やっと愛されていないことが分った。モリスの方がマシだったかも。口を出す資格はないわ」
「よくもそこまで言うな。私を責めるためか」
「そんなことでしか、お母様には叶わない」
「彼はダメな男だ。もっと良い人が現れる。お前にはその価値が」
「年に3万ドルね」
「そうさ、好きな相手が選べる」
「だったら、モリスを選ぶわ」
「そんなことを言うな。彼はろくでなしだ」
「彼を愛することは、恥ずかしいこと?」
「あきらめるんだ」
「イヤよ」
「遺言を書き換える」
「どうぞ、すぐ書き換えて」

パーティーで「壁の花」の常連だった内気な「お嬢さん」が、娘の尊厳を傷つける行為に無頓着であり過ぎた父に向かって、「遺産など要らない」とまで言い切ったのである。

「お前は昔から取り柄のない娘だ。唯一の例外は刺繍ができることだ」

左からキャサリン、モリス、父オースティン
こんなパワハラもどきの言辞を日常的に被弾していたキャサリンが父からモリスを馬鹿にされたことで、その日のうちに駆け落ちを決断したときの反応には毒気に充ちていた。

「父の顔に泥を塗ってやる。だから、今晩駆け落ちする。少しでも早く父の傍を離れたいから。お互いに憎み合っているの」

動揺する叔母のラヴィニアに、そう言い切ったのだ。

「ダメよ。相続の権利を失うわ」

叔母の不安には、相続の権利を失うことで、モリスがキャサリンとの駆け落ちを回避するだろうという意識が内包されている。

ラヴィニアはモリスの魂胆が分っていながら、それでも、キャサリンとの結婚を望んでいた。

そうしない限り、姪の幸福は一生実現できないという思いが抱懐されているのだ。

キャサリンが、異性と縁のない取り柄のない娘であるという人間的評価において、ラヴィニアと、兄であり、キャサリンの父であるオースティンとの認識は一致していたのである。

その違いは、財産の喪失を怖れる兄と、財産の喪失をも怖れないという一点にあったと言えるが、しかし、この差異はキャサリンに対する感情の厚みにおいて決定的だった。

本音を話せるキャサリンの対象人格が叔母に限定されていたからである。

その日、モリスの迎えを待つキャサリンには迷いがなかった。

愛を誓い合った相手を信じ切る以外の選択肢がないと言うより、キャサリンの「異性経験」が、未だ思春期次元の幻想を引き摺っていたからである。

結局、ラヴィニアの予想通り、キャサリンを風景の異なる世界に誘(いざな)うはずのパートナーは現れなかった。

「彼は私を愛している。だから必ず迎えに来る」

強い願望の内に結ばれていたこの思いは、呆気なく自壊する至った。

「死んだ愛妻と比較して、全く器量が劣る自分の娘、ハンサムな青年が惚れる訳がない」

キャサリンと父オースティン
こんな父親の断定的判断もまた、人生経験に裏付けられていたとは言え、死んだ愛妻と比較することで、娘の尊厳を傷つける無頓着な行為への手痛いリバウンドを回避できなかった。

オースティンの本音が、「血と汗の結晶」である財産に対する防衛的な振舞いのうちに顕在化し、それを見透かすキャサリンの情動が炸裂するのは必至だったのだ。

それが、冒頭の会話の中に凝縮されていたエピソードだが、その根柢には、娘の尊厳を平気で傷つける父からの精神的自立を、毅然として立ち上げんとする内面的葛藤が横臥(おうが)しているのである。



4  深傷を負った女の復讐劇という枠内を遥かに超えた物語の稜線



ここで、物語を振り返ってみよう。

「私だってそうしたいわ。父が喜んでくれるなら。いざとなると誰も聞いてくれない」

社交の場で、「心を落ち着かせて、会話に入る」ことをラヴィニアに求められても、誰にも相手にされないキャサリンが、叔母のラヴィニアに正直に吐露した言葉である。

「君の母さんは、その色に負けないほど美しかった」

社交に出る前に、死んだ母が好きだった「チェリーの赤」のドレスを父に見せに行くや、父に返された言葉であるが、失意の娘が置き去りにされ、立ち竦むばかりだった

「音楽や踊りの習い事も。寝る前には社会の常識を教えてきた。伸び伸び育てたが、ご覧の通りだ。平凡で、世間知らずな娘になってしまった」
「彼女に失礼だわ。期待のし過ぎよ」
「気品があり、しかも明るかった。彼女の娘なのに・・・」
「母親と娘を比べてはいけないわ。亡くなった奥さんを美化し過ぎている」
「死んで初めて分かった。彼女の大切さが」

パーティーの場で、父オースティンが知人と交した露骨な会話である。

いつの間にか、踊りのパートナーが戻って来ず、独り取り残されているキャサリンの寂寥感が、その直後の映像に映し出されていた。

この風景こそが「キャサリンの変貌」の伏線となるエピソードだった

左からキャサリン、ラヴィニア、モリス
「壁の花」のキャサリンの孤独を拾い上げる格好のタイミングで、モリスの出現がインサートされたこと。

これが大きかった。

以降、キャサリンの純愛幻想が肥大していく流れになるのは、このような男と、このような女が最近接し、一時(いっとき)の睦みの時間を共有するのは自明の理であるだろう。

マルティーニの「愛の喜び」をピアノで弾き語りするモリスの戦略は、手馴れたものだった。

愛の歓びは続いても 
束の間のもの 
愛の苦しみは生涯続くもの 
命の果てるまで

その直後の映像は、男のイメージライン通りの愛の告白だが、如何にも自分が恋愛ベタの男であることを吐露し、いつしか、過剰に武装されたキャサリンの自我の施錠を解除していくのだ。

それを目視した父オースティンは、定職に就かないモリスの魂胆を見抜いていた。

「お嬢さんは内気ですね」
「そうです」
「弟といるときは違うかも」
「キャサリンが彼に恋しているのは間違いないが、彼はどうだろうか?」
「そうね。私に言えることは、想像以上に弟は大人のようです。今回も上辺の美しさに捉われず、彼女の優しさに惹かれ・・・」
「本心ですか?彼女の財産が目当てでは?」
「財産?」
「母親の遺産が年に一万ドル。私が死ねばその倍を」
「彼女は大金持ちなのね」
「彼が結婚して得る富は、私の血と汗の結晶なのです」
「どう思おうと自由です」

これは、モリスと同居する実姉との会話だが、オースティンの内側には、に対する歪んだ偏見がべったりと張り付いている。

だからこの映画は、深傷を負った女の失恋譚と、その復讐劇という枠内を遥かに超えて、父親の歪んだ偏見と対峙し、それを「過剰学習」によって克服していくの、精神的自立と人格の再構築を基本骨格と成す物語にまで、テーマの稜線を広げていったのである。

深傷を負った女の失恋譚と、その復讐劇は、自立と再生への決定的契機と化す「過剰学習」の内実であったと、私は考える。

虚飾の蜜月
何より重要なのは、この「過剰学習」を通して、「キャサリンの変貌」を具現したことである。

前述したように、それは、彼女が「手痛い失恋」の経験で自己を矮小化しなかったという一点こそ、この映画の中から拾い上げる基幹テーマではなかったか。

「もう、話すことはないわ」

父の死の間際で、平然と吐露する「キャサリンの変貌」が「過剰学習」の産物であることは否定できないが、しかし、彼女の「手痛い失恋」の経験が依存的で脆弱な自我を延長させることで、それまで以上に自己を矮小化する負のプロセスに搦(から)め捕られる危うさから脱却するには、父との縁を切るレベルの覚悟が求められたと言えるだろう。

「過剰学習」なしに突き抜けられなかった「キャサリンの変貌」の本質が、まさにそこに伏在していたからである。



5  自己を矮小化しなかった人間の学習的価値の大きさ



父の死後、何年か経って、パリで買ったドレスを着こなし、家政婦にも自由を与え、笑顔が絶えない社交的なキャサリンが、活き活きと独り身の生活を愉悦していた。

刺繍を趣味とする、凛とした一人の女性の人生が、清々しいまでに映し出されていた。

父から解放された歓びが弾けるようだった。

「キャサリンの変貌」の風景は眩いばかりだが、性懲りもなく、モリスが再訪したのは、そんな時だった。

一瞬、女心を揺さぶられる表情を垣間見せるが、それを理性で抑制するキャサリンには、もう、依存的なまでに脆弱性を露呈していた「お嬢さん」とは切れていた。

そんなキャサリンを前にして、必死に弁明し、自分の愛情が変わらないことをヌケヌケと吐露する男が眼前にいて、相変わらず、歯の浮くような言辞を吐き出している。

「キャサリンの変貌」の様態を認知できない色男は、恐らく、それまでもそうであったような甘言を執拗に放つのだ。

「君の幸せのために身を引いた。君を苦しめてごめんよ」
「とっくに許しているわ」

このキャサリンの言葉で、愛情の問題を氷解したと決めつける男は、再び、重量感の乏しい言辞を反復するのだ。

「前の二人に戻るんだ」
「本当?」
「結婚して世界一幸せな男に。君は僕を愛している。それが何より心強い」

今晩中に、荷物をまとめて訪ねて来ることを約束させたキャサリンの甘言に、舞い上がった一人の男には、心底から笑みを漏らすことがない彼女の表情の硬さが全く読めないのである。

男はただ、今日、このとき、結婚の言質を取ることだけが目的だったから、その言質を取れたと信じる浮薄さを露わにするばかりだった。

その直後のキャサリンの行為は、やりかけの刺繍に没頭するのみ。

一向にモリスを迎える支度をしないキャサリンを見て、心配げに督促するラヴィニアに、キャサリンは、そこだけは明瞭に言い切った。

「彼はまた現れた。同じ嘘を並べながら。更に強欲になって、初めは財産だけだったのに、今は愛まで欲しがっている。来るべきでない家に二度も訪れるとは。3度は許さない」

「キャサリンの変貌」のルーツ
このキャサリンの言葉こそ、この映画の全てと言っていいかも知れない。

敢えて、無価値な男への復讐の意志を持たなかった女に、三度(みたび)にわたって訪れようとする行為に対して、「私を舐めるな」という身体表現を結ぶには、それ以外にない鉄槌を下すしかなかった。

思いも寄らない言葉を聞かされたラヴィニアは、為す術もなく動揺するばかり。

結局、この叔母もまた、モリスと同じように何も変わっていなかったのである。

「哀れなモリス」
「私はそんな女よ。学んだの。いろいろ経験して」

物語を通して、痛切な経験を経て変わったのは、当事者のキャサリンだけだった。

この変貌は、「失敗は失敗のもと」をリピートしない、極めて意味のある学習だった。

ただ、それが「過剰学習」であったというだけのこと。

繰り返すが、「過剰学習」なしに突き抜けられなかったが故に、キャサリンは、その主体的な行程への踏み込みを回避しなかったのだ。

潜入感からモリスを忌避した父や、「女は結婚だけが全て」と決めつけ、モリスを哀れむ社交好きの叔母には、最後まで、キャサリンの痛切な経験の中枢に潜む、個の尊厳に拘泥する思いの深さが理解できないのである。

痛切な経験を被弾したキャサリンが、自己を矮小化しなかった人間の、学習的価値の大きさを理解できなかったのである。

まもなく、この「キャサリンの変貌」に対して全く無頓着であったが故に、何も変わっていないと印象づける愚かな男がやって来た。

「鍵をかけて」

キャサリンは、家政婦にそう命じた。

彼女は、今なお、刺繍を続けている。

鍵のかかったドアを叩き、「キャサリン!」と叫び続ける男。

その音を耳にしても、全く意に介しないキャサリンは、室内の電気を消して、ランプを持って、長い階段をゆっくりと上っていく。

その顔には、小さな笑みが洩れていた。

この効果的構図は、邸に入り込むことが叶わず、無機質な玄関前に置き去りにされ、叫び続ける男の悲哀との距離を決定づけていて、「キャサリンの変貌」の心の風景を際立たせている。

「キャサリンの変貌」の様態が、最も端的に顕在化したこのシーンに対して、私は「女の悪意」などとは全く考えない。

寧ろ、「私を舐めるな」、「女を舐めるな」という痛烈なメッセージが聞こえてきて、爽快ですらあった。

ここまで強くなった「キャサリンの変貌」に、正直、深い感銘を覚えたほどである。

愚昧なる男の醜悪さは、一生変わらないだろう。

こんな男と結婚するくらいなら、独り身の人生を送る方がマシであるという覚悟を括っているようでもあった。

この「過剰学習」によって、キャサリンは、結婚とは縁のない人生を送るかも知れない。

それでもいい。

毅然として、「自分の人生」を丁寧に生きるだろう「キャサリンの変貌」は、その覚悟なしに身体表現し得なかったに違いない。

彼女は強くなったのだ。

それは存分なまでの世間知らずを脱却し、「主張できる自己」を持ったことの証左であった。

「内気さ」という壊れやすさをも突き抜け、「主張できる自己」によって自立的に生きていく、真に内面的な強さを手に入れたのである。

この変貌によって、異性に対する「内気さ」という壊れやすい殻を打破し、自分を裏切った男の本質をも見抜くに足る充分な学習をクリアしたのだ。

「手痛い失恋」の経験で自己を矮小化しなかった彼女の強さこそ、「過剰学習」の産物だったが、しかし、この「過剰学習」なしに女の自立と再生の物語を立ち上げられなかったのである。

壊れやすいが故に物語を矮小化し、その狭さの中に自己顕示と自我の安寧を確保する、「内気さ」という自己像イメージを突き抜けられなかったと言ってもいい。

だから、この「予定不調和」の決着で正解だったのである。

そう思うのだ。

【参考資料】 拙稿;「心の風景・失敗のリピーター

(2013年12月)

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