検索

ラベル

2015年7月26日日曜日

蝉しぐれ(‘05)      黒土三男

<「古き良き日本」の純愛譚の眩さ>



1  ひしと伝わってくる繊細な人間の感情を描く描写の繋がり



「古き良き日本」の純愛譚を貫く者の眩さ

この時代に、このような人物もいて、そうでない人物もいた。

この映画は、前者を特化して描いた作品である。

そこに、私は特段の違和感を覚えない。

ベタなシーンも目立つが、心の底から感動した。



ー- 以下、梗概。

川で洗濯中、ヤマカガシに咬まれた少女・ふくの指を吸って、手当をする海坂(うなさか)藩・下級武士の息子である15歳の文四郎。

頭を下げ、そのまま去っていくふく。

冒頭のシーンから開かれる物語は、複雑に交叉するこの二人の秘めたる愛を描いていくことを提示する。

翌日、そのふくから直接お礼を言われたことも手伝って、二人は庄内の夏祭りに出かけていく。

夜空に舞う花火を見て嬉々とする、ふくの笑顔が弾けていた。

正月早々、隣に住む文四郎の家から、少量の米を借用するほどに貧しいふくにとって、こんな花火見物しか楽しみを見出せないのだろう。

このとき、年頃で利(き)かん気の少年によくある、小さな「事件」が出来する。

苦手な剣の道を諦め、江戸に留学する意志を持つ与之助が、道場の仲間の嫉妬で虐められていることを知らされのこと

親友の仇をとっ文四郎が、ふくのもとに戻って来たのは、花火が終わって、祭りのピークが過ぎてしまっただった 

心を寄せ合っていても、自らの感情を表現することが不得意な二人の純愛譚が繋がっている頃、牧家の様子に変化が見られるようになっていく。

「急な用事ができた。帰りは遅くなる」

普請組に勤める文四郎の父・牧助左衛門が、息子に残したこの言葉が、その後の家族の大きな転機になること、この時点で、当然、母・登世(とよ)も文四郎も予想できようもなかった。
 
そんな折り、藩内の川が氾濫し、水害の危機に見舞われる事態が出来した。

下級武士の助左衛門が、水害によって取り入れ前の稲田が水没する怖れを説き、堤防の切開の場所の上流への変更を普請奉行助役に提言し、この提言を受け入れた助役の指示で即座に実行に移されたことで、水害の危機を免れるに至った。

外出中の父が戻って来るまで、文四郎もこの工事に参加していたが、堤防切開工事を見事に対応する父の仕事を目の当たりにして、父に対する尊敬の念が増すエピソードだった。

しかし、好事魔多し(こうじまおおし)。

人生は、時として残酷である。

義に厚く、意志堅固な助左衛門が、あろうことか、世継ぎ問題という、往々に起こる政争に巻き込まれたことで、藩の監察の者に捕捉されるや反逆の汚名を着せられ、早々に、切腹の沙汰が下されるという由々しき事件が惹起する。

以下、その助左衛門との面会が許された文四郎に残す、思いのこもった父の言葉。

父・牧助左衛門
「わしは、恥ずべきことをしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。恐らく後には、反逆の汚名が残り、お前たちが苦労するのは眼に見えている。だが、文四郎は父を恥じてはならん。そのことは、胸にしまっておけ。登世を頼むぞ」

今生の別れの場で、「父上、何事が起きたのか、お聞かせ下さい」と問う文四郎への答えには、凛とした父の態度が貫き通されていた。

「登世を頼むぞ」と父の言葉の重量感に文四郎は「はい」としか答えられなかった。

父の言葉が、あまりに重過ぎたのである。

以下、そのことを後悔する文四郎が、親友の逸平に語った言葉。

「もっと、他に言うことがあったんだ。だが、父上に会っている間は、思いつかなかった。父上を尊敬していると言えば良かった。母のことは心配いらぬと、俺から言うべきだった。何より、ここまで育ててくれて、ありがとうございましたと言うべきだった」

文四郎の心情が分り過ぎるが故に、この言葉もまた相当に重かった。

父上を尊敬していると言えば良かった

私にとって、文四郎のこの言葉は、本作で最も痛切な台詞として脳裏に焼き付いて離れない。

このシーンは、父との関係を描く前半の白眉と言っていい。

涙を堪えるのに必死だった。

父の死と、その遺体を運ぶ文四郎のシーンは、観る者の心を揺さぶる本作前半の結晶点である。(後述する)

家禄を減らされ、「罪人の息子」となった文四郎は、悲しみが癒えない母と共に、「ボロ長屋」(逸平の言葉)に住むに至る。

「藩内に二つの勢力があって、貴様の親父殿は、それに負けた側にたまたまついていた」

この逸平の説明で、文四郎の父・助左衛門がついていた「負けた側」とは、首席家老・横山又助で、「反対派を指揮していた勝者」とは、首席家老・里村左内であることが判然とする。

この里村こそ、父の命を奪った敵対者となる人物である。

衝撃を受ける文四郎に、更に悲しみが広がる。

幼馴染で、心を寄せ合っていたふくが、藩主の正室・寧姫に仕えるため江戸に向かったことを、母から聞かされるのだ。

母親から牧家への訪問を固く禁じられているふくが、思い詰めた表情で必死に走って来る。

文四郎に別れを告げに来たのである。

しかし、文四郎は留守だった。

道場から帰ってそのことを母に聞いた文四郎もまた、必死にふくを追いかける。

このすれ違いのシーンを特化して描く映画は、極めてベタながらも、既にそこに至る伏線描写が効果を持ち、観る者の心の中枢に這い入ってくる感動があった。

庄内平野と鳥海山(イメージ画像
日本の四季の美しきと、繊細な人間の感情を描く描写の繋がり。

これが、ひしと伝わってくる



2  無用な「狂気の剣」を望まない文四郎の、それ以外にない復讐劇の自己完結点



一転して映像は変わる。

ここから成人となった文四郎とふくの物語が開かれていく。

ところが、子役と成人役の顔が極端に異なる邦画の安直さが出てきてしまう。

「描写のリアリズム」を簡単に壊す作り方だけは、もう、いい加減に止めて欲しいと思う。

残念だが、成人役の男女の表現力が、映画を壊すに至らなかったのが救いであった。

物語を追っていく。

「心の目で見よ」

文四郎
これは、剣術に熟達した文四郎が「狂気の剣」・犬飼兵馬に敗れたとき、扇子一本で文四郎の木刀を受ける剣術道場の主・石栗弥左衛門から教示された言葉。

そんな折、父の命を奪った張本人である里村から呼び出しを受ける。

「牧文四郎を旧禄に復し、郡奉行(こおりぶぎょう)支配を命ぜられること

里村から、旧禄の復帰が直接伝えられ、かしこまって、それを受け入れる文四郎。

一方、その文四郎は、藩校で助教となって帰国した与之助から、藩主のお手付きになっていたふくが流産したことを知らされ衝撃を受ける。

ふくの流産も、例の世継ぎの問題の影で動いていたと言われる、藩主の側室・おふねの陰謀だという噂をも知ることになる。

文四郎が受けた衝撃の深さは、与之助と共に女郎屋で陰鬱な気持ちを紛らわす行為に振れていく。

彼の純愛は、単に、情動に飢えた一人の男の相手をしているに過ぎない、商売女の〈性〉で満足しようがなかった。

加えて、陰謀の犠牲になったおふくが今、国元に戻り、金井村の 欅御殿(ひのきごてん)に住んでいて、藩主の子を再び身ごもった事実を与之助から聞かされるに至り、文四郎が負った精神的ダメージは膨らみ切っていく

一方、その欅御殿が世継ぎ問題の再現に発展することを怖れる里村は、おふくの子を処理することを画策していた。

あろうことか、腕の立つ文四郎が里村に呼び出され、おふくの子の誘拐を命じられるのだ。

言うまでもなくこれが牧家の旧禄の復帰の見返りだった。

「俺はやる。だが、むざむざと罠に嵌るつもりはない。おふく様の子供を受け取ったら、俺はその脚で横山様の御屋敷に駆け込む。そして、洗いざらい事情を打ち明けようと思う。これより他に、助かる道はなさそうだ」

少年期からの親友である与之助と逸平に、文四郎は凛として言い切った。

かくて、逸平と共に、欅御殿に向かう文四郎。

里村の政敵である横山派の磯谷が保護する欅御殿に辿り着いた文四郎は、磯谷との面識がある事情を利用し、邸に入っていく。

すっかり美しく変容し、気品を漂わせるおふくが、何年ぶりかの文四郎との再会を喜び、充分な「間」をとって穏やかな口調で話しかけていく。

「文四郎殿は、お子は?」
「いまだ・・・縁ありませず、恥ずかしながら、一人でございます」

この文四郎の言葉の含意が観る者に理解できるから、彼の思いの切なさに深く心打たれる

これだけの短い会話の中に詰まっている言外の情趣が、観る者の情感を喚起させるのだ。

文四郎がおふくの子供を預かるという申し出をしたのは、この穏やかな会話の直後だった。

文四郎を信じるおふくは、この申し出を受け入れるが、欅御殿の外にいる里村派の暗殺団の乱入があり、邸は小さな戦場と化していく。

初めて人を斬り、自分の刀に付着した血を見て、戦慄を覚える文四郎。

折れた刀を何本も取り替えながら複数の敵と戦うハンディは、「使命感」と「純愛」を推進力にする攻撃的な気力・体力なしには困難だった。

このリアリズムは悪くない。

形勢が不利になったとき、邸に戻って来た磯谷の加勢によって、血の海になった小さな戦場が、里村派の暗殺団が欅御殿をあとにて収束するが、最も手強い相手が文四郎の前に現れる。

妖術的な「狂気の剣」・犬飼兵馬である。

本物のテロリストの出現によって、すっかり疲弊し切った文四郎から、思わず笑いが洩れた。

それは、最悪の事態を克服したと思った矢先に、れ以上の最悪の事態の突破が求められたときの遣り切れなさが生んだものだった。

しかし、「狂気の剣」を斃さずして、おふくの救出はないのだ。

だから、「狂気の剣」を斃すべく、文四郎は犬飼兵馬に対峙する。

「心の目で見よ」

剣術道場の主・石栗弥左衛門から言われたこの言葉が、最後の決戦で生きるのだ。

かくて、相手の弱点をつく「心の目」で戦う戦法が功を奏し、「狂気の剣」を斃す至る。

一方、乳児を連れたおふくたち一行は、とうに姿を消していた。

助左衛門への助命嘆願書を提出したときの、金井村の村役人であった藤次郎のもとに、おふくたちは匿われていたのである。

しかし、退路を断たれた状況に変化なく、この状況を突破するために取った手段は、里村派の政敵である横山家に身を寄せる以外になかった。

乳児を抱くふくを乗せた船で、ゆっくり移動する文四郎。

お互いに一瞥(いちべつ)するが、どこまでも遠慮げだった。

剣で役に立てなかった与之助の機転で、里村派の暗殺団から免れた文四郎とふく。

恐怖を越える「大仕事」を、自分のために遂行した文四郎への思いが一つのピークに達したとき、ふく思わず、赤子を抱いた文四郎に身を寄せ、しがみ付く。

とてもいいシーンである。

二人の情感が溶融する流れが、物語から自然に読み取れるからである。

ふくを無事に横山家に預けた文四郎は、単身、里村の邸に乗り込んでいく。

「無益に人が死にましたぞ。それがしも、降りかかる火の子を払わなければなりませぬ。ご家老方の私利私欲のために、人が死んだのです!」

存分の思いを込めて、自分の父を切腹に追い遣った里村に憤怒を炸裂させる文四郎。

「違うだろ。藩のために死んだのだ」

この里村の居直りは、「お黙りなされ!」という文四郎の叫びで、一瞬にして封印される。

「どうやらご家老は、死んでいく者の気持ちが推し量れぬお方らしい。死にゆく者の気持ちとは、死にゆく者の気持ちとは、死にゆく者の気持ちとは・・・」

そう叫ぶや、里村に向かって刀を振り払う。

机の脚を切り落としたのである。

肝を潰す里村。

無用な「狂気の剣」を望まない文四郎の、それ以外にない復讐劇だった。



3  自分を見つめ続ける女を、しっかりと受け止める男



「一筆申し上げ候(そうろう)。我が子千代丸、縁あって、深きお家の跡継ぎとして、養子縁組相整い、安堵致しおり候。さて、大殿様、一周忌を控え、浮世の思い患い断ち切るべく、私この秋、白蓮院(びゃくれんいん)に入り、尼になることと相決め候。さりながら、今生の未練と存じ候えども、貴方様に一度お会い致したく、本日、箕浦(みのうら)に罷(まか)り越して候。もし、お目もじ叶い候わば、無情の喜びにて候えども、決して、ご無理申す義にてはこれなく候。万が一つの幸いを頼みに、この文(ふみ)参らせ候」

何年ぶりかで、ふくのこの手紙を受け取り、ふくが待つ箕浦に文四郎がやって来たのは、彼の復讐劇が終焉し、既に家を構え、録も上がり、海坂藩士としての地位が確立したときだった。

「お久しぶりにございます」

二人の再会は、文四郎の挨拶から開かれた。

「文四郎」

喜びを隠し切れないふくの表情が眩い。

お互いに顔を見合す「間」が、再会の欣喜を表現している。

「もう、おいでにならないかと、今少しで諦めるところでした」

ふくがそう言った時、いまだ遠慮深げに、文四郎も反応する。

「おふく様」
「ふくです。今日の私はふくです。色々、ございましたね」
「色々、ございました」
「文四郎さん。お子は?」
「二人です。上が男、下が娘です」
「二人とも、それぞれ人の親になったのですね。文四郎さんのお子が私の子で、私の子供が文四郎さんの子であるような道はなかったのでしょうか」
「それができなかったこと、それがし、生涯の悔いと致しております。」
「江戸に行く前の日に、私が文四郎さんのお家を訪ねたのを覚えておられますか?」
「覚えています」
「私は江戸にいくのが嫌で、あの時はお母様に、私を文四郎さんのお嫁さんにして下さいと頼みに行ったのです。でも、でも、そんなことは言い出せませんでした。暗い道を泣きながら、家に戻ったのを忘れることができません」

ここまで吐露したふくは、じっと文四郎の顔を見詰め、少女時代のことを話し出した。

「この指、覚えておられますか?蛇に咬まれた指です」
「よく、覚えています。忘れようと、忘れ果てようとしても、忘れられるものではございません」

文四郎のこの言葉に触れ、もう、ふくは流れる涙を止められない。

ここまで堪えてきた感情を噴き上げてしまうのだ。

「ふく」

文四郎から思わぬ言葉が発せられた。

驚いて、顔を上げ、ふくは文四郎を見つめ続ける。

文四郎も、長年の間、堪えてきた感情を噴き上げてしまう。

「ふく」

今度は、はっきりと言い切った。

どうしても超えられない距離が、単なる言語交通の出し入れの表層を一気に突き抜けて、今、このとき、この限定的スポットで繋がったのだ。

自分を見つめ続ける女を、しっかりと受け止める男。

もう、それだけで充分だった。

文四郎が最も苦しかったときに、ふくの援助を受けて、急坂を上り切った大八車などの回想シーンが流されていく。

二人だけが共有する忘れがたい思い出を胸に秘め、二人は、そのまま別れていく。

文句のつけようがない、素晴らしいラストシーンだった。

このシーンには、男女の交接を不要とするこのような別離が最も相応しいイメージであることを、最後まで物理的距離を保持し切った心理的リアリズムによって、この映画は見事に提示してみせた。

そこがいい。



4  物語を根柢的に支え切る二人が「共有」したものの大きさ



多くの動物にも見られるが、他者と喜怒哀楽の感情を共有することが可能な能力 ―― これを「共感」と呼ぶ。

ミラーニューロン・ウィキ
この「共感能力」の司令塔が「ミラーニューロン」であるという仮説の提示は、神経科学における重要な発見でもあった。

「共感細胞」と呼称される「ミラーニューロン」こそ、他者への同情心の心理的推進力になる。

多くの場合、私たちが映画を観て、登場人物に対する「感情移入」の有無が、その映画の「良さ」の重要な指針になるのは、「自閉症スペクトラム障害」に欠如するとも言われる「ミラーニューロン」の活動電位の発生と無縁でないのである。

さて、ストーリーラインが何もかも全て分っているのに、なぜ、この「蝉しぐれ」という映画は観る者を感動させるのだろう。

簡単にいえば、緒形拳(牧助左衛門)を筆頭にする登場人物が魅力的に描かれていたからである。


それが、私たちの「ミラーニューロン」を刺激たのである。

考えてみるに、堤防切開工事の一件で、村の人々から助命嘆願書が提出されるほどの男・牧助左衛門の死と、そこから生まれる物語の展開に「情緒的構え」ができているから、そこに鮮烈な記憶の再現が起こり、むしろ、分っているが故に感動してしまうのである

具体的に書くと、こういうことだろう。

思うようにならない人生の中で必死に耐え、それでも、何とか自分の力で動いていく人間の姿は胸を打つ。

これが、観る者を感動させる映画に対する答えの一つである。

胸を打つから、援助行動に振れやすい。

ふく
映画では、援助行動に振れる少女を特化して、観る者の琴線に触れるエピソードを丹念に描き出す。

少女の援助行動の相手が、「自分の気になる特定人物」であるなら尚更だった。

必死に耐え、自分の力で動かんとする相手の行動を共有したいと思うのだ。

その典型的なエピソードが、あの有名な大八車のシーンである。

情緒的な音楽に後押しされた、極めてベタな大八車のシーンだが、町人(まちびと)の視線が集中する真夏の白昼を、切腹して果てた父の遺体を乗せた大八車を15歳の少年が運ぶのだ。

しかし、人生は残酷である。

超えねばならない坂を上り切れず、大八車は後ずさりしてしまう。

繰り返し上り切ろうとしても、大八車の重量感に弾かれてしまうのだ。

大八車の重さは、今や、物言わぬ父の遺体の重さである。

だからこそ、どうしても上り切らねばならぬ。

超えねばならない坂を上っても良いことがあるわけではないが、ここで上り切らねば、自らが置かれている理不尽な状況に搦(から)め捕られ、全人格的に押し潰されてしまうだけである

残酷な風景が変容したのは、父の遺体の重量感が、15歳の少年の体力の限界を奪っていく時だった。

それを見た少女が、矢も盾もたまらず、援助行動に振れていくのだ。

大八車を必死に押す少女
遺体に手を合わせるや、大八車を必死に押す少女の姿が映し出される。

観る者の琴線に触れるこのシーンが、切腹前日の父・牧助左衛門との今生の別れのシーンを重要な伏線とすることで、より一層、私たちの心を打つのだ。

父上を尊敬していると言えば良かった」という文四郎の悔いが、大八車のシーンで生きてくるのである

だから、真夏の白昼を15歳の少年が自力で運ぶのだ。

運ばねばならないのだ。

それだけが、父上を尊敬していると言えなかった少年に残された父への唯一の供養の体現だった。

しかし、殆ど困難な坂越えの試練で、少女の援助行動が加わった時、風景が一変する。

自発的な少女の援助行動が救ったのは、孤独の極点に達した少年の心の風景である

ここで、二人が「共有」したものの大きさが、この映画を根柢的に支え切るのだ。

それ故、この大八車のシーンは、成人前の少年と少女が演じることに意味がある。

なぜなら、この大八車のシーンの挿入が、少年と少女のその後の別離の最も重要な伏線となるからである

文四郎に別れを告げに来たふくが、思い詰めた表情で必死に走って来たが、文四郎は留守だった。

そのことを母に聞いた文四郎もまた、必死にふくを追いかけるが、道場仲間に絡まれたことで、ふくに会えずに終わってしまたシーンが切ないのは、ふく自身が、文四郎さんのお嫁さんにして下さいと頼みに行った事実がラストで明かされるからである

このすれ違いのシーンを特化して描く映画は、ベタな純愛譚の定番でありながらも、既にそこに至る伏線描写が充分な効果を持っていたこと。

これが大きかった。

この前半のシークエンスの成功が、素晴らしいラストシーンの結晶点に繋がったのである

本作は、観る者の心の中枢に這い入ってくる感動があった。

良い映画だった。

―― 最後に一言。

今田耕司とふかわりょうが、主人公の親友として出演していることに誹議(ひぎ)する多くのレビューに驚かされた。

彼らが「バラエティーに出ている芸人」であることと、「一人の俳優として演技していること」は全く別物である。

だから、前者によって後者を誹議することは、単に、感情任せの芸人差別であることを知るべきである。

決して上出来とは言えなかったが、私は彼らの演技に何の違和感も覚えなかった。

ついでに言えば、著名な原作やテレビ版との比較も、あまり意味がないと思う。

前者は文化フィールドを異にするもので、後者は、テーマ性において若干の隔たりがあるからである。

且つ、前述したように、大八車のシーンは、成人前の少年と少女が演じることに意味があると思うので、私個人としては、素晴らしいラストシーンを用意した映画の方に深い愛着を感じている

(2015年7月)


0 件のコメント:

コメントを投稿