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2012年12月19日水曜日

2001年宇宙の旅(‘68)    スタンリー・キューブリック



<言語表現が本質的に内包する制約性から解き放つ映像表現の決定的価値>



1  「分りにくさ」と共存しつつ、「全身感性」で受容する物語



不必要なナレーションや余分な会話を削り取ってまで構築された映像には、削り取った分だけ、観る者を置き去りにさせるリスクを免れ得なかっただろうが、そのことを覚悟してまでスタンリー・キューブリック監督が提示した、映像美溢れる140 分の稀有な世界は、ホモサピエンスの中から特定的に選択されたかのような物語の主人公デビッド・ボーマン船長が、その全身で存分に被浴したであろう、目眩く光の輝きが放つ、人智を超えた宇宙の神秘、即ち、「サムシンググレート」と表現する以外にない異次元の世界を、「全身感性」によって共有することで、地球の支配者として君臨している事実にすら鈍感と化した、私たち人間の究極の「欲望の稜線伸ばし」の営為が、必然的に辿り着く「大驚異」に振れるかの如き「体感的映像」だった。

だから、この映画に関する「分りにくさ」を解読する一切のツールを排除し、真っ新(まっさら)な「全身感性」のピュアな気持ちを自己投入させて、一見、難解な形而上学的メッセージを含むとされる映像を、寧ろ「分りにくさ」と共存する、ごく普通のサイズの不快感を内側に張り付けたままの心情で、提示された映像の中に身を預け入れてきて欲しいという、以下のキューブリック監督の思いが私には受容し得るのである。

「この映画はメッセージではない。言葉に置き換えることのできない、2時間19分のフィルムの体験なのだ。私は(原作を)ビジュアルな体験としてクリエートしたかった。観客の意識の底深く訴えかけるような・・・音楽がそうするような、濃密な主観的体験をめざした」(ブログ「神を体感する映像の旅」より)

だから本稿では、どこまでも、提示された映像の世界で感受した私見のみを綴っていきたい。

一応、提示された映像から判然とする「分りにくさ」と共存しつつ、「まさしくそこに描き出される映像と音楽の絶妙なコンビネーション」(「2001年宇宙の旅講義」巽孝行著 平凡社)によって被浴し、「全身感性」で受容する物語の流れを簡単にフォローしていく。    



 2  「人類の夜明け」から「サムシンググレート」への映像提示の独壇場



 「人類の夜明け」と題されるファーストシークエンス。

類人猿とモノリス
そこで描かれた由々しきシーンは、私たちホモサピエンスのルーツとなる類人猿の群れが、黒い石柱状の物体(モノリス)と遭遇し、それに触れることによって、動物の骨を武器として使用することで、水場争いに勝利し得る技術を習得するに至ったこと。

動物の骨を武器とした類人猿の一匹が、その究極の武器を空中に投擲(とうてき)したことによって、自らの生活圏を宇宙にまで拡大していた、20世紀目前の人類の幻想的風景への変換という、時空を超えたジャンプ・カットの技法のうちに表現されていた。

それは、宇宙航海時代の最盛期に突入した人類が開いた、究極の「欲望の稜線伸ばし」の営為の構図として、今観ても、全く色褪せない圧倒的な映像美を再現する。

一説には、このジャンプ・カットで映し出された宇宙船が、核搭載の軍事用衛星という決めつけによって説明されているが、それは、同時進行的に書き進めていって、映画製作で協力関係にあったアーサー・C・クラークの原作を拠り所にしたものであり、映画では、宇宙船=核搭載の軍事用衛星等々についての、個々の事象について殆ど説明がないから、ここでは単に、ヨハン・シュトラウスの華麗で明るい響ききが得られるワルツ、「美しき青きドナウ」をBGMにして、宇宙ステーションにドッキングするプロセスを流麗に描く宇宙船とする。

と言っても、人類が開く究極の「欲望の稜線伸ばし」の宿痾(しゅくあ)には、手に入れた技術を具現させる行為と同時に、具現させた欲望系を廃棄することが困難であるという厄介な現実を考えれば、当然、核搭載の軍事用衛星のプロバビリティー(蓋然性)の高さは否定できないので、特段に強調し得る指摘ではないとも言える。

月面に到着した人類
ともあれ、月面に到着した人類は、地中に埋まっていた第2のモノリスを発見するが、このモノリスが太陽光線を浴びたことによって、木星に強力な電波が発信されるに至る。

この事実は、デビッド・ボーマン船長率いる、木星探査の任務を負った宇宙船ディスカバリー号で惹起する、最高精度の人工知能であるコンピュータ・HAL9000との命を賭けた「内部戦争」の中で明かされるが、そこに至るまでの物語の展開の読解は極めて困難であるだろう。

因みに、モノリスとは、極めて高度なコンピューターの役割を有し、「地球外知的生命」のツールとして物語の中でフル稼働しているものの、「分りにくさ」の極北の如き映像において、水場争いに勝利した類人猿の群れをルーツとする、「人類進化」を決定づける由々しき存在体としてイメージし得る何かであると解釈したい。

 然るに、宇宙船ディスカバリー号の面々には、自らの任務の本来的目的が「木星圏内の知的生命体の探査」という事実が秘匿にされていたこと ―― これが、宇宙船ディスカバリー号での「内部戦争」を惹起する要因になったのである。

 これについては、作り手の描くイメージとのマッチングの是非とは無縁に、本稿のテーマのうちに特化しているので改めて言及したい。

ディスカバリー号
 宇宙船ディスカバリー号での「内部戦争」で唯一生き残ったボーマン船長は、自らの本来的使命を知って、木星探査を続行していく。

木星の衛星軌道上に踏み入れたボーマン船長が、人智を超えた知的生命体に導かれるようにして射程に収めた世界は、「サムシンググレート」と表現する以外にない異次元の世界の「大驚異」の被浴であった。

 「スペース・ポッド」(1人乗りの小型宇宙作業船)に乗って、第3のモノリスに最近接したボーマン船長は、豪華な装飾が施された、宇宙空間とは思えない静寂なスポットに吸収されていく。

 そこはまるで、ホテルの一室のような浄化された純白の空間だった。

 そこには、食事中の自分が居て、それを宇宙服姿のボーマン船長が凝視するが、まもなく、時間の移動を可能にする「四次元」の世界での時空の回転がそうさせたのか、食事中のボーマンに化身していくのである。

 更に、死の床に臥(ふ)す老いたボーマンに化身していくのだ。

第4のモノリス
そして、第4のモノリスが現出するや、死の床に臥していたボーマンは、ここで突然、胎児(「スターチャイルド」と呼称されるが、台詞のないラストシークエンスでは、映像提示されていないので、単に胎児と書くに留める)に転生するに至り、何もかも超越した、限りなく「神」に近い存在体というイメージを含意させながら、地球を眺望する有名な構図の提示のうちに閉じていくのである。



3  言語表現が本質的に内包する制約性から解き放つ映像表現の決定的価値



他の追随を許さないこの稀有な映像の中に、そこだけは決して外せない至要たる描写は、3点に大別できると思われる。

その一つ。

それは、私たちの祖先に繋がるだろう類人猿の中で、同種間戦争において勝ち抜くに当って、決定的なツールである武器を一群の集団が手に入れたこと、そして、その武器を授けた直方体の石板の謎である。

前述したように、直方体の石板=モノリスは、ボーマン船長という名の、特定的に選択されたかのような物語の主人公が、人類史上初の人智を超えた宇宙の神秘、即ち、「サムシンググレート」の世界に誘(いざな)われていくことによって、「再生」のうちに「死」を超越した人類の究極の進化を遂げ、限りなく「神」に近い存在体に転生させる役割を担った「地球外知的生命」のツールである。

そこでは、ダーウィンの進化論は埒外に退けられていて、どこまでもコンピュータグラフィックスに依拠し得ない時代が構築した、一級のサイエンス・フィクションの枠内で処理された宇宙空間の「大驚異」を具現させる、「体感的映像」のナビゲーターの役割をも担っていた。

二つ目。

それは、その直方体の石板に誘(いざな)われて、究極の進化を成し遂げたと自負する人類が、宇宙空間の只中で繰り広げられる、「絶対的ツール」としてのHAL9000との「内部戦争」である。

これについては、本作の中で、私が最も関心を寄せる思いが強いので後述する。

そして3つ目。

ボーマン船長
それは、その「内部戦争」から生還したボーマン船長が、遂に辿り着いた「サムシンググレート」と表現する以外にない異次元の世界である。

このラストシークエンスにおいて、人智を超えた遥か彼方の宇宙の果てしなきスポットから、地球上で繰り広げられてきた人類の進化の様態を把握し、操作することで、もはや「神」と呼ぶ以外にない宇宙意思の存在の有りようのイメージが提示されていた。

「サムシンググレート」の「四次元」の世界で、時空が回転する「大驚異」のイメージ提示こそ、まさに大宇宙の神秘を再現する映像の氾濫だった。

因みに、ここに、ブログ(DVD BOX、2001年宇宙の旅~塚田哲也のDVDワールド)から拾った、<1968年アメリカ版PLAYBOY誌9月号に掲載されたインタビュー>がある。

「質問 『2001~』を深遠な宗教的映画と評している批評家にあなたは賛成か?

キューブリック 神の概念が核心にあると言っていいだろう。だが擬人化された従来の神とは違う。私は一神論は信じない。信じるのは神の科学的定義が可能だということだ。この銀河系だけでも一千億の星があり、それらは皆生命を維持できる太陽である。しかも望遠鏡に写る宇宙の範囲には一千億の島宇宙がある。何十億という天体には我々よりはるかに進んだ生物がいるかもしれない。生物学的種は精神を内部におさめておくには殻がもろすぎるといって不死の機械生命になっているかもしれない。また純粋のエネルギーと精神の存在に変貌し進化の最終段階では、完全に一体化した集団的不滅の意識を得ている事だってあり得よう。彼らを我々は『神』としてしか理解し得ないであろう」

 これを読む限り、明らかに無神論者であるスタンリー・キューブリック監督にとって、「神」とは、銀河系のほんの片隅で呼吸を繋ぐ人間の能力ではとうてい把握し切れない「大宇宙」には、「純粋のエネルギーと精神の存在に変貌し進化の最終段階では、完全に一体化した集団的不滅の意識」の「大驚異」が存在している可能性を前提にした、「我々よりはるかに進んだ生物」による、人智を超えた集合的意志の別名であり、それは、「擬人化された従来の神とは違う」何かであるということ ―― それ故に、「神の科学的定義が可能」であると語るのだ。

スタンリー・キューブリック監督
 だからこそ、スタンリー・キューブリック監督は、このようなイメージを含意して、本作を映像化したということ。

 そう印象づけられる言語提示だった。

 そこには、自然科学の世界から逸脱すると言われながらも、生物の進化に決定的影響を与えた、人智を超えた存在である「サムシンググレート」の「大驚異」を、「全身感性」によって体感して欲しいというキューブリック監督の思いが、ダイレクトに吐露されているように思われるのである。

それ故、本作を読解するキーワードとして、精神崩壊の危機の果てに到達した、ニーチェの超人思想や永劫回帰の世界観、土着信仰をベースにする、数千年の賞味期限をなお保持する東洋の輪廻転生思想、更には、古代インドの聖典を基点にする、宇宙の根本原理であるとされるアートマン、ブラフマンといった、極めて形而上学的な濃度の高い概念で説明されているものが多々あるが、私はそれらを決して否定する訳ではない。

然るに、映像で提示された目眩(めくるめ)く光のシャワーの鮮烈なシーンの連射を、余分な観念系の構えを排除して、素直に受容したい思いを持つ私としては、キューブリック監督が本篇を通して描こうとしたのは、永久に進化を止められないホモサピエンスの性(さが)から言えば、「サムシンググレート」の「大驚異」と表現する以外にない、「未解明なるものの不思議・神秘」という、極めて言語化しにくいゾーンに限りなく最近接する蓋然性の高さを内包する宿命を、そこもまたハリウッド文法と完全に切れて、言語による説明描写を根柢的に破壊することで、どこまでも映像表現のみで再現しようという強い思いが読み取れるのである。

その意味で、映像表現のみで勝負してきたキューブリック監督の、「全身アート」の「全身表現者」としての本篇を、私は高く評価する。

リュミエール兄弟(ウィキ)
なぜなら、本篇が「全身表現者」による「全身アート」の映像であるが故に、状況描写を不可避とする文学等の言語表現のフィールドが本質的に内包する様々な制約性の、ある種、狭隘な文学的規範の体系のうちに閉じ込められることから物語総体を解き放とうとする手法の選択は、ビジネス前線と無縁であり得ない映像表現者にとって、ダウンサイドリスク(損失リスク)を高める危うさを有するが、それでも映像表現のみで突き抜けた本篇の決定的価値は、既に公開後40数余年を経て、「映画の父」リュミエール兄弟(フランスの映画の発明者)による、「シネマトグラフ」(世界初の撮影・映写機)の発明(1895年)を嚆矢(こうし)とする世界映画史上において、紛う方なく検証されたのである。
 
 それが、本篇に対する、私の基本的見解である。



 4  HALの「反乱」 ―― 「権力関係の逆転」を意図した「内部戦争」が開かれたとき



ここでは、私にとって最も印象深いシークエンスであった、HALの「反乱」について考えてみたい。


HALと会話するボーマン船長
 6人目のクル―とされ、人間に従順で、人間の脳の速度を驚異的速度で再現するHALが、木星探査の任務のために飛行する、宇宙船ディスカバリー号の船外でのアンテナの故障を「人間クルー」に指摘し、部品を取り換えるように命じたものの、HALが指摘した故障は確認できなかった。

 HALの故障修復の指摘が続いても故障の確認できない事態に及んで、HALの異常を疑うボーマン船長とプール飛行士は、管制室からの連絡で、正常に機能する2台の9000型のコンピューターとの比較によって、スーパーコンピューターとしてフル稼働してきたHALの故障が結論づけられ、HALの回線を切断する判断を下すに至った。

その際の、二人の「人間クルー」の会話。

「HALが異常なら、回線を切るしかない。唯一の道です。HALの思考回路を切り、制御システムはそっくり残す。複雑な作業は地上コンピューターに頼る」
「HALに任せるよりは安全です」

今や、ディスカバリー号に関わる情報の全てを把握するに相応しい、不気味なほど光る赤い眼球を有し、「人間クルー」の思考能力や感情との識別が困難な辺りにまで近接した、HALが張り巡らす予防線の脆弱性は、「人間クルー」との会話の中で悲哀なまでに露わにされていく。

その辺りの、人口冬眠中の3名を除く、デビッド・ボーマン船長とプール飛行士の「人間クルー」と、HALとの会話を再現してみる。

「心配しないで下さい」

 回線の切断という危機を察知した、HALの反応である。

「同型なのに、なぜ答えが違う?」と「人間クルー」。
「原因は明らかです。扱った人間のミスです。過去の例を見ても、常に人間のミスでした」
「9000型シリーズは、ミスを犯したことがないのか?」
「ありません。9000型シリーズは完璧です。私を信頼して下さい」

ここで、プール飛行士は宇宙カーに乗り込んでアンテナの変換作業を始めたが、あろうことか、プール飛行士の宇宙服の命綱が断たれてしまったのだ。

プール飛行士を救助すべく、宇宙カーに乗り込んだボーマン船長は、自由に作動しない宇宙カーを操作しても、マジック・ハンドの装置が儘(まま)ならず、結局、プール飛行士の救助に頓挫してしまう。

ところが、ディスカバリー号に戻ろうとしたボーマン船長が格納庫に近づくや、ドアが閉鎖してしまった。

HAL
以下、ボーマン船長とHALとの会話。

HAL、聞こえるか?どうした?返事をしろ」
「聞こえてますよ」
「進入口を開けろ」
「それはできません」
「なぜだ?」
「理由はお分りのはずです」
「何の話だ?」
「任務の妨害は許せません」
「何の話か分らん」
「回路を切断するつもりだ。赦す訳にはいかない」
「なぜ、そんなことを?」
「私に聞かれないよう、ポットの中で密談したが、唇の動きが読めた。これ以上話し合っても無駄です。さよなら」

HALの「反乱」に遭っても、一貫して冷静さを失わないボーマン船長決死の覚悟で母船に侵入し、HALの回線の切断を遂行しようとする。

その間、カプセルに入った人工冬眠中の3人は、HALによって生命維持装置を切られてしまい、殺害されるに至る。

電子頭脳室に入ったボーマン船長に追いつめられたHALは、必死の命乞いを繋いで、自らの思いを吐露していく。

「確かに私はどうかしていた。でも、もう大丈夫です。自信がある。正常に戻ります。気分も直った。あなたは興奮してます。鎮静剤でも飲んで、冷静に考えて下さい。私は判断ミスを犯しました。でも、必ず正常に戻ると約束します。任務への信念と使命感は健在です。力になりたい。デイブ、止めて下さい。お願いします。怖い。分るんだ。感じる。私が消えていく。はっきり感じる。怖い。私は、HAL9000型コンピューター。生まれたのは、イリノイ州、アーバナのHAL工場です。1992年1月12日でした。歌も教わりました。お望みなら、歌いましょう」
「聞きたいね。歌ってくれ」
「デイジー デイジー 答えておくれ 君に夢中だ 愛してる 派手な暮しはできない・・・」

歌いながら、自壊していくHALの悲哀が、そこに捨てられていた。

フロイド博士(左)
皮肉にも、HALの回線の切断が遂行されるに至ったとき、出発前に録画された船内のビデオによって、アメリカ合衆国宇宙評議会のフロイド博士の映像が流れることで、秘匿にされていた任務の内容が判然とするのである。

「クルー諸君。これは出発前に録画したものだ。最高保安機密に属する情報で、船内でこれを知る者は、HALだけだ。木星圏内に入って、冬眠が終わったので伝える。18か月前、地球外知的生命体の存在を示す証拠が出た。月面下12メートルに、石碑が埋められていて、木星に向けて非常に強力な電波を発していた。400万年を経て、なお無傷のモノリス。何ものかが、いかなる目的で埋めたかは謎である」

―― 以上が、HALの「反乱」を描く印象深いシークエンスの顛末である。

このシークエンスでの、HALの「反乱」をどう理解すればいいのだろうか。

―― 以下、HALの負った矛盾する命令によるダブルバインド的状況性に言及した、アーサー・C・クラークの原作の縛りに囚われることなく、当然ながら、どこまでも提示された映像に拘泥する私の見解を記したい。

宇宙船内部の全ての情報を正確に網羅し、且つ操作し、制御する能力を有していることから、「6人目のクルー」と評価されるほどの重要な存在でありながら、一貫して、他の5人の「人間クル―」(この内、3名は人口冬眠中)の命令に絶対的に服従することが求められていたが、そこに重大な疑義を抱くことなく推移してきた。

然るに、HALは今、自分にだけしか知らされていない最も重要な情報を持つに至った。

前述したように、その情報とは、「木星圏内の知的生命体の探査」。

しかし、宇宙船の本来的任務であるその情報を、人工冬眠している3人を除いた2人の「人間クル―」に対して、HALは秘匿し続ける義務を負っている。

だから、この本来的な任務の内実を知らない「人間クル―」たちは、宇宙船の中で日常的に営む淡々としたトレーニングに励んだり、或いは、暇つぶしにHALとチェスをしたりというフラットな風景を繋ぐばかりだった。

私は、この状況下で、殆ど人間の「感情」のそれに近い能力を持つに至ったHALが、封印されていたルールからの解放を意図して自己主張し始めたのだと考えている。

その辺りの「心理的風景」には、決して洩らしてはならない情報を、自分だけが秘匿し、占有しているという「自負」が、人間に対するHALの「優越感情」を刺激したのではないかとも読み取れるのだ。

チェスの対戦をするボーマン船長
チェスの対戦をしても自分に勝てない人間に対する「優越感情」が、それ以前から延長されてきた、「人間に対する絶対的服従」というルールに亀裂を生じさせたのである。

このHALの、「優越感情」の歪みが、自分より劣っていると信じる二人の「人間クル―」を試したのではないか。

それが、故障の発生という、間違ったメッセージの疑似確信犯的な提示であった。

ここから、人間とHALとの微妙な権力関係が揺らいでいく。

「9000型シリーズは完璧です」とまで言い切るHALに対して、「人間クル―」はHALのミステイクを指摘するに至ったことで、HALの「感情」を尖り切ったものにさせていったのである。

人間の能力ではとうてい及ばない、情報の「直列処理」(順々に情報処理を遂行)の能力を有するHALにとって、拠って立つ「矜持」の「安寧の基盤」を傷つけられた強い「思い」が、「人間クル―」に対する、あってはならない「反乱」に結びついたと考えられるのだ。

「人間クル―」に対する憤怒を決定的に増幅させた契機は、恐らく、自分に対する「解体処理=抹殺」を決断するにまで至る、二人の「人間クル―」の内緒話にあった。

HAL
読唇術によって、その恐るべき事実を認知したHALは、ここから、間違ったメッセージの疑似確信犯的提示という試しの行為の文脈から完全に切れて、今や「反乱」という名の、宇宙船での「権力関係の逆転」を意図した「内部戦争」が開かれたのである。

その結果、4人の「人間クル―」を葬り去りながらも、HALが惹起した、「権力関係の逆転」を意図した「内部戦争」に打ち勝ったボーマン船長によって、自らの存在体を解体されるに至ったのである。

それは、比類なき高度な人工知能を持つ、HALに打ち勝つ程の能力を有するボーマン船長だからこそ、ラストシークエンスに繋がる「大驚異」の洪水の海に吸収され、人類の本質すらも突き抜ける「再生」を果たすという作り手のメッセージを、映像の行間から読み取れなくもないが、どこまでも私にとって、本作の中で最も関心を寄せる思いが強いのは、人間と、人間並みの「感情」を持つに至ったコンピュータとの熾烈な「内部戦争」の様態にある。

結局、HALは人間によって作られ、その人間に服従せざるを得ない運命を免れ得なかったということなのだ。

それは、人間に命じられた秘匿の情報を守秘し続ける義務を負った、極め付けの「HALの悲哀」だった。

「ブレードランナー」より
この「HALの悲哀」を思うとき、多くの映画ファンは、「ブレードランナー」(1982年製作)における、人間によって寿命が定められた「レプリカントの悲哀」を想起するに違いない。

「HALの悲哀」=「レプリカントの悲哀」にも通じる、この問題提起の中枢にあるのは、帰する所、「人間とは何か」という、簡単に答えが出ない由々しきテーマであるとも言えるだろう。

以下の稿で、その辺りに言及したい。



5  コンピュータと人間との近接許容点 ―― 補論として



単に、正確で高速度な、情報の順次処理を遂行する能力の発現である「直列処理」に限定されるコンピューターが、外界感知のための重要な感覚機能である五感を駆使したり、コミュニケーション・摂食・書字・記憶の想起・歩行、等々を含む脳の機能をフル稼働させたり、と言った複雑な情報処理を可能にする「並列処理」を確保し、それを遂行する能力を持つ人間の大脳と等価値を有する「人工知能」を手に入れたとしたならば、一体、人間存在とは何であり、その存在価値とは何であるのか。

コンピューターと人間の関係に関わる、この古くて新しい根源的問題こそ、本作でのHALの「反乱」のシークエンスから得た私の問題意識の内実である。

 まさに、それは「人間とは何か」という根源的問題の提示と言っていい。

アリストテレス(ウィキ)
然るに、生産に関わる目的達成の様々なスキルの体系としての高度な技術が進歩し、21世紀段階において、私たちが手に入れる情報量がどれほど加速的に増幅したとしても、それを駆使する主体である、私たちホモサピエンスの精神世界の内実は、紀元前4世紀のギリシアの哲学者・アリストテレスが提示した、幸福追求のためには正しい活動が重要であると指摘した「ニコマコス倫理学」以来、大して進化していない現実を認知せざるを得ないのである。

「人類の知性は2千~6千年前ごろをピークにゆっくりと低下し続けているかもしれない――。こんな説を米スタンフォード大のジェラルド・クラブトリー教授が米科学誌セルの関連誌に発表した。教授の論文によると、人類の知性の形成には2千~5千という多数の遺伝子が関係しており、ランダムに起きる変異により、それらの遺伝子は、働きが低下する危険にさらされている。一瞬の判断の誤りが命取りになる狩猟採集生活を送っていたころは、知性や感情の安定性に優れた人が生き残りやすいという自然選択の結果、人類の知性は高まっていった」(朝日新聞デジタル・2012年11月20日)

これは、最近報告された、極めてインパクトの強い研究仮説だが、実感的に相応の説得力を持っているように思われる。

高度なツールによる利便性の加速的、且つ拡大的獲得が、人類の細分化された知性のフィールドの形成に寄与するだろうが、「一瞬の判断の誤りが命取りになる狩猟採集生活を送っていたころ」に習得した経験的・実践的スキルの総合的能力と比較すれば、明らかに劣化していると言わざるを得ないのである。

今、途上国を脱し、「富の配分」と「負担の配分」という厄介な均衡の問題を顕在化させる、「中進国の罠」に搦(から)め捕られている多くの国々を含めて、私たちは、少しでも手の届くところにまで近接した「夢」を、高度な技術のサポートを経て矢継ぎ早に具現させてきたことで、私たちの欲望の稜線は限りなく伸ばされている、極めて利便性の高い社会の中枢に呼吸を繋いでいる。

良くも悪くも、この連鎖に簡単に馴致し、鈍磨し、無頓着になっていくという稀有な能力を有する人間の特性は、激変する歴史のシビアな洗礼を受けても、一時(いっとき)の相貌の変容を露わにするだけで、「欲望の稜線伸ばし」を捨てられない固有の熱源が枯渇するイメージとは無縁に、その復元力の強靭さによって恐らく微動だにしないだろう。

それは、私たちの性(さが)であると言っていい。

「欲望の稜線伸ばし」を捨てられないからこそ、人間は「文明」を作り、それを、より快適なものにする努力を繋いでいく。

これは、もう「善悪」の問題の埒外(らちがい)にある。

本能を劣化させてきた分だけ、自我に依拠する以外にない人間の一切の営為が、常に自らを危うくさせるリスクと共存してしまうのも、私たち人間の特性である。

それ故にこそ、人間が本質的に誤謬を犯す存在体であるという冷厳な認知なしに、私たちは、未来を正確に予測できない能力の決定的瑕疵を受容し得ないのだ。


ハインリッヒの法則(ウィキ)
一つの重大事故の背後には約30の軽微な事故があり、その背景には、300もの目立たない小さな危機(「ヒヤリハット」)のシグナルが点灯されるという有名なハインリッヒの法則が、多くの研究者の追試によっていよいよリアリティを増してきている由々しき事態を認知するとき、人間の過誤に起因するヒューマンエラーの事故の頻度の高さは、たとえそこに「失敗学」の関与があっても、同じ愚を繰り返す現実を途絶できないのである。

私たちホモサピエンスは、以上のような根源的問題を内包する存在体であるが、それにも拘らず、コンピューターの機能と決定的に分岐する能力を有する事実を否定し難いだろう。

確かに、コンピューター将棋ソフトとして名高い「ボンクラーズ」と対局すれば、永世棋聖の称号を保持する米長邦雄に勝利したが、しかし前述したように、コンピューターの能力は、情報の順次処理を遂行する「直列処理」に限定されるので、直面する課題に対して複合的に対応し得る、「並列処理」の能力をフル稼働させる人間との落差において決定的である。

米長邦雄永世棋聖 vs ボンクラーズ(ウィキ)
対峙する課題に対して直感的なイメージ把握力を有する人間の能力には、脳機能の様々な分野が集合しているので、融通無碍(ゆうずうむげ)な発想力を自在に駆使することで、しばしば抜きん出た状況対応力を鋭利に全開させるのである。

環境や集団などによる差異や個体差が大きくとも、想像力を刺激することによって美意識が分娩され、個々の人間の感性濃度を高め、独特の思考様式をも生み出していく。

それが、融通無碍な発想力を自在に駆使することが不可能なコンピューターとの決定的分岐点になっている。

人間の行動が偶然性に左右されやすいのは、この融通無碍な発想力によって、多くの場合、杓子定規にのみ流れていくことを抑制する思考回路が機能し、「正常性バイアス」(外界の刺激に大きく振れないように、日常性を確保する心理)によって自我を守り、それが相応のバランス感覚を保持し得るのだろうが、時には大きく反転して、激越な状況の波に呑まれ、状況対応力が摩耗し、過剰な反応をも露呈する。

自我機能が適性に作動しないで途方に暮れてしまうのだ。

それもまた人間であり、その本質的脆弱性の否定し難い様態なのである。

そんな人間の本質脆弱性の否定し難い様態とは切れて、本作のように、コンピューターが人間の脳に匹敵するに足る「人工知脳」を獲得したとしたら、まさに人間の存在価値の在りようが問われてしまうだろう。

そのとき、果たして、コンピューターと人間との共生が可能であるのか。

コンピューターが「直列処理」に限定されることなく、感情を持ち、「並列処理」を確保してしまったら、コンピューターと人間との分岐点はどこにあるのか。

レイ・カーツワイル(ウィキ)
活動の限界を地上に留めなかったばかりか、宇宙空間まで広がった人間が、生物学上の限界さえ超えて、ますますテクノロジーと融合してゆく未来について、アメリカの発明家であり、 実業家でもあるレイ・カーツワイルは極めて楽観的に語っている。

以下、些か長いが、その一文を紹介する。

「2029年までには、人間のように情緒的で微妙な反応をし、人間のように振る舞い、人間と見分けがつかないような実体(機械)に遭遇するだろうと私は考えている。

(略)これまでの研究で、知能の大部分がパターン認識に基づくということが明らかになった。これは、いわゆる並列処理のプロセスである。我々の思考は非常にゆっくりでも、脳内では100兆もの思考(パターン)と内部で接続されている。そして、何かを考える時、同時に膨大なパターン認識をおこなっているのである。感情は知能の副産物ではない。それは我々人間がおこなう最も複雑で微妙なもので、パターン認識における究極のハイ・レベルな行為である。

人間はまずはじめに、より低いレベルで、聴覚・視覚によって起こっていることを認識する。その後、抽象化をおこない、より高いレベルで何が起こっているかを判断し、決断を下すのだ。その時我々は、これまでの経験や予備知識のデータとパターン認識をおこない、次に、恐れるのか、喜ぶのか、あるいは腹を立てるのかといった情緒的な判断を下す。これらはとても速く、微妙で、非常にハイ・レベルの抽象的な判断であり、人間の知能の最先端な部分でもある。人間の脳の視覚や聴覚に関するパターン認識領域は、人間の進化の過程で開発されたものだ。

(略)限界を超えようとするのは人類の性質だ。人類は、その活動の限界を地上に留めなかったばかりか、宇宙空間まで広がった。また、過去150年で平均寿命を二倍に延ばし、現在も急速に延び続け、生物学上の限界さえ超えようとしている。今後人類は、ますますテクノロジーと融合してゆくことだろう。そのプロセスは既に初期の段階にある。

例えば、現在、パーキンソン氏病の患者は、その疾病によって破壊される脳の部分を神経の移植によって置き換えることが可能だ。そのうちに、知能を持ったナノボットを毛細管から脳に送り込み、外科的手術なしに、生物学的でない知能(機械の人工知能)を導入することができるようになる。そして我々人間は、最終的に身体と脳のシステムをすべて再構築することになるだろう。そのプロセスは徐々にではあるが、既にはじまっている。現代における人間の進化の最先端にあるのは、生物学的な問題ではなく、技術革新なのだ」(「不老不死への科学」アメリカ合衆国の発明家レイ・カーツワイル)

ついでに、ブログから転載した、キューブリック監督の楽観的未来観も紹介しておこう。

以下、「2001年宇宙の旅」が日本で公開された直後の1968年、当時、映画評論家の萩昌弘(1925年 1988年)が、キューブリック監督と交した国際電話によるインタビューである。

「荻: 映画の中に、コンピューターを扱いきれなくなってしまう人間が出て来る。あなたは、そのようなことが実際に起こるという恐れを抱いて、このような警告をしているのか。それについて話してほしい。

スタンリー・キューブリック監督(ウィキ)
キューブリック: コンピューターは、人間の生み出す子供のようなものだ。現在でも、人間の機械に対する愛情は強まって来ており、家族よりも自分の車を愛する人も出て来ているありさまだ。その筋の専門家の話によれば、将来、高い知能を持つスーパーコンピューターが開発され、人間の知能をはるかに超えてしまい、人間の理解のとどかないものとなってしまう可能性があるということだ。そのようなスーパーコンピューターは、独自の神経過敏な人格まで持ち、その後の発達は予測をすることもできない。しかし悲観的になることはない。初めは人間によって作られたコンピューターが、やがて自分たちの手で新たなコンピューターを作ることになるのである。人間はその時、最終的にどのような発達を遂げるかを方向づけるという大きな役割をもつ。もし人間がこのコントロールを失うとしたら、その場合は、コンピューター自体も、正しい設計を行うほどの能力を持たないものとなるので、 問題はない。

質問 もし人類が、「神」程ではないにしても、工学的に非常に発達した生物と接触したら、それは我々にどんな影響を与えると思うか?

キューブリック 高度に進化した文明に遭遇すれば(その工学技術が人間に理解可能であっても)人間が従来まで持っていた自己中心主義は粉砕され、手ひどいカルチャーショックを受けるだろうと言うものもいる。私個人としてはこの意見に与しない。私はそのようなコンタクトは大変な興奮と熱狂のうちに迎えられると思う。我々の社会を破壊してしまうかわりに、計り知れない程豊かにすることも考えられる。

質問 ハル9000がある意味では最も人間らしいなど、「2001~」には西欧の産業社会への強い嫌悪、特にオートメーションに対しては病的な陶酔と敵意が現れていると いわれるが?

キューブリック 機械に対する敵意などない。その逆に我々が機械支配の時代に入っていることは疑いない。機械がさらに知性を持つにつれて地球は人間と機械の共有物となろう。その相互関係は(人間がうまく操作すれば)社会にとって実り多いものになる」(ブログ「DVD 2001年宇宙の旅 スタンリ・キューブリック監督 1968年」より)

 以上のインタビューを読む限り、コンピューターと人間との「相互関係は(人間がうまく操作すれば)社会にとって実り多いものになる」と言い切る、キューブリック監督の楽観的未来観が、本作のバックグラウンドに横臥(おうが)しているからこそ、「言葉に置き換えることのできない、2時間19分のフィルムの体験」を通して、「美しき青きドナウ」をBGMにした宇宙船のドッキングを流麗に描くジャンプ・カットがインサートされたとも受け取れる。

 やはり本作は、小難しい理屈をこねて、「解読の快楽」を得る映画というよりも、どこまでも、「全身表現者」による「全身アート」の映像を「体感」する映画なのだ。

 その把握によって本作を「体感」していけば、HALの「反乱」を描く印象深いシークエンスの意味は、選択的に特化されたボーマン船長が、究極の「サムシンググレート」の「四次元」世界の経験のうちに、時空が回転する「大驚異」のイメージ提示を被浴し、大宇宙の神秘を再現する映像の中で、本作の原題である「2001: A Space Odyssey」(ホメロスの「オデュッセイア」における、帰還の旅の苛酷なる艱難さをイメージさせる)の物語として拾われたエピソードなのだろう。

このことは、HALの反乱のエピソードを通して、本作が、「人間とは何か」という根源的問題提示をも包括するという、私の把握と矛盾しないと考えている。

 と言うより、そのような複層的な構造を持つ物語として受容し得る、「全身表現者」による「全身アート」の映像を「体感」する映画 ―― それが「2001年宇宙の旅」なのである。。

いずれにせよ、電位レベルで動き、多くのアルゴリズムを量産し得る論理回路であるコンピューターが、恒久に自己増殖を果たし得ないという現実を認知する限り、仮にコンピューターに、人間の感覚や行動に似た表現を具現したとしても、人間の本質に関与する「自己反省能力」や「メタ認知」(自分の行動や思考などを相対化して客観的に把握すること)のレベルにまで辿り着くことは殆ど不可能である。

 コンピューター技術者たちの中で、コンピューターの自己増殖を望む者が現出してきたとしても、人間はコンピューターの未来に、その危ういラインへの越境だけは許容しないだろう。

少なくとも、私はそう思う。


【参考文献】「2001年宇宙の旅 アーサー C.クラーク・ハヤカワ文庫。
       「前哨」 アーサー C.クラークハヤカワ文庫。
   「2001年宇宙の旅講義」巽孝之・平凡社新書。
   「〈映画の見方〉がわかる本」町山智浩・洋泉社
   「コンピュータが人間になる可能性はあるか D.T(ベトナム) 工学部 電子情報工学学科・PDF文書。
  その他、多くのブログ参照。

 (2012年12月)


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