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2013年6月2日日曜日

メランコリア(‘11)         ラース・フォン・トリアー



<「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に提示した挑発的映像の凄み>




序  「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に提示した挑発的映像の凄み



抜きん出た構成力と毒気溢れる主題提起力によって、一級のアートにまで昇華したラース・フォン・トリアー監督の力量を存分に検証した傑作。

「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に対して、「この世の終わりに生きている者」の恐怖感の「共有」を迫っていく映画。

これが、この傑作のエッセンスである、と私は考えている。

自分の内側に抱える根源的問題の提示を、覚悟を括って真っ向勝負で突きつけてきて、それを高い水準の映像にまで昇華させた腕力の凄みに、誰が何と言おうと、私は最大級の賛辞を贈りたい。

とにかく、素晴らしい映像だったと言う外にない。




1  日常性が溶けていくような恐怖感



それは、唐突にやって来た。

 恐らく、緩やかに進行していた毒素だったかも知れないが、何となく遣り過ごしていた不安が、その日、唐突に襲ってきたのだ。

 
イメージ画像・ブログより
自分の周りの風景がすっかりくすんでしまって、昨日まで見ていたものとどこか違う風景が放射する、恐怖に似た感情に捕捉されたのである。


 

 毎日、漫然と消費していた安物のテレビが、特段の機能を持ち得ない無機質の物体となり、義理の挨拶を交していた程度の知人の顔が、身過ぎ世過ぎに明け暮れる者の日常的な臭気を撒布させる何者かでしかなくなっていった。

 日常性が溶けていくようだった。

 

戸外に出ても、風景の変色を否が応でも感受して、当時、自分の塒(ねぐら)にしていた6畳のプレハブの小屋に慌てて戻って来た。

 親しい友人がいたが、彼にも自分の正確な思いを伝えられず、悶々とするだけだった。

 
イメージ画像・公演『ベツレヘム精神病院』より
翌日、私は思い切って、2キロほど離れた某精神病院を訪ねた。


 しかし、碌な問診をしない担当の女医は、訳の分らない薬を処方するだけで、あっさり帰されてしまった。

 その女医の反応に頗(すこぶ)る苛立っていた私は、結局、その薬を服用することはなかった。

 私をして、そのとき精神病院に運ばせた原因がどこにあったか、当時、全く不分明だった。

 今思えば、その症状は「うつ病」と診断されるかも知れない。

 生きていることの意味を全く感じられないという、戦慄する日々に恐怖感が突き上げてきて、私は自殺する運命を辿っているのかも知れないと思った。

 その名状し難い恐怖感を克服するために、私が選択した行動は二つだった。

 一つは市民運動に参加すること。

もう一つは、バイトで銀座に通っていた某ビルの警備員の継続に加えて、昼間の空いている時間をも労働で埋めたのである。

 余計なことを考える時間を作らないためだ。

 複数の作業の継続は、肉体的にも精神的にも相当きつかったが、もう、そのような何かに身を預けなければ「自分が危ない」と感じる恐怖感が突き上げていたのだ。

 ともあれ、それが、「自死」という名の恐怖が私に最近接した経験だった。

26歳の夏だった。

「桜桃の味」より
―― 以上の文章は、アッバス・キアロスタミ監督の「桜桃の味」(1997年製作)の批評の冒頭で書いた拙稿である。

今まで経験したことがない恐怖感に呪縛された私にとって、「今」、「このとき」の異様な精神状態を放置していたら、自分でもコントロールできない内的状況の凄惨さを晒す事態に捕捉され、深い迷妄の闇の世界に永遠に閉じ込められるような感情が固まっていく不安を抑えられなかった。

「いっそ、世界が滅びればいい」

そんなネガティブな感情が噴き上がったのは、後にも先にも、そのとき一回きりだった。

「このままいったらダメになる。だから、何でもいいから自分サイズの相応の目標を設定し、その目標を具現するために身体を動かすことだ。身体を動かせば、精神も少しは動くかも知れない」

精神病院(イメージ画像
そのとき、このような結論を得て、相当程度無理に、自らの身体を動かしていったが、今思えば、私には、自らの身体を動かしていくだけの熱量を自給し得る能力が生き残されていたのである。

   

2  「死に至る病」の真の恐怖、或いは、「うつ病者」の憂鬱の破壊力



死ぬことすらも不可能である希望のなさ。

人間には、外部世界への完全逃避への道が塞がれているという一点において、「絶望」という名の「死に至る病」の真の恐怖がある。

これは、かつて私の愛読書の一つであった、ラース・フォン・トリアー監督を生んだデンマークのキリスト教的実存主義哲学者・キルケゴールの「死に至る病」に書かれた、身震いするような一文を要約したもの。

然るに、肉体的な死と切れて、精神的な死=「精神の病」こそが「絶望」であるが故に、「死に至る病」であり、その絶望の認知から逃避することも、絶望を認知し、自己自身であろうと欲する営為も傲慢である。

だから、絶望という名の罪の意識の自覚を経て、信仰に目覚めよ。

キルケゴール(ウィキ)
このキルケゴールの言葉に啓示を受け、信仰に強い関心を持った時期があったが、しかし、私には無理だった。

ただ、人間は「絶望」の極みにあるとき、全く何も為し得ない無力な存在でしかないということを、実感的に私は経験した。

「絶望」とはあらゆる可能性に対する「絶望」なので、「自死」という行為にすら振れ得ない、とキルケゴールは暗示するのだ。

従って、自らの身体を動かしていくだけの熱量を自給し得る能力が生き残されていたことの事態が示すものは、恐らく、「抑うつ状態」であるに違いないが、少なくとも、「絶望」の極みには捕捉されていないということである。

「うつ病」の深い冥闇(めいあん)の森に捕捉されたら、人間はもう、何もできないだろう。

しかし私は、「抑うつ状態」であっただろうが、決して、言語を絶する「うつ病」の地獄の冥闇の森に捕捉されてはいなかった。

そう思う。

では、「うつ病」とは何か。

 ここでは、それを考えてみよう。

うつ病・ゴッホ「悲しむ老人」(イメージ画像・ウィキ)
まず、発症率が3~5%と言われるほどに高い、「うつ病」のメカニズムが、未だ現在の医学では充分に解明されていないという現実を理解する必要があるということ ―― 残念ながら、私たちは、この事実を認知せねばならない。

「うつ病者」の脳内で何かが起こっているらしいこと。

それは確からしいが、遺伝病でないことは、相当程度の確率で言えるということ。

当然の如く、環境因子と無縁でないだろうが、「気の病」でない事実を認知しておかないと、二次障害としての「偏見」に晒されるだろう。

その意味で、決して完全否定し得ないものの、「性格の問題」に安直に原因を求めるのはロジカルエラーと言わざるを得ない。

 本作でも現出していたが、ヒロインのジャスティンがそうであったように、「うつ病」の身体的症状には、食欲不振、不眠症の常態化、全身倦怠感や疲労感、頭痛、関節痛、消化器系の疾患などの特徴的な現象がある。

 
ジャスティン/ジョン・エヴァレット・ミレー「オフィーリア」のイメージ提示
この事実は、「うつ病」が、「身体の病」である事実を検証すると言っていい。

 その辺りに、ストレスの過剰な累加によって脳内の神経細胞が傷ついてしまう、「うつ病者」の脳内異変との関連の根拠になっていて、「うつ病」が脳の疾病であるという仮説を裏付けてもいる。

 更に、「うつ病」の精神症状として、気力や意欲の顕著な減退が「抑うつ気分」を惹起し、それが喜びの感情の喪失に結ばれ、死にたいと願う気持ちが生じる、所謂、「希死念慮」に振れていきやすくなる現実を認知しないと、適切な対応を誤ることにもなるに違いない。
 
「希死念慮」は、SOSの発信なのである。

だから、このSOSの受信と、それによる適切な対応こそ、「うつ病者」の善きサポートになると言えるが、その対応のポイントは、対話を通して相手の思いを汲み取っていく、カウンセラーの成功例をトレースしていく以外にないのだろう。

セロトニン神経系
「うつ病」が発症する原因を考えるとき、生物学的仮説として最も有力なのは、セロトニンの枯渇による「セロトニン仮説」であるが、「セロトニン」をスムースに分泌させる目的で抗うつ剤を投与すれば、「うつ病が治る」というほど単純ではない事実を思えば、「うつ病」が心理学的成因仮説でも説明されるように、パーソナリティ障害との脈絡をも有する、複雑に入り組んだ因子の集合的疾病であると把握すべきなのである。

「うつ病者」の憂鬱の破壊力を軽視してはならないのだ。



3  極限状況の恐怖を均しく「共有」する事態を強いてくる物語



人間は自給熱量が少しでもあれば、動けるのだ。

それは、自死に振れていく危うさを同居させるが、それでも、その危うさに持っていかれることなく、いつの日か、それが自己実現的な可能性を秘める何かを含むという漠然とした観念に、一切を丸投げすればいいのだ。

私の場合、そう思った。

自殺するにも熱量が必要なのだ。

その熱量を転嫁させていくのは相当に厳しい作業だが、少なくとも「今」、「ここ」で、死にたくないという一縷(いちる)の思いが張り付いているなら、そのような身体疾駆を捨ててはならないのである。

ラース・フォン・トリアー監督(ウィキ)
私がラース・フォン・トリアー監督の映画を観ていて、いつも思うのは、彼自身の「メランコリア」の内実が、どの程度のものか全く把握できないながらも、そこで自給される熱量を駆使して、「映画を作るのは鬱病の治療薬」だと常々語っているように、「映像」というアートの世界で自己実現を果たしていくように見える営為に、胸が抉られるような感銘を受ける。

彼は、このようにして、自らの「疾病」と向き合ってきたのだという事実に、身震いするほど感動するのである。

本稿では、どこまでも「人生論的映画評論」という視座で書いていくつもりなので、物語総体の分析にはあまり立ち入るつもりはない。

私から見れば、この映画には、16世紀フランドル(現在のベルギー)の「農民画家」ピーテル・ブリューゲルの、生活のための狩りの疲弊感と、スケートを楽しむ村人たちとの対比を描いた「雪中の狩人」や、19世紀の英国画家のジョン・エヴァレット・ミレーの、狂気の中で死に振れて、小川に浮遊する「オフィーリア」などが映像提示されているが、それらが何某かのメタファーの反映であることを認知しつつも、特段の深読みは不要であるばかりか、深読みの「解読ゲーム」で充足してしまう「表層的」な「知的鑑賞者」への、「メランコリア」の「地獄」の本質に肉薄しようとしない、奥行きの欠落した「偽善性」へのアイロニーが包含されているように思えるのだ。

「雪中の狩人」(ウィキ)
なぜなら、本作の基本骨格が、「メランコリア」の本質との、作り手の真っ向勝負の直接対決の凄惨さであり、且つ、それ以外にない辺りにまで追い詰められた者の全人的な自己救済の叫びを、映像的に昇華した一篇に仕上がっていると印象づけられるからである。

直截に言えば、本作は、「うつ病者」=ジャスティンのネガティブ・イメージの極点である、「メランコリア」という、天体の異形の破壊者としての「リヴァイアサン」的妖怪の、狙い澄ました異次元の「意思」の発現の圧倒的な暴力的襲来による、地球という名の「生命体の集合的生存圏」の解体=人類滅亡の極限状況の恐怖を、均しく「共有」する事態を強いてくる物語である。

従って、「生命体の集合的生存圏」の解体=人類滅亡の恐怖によってのみ、全人的な自己救済を達成されるネガティブ・イメージは、「死後の世界なんてなくて、無の世界で、死んだ瞬間に、全てがそこで終わりになってお終い」(某「うつ病者」の手記)という「終末の世界」の「共有」にまで流されていく、ある種の「うつ病者」の言語を絶する精神的不安の様態に無知なばかりに、単に「気の病」と片付けてしまう傲慢さへの「公平」な鉄槌であると言っていい。

即ち、本来は生命の危機と隣接する明瞭な「疾病」であるに拘らず、相も変わらず、「自分もウツだよ」と軽薄に言ってのける、「偏見」をベースにした「激励」や、的を外れた「アドバイス」という偽善を押し付けてくる者たちへの、恐怖の「共有」を迫る映像なのだ。



4  ジャスティン」 ―― 灰色の毛糸が絡まって、足を取られて進めない女の心の地獄



恐怖の「共有」を迫る映像が描かれる物語の本線を際立たせるために、「対比効果」の手法を駆使して、他者の視線が一斉に侵入してくる前半の、派手に彩られたネガティブ・スポットとしての、過剰な盛り上がりの強制力である「宴」が延々と描かれていく。

リムジンの中でマイケルジャスティン
広告会社の社員である新郎のマイケルと、コピーライターである新婦のジャスティンの社内結婚のセレモニーは、今や、結婚披露宴会場に向かうリムジンの中で、二人の愛は何事もなかったように一定の感情隆起を迎えつつあった。

ところが、リムジンが山道で立ち往生したことで、2時間遅れの披露宴を必至にした。

それが、二人の結婚の危うさの前兆を示すことが顕在化するのは、殆ど時間の問題だった

披露宴の当初は、事情を知る者たちの寛容さで受容されていたパーティーの空気が不浄になっていく契機 ―― それは、実母であるギャビーの唐突なスピーチだった

ギャビー(中央)
クレアとジャスティンの姉妹であり、既に、姉妹の父と離婚しているギャビーは、場違いのネガティブ・スポットの渦中で、相当の破壊力を持つ爆弾を投げ入れる。

「私は教会も結婚制度も信じてない」

そう、言ってのけたのだ。

それが、「宴」の空気が変容させていく第一弾になった。


ジャスティンの表情の変化
ジャスティンの表情が、見る見るうちに陰鬱なものに変容していったのである。


山奥の結婚披露宴会場に身を投げ入れること自体、彼女なりの「頑張り」を不可避としつつ、それを無難に乗り越えてきた心の奥深くに、この母親の否定的言辞が侵入してきたとき、遂に、ジャスティンの「頑張り」は許容限界点に達したのである。

大体、結婚という、人生の重要な節目になるような大きな決断をすること自体、「うつ病者」にとって由々しきストレスになってしまうのだ。

マイケルに励まされるジャスティン
前述したように、ストレスの過剰な累加によって脳内の神経細胞が傷ついてしまうが故に、「うつ病」の深刻な発現を招来することを思えば、ジャスティンの「頑張り」には、その出発点から適応障害の症状を潜在化させていたのである。

その直後、ジャスティンは、盛大な披露宴会場を離れて放尿しながら、さそり座で最も明るい恒星のアンタレスを見つめる奇矯に振れていく。

披露宴会場に戻ったと思ったら、睡魔に襲われ、ベッドに横になる始末。

それまで、「疾病」故の、ジャスティンの奇矯に振り回されてきたであろう姉のクレアは、妹の傍に寄り添って、言葉をかけていく。

「一体、どうしたの?」
「私、思うように動けない。灰色の毛糸が絡まって、足を取られて進めない。すごく重く、引っ張られて・・・」
「思い過ごしよ」
「こんな話、嫌いよね」

蔦を絡ませながら前に進もうとするジャスティンの妄想
「灰色の毛糸絡まり」は、当然、ジャスティンの精神状態を表わす妄想だが、既に、映像は、繰り返し、深夜のゴルフ場の特定スポットで、蔦を絡ませながら前に進もうとして思うようにならない、ウェディングドレスのジャスティンの妄想のカットを挿入していた。

それは、偏見に晒されやすい「うつ病者」の、言語を絶する精神的不安の様態をイメージさせる印象深いカットだった

一度、精神的不安の様態を顕在化させてしまった「うつ病者」の人格を、それまでの「頑張り」の世界に復元するには相当の無理がある。

ケーキカットの時間なのに、入浴するジャスティン。

その後、彼女なりに努力し、笑みを作っても続かず、一人で嗚咽するばかり。

それでも気を取り直したジャスティンに、新郎のマイケルは、新婦へのとっておきのプレゼントを渡す重要なシーンがあった。

「りんご園」が写っている一枚の写真を見せて、マイケルは自慢げに、しかし、存分の優しさを込めて静かに語りかけていく。

「土地を買ったんだ。りんご園だ。真っ赤で赤い実がなる。酸味も完璧。子供の頃、食べた。素敵だろ。10年後には木が育ち、君は木陰に椅子を置いて座る。その頃も、気が沈む日があれば、りんごの木が君を幸せにしてくれる」

新婦が「うつ病」を患っている事実を認知している心優しい新郎の配慮に、ジャスティンは「優しいのね」と反応する。

しかし、その反応には、明らかに無理があった。

披露宴に溶け込もとするジャスティン(左はジョン、右はマイケル)
ジャスティンにとって、「りんご園のマイホーム」にシンボライズされる「ユートピア」の近未来を、ごく普通のサイズの、「幸福街道一直線」の新婦の抱懐する家庭像に、全く振れようがないのだ。

だから、その無理が、ジャスティンの奇矯な振る舞いに流れていくのは回避できなかった。

「少し怖いの。ちゃんと歩くことさえできない」

破壊力を持つ爆弾を投げ入れた母への、ジャスティンの吐露だが、「行きなさい」としか答えない母には、娘の「疾病」を受容する能力など全くない。

左からジャスティン、マイケル、ジョン、クレア
それ故にこそ、「世間」の常識から逸脱する母の生き方を反面教師にしてきたためなのか、母の「教育」を相対化し得たと思われるのクレアと違って、ジャスティンに与えた不定形の影響の、その累加された心的行程の時間を考えるとき、彼女の壊れやすい自我にハレーションを起こすに足るネガティブ・イメージが印象づけられるのである。

ジャスティンの奇矯な振る舞いは、夫と二人だけになっても愛撫を拒否し、外に出て、知り合ったばかりの上司の甥のティムと、ゴルフ場でのセックスに及ぶ自壊性を晒すのだ。

当然、夫との結婚の解消が必然化され、上司を罵るジャスティンの狂気は、今や、誰も止められない。

冒頭での、ジャスティンの妄想の映像提示・中央は甥のレオ、右はクレア
「宴」のネガティブ・スポットとなった屋敷には、ジャスティンとクレアの姉妹、そして、クレアの夫ジョンと、ジャスティンを慕う息子のレオの家族しか残っていなかった。

「時々、あなたが憎くてたまらない」

このクレアの一言には、「秩序破壊者」の振舞いを長く観察してきた者の諦念が張り付いている。

こうして、「ジャスティン」と命名された前篇が閉じていく。

朝霧の道を、乗馬する姉妹。

進まなくなった馬から降りて、空を見上げたジャスティンが放ったのは、アンタレスが消えた」。

ジャスティン」の章のラストカットである。



5  ラストカットの「予約されたデトネーション」によって回収された、「宴」という名の「退屈極まる伏線」



後篇は、「クレア」と題された章である。

「うつ病」の「地獄」と思える状態に捕捉されたジャスティンは、一日中眠りっぱなしで、もう自分の力で立ち上がって、歩くことさえ儘ならなかった。

姉のクレアに抱きかかえられて、浴槽に辿り着いても、入浴すらもできない始末。

そんなジャスティンに変化が起こった契機は、姉妹で乗馬の散歩に出たとき、惑星のフライバイ(接近通過)を感知したことだった。

ジャスティンの復元
あれほどまでに、「うつ病」の「地獄」に拉致されていたジャスティンの人格は、加速的な回復を果たしていく。

「地球は邪悪よ。嘆く必要はないわ、地球は消えても。私には分る。地上の生命は邪悪よ」

ジャスティンが、クレアに言い放った言葉である

夜半に全裸になって、「メランコリア」と命名された惑星の接近を見つめ続けるジャスティン。

彼女は今、浄化する気分になって、「メランコリア」の接近を受容しようとするのだ。

「無」になることで、宇宙と同化できると信じるのだろう。

フライバイを見る3人。姉妹の対照的表情が印象的
一方、「常識」に生きるクレアは、「メランコリア」のフライバイを極端に恐れている。

それがフライバイに終始することなく、最悪の場合、地球を擦過したり、衝突したりすることで、「終末」の事態を迎える危機に過剰に反応してしまうのである。

当然過ぎる反応である。

「忌まわしき惑星が怖い」

クレアの言葉である。

じっとしていられないクレアがネットで調べたら、“地球とメランコリア 死のダンス”という文字を確認し、いよいよ精神不安を高めていく。

「衝突しないの?」

夫のジョンに尋ねるクレア。

「明日の夜、惑星は通過する」

ひとときの安寧
余計な心配をかけないように、ジョンは不確実な情報を、妻を安心させるために与えていくが、非常時の用意を万全に整えていたように、内心は大きな不安ではち切れそうだった。

それが、ジョンの厩舎内での自殺に繋がった。

近村から人影も消え、邸の執事の姿すらも見えなくなり、絶望的な状況を感受したクレアは、レオを随伴して脱出を図るが、今や、逃げ場すらなく、本来は存在しないはずの19番ホールの中枢で、激しく叩きつけてくる雹(ひょう)から一人息子を守ることだけが、選択肢を持ち得ない彼女の唯一の行動だった。

この辺りの、イメージ喚起力の凄みに圧倒される思いである。

ともあれ、このような絶望的な状況の只中にあっても、淡然と落ち着き払っているジャスティンは、母クレアの影響を受け、不安がるレオを抱擁し、小枝を集めて「魔法のシェルター」を作る作業を共有するのだ。

恐怖に怯えるクレア
「時々、あなたが憎くてたまらない」

結婚披露宴という儀式の中で、不手際のさまを晒した妹に投げ入れた言葉が、再び、クレアから放たれた。

人類の滅亡が迫っても、全く動じず、落ち着き払っているジャスティンの態度を目の当りにして、最も「健全」なる「常識人」であるクレアは、常に自分と正反対の態度を示す妹の振舞いに苛立つばかりだった。

しかし、クレアの不安がピークアウトに達したとき、ジャスティンとレオが作った簡便な「魔法のシェルター」に潜り込む。

「魔法のシェルター」の中で、しっかりと手を握り合う3人。

声にならない悲嘆の表情を露わにするクレア。

その姉を優しく見守る妹。

目を瞑って、その瞬間を静かに待つレオ。

「生命体の集合的生存圏」の解体=人類滅亡のラストカット
かくて、「生命体の集合的生存圏」の解体=人類滅亡のラストカットが提示され、映像は閉じていく。

このとき、「ジャスティン」と命名された前篇の、長々と続く爛れ切ったシーンの総体は、「クレア」と題された後篇の中で描かれた姉妹の心情の反転によって、「健全」なる「常識人」であるクレアとの対比のうちに、「狂気」とラベリングされるだろう愚昧な解釈を張り付けられた、ジャスティンの内面世界の奥行きの深さを、鮮明なまでに表現する「退屈極まる伏線」であることが判然とする。

「宴」という名の「退屈極まる伏線」は、ラストカットの「予約されたデトネーション」によって回収されたのである。



5  「うつ病者」の内面世界を描き切った映画



思うに、顕著な「葛藤能力の低下」によって、「大きな決断」に入り込めない苦痛の、些か爛れ切った様態を、本線を際立たせるために提示された世界こそ、前半の「ジャスティン」の章の内実の本質であり、この伏線の挿入が、後半の「クレア」の章の爆轟(ばくごう)的炸裂に繋がるという構成を成している。

冒頭でも書いたが、本作は、常に「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に対して、「この世の終わりに生きている者」の恐怖感の「共有」を迫っていく映画である。

海水に浸った仙台平野沿岸部の水田(ウィキ)
「この世の終わりに生きている者」=「うつ病者」の、この心理は、例えば、私の知人の場合、「3.11」(東日本大震災)の際に、「放射能で、日本が滅亡する」などと言って、危機を煽ることで、信じ難い「溌剌さ」を目の当りにした事例によっても検証可能であるだろう。

その御仁は、今まで抗うつ剤の飲み過ぎで危険視されていたにも拘らず、大変身し、放射能の危険を説き捲ったのである。

この辺りの心理を、イメージ喚起力の抜きん出た映像が切り取って、一度観たら忘れようがない「アート」に昇華させたのが本作である。

何より、この映画が素晴らしいのは、後半の「クレア」の章において、「宴」という名の「退屈極まる伏線」を回収した構成力の見事さである。

更に言えば、「3人+1人」という、一家族に集合する人物を特化させて、限定的なスポットで交叉する、感情コントロールの難しい状況に捕捉された者の会話のみで、「この世の終わりに生きている者」の恐怖感を描き切ったこと ―― これに尽きるかも知れない。

そこには、「メランコリア」の接近を伝えるメディアの描写が確信的に削り取られていた。

不必要な描写を削り取ることによって手に入れたのは、「この世の終わりに生きている者」の恐怖感のリアリティの純度の高さである。


地球に衝突する「メランコリア」(ハイスピード撮影)

ハイスピードカメラで撮影した冒頭のシークエンスに収斂されるように、まさに「映像」と呼ぶに相応しいアートに結晶されたのである。

さすが、ラース・フォン・トリアー監督である。

従って、本作はズバリ、「うつ病者」の内面世界を描き切った映画であると言っていい。

これが、私の結論である。

(2013年6月)

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