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2012年7月2日月曜日

激突('71)         スティーヴン・スピルバーグ


<「追い詰めるモンスター」と「追い詰められし逃走者」という構図を反転させていく激発的変容の物語>



1  余計なものを剥ぎ取った、サスペンス映画のシンプリズムの極致



余計なものを剥ぎ取った、サスペンス映画のシンプリズムの極致とも言うべき、本作の本質を狭義に言えば、追い詰められた主人公のドライバーに感情移入させられ、同化した観客が、ドライバーの極限的な心理状況、即ち、不安感 ⇒ 恐怖感を包含させる、特定の状況に対する心理的な準備状態である緊張感を、継続的に味わわされることによって生まれる、隙間のない「時間」を描き切ったことにある。

 その隙間のない「時間」の中で形成された関係の枠組みは、追い詰められた主人公のドライバーと、「移動タンク貯蔵所」として、石油、劇薬等の危険物をも輸送する機能を持つ、攻撃的な「モンスター」と化したタンクローリーという限定的な構図のうちに収斂されていた。

 まさに、その限定的な関係構図であったからこそ、そこで排除された一切の存在性の欠如が、「援軍なし」の恐怖を煽ることで、主人公のドライバーの孤立感が増幅される効果を生み出したのである。

 ドライバーの孤立感が増幅される効果を、殆ど台詞のないシンプルな物語構成は、極限的な心理状況に追い詰められた主人公の心理を的確に表現していくことで、極めて完成度の高い映像を構築し得たと言える。

 以下、主人公のドライバーの、そんな極限的な心理状況をフォローしていくことで、物語をまとめてみたい。



 2  「究極の傍観者」に囲繞された男の「恐怖の旅」



 「どういう気だ?遊んでいるつもりはないんだ」

初めは、こんな調子だった。

自ら譲ってあげたのに、緩慢な速度で進むタンクローリーを、特段の意図なく追い越しただけだった。

カルフォルニア州のハイウェイを南に向う男の目的は、知人からの借金の取り立てにあるらしい。

だから、時間に猶予がないと零す男の視線に捕捉されるのが、車線で抜こうとすると、意図的に妨害する大型のタンクローリー。

それは、ひと際目立って、その外形的に異様な存在感を誇示しているように見える。

「先に行け」

車内から左手を出して、それを振る仕草をするタンクローリーのドライバー。

「分ればいいんだ」

そう言って、男の運転するクライスラー製のコンパクトカー、70年型プリマス・バリアントがタンクローリーを追い抜いた。

ところが、隣りの車線に乗り入れた男の車は、危うく対向車とクラッシュしそうな危機に陥ったのだ。

「何て奴だ!できそこないが!」

車内で声高で叫ぶものの、相手の殺意を初めて感知したこの辺りから、男の不安が一気に恐怖に変わっていく。

その恐怖感を抑えるように、男は、怒りの感情で糊塗(こと)した自己防衛の方略を形成していく。

同時に、「時間に間に合わない」という焦りの感情も随伴しているから、「OK.遊んでやるさ」などと独言を吐くことで、「援軍なし」の状況下で自我の安定を保持しようとするのである。

完全に追い抜いて、嬉々とする男。

これも、不安を抑える心理。

だから、音楽をかける。

日常性と繋がりたいのだ。

しかし、猛スピードで追走してくるタンクローリーに、男の不安は隠しようがない。

日常性に潜り込もうとする男が嵌った、理不尽なる「非日常」の時間の中枢に、その時間の重量感が孕む継続的な恐怖を記憶増強させるかの如く、得体の知れない攻撃的意志が間断なく侵入してくるから、男は、それをバックミラー越しに視認せざるを得ない行為に振れていくのである。

プリマス・バリアントのバックミラーを、タンクローリーの奇怪な相貌(車体)が占有するのだ。

そのプリマス・バリアントの後部を当てられ、いよいよ、恐怖感を増幅させていく男。

既に、物語の風景は、「束の間のゲーム」から、「巨大な有機生物」と思しき、攻撃的な「モンスター」からの逃避行動に変容しているのである。

「トラックに殺されかけた」

危うく激突しそうになったドライブ・イン傍の柵で、地元の老人に吐露しても、「軽いムチウチ症だ」と笑われるだけ。

孤立感をも深めつつあった男は、ドライブ・インのトイレに入って、何とか落ち着こうとする。

しかし、「終わった」と思い込んで、ドライブ・インから外を覗くと、「モンスター」と化したタンクローリーが止まっているのだ。

男は、ドライブ・インの大勢の客の中に、「巨大な有機生物」と同化した、相貌の見えないドライバーがいると思い込み、緊張感がピークアウトに達する。

今や男の視線には、途中で電話しても素っ気ない対応をするばかりの妻を含めて、男とクロスした登場人物の全てが、「巨大な有機生物」の殺意を認知しない、「究極の傍観者」のようにしか捕捉し得ないのだ。

 何とか落ち着こうとして、自分の身に起こっている厄介な事態を考える、そんな男のモノローグ。

 「考えるんだ。奴はここにいるが、俺を狙っているとは限らん。昼飯時だ。近所に店がないのかも。速過ぎて、止まれなかっただけかも知らん。それで戻って来たんだ。きっとそうだ」

 明らかに、自分は狙われているという事実と、狙われる理由がないという矛盾を抱えた、「認知的不協和」の不快な状況を、自分の都合の良いように考える男の心理は、私たちが往々にして流れゆく防衛機制である。

 しかし、自分の都合の良いように考えたくとも、それを許さない状況の振れ具合が、呆気なく、男を理不尽な現実に戻してしまう。

だから、こんな都合の良い想念を繋いだ後、説得力のある答えを見つけられない男は、あらん限りの具体策を巡らせる。

「警察に連絡しよう。でもダメだ。なら、直接、話して止めてもらおう」

そんな男が、最終的に採った選択肢 ―― それは、タンクローリーのドライバーと決めつけた、一人の屈強そうな男への行動停止の要請だった。

 しかし、その一方的な行為は、要請の意味が分らないその男を怒らせてしまい、喧嘩となって殴られる始末。

 早々とドライブ・インを後にして、件の男が乗った車はタンクローリーではなかった。

 結局、タンクローリーのドライバーは、ドライブ・インで休憩していなかったのだ。

その事実が判明したのは、停車中のタンクローリーが再駆動した現実を、男が目視したからである。

「究極の傍観者」に囲繞された男の「恐怖の旅」もまた、「追い詰められし逃走者」という心理を抱えて再駆動したのである。



3  「追い詰めるモンスター」と「追い詰められし逃走者」という構図を反転させていく激発的変容の物語



停車中のタンクローリーが再駆動していった現実を目視するや、相貌の見えないドライバーの外形を確認しようと、男は慌ててドライブ・インを飛び出していくが、今度ばかりは「追われるモンスター」となっても、余裕の「逃走者」を演じて見せる。

ゲームを愉悦しているようなのだが、それが、一定の「軟着点」を持つゲームと完全に切れている現実の恐怖を露わにするのは、ドライブ・インからの再駆動の時間を開いていく辺りからだった。

「追われるモンスター」は、相貌の見えないドライバーの外形を確認できない位置を確保することで、再び、「追い詰めるモンスター」に戻っていく。

男のプリマス・バリアントを待っているのだ。

オーバーヒートが原因でエンジン故障を起こして、停車しているスクールバスの援助に手間取っていた男の前に、先行していたタンクローリーが戻るや、最近接して来たのである。

外に出ていたスクールバスの子供たちの身を案じた男は、子供たちをバスに乗り込ませようと動くが、要領の得ない男の振舞いに、スクールバスのドライバーは貸す耳を持たなかった。

「あのトラックは、私を殺そうとした!」
「あんたの方が、よっぽどおかしいよ!」

そんな口争いをしていた直後に起こったこと ―― それは、子供たちを乗せたスクールバスを後押しして、スクールバスのトラブルを解消するタンクローリーの援助行動だった。

またしても、男だけが孤立するパターンをなぞったのである。

今や、タンクローリーには、男への殺意のみが目的である現実が明瞭になったのである。

男のプリマス・バリアントを先行させた後、タンクローリーが再び、「追い詰めるモンスター」となって戻って来たとき、男は最大の危機を迎えるに至る。

列車の通過待ちをしている男のプリマス・バリアントの後方から、殺意を剥き出しにした「追い詰めるモンスター」は、執拗に体当たりして、その巨塊をグイグイと押し付けてくるのだ。(トップ画像)

辛うじて命拾いした男を待っていた次の恐怖は、警察に連絡するために入ったガソリンスタンドの電話ボックスを、辺り構わず襲撃して来るタンクローリーの裸形の殺意だった。

その危機を超えても続く、「追い詰めるモンスター」の執拗な攻撃的殺意に対して、加速的に増強された恐怖のストレスが、アウト・オブ・コントロールの状態を呈してきた男の心の中で、「追い詰められし逃走者」を延長させる時間の空虚感を覚え始めてきたとき、そこに決定的な変容を露呈していくに至ったのである。

 その契機は、ラジエーターの故障によって、プリマス・バリアントのスピードが眼に見えて落ちてきた事態であった。

  それは、「追い詰めるモンスター」と「追い詰められし逃走者」という、固定化された構図を反転させていく激発的変容を意味する。

 物語が、ハリウッドお得意の「予定調和の奇跡の逆転譚」にシフトしていったのである。

追いついて来たタンクローリーを崖の上で待ち構え、自ら誘導させて、突っ込んで来た「モンスター」を崖下に転落させるに至ったのである。

それは、激突寸前に、車内から飛び降りるというハイリスクを冒した男の、それ以外にない覚悟の決断だった。

 崖下に転落した「モンスター」の残骸を視認し、小躍りする男。

 なお崖下を凝視する男の表情から、嬉々とした感情が消えていく。

 「巨大な有機生物」の蘇生を怖れる感情が、男の自我を縛っているのか。

 まもなく、「巨大な有機生物」の蘇生を断ち切る思いが勝ったのか、男の表情には、巨大な「モンスター」を斃したという達成感と、一切の信じ難き事態の終焉を受容する安堵感が混淆したかのような思いが映し出されて、いつまでも、その「大勝負」の限定スポットから離れない男の外形が、真っ赤な夕光に照射されていた。

 かくて、「追い詰めるモンスター」と「追い詰められし逃走者」という構図を反転させていく激発的変容の物語が、印象深く閉じられていったのである。

 「予定調和の奇跡の逆転譚」さえ蹴飛ばせば、相当に上出来の映像が見事に括られていったと言えるだろうか。



4  断崖の際に立たされた男が選択した「前線」での、それ以外にない究極の選択肢



明らか作り手は、このタンクローリーの存在そのものを、「絶対悪」と思しきイメージラインの中で仮構している。

タンクローリーのドライバーの人格に同化したかのような、「悪意の象徴」として描かれているのだ。

ウイキによると、「トラックのフロントバンパーに各州数枚のナンバープレートが付けてあるのは」、「劇中に登場するトレーラーを運転する運転手は、各州で同じ手口でドライバーを狙う殺人トラック運転手であり、相手の車を大破あるいはドライバーの命までも奪ったあと、そのナンバープレートを記念品として頂戴している、という設定がある」そうだが、これは観る者の想像力の及ぶところだろう。

特定他者に対する攻撃意志を厳然と有する、そんな「悪意の象徴」であるタンクローリーの鉄壁の武装性が、端的に表現されているのが、その大型のボンネット型ローリーの形態にあると言っていい。

まるでそれは、繰り返し書いてきたように、「絶対悪」と思しきイメージラインの中で仮構されている、尖り切った存在体の相貌性を露わにする、異界なる世界に棲む「巨大な有機生物」であるかのようだった。

まさに、その「巨大な有機生物」が、この国に住む普通の市民の身体を食(は)んでいく恐怖こそ、この映画の本質を衝くものとなっている。

その恐怖は、以下の由々しき要件のうちに集約できるだろう。

第1に、相手の正体が分らないこと。

第2に、自分を特定的に狙ったかのような、相手の攻撃意志が理解できないこと。

第3に、細く伸び切った、どこまでも続く長いハイウェイを、ひたすら逃げるばかりの状況下に捕捉され、言わば、この国の乾いた広がりを持つ空間にあって、仮に、Uターンしても、追って来る事態をも想定することで、脱出の出口が塞がってしまっていること。

そして第4に、自分の置かれた苛酷な状況を、本作の登場人物の誰もが理解できないこと。

そのことで、主人公の乗用車(プリマス・バリアント)のドライバーが、完全に孤立した状態になっているということ。

 以上の要件の全てを充たしている厄介な事態が、「追い詰められし逃走者」の心を強烈に圧迫し、今や、「約束された死」を履行していく極限状況を招来し、断崖の際(きわ)に立たされたとき、「斃すか、斃されるか」という最後の、もう、それ以外にない究極の選択肢に流れていったのである。

従って、それが、スピルバーク監督の基幹メッセージであるか否かについては不分明だが、本作の物語構成の中で最も重要なポイントは、主人公である男の行動が変化したことに尽きると考えている。

Duel」という原題にあるように、「状況脱出」という選択肢を塞がれた男にとって、「決闘」=「戦争」の決意以外の行動選択を持ち得なくなったとき、内側から突沸(とつぷつ)した感情が、理不尽な状況に対する憤怒を噴き上げて、攻撃的意志のスイッチが入るに至ったのである。

それはまさに、「窮鼠猫を噛む」の心理であるが、言葉を換えれば、タンクローリーという「絶対悪」から逃避するのみという、男の自己防衛方略の有効性が自壊するに至ったとき、今や、それ以外の選択肢に流れ着く学習の極点にまで達したのである。

自らを守る手立てが、「どちらが生き残るか」と括った者の最大攻撃性への変換しかなかったのだ。

それは、憎悪の感情が恐怖を突き抜けた瞬間だった。

恐怖を突き抜けるほどの、殆ど捨て身の憎悪の感情が、男の自我を捕捉したのだ。

憎悪の感情が男の自我を捕捉するほどに、タンクローリーという「絶対悪」によって、身ぐるみ剥ぎ取られてしまった理不尽な事態に対して、今や、理性的文脈の一切を自ら身ぐるみ剥いでしまったのである。

遂に、そこまで「追い詰められし逃走者」には、「どちらが生き残るか」という選択肢以外に残っていなかったのだが、状況を反転すれば、それ以外にない唯一の選択肢が露わになったことで、その選択肢に自己投入しやすくなったということなのだ。

確かに、その選択肢は苛酷であり、「恐怖指数」の数値が高く、投資リスクがマキシマムに達してしまっていたが、憎悪の感情が爆轟(ばくごう)のような圧倒的な何かによって恐怖を突き抜けることで、爆発して粉々になる事態への覚悟を分娩したのである。

それは、血を吐く辛さの手前で、さっと引き返すことができる辛さをも突き抜けてしまったのである。

 そんな覚悟で危機に自己投入したからこそ、危機を抜けられたのである。

思うに、人生には、「予約されない恐怖」というものが満ち満ちている。

突入するにも覚悟がいるが、突入しない人生の覚悟というのもある。

覚悟なき者は、何をやってもやらなくても、既に決定的なところで負けている。

スティーヴン・スピルバーグ監督
プリマス・バリアントのドライバーは、決定的なところで負けなかったからこそ、鉄壁の武装性を有する、「絶対悪」と思しき「巨大な有機生物」であるかのような、尖り切った存在体が放つ、圧倒的な「予約されない恐怖」の時間の中枢を破壊し切ったのである。

決して厭味で書く訳ではないが、正当防衛のための発砲を合法とする、有名な「フロリダ自衛法」を持つ国の男たちは、「自分の身は自分で守れ」という絶対倫理に支えられているが故に、このような「予定調和の奇跡の逆転譚」に流れ着く以外になかったということだ。

これが全てだった。

(2012年7月)

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