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2015年5月10日日曜日

酒井家のしあわせ(‘06)      呉美保

<「思春期スパート」した少年を吸引する「家族」の底力>



1  コメディ基調の物語の風景の変容が開いた世界



オカンの嫁入り」がそうであったように、この作り手が只者ではないことが、よく分った。

そこのみにて光輝く」への一気の跳躍は、フロックではなかったのだ。

思春期の揺動感を巧みに切り取って描いたこの映画に、心の底から感動した。

良い映画だった。

―― 以下、本作の梗概。

思春期前期の少年には、色々、悩みが多い。

酒井家
中2の次雄の家庭は4人家族だが、些か複雑である。

父の正和は母の再婚相手なので、血縁の繋がりがない。

所謂、継父であるから、コミュニケーションも、どこか不自然なところがある。

それは、継父の正和が東京出身で、無理して、下手な関西弁を駆使したりすることと無縁でないかも知れない。

若くして、両親を相次ぎ失くしたトラウマを引き摺っている父の心情など、自己中心的になりやすい思春期の難しい時期に当たる次雄にとって、特段な関心を持ちようがないのだろう。

母の照美
だから、実母の照美が、常に小言を撒き散らしている日常的風景には、当然ながら、うんざり気分の日々を繋ぐばかり。

エロ漫画を見て、オナニーに耽る次雄の関心領域に、「家族」の問題など入り込む余地はないのだ。

サッカー部の部活で、持て余すエネルギーを発散しているが、顧問の先生の口煩い指導に対して、思春期視線から見る、「大人」へのラベリングされた固定観念が張り付いている。

自分に興味を持つ女子の筒井から、誕生日プレゼントを受け取り損ねたエピソードなども、多くの中学生たちが経験する、ほろ苦くも、思春期にありがちなごく普通の風景の一端でしかない。

しかし、思春期の鮮度の高い風景に翻弄されながらも、その時間を愉悦する余裕を奪う事態が惹起する。

ここから、コメディ基調の物語の風景が変容していく。

継父の正和が、家を出ていくというのだ。

唐突な事態に、次雄は言葉を失うばかりだった。

「堂々と、息子に言われへんようなことなんですか?」

この母の言葉に、驚く次雄。

「何?」

荷物をまとめている父からの反応は全くない。

好きな人ができたんやて。だから、家出ていくんやてと母。
「マジで?」と次雄。
「しかも、その好きな人って、女ちゃうねんで。男。わらかすやろ。で、その男って、誰やと思う?」
「誰?誰なん?」
「麻田君」

その相手が、工務店に勤める正和の後輩である麻田と聞き、驚いて声も出ない次雄。

「頭おかしいんちゃう?」
「ホンマなん?」

そう言って、父の肩をゆすり、詰問する次雄。

しかし、頷いただけで、そのまま、無言で家を出ていく父・正和。

自分の血を分けた娘から問いかけられ、一瞬、躊躇するが、「一家の大黒柱」であるはずの父は、車に乗って出ていってしまったのだ。

家族の崩壊の危機を目の当たりにした次雄が、親友のナリ(一成)と授業中に喧嘩して、怪我をさせたのは、その翌日だった。

サッカー部の顧問にも反抗する始末。

授業中なのに帰宅しようとす次雄を止めようとした顧問に、「うるさい。どいて!」とまで叫ぶのだ。

「あーあ。親、選びたかった」

これは、ナリと喧嘩して怪我をさせた謝罪のために、母・照美と共に、ナリの母が経営する喫茶店を訪ねた際、その不貞腐れた態度を叱った母に、次雄が洩らした言葉。

「子供はなぁ、親を選べへんように、親も子供を選べへんねん」

母・照美が烈火の如く怒る気配を察して、ナリの母が次雄に説諭する。

次雄
定点を持ち得ない思春期前期の自我が、今や大きく揺れていて、当て所なく彷徨(さまよ)っているのだ。

彷徨っている自我は、叔父(亡父の弟)の元を訪ねていた。

「お前のお母さんと死んだお父さんも、毎日喧嘩しとって、その度に離婚する言うとったにやで。お前のお父さん死んだ日はやな、ほんまは、皆で一緒に出かける言うとったんや。けどや、また朝からしょうもない喧嘩して、お前の兄ちゃん連れて、出てって、それっきりや。そしたら、照ちゃん、気狂ったみたいになっても、わしら、ちょっと目離したすきに、裏の川に何遍も飛び込もうとして、大変やった・・・生きてるとき、どんなに憎らしゅうても、死んでしもたら、お終いやねんて。そんなもんなんや、人なんて」

その叔父とオセロゲームをしながら、次雄の知らない母・照美の暗い過去の一端を、叔父から聞かされ、動揺を隠せない。

この叔父の家には、すっかり重度な認知症を患っているために、自分を特定できず、爆食するばかりの祖父がいた。

更に、寡(やもめ)である叔父の恋人と思しき若い女性が訪ねて来て、この叔父もまた、それなりに人生を楽しんでいるシーンが挿入される。

自分の甥に、「人生の厳しさ」を語り尽くした叔父の、その人生の「現在性」を目の当たりにした少年が、そこで見たものは、まさに、自分にとって未知のゾーンである、「大人の人生」のリアリティそのものだったのか。

そして、「大人の人生」のリアリティが、少年の家族の揺動する渦中で、次雄の思春期行程のリアリズムに襲いかかって来た。

大阪天神祭(ウィキ)
家を出た父と、偶然、天神祭というハレの儀式の炸裂の中で再会したのである。

この一件を機に、次雄は、家を出た父が密かに抱えていた、「大人の人生」のリアリティを知るに至る。

父が勤める工務店に自ら出向き、そこで、ホモの関係にあるとされる麻田と会って、父が家出した本当の原因を尋ねるのだ。

なぜなら、まもなく、母の実家がある大阪に引っ越すことになっていたからである。

以下、父が入院している事実を麻田から聞いた直後の、市民病院での父と子の対話。

「何なの?」と次雄。
「ごめん」と父。
「何がごめんなん。何で、こんなところにおるんよ」

そこで、父が語ったことは、自分が末期の疾病に罹患したために、これ以上、家族に迷惑をかけることが忍びないという思いだった。

「何で、言わへんの?」
「言ってどうなるよ。お母さん、一回死に別れしてんだろ、前の旦那と。だから、言えなかったの。お父さんな、あとちょっとで死ぬんだ・・・父さんな、お母さんのこと大好き。次雄のことも、光のことも、本当に大好き。だから、きっつい苦しい思いさしたくないんだ。苦労とか、さしたくない。看病とかさ、苦労させるだけさせて、ハイさいならって、死んでいくのは簡単だから・・・でも、残された家族はどうなるよ」

この父の告白には、明らかに、相次いで両親を喪ったトラウマが張り付いている。

しかし、思春期前期の少年には、そこまでの想像が及ばない。

だから、信じられないような嘘をついてまで、家族を崩壊させるに足る行動を起こした父への反発の方が、感情的に上回ってしまうのだ。

「何、それで麻田君とホモってことにしたの?アホちゃう」
「アホだよ。バカにされてな、嫌いになってもらった方が、早く忘れられるんじゃねぇかってさ」
「ほんまに、そんなことおもっちょる?ほんまに、皆に忘れられたい?ずるいわ。絶対ずるいって。勝手すぎるわ。そんなん、逃げてるだけや!」
「お父さんだって、怖いよ。俺だって、一人で死んでいくのは、怖いに決まってるだろ。もう、何が正しくて、何が間違っているか、分んねぇよ・・・」

父・正和が置かれている厳しい状況を、嗚咽の中で表現する姿を肌で感じ取った次雄は、ここで言葉を失ってしまう。

「頼む。お母さんには言うなよ」
「無理やって。あかんて。絶対、すぐばれるって」

それでも、秘密の共有を迫る父に、次雄は思わず、叫びを上げのだ。

「だから、忘れられへんって言うてるやろ!」

あまりに難しい要求を突き付けられた少年には、今や、その能力の限界を超えていたのである。

煩悶する少年が、母・照美に真実を打ち明け、泣きながら、市民病院に行くことを促したのは、その夜だった。

号泣しながら訴える息子を優しく抱擁し、その思いを受け止める母がそこにいた。

二人の子供を連れ、照美が正和の入院する病院を訪れたのは、その直後だった。

「バレバレです。こんな四方八方、山に囲まれたちっちゃな田舎の町で、しょうもない嘘ついても、すぐバレんねんで・・・いつ、あんたかたら本当のこと言うてきてくれるか、だいぶ待たせてもうたけど、全然音沙汰ないし、だんだんアホらしいなってきてな。何でそんなしょうもない嘘つかれてまで、あんたの看病せなアカンねんて。一瞬でもダマされた自分が情けないし、このまま知らん顔したろか思うた・・・」

ここで、実父の傍にいる妹を連れ、次雄は病室の外に出ていく配慮を示す。

ベッドに横たわる正和以外の誰もいない病室で、そこだけは叫ぶようにして、照美の真情が吐き出される。

「あたしはいい。でも、我が息子と娘を置いて、勝手なことせんといてくれる!死ぬんやったら、死ぬだけのことしてってくれる!いきなり死なへんだけ、マシやと思ってくれる。一日でも、一時間でも、一分でも、一秒でも、一瞬でも、生きようと思ってくれる!自分のためだけじゃなくて、家族のために生きようと思ってよ・・・」

これは、かつて、配偶者と我が子を、突然喪ったトラウマを持つ照美にとって、封印してきた集合的感情を乗せてまで吐き出さねばならない、その魂の心からの叫びだったのだ。

ここまで吐き出し切った照美は、夫・正和の上半身に、自分の顔を埋めていく。

この妻の言葉で、何かが吹っ切れたように、男の心が浄化されていく。

「お母さんは、お父さんが出ていった次の日に、既にお父さんの病名から何から、全部調べ上げていたらしい。そして何よりも、大阪に引っ越そうと決めたのは、お父さんを看病する環境を作るためだったらしい。僕は、お父さんにもお母さんにもダマされていた。しょぼすぎる」(次雄のナレーション)

大阪への引っ越しの日。

ラストシーンである。

親友のナリが、後に筒井を乗せ、必死に自転車で追い駆けて来た。

それを見た次雄は車から降り、自ら歩み寄り、別離のための出会いを果たす。

しかし、筒井から花を贈られた直後のナリの言葉は、意外なものだった。

「俺ら、付き合ってねんやんか」

予想だにしないナリの言葉に、次雄は反応すべき表情を探り当てているようだった。

「酒井君、頑張ってな」

別離を意味する筒井の言葉である。

その直後の映像は、次雄から事情を聞き知ったであろう、父の笑い声。

それを注意する母も、思わず、自分でも笑ってしまうのだ。

「感謝」という花言葉を持つ、筒井から贈られたカスミソウの花に目を移しながら、かつて筒井から、頬にキスされたあの日のことを思い出す次雄。

恥ずかしさの感情で、ジャージのファスナーを上げて口元を隠し、次雄の表情から笑みが生まれ、それが小さな音声に変換されていく。

観ていて嗚咽が止まらないほどの、思春期前期の風景の一端を切り取った、素晴らしいラストカットだった。

―― 以下、蛇足の一言。

ユースケ・サンタマリア演じる父・正和の爆笑シーンの執拗さが気になったが、これは、妹に手を出した次雄の胸倉を掴むエピソードに象徴されるように、極端なまでに争い事や暴力を嫌う正和が、妻・照美の実家での父子喧嘩を止めさせるために、敢えて選択したパフォーマンスであったと考えれば、腑に落ちなくもない。

或いは、「金魚鉢の一匹の金魚の死」というメタファーを被された正和は、この時点で、病院で末期の疾病の告知を受けていたと考えられるのでそのシビアな内的状況が彼の精神の均衡を壊していて、それが、気の弱い男の不安感を、「狂気」の発現に変換させとも思われるのである。



2  「思春期スパート」した少年を吸引する「家族」の底力



新緑の壁紙写真
精巣からテストステロン、アンドロゲン、卵巣からエストロゲンが分泌され、性別による個体差を明瞭に分ける「性的二形」の現象によって、性的成熟を顕在化させる「第二次性徴」が発達する時期 ―― それを「思春期」(「思春期スパート」)と呼ぶ。

言うまでもなく「思春期スパート」の現象は、単なる身体の変化に留まらない。

「自分とは何か」
「自分は何を求めているのか」

そんな〈生〉の根源的問題をも包括する「自我同一性」を獲得し、彼らが社会に自立的に這い入っていくまでの、自己解決能力を養うモラトリアム時期でもあるのだ。

然るに、「思春期」の典型的発現過程にあって、その後に延長される「青春期」のとば口の辺りで、内的コントロールを最も困難にさせるが故に、周囲にいる身近な大人ばかりか、自己をも「仮想敵」にしてしまう矛盾を現象化(思春期「両価性」)させ得る、極めて厄介な時期でもある。

その思春期「両価性」の発現の只中で、後者の負の様態が集中的に惹起する事態に立ち合ったらどうなるか。

とりわけ、思春期前期という難しい時期の渦中にある少年少女たちに、普段は全く顧みない家族内で、自らの能力で十全に対応し得ない厄介な事態が惹起したらどうなるか。

「家族とは何か」という根源的問題が、思春期前期に呼吸する彼らに対して突き付けられるのである。

「オカンの嫁入り」での呉美保監督
本作は、そのテーマを、どこまでもオーソドックスな映画的手法を駆使し、丁寧に紡いでいく。

本来は、「思春期スパート」の氾濫を持て余し揺れ動感情に翻弄され、最も身近な家族に対して、反抗期特有のナイーブな内的状況を尖らせている時期に「仮想敵」である大人への「思春期爆発」を封印させられるのだ。

末期の疾病に罹患した継父のシビアな現実。

この現実を受容するには、あまりに重過ぎる。

未だ、「快・不快の原理」で動くことが多い少年の能力では、何も為し得ないのだ

しかし、逃げるわけはいかない。

間近に迫り来る死の恐怖

この恐怖に怯える継父の声を少年は間近で拾ってしまったのである

少年はその時、継父を初めて「お父さん」と呼んだ。

恐々ながらも、未知のゾーンへの好奇心に支えられ、外の世界にアクティブに向かう少年の「思春期爆発」は封印されたが、しかし今、その能力の及ぶ範疇で、少年は限りなく内向していく。

これは決して悪くない。

少年にとって思いがけないところで、最も身近な家族を見つめ、そして、些か複雑な家族の中にあって、非日常日々に呼吸に繋ぐ自分を見つめていく。

このような特殊な時間の連続性の中で、大人社会の厳しい洗礼を受け、弾かれつつも、それまでと異なった内的風景を見せるようにして、少年の思春期自我が集中的に形成されていくかも知れないのである。

少なくとも、ほんの少しだが、大人になっていくリアルな行程の一端に振れていくことで、少年の思春期自我に相応の重みを与えるだろう。

その経験は、「人生」の凄みを感じさせるに違いない。

様々だが、それぞれの揺動する内的行程を通して、大人になっていく。

大人になっていくことの重みは、紆余曲折しつつも、シビアな経験なしに感受し得ないのだ。

この重大な時期を切り抜けたら、何かが、少しずつ変容していくだろう。

今は辛いが、それを受け入れなければならない。

少年が思い切り号泣したことの意味は、いつしか、もっと困難な事態に遭遇した時に、簡単に倒されることなく、必死に耐え得る滋養になっていくかも知れないからである。

「思春期スパート」した少年を吸引する「家族」の底力。

少年を大きく変容させていく物語の訴求力の高さは、否応なく、少年を吸引する「家族」の底力と溶融し、痛々しいほど伝わってくる少年の心情への、観る者のミラーニューロン(共感細胞)の為せる業(わざ)だったか。

高い共感性を湧き起こしてくれた映画に、深く感謝したい。

(2015年5月)


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