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2014年8月12日火曜日

百万円と苦虫女(‘08)      タナダユキ


防衛的でありながらも、ラベリングと闘う「移動を繋ぐ旅」の物語>




1  「これからは、一人で、自分の足で生きていきます」



「青春の一人旅」には、様々な「形」があるが、少なくとも、「自己を内視する知的過程」に関わる旅の本質を、「移動を繋ぐ非日常」による「定着からの戦略的離脱」であると、私は把握している。

そして、「青春の一人旅」の目的は、「異文化との交叉」によって自己を相対化し切って、「自己の存在確認と再構築」を果たすことである。

しかし、「青春の一人旅」を発動させる契機もまた様々である。

「青春の一人旅」に関する私のこの把握から言えば、本作のヒロインのケースは、その風景の内実には相当程度の落差がある。

何しろ、本作のヒロイン・鈴子の旅の風景は、「自己を内視する知的過程」とは無縁であるばかりか、「異文化との交叉」によって「自己の存在確認と再構築」を果たす類いの、ポジティブな「攻めていく旅」ではないからだ。

従って、鈴子の旅のケースは、当然、「恐怖突入ゼロ」のポジティブな旅ではない。

「現実逃避」であるとも言える。

ここで私は、斎藤耕一監督の「旅の重さ」(1972年製作)を思い起こす。

「旅の重さ」のヒロインの少女もまた、「現実逃避」が契機になっていたからである。

ある日、私は自分の骸骨と向かい合った。骸骨は終始黙ったまま、洞穴のような暗い眼の奥から、絶えず私に微笑みかけた。白い骨の関節が軋(きし)んで、私の手を撫でた私は、自分自身を悩ますこの幻影から逃れるためにも、旅に出たかったの。清々しい空気。見知らぬ土地。旅にさえ出てしまえば、一切が解決するような気がして」

旅の重さ」より
これは、「旅の重さ」の少女が、少女の母宛てに書いた手紙の一節である。

死への「不安」と「恐怖」をひしと感受する文学少女が、もう、「青春の一人旅」に打って出る以外にないと括って「恐怖突入」したのである。

実際、この文学少女のように、そのような発動契機によって、「青春の一人旅」が開かれることが多いだろう。

それ故、「青春の一人旅」は重くなる。

それは、「青春」それ自身の重さであり、「移動を繋ぐ非日常」の時間の重さであり、そして、その時間を背負う自我の液状化を喰い止めるために集合する、全ての自給熱量の重さである。

この「旅の重さ」に耐え切ったとき、未知のゾーンをほんの少し突き抜けて、何かが開かれ、更新されていく。

以上の文脈から言えば、「旅の重さ」の少女の旅のイメージと切れているが、本作の鈴子の旅も「恐怖突入」の様相を呈していたことだけは間違いない。

鈴子
だから、鈴子もまた、「旅の重さ」を負荷させるリスクから自由になっていなかった。

「これからは、一人で、自分の足で生きていきます」

物語の21歳のヒロイン・鈴子は、家族の前でそう言い放った。

そのために、100万円を貯めるというのだ。

「何で100万が?」
「100万あれば、とりあえず引越せるし。いろんな町に行って、100万貯まったら、その町を出るの」
「何で、そんなことすんの?」
「何となく。姉ちゃんのこと知ってる人、誰も知らない町に行く」
「姉ちゃん、近所の人に、何言われているか知ってる?」
「知ってるよ」
「よく、平気で近所歩けるよね」
「別に、あの人たちに迷惑かけたんじゃないし。何で、近所歩いちゃいけないの」

拓也鈴子
これは、「前科者」というラベリングに負けずに、鈴子の地元で、自分相応のサイズの〈生〉を繋いでいたときの姉と弟・拓也の会話。

ここで、鈴子が「前科者」となった経緯を、公判でのナレーションの抜粋から確認しておこう。

「被告人は、被害者の所持品を無断で廃棄。この事実に、刑法261条の『器物損壊罪』を適応する。当時、恋人と別れたばかりの被害者の心情を察すると、大切にしていたニンテンドーDSライトなど、所持品のすべてを捨てるという行為は非難に値する。主文。被告人を罰金20万円に処する」

要するに、バイト先の友人とルームシェアすることになったのも束の間、その友人が、あろうことか、恋人と一緒の3人のシェアというルール違反を犯したばかりか、その恋人とも別れることになって、結果的に、鈴子とその男とのシェアとなる始末。

ルームシェアの友人と
そんな中で、鈴子の部屋に迷い込んで来た子猫を男に捨てられてしまったことに激怒し、男の荷物を全部捨てた鈴子が罰金刑を受け、「前科者」となったという顛末である

因みに、鈴子の場合、刑事告訴された結果、20万円の罰金刑を受けているので「前科者」になるが、但し、刑事訴訟法第461条によって、「100万円以下の罰金又は科料を科しうる事件であること」に該当するから、「略式手続」になる。

 従って、検察官の他、被告人・弁護人の出席を前提にした公判廷は開かれることがない。

だから、公判でのナレーションの挿入は、明瞭に事実誤認である。

この国の刑事訴訟法の基礎知識を正確に学習して、商業映画を作って欲しいと思う。

物語を進めていく。

中学進学を目指す拓也は、学校で執拗な虐めに遭っている。

「あんなバカとは、別の中学に行くんだ」

虐められて、泣きながら独言する拓也にも、地味ながら芯の強さを印象づける。

更に、こんなエピソード。   

「前科者」になっったことで、同様に虐めに遭う鈴子は、決して虐めに潰されることのない鮮やかな啖呵を切るのだ。

「やってみろ!お前らだって、名誉毀損で捕まるんだよ、ブス!」

学校で虐めに遭っている拓也①
それを偶然見た拓也は、姉の強さに感嘆すること頻りだったが、普段は大人しそうに見える鈴子が情動炸裂すると、罰金刑を受けるほどの攻撃性を表出する行為に振れていくことが分る。

学校で虐められている弟に目視されていることを知らず、凛として自分の言葉と行為によって身体表現できているところを見ると、明らかに、この21歳のヒロインには、このような状況を耐え抜ける強さが、彼女の人格の芯として内化されているのが判然とする。

勝気ではないが、自分の律動感で動く心の強さを持っているのである。

それでも、この辺りが彼女の限界なのだろう。

だから彼女は、「青春の一人旅」を遂行する。

それ自体、自分の律動感で動く心の強さなしに踏み込めないのだ。

然るに、「旅の重さ」の実感は、一人旅に打って出なければ分らない。

その鈴子の旅もまた、一人旅に打って出る行為を通して、初めて「旅の重さ」を感受することで、「恐怖突入」を突き抜けるに足るタフな精神を強化していくのである。



2  「私は無理なんです!前科があるんです!」



「これからは、一人で、自分の足で生きていきます」

繰り返すが、これは、ヒロイン・鈴子の「自立宣言」である。

しかし、この決定力のある言葉もまた、「旅の重さ」の実感を吸収・内化していく時間の中でこそ、初めて実体化するのである。

そんな鈴子の旅は、後述するが、旅の行程で親しくなった大学生・中島に、「自分を探さない旅」と吐露している。

「自分を探さない旅」というのは、世間から被された「前科者」という負のイメージ(ラベリング)で搦(から)め捕られ、自縄自縛に陥ることのない辺りにまで、自分の現在の〈生〉を変換させていくための営為であると言っていい。   
これが、「自分を探さない旅」の本質である。

「自分を探さない旅」
この「青春の一人旅」には、一見、「自分探し」を無化し、受動的で逃避的な印象を被せているが、その本質は、極めて防衛的でありながらも、ラベリングに自縄自縛されない〈生〉の構築を志向するメンタリティが内包されていると読むべきである。

思えば、鈴子の旅は、他人と濃密に接触することを回避する方向に動いていくという意味で、極めて防衛的な移動を繋ぐ旅であった。

「自分を知らない場所への旅」に振れていく彼女の心情は、充分過ぎるほど理解できる。

地元での「定着」が臨界点に達したことで、自立する方向を求めながらも、どうしても防衛的な移動の旅の濃度を深めてしまうのは、このような状況に置かれた者が、ぎりぎりのところで選択し得る振れ方だったと言っていい。

海辺の町での旅
それが端的に表れたのは、海辺の町での旅の内実である。

避けて避けて、避け抜いて、遂に貯めた100万円を持って、新たな「移動」を繋ぐ旅に向かう鈴子は、彼女が働く「海の家」に屯(たむろ)するナンパ男とは無縁な、静かな山麓への移動に振れていく。

その意味で、彼女の旅には、当世風の軽走感覚のイメージが付きまとうが、しかし、彼女にしても、このような特殊な旅をエンドレスに延長させていく強靭な意志で固めている訳ではない。

少なくとも、自己防衛の「対処療法」として選択した旅であるが故に、どこかで軟着点なしに済まない性格をも内包するのだ。

だから、鈴子の意識の見えにくい射程の中に、「定着」への志向性が張り付いていて、当然ながら、移動を繋ぐ旅の人生のうちに自己完結させる、俗世間との関係を絶った「世捨て人」になるつもりもない。

その意味で、鈴子の移動を繋ぐ旅本質が、「定着からの戦略的離脱」であると把握することができるだろう。

桃農家で
そんな鈴子が、山麓の旅での、桃農家での柔和な関係に殆ど完璧に嵌っていたことを想起すれば、彼女の移動を繋ぐ旅の行程にマイナーチェンジ(小さな手直し)が起こる可能性も否定し得ない。

彼女の身心を浄化させる役割をも果たしていた山麓の旅で、「異変」が出来した。

町長から村おこしのために、村を挙げての“桃娘”役を求められ、断るに断れない状況にインボルブされた挙句、公共放送が入り込んでくるという情報を知ったことで、「テレビに出ないといけないなら、余計、無理です」というような、なお柔和な拒絶しか表現し得ない彼女に迫ってくる、「田舎をおちょくるな、小娘め!」などという心理的圧力の中で、遂に彼女は、決定的な告白を結ぶに至る。

私は無理なんです!前科があるんです!」

防衛的に、そこだけは守りたいと思っていた「前科者」という履歴を、きっぱりと吐き出して、その場を走り去っていく。

この一件で、彼女の山麓の町での旅は終焉する。

桃農家との別れ
同時に、彼女の内側を支配する「旅の重さ」が、明瞭にリアリティを持つに至るのだ。

彼女の「旅の重さ」は、その後の旅の地方都市での自己投入の中で、顕著な変化を見せていく。



3  「あたし、中島君といるの、疲れたよ」



ここに重要な会話がある。

自分の「前科」を、某地方都市のホームセンターでバイトする、大学生・中島に告白した後の会話である。

「自分探しみたいなことですか?」

この中島の発問に対して、鈴子は、きっぱりと答えた。

「いや、むしろ探したくないんです。どうやったって、自分の行動で自分は生きていかなきゃいけないですから。探さなくたって、嫌でもここにいますから。逃げてるんです」
「何かに追われているんですか?」

真面目に発問して来る相手に、鈴子の方が反問していく。

「いえ、そうじゃなくて、どこに行っても所在がなくて、いっそ、自分のことを知っている人が一人もいない中で、暮らしてみたいと思ったことはないですか?」
「・・・ありますね」
「で、その、知らない土地に行って、勿論、最初は誰も私を知らないんですけれど、だんだん知られて来て、そうすると、面倒なことに巻き込まれて、100万円あれば、とりあえず家も借りれて、次のバイトが見つかるまでの繋ぎになって、だから、100万円貯めては転々としているのです」
鈴子中島
「じゃ、また100万貯まったら、ここ出て行くんですか?」

この会話の先に待機していたのは、「前科者」というラベリングに全く拘泥することなく、寧ろ、純粋に一人の女性としてのパーソナルな人格像を抱擁し、鈴子との関係の継続を求めている相手のピュアなメンタリティと、それまで経験したことがないような「純愛」を繋ぐ流れに、全人格的に身を任せていく心地良き時間が予約されていた。

彼女は、「100万円貯めたら出て行く」という思いを無化する「定着」への意志を、少なくとも、中島との特化された関係性の力学の振れ具合の渦中で自己確認し、それによって、彼女の「旅の重さ」を覆うラべリグの自縄自縛を解く行程を開くことが可能だった。

それほど、中島との特化された関係性の求心力は、鈴子にとって絶大だったのだ。

鈴子の私的領域の時間を占有する関係性の振れ具合は、極めて防衛的な移動を繋ぐ旅の陰翳感を浄化させることで、非日常の心地良き日常が生み出す、継続のある「定着性」の志向を具現するイメージに最近接したのである。

鈴子中島
ところが、その後の信じ難い展開に、正直、私は愕然とした。  

「あの、さ・・・お願いがあるんだけど。ちょっと、言いにくいんだけどさ・・・お金、貸してもらえないかな。5万ぐらいで大丈夫なんだけど・・・」

睦み合う夜を共にする中島の部屋の中で、男の方から出た言葉。

その後、ばつが悪そうに、裸の背中を向けて、些か澱んだ時間をやり過ごそうとするが、鈴子の中では、中島に対する疑念が膨らむだけだった。

その結果、中島の大学の後輩の女性との和やかな風景を、ホームセンター内で視認している事実との絡みで理解していた鈴子にとって、意を決して、自分の思いの確認のために中島を追い詰めていく。   

以下、そのときの二人の会話。

「あの、聞きたいことがある」と鈴子。
「何?」
「あのさ・・・中島君は、あたしのこと好き?」
「何?そんな、いきなり急に」

笑いながら答える中島。

「好きなの?」
「好きだよ」
「どこが?」
「一緒にいて、落ち着くし・・・」
「それから?」
「どうしたの?何か変だよ、今日」

関係の破綻
相変わらず、中島の誤魔化すような笑み含みの答えが、余計、鈴子に疑念を持たせていく。

「それから?」

冷たい口調で、繰り返し聞く鈴子。

「それから・・・か、可愛いいと思うし・・・」

無理に答える様子が透けて見える。

「それから?」
「やめようよ、照れるよ、なんかこういうの・・・」
「お金持ってるからでしょ・・・お金持っていなかったら、付き合っていないでしょ」

消費志向のセフレ(セックスフレンド)ではなく、ソウルメイトの繋がりを感じさせるに足るパートナーとして特化されたはずの男への失望の念が、鈴子の言葉に結ばれているのだ。

「何で、そんな・・・」
「何で私が、他の子とのデート代まで払わなけりゃならないの?」
「それは・・・」

そう言いかけて、息を飲む男。

「それは?言えないんじゃん」

長い沈黙が、澱んだ空間を覆っている。

「あたし・・・中島君といるの、疲れたよ」

鈴子はそう言って立ち上がり、そのまま去って行く。

その間、中島はずっと下を向いたまま、沈黙を続けているのだ。

私は、このシーンの不自然さに、正直、驚きを禁じ得ない。

なぜ、このとき、中島は本当の理由を彼女に説明しなかったのか。

「聞きたいことがある」と鈴子に問い詰められた時点で、中島は既に、その内実が理解できていたはずである。

覚悟を求められているのだ。

なぜなら、このままでは、中島の大学の後輩とのデート代を捻出するために、鈴子を利用しているだけの関係としか理解されないのは自明であるからだ。

鈴子を引き止めるための嘘が、彼女の心を傷つけ、不信感を募らせる結果しかもたらさないこともまた、疑いを入れる余地がないではないか。

二人の蜜月期①
だから、中島が何も語らないということは、二人の関係の破綻を決定づけることを意味する。

中島もまた、その認識を持ち得ているはずなのに、黙して語らずという彼の態度は、とうてい理解し難い振舞いであると言わざるを得ない。

なぜなのか。

それまで誠実に語り合い、言語交通をスムーズに繋ぐ心地良き関係を発現させていたのに、ここでは、まるで別人格のような中島の、信じ難い稚拙な芝居と曖昧な態度だけが露呈してしまっているのだ。

これは、肝心な局面での、人物造形力の決定的瑕疵と言えないか。

「100万円貯めたら、彼女は自分から離れていく」

二人の蜜月期②
この鈴子の「脅迫宣言」に接していた男にとって、彼女との〈共生〉を願う感情から、極めて手の込んだリスクの高い方略に入り込んでいった事実が判然とするが、それほどまでに、彼女に対する強い気持ちがあったなら、もう、このとき、この場で、自分の本気度を示す表現に変換させない限り、彼女を失ってしまう確率が高いということ。

これは小学生でも分ることだろう。

くどいようだが、それでも言及したい。

迂回することで失うリスクのコストパフォーマンスにおいて、ホームセンターの飲み会で、鈴子と共に、相手を傷つけないように巧みに切り上げる能力を持つ中島が、鈴子に対して取った行動には、相当に無理がある。

飲み会での「バカ騒ぎ」を嫌う性格こそ、寧ろ、ケータイ持たないことに引け目を感じない、「地味好き」な鈴子との「相性」が合うと実感していないはずのない中島が、「100万円貯めさせないために、彼女に嘘をつく」という行為の振れ方は、愚かさの極であり、それまでの中島の理性的振舞いと切れてしまって、まるで別の人格を見せつけられてしまうのである。

二人の蜜月期③
この「中島の嘘」という、エピソードの稚拙さに茫然とさせられたのだ。

それまで好感をもって観てきた映画だっただけに、残念な思いで一杯だった。



4  「今度こそ、次の街で、ちゃんと自分の足で立って生きていこうと思います」



中島との別離が決定的になったその夜、弟の拓也から手紙が届き、それがボイスオーバーとなって、気分が落ち込んでいた鈴子の心の中枢に、決定的な情感反応を惹起させていく。

「この間、僕の机の上に花瓶がありました。すごく頭に来て、その花瓶を割ってしまいました。そして、いたずらをした奴らと喧嘩になりました。そしたら、そいつが怪我をしてしまいました。それで僕は、児童相談所という所に連れて行かれました。怪我をさしたのは悪いから、そいつに謝りました。でも、許してくれません。姉ちゃん、僕はそんなに悪いかな。お父さんとお母さんは、転校した方がいいと言っています。でも僕は、あの日の姉ちゃんのことを思い出して、何があっても逃げないと決めました。だから、このまま皆と同じ中学に行きます。受験はしません」

学校で虐めに遭っている拓也②
この拓也の言葉に激しく揺さぶられ、泣き崩れてしまう鈴子。

「姉ちゃん、ダメだ」

弟の手紙を読みながら、思わず洩れる慨嘆の呻き。

泣き崩れてしまう分だけ、自己を相対化できたのだろう。

「姉ちゃんは、自分のことをもっと強い人間だと思っていました。でも、そうじゃありませんでした。家族でも恋人でも、長く一緒にいられるコツって、一番大事なことは言わないでいることなんじゃないかなって思っていました。おとなしく、適当に愛想笑いをしていたら、トラブルなく過ごせると思っていました。いつの間にか、何も言えない関係になってしまうのは、不幸なことです。人は出会ったら、必ず別れるものだと思います。その別れが怖いから、姉ちゃんは無理をしていました。でも、出会うために別れるのだと、今気づきました。好きな人とお別れしたって、ちっとも泣くようなことじゃないって思いました。・・・拓也は悪くないよ。本当に偉いよ。姉ちゃんは色んな人から逃げてきましたが、今度こそ、次の街で、ちゃんと自分の足で立って生きていこうと思います」

弟・拓也への鈴子の返信である。

さすがに、ここまで台詞にされてしまうと、もう、言うべき何ものもない。

なぜ、限りなく説明性をカットした映像で勝負できなかったのか。

「ちゃんと自分の足で立って生きていこうと思います」
「ちゃんと自分の足で立って生きていこうと思います」

これは、ラストの映像のみで勝負できるではないか。

この辺りで、私はダメになった。

姉弟の関係で繋いできた作り手の意図は分る。

それでも、私の中で急速に下降し、剥がれていく、鑑賞の感覚的劣化を止められない。

「出会うために別れるのだ」などという作り手基準の、小学生に贈る鈴子の返信の内容も、あまりに「幼稚な作り物性」の臭気を感じさせる言葉ではなかったか。

物語を続ける。

未だ帰宅することなく、「青春の一人旅」を延長させていく鈴子

既に、充分に「旅の重さ」のリアリティを、その瘦身の体で感受し、自己を限りなく相対化し得たこそ、次の街への移動へのステップの中に、それまでの内的風景と切れた力動感が収斂されている。

この辺りは、とても感動的に描かれていて、応援したくなる思いもある。

ラストシークエンスでの鈴子
とりわけ、鈴子を演じた蒼井優の表現力が冴えわたっていただけに、先述した展開が惜しまれてならないのである。

「何やってんだろう、俺・・・」

いつまでも、観葉植物に霧吹きを続ける中島は、そう漏らした後、必死になって、鈴子を自転車で追い駆けていくのだ。

結局、全ては鈴子を引き留めておくための、中島の嘘だったという事実が判然とするが、この設定の瑕疵への批判については言及した通り。

ここで、私は改めて思う。

もし、中島の嘘というこの設定が、物語の「どんでん返し」を狙ったものであったなら、もう、途方に暮れると言う外にない。

稚拙過ぎる。

人間心理の洞察力が脆弱過ぎるのだ。

言い過ぎかも知れないが、この程度の構成力の弱さで、「青春感動譚」にまとめてしまう辺りに、この国の映画の根本的病理があるとさえ思ってしまうのだ。

私は、「基本・シリアス系の人間ドラマ」におけるこの種の傾向を「日本映画病」と考えている。

「日本映画病」とは同じ女性監督として、私が評価する西川美和監督の映画には見られないが、観る者の思考力を奪う「極端なまでの分かりやすさ」と、「肝心なところで、綺麗ごとに流してしまう」邦画界の主潮である。

「映画の嘘」を遥かに突き抜けて、人間の心理を普通に描くことの作業を単純化する、「日本映画病」の宿痾(しゅくあ)と言ったら傲慢過ぎるか。

柔和な視線で鑑賞してきても、「日本映画病」の怒涛の洪水に足を掬われる気分に閉口する。

本作もまた、その例外ではなかった。

中島は、本当はいい人だった」が、「草食系男子」だったので、「臭い芝居を打って頓挫した」という情緒的な流れで、自己を相対化し切った鈴子の旅を繋ぐ展開の、格好のお膳立てを整えたというオチに軟着した。

自転車で追い駆けた男の喪失感
然るに、ラストシーンで、あれだけのバイタリティを見せた男が、100万円貯めさせないための下手な芝居を継続的に打ち続け、それを遂行する心理的リスクの高い表現を繋ぐというイメージ造形は、ヒロインの克服課題に合わせるための、作り手基準のお伽噺以外の何ものでもなかったということか。


物語のラストは、擦れ違いになった二人の恋の、「予定不調和」的なリアリティもどきのシーンで閉じていくが、そこだけは幾分、鈴子の「旅の重さ」への自立志向が眩く輝いていたという「親近効果」(最後での印象強度)の心理的現象が、観る者の心に余情を残すのだろう。


某地方都市での、鈴子の旅は終焉した。

また、新たな旅を求めて、彼女は移動する。

もう少し、「定着への戦略的離脱」のパワーを身につけるまで、彼女はこの旅を続けるだろう。


そのことで、「青春の一人旅」が抱える「重さ」を、現在の〈生〉に能動的に変換させていくだろう。

「青春ロードムービー」などというチープなカテゴリーに収斂し切れない、「前科者」というラベリングを突き抜けるパワーを内側に固めるに足る、「非日常の移動」を繋ぐ「攻めていく旅」と括った鈴子の、「青春の一人旅」の虚構の物語の近未来像を、イメージの世界で応援したい思いが、私の中でも延長されている。

旧来の価値観の枠組から逸脱した、「若者、バカ者、よそ者」のパワーを充分に自給し得る強さを持つ鈴子だからこそ、「逃げてるんです」と言いながらも、艱難なる非日常の移動」を繋いできたではないか。

新たな旅を求めて移動する鈴子
「今度こそ、次の街で、ちゃんと自分の足で立って生きていこうと思います」

 この決め台詞を敢えて、取って付けたように本人に言わせることなく、ラストで提示した映像で充分でなかったのか。

それが悔やまれてならない。



【参考資料・拙稿 人生論的映画評論・「旅の重さ」より】
  

(2014年8月)


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