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2016年11月15日火曜日

悪魔のいけにえ(’74)   トビー・フーパー


ホラー映画の王道から逸脱した不条理ホラーの独立峰





1  チェーンソーが空を切り、一人の殺人鬼だけが置き去りにされていく





「これは 5人の若者の身に起きた悲劇の物語だ。サリーと、・フランクリン、友人たちの若さが、一層、哀れさを感じさせる。だが、たとえ彼らが長生きしたとしても、かくもおぞましき恐怖の体験は望まなかっただろう。夏の午後、楽しいドライブは悪夢へと転じた。その日の出来事こそ、アメリカ史上、最も異様な犯罪の一つ。テキサス・チェーンソー大虐殺だ」

冒頭のナレーションである。

1973年8月18日。

酷暑のテキサスを、ドライブ旅行する5人の若者たち

フランクリンとサリー兄妹以外の他の若者の名は、カーク、パム、ジェリーの5人である。

車椅子生活を余儀なくされたフランクリンの介護は、心優しい他の仲間たちによって支えられていた。

左からフランクリン、パム、サリー、カーク
夏休みを利用してのワゴン車でドライブは、サリーとフランクリンの兄妹の、テキサスへの帰郷が目的でもあった。

サリーの祖父が埋葬されている墓地に立ち寄った際に、テキサス州で墓荒らし事件(遺体の盗難)が続発ているという事実をラジオニュース知るが、墓が無事なのを確認、安堵する。

その5人組が、一人のヒッチハイカーを同乗せたことが、想像を絶する惨劇の幕開けになっていく。

顔に赤茶色の血のようなシミのある、異様な出で立ちのヒッチハイカーは、同乗するや、牛の殺し方や、あらゆる部位の食べ方など、訳の分らないことを喋り捲るのだ。

その男は、フランクリンからナイフを借り、自分の手のひらを切り、ポラロイドカメラで若者たちを被写体にし、撮った写真を彼らに見せ、それを車内で燃やし、カミソリでフランクリンの左腕を切りつけた。

ヒッチハイカー
気味悪がって戦(おのの)く彼らは、即座に、その男を車外に追い出すに至る。

サリーとフランクリンが子供の頃に住んでいた古い家に行く前に、ガソリンスタンドに立ち寄り、そこで、「他人の家には近づかない方がいい」と忠告されるが、サリーは父の所有する家だと答え、そのまま向かっていく。

現在は廃屋になっている、旧家に着いた5人組。

フランクリンを置き去りにして、4人は開放的な気分を味わう。

川に泳ぎに行ったカークとパムのカップルは、川が涸れていたために泳ぎを断念し、エンジン音に誘(いざな)われ、い家を見つけたことで、そこに近づいていく。

ガソリンを分けてもらうためった。

玄関前に人の歯が落ちてきて、それを拾ったカークは、パムにそれを渡し、驚かしてみせる。

一人残ったカークは、声をかけても反応がない屋敷の中に入って行くや、突然、食肉解体用の白いエプロンをつけ、人の顔の皮を被ったレザーフェイスが現れ、巨大なハンマーで頭を殴られ、殺害されるに至る。

最初の被害者である。

パム
カークが戻って来ないので、心配になったパムが、恐る恐るい家侵入するが、再び、大男のレザーフェイスによって捕捉され、食肉解体室に連れ込まれた挙句牛を吊り下げるフックに背中を刺され、生きたまま宙吊りにされてしまう。

宙吊りにされたパムの眼前では、チェーンソーによって、カークが切り刻まれているのだ。

かくて、パムが二人目の犠牲者なる。

一方では、帰りが遅い二人を心配し、ジェリーい家を訪ねるが、彼もまた、レザーフェイスによって屠(ほふ)られる。

三人目の犠牲者である。

夜になった。

昼間のナイフの一件があって、異常に怯(おび)えるフランクリンは、サリーと共に、懐中電灯を手に、「ジェリー!」と叫びながら探しに行く。

フランクリンの恐怖感は現実になった。

暗い夜道を進んでいくフランクリンの前にレザーフェイスが出現し、例によって、チェーンソーで切り刻まれてしまう。

目前で兄を惨殺されたサリーは悲鳴を上げ、逃げ出す。

追い駆けるレザーフェイス。

どこまでも追い駆けて来るのだ。

あろうことか、白い家に逃げ込んだため、サリーは、そこに2体のミイラを見て絶叫する。

辛うじてい家から逃げ出したサリーは、暗闇の道を走って、走って、走り抜いた先にあったのは、昼間に立ち寄ったガソリンスタンドだった。

「助けて!警察に通報して!」

ガソリンスタンドのオーナーに助けを求めるサリー。

そこで、郡警察の調査によると、墓場から盗まれた遺体や、体の一部が欠損した遺体についてのラジオ放送を耳にしながら、暖炉で焼かれているバーベキューを目にすることで、自分が置かれた状況を理解するサリー。

オーナー自身が、この一連の惨事に関与している事実を確信するや否や、トラックに乗って戻って来たオーナー襲われ、紐で縛られ、捕獲されてしまう。

サリーはトラックの助手席に乗せられ、い家に向かう夜道で、昼間のヒッチハイカーが現れたことによって、若者たちが出会った連中が、狂気の犯罪者の集団であることが判然とする。

ヒッチハイカー(弟)とオーナー(父親)
更に、この狂気の集団が家族構成になっていて、それを仕切っているのが、父親であるガソリンスタンドのオーナーであり、彼の長男・レザーフェイスが犯罪の執行人、そして、例のヒッチハイカーが役に立たない家族のお荷物である事実も映像提示される。

そして、この家族の犯罪の目的が、ミイラ化している祖父に生血を与えることであり、その人肉を食べ、バーベキューとして売りさばくことにあったのだ。

この家族が今、捕縛されていたサリーの前で、いつものように「晩餐」を開いていく。

あまりの恐怖感に、絶叫するだけのサリーを見て、歓喜の声を上げる二人の息子。

「お願いよ。殺させないで!」

まだ話が分ると願う父親に、命乞いをするサリー。

しかし無駄だった。

「殺しは楽しめない」

父親の言葉である。

その父親を「料理係」と呼ぶ次男の愚昧さは、父親の権威をも無化するほどの幼児性を引き摺っているようだった。

この家族には、父親の絶対的権威による「家父長制」が定着していないのである。

じっくり甚振(いたぶ)って殺すという、残酷な時間を楽しんでいる弟は、100歳を超えていると思われる祖父にハンマーを渡し、サリーを殺させるが、ミイラ化した祖父の腕力では何も為し得なかった。

そんな隙を見て、サリーは2階の窓から飛び降り、脱出に成功する。

かくて、「晩餐」の余興は頓挫した。

血糊(ちのり)が付着した顔になり、身体の機能が劣化しても、サリーは必死に逃げていく。

彼女を追い駆けていく弟がトラックに撥ねられ、命を落としたのは、サリーに追いついた瞬間だった。

トラックの運転手に助けられたサリーに、なおも、チェーンソーを持って向かっていくレザーフェイスは、運転手にスパナを投げつけられ、転倒し、最大の武器であるチェーンソーで、自らの脚を傷つけてしまうのだ。

この間、サリーは通りかかった軽トラックに助けを求め、その荷台に乗り込み、決定的なところで難を逃れるに至る。

気が触れたようなサリーの高笑いには、まるで、この一日で惹起した、凄惨な地獄絵図を相対化し得ないほどの狂気が宿っていた。

悔しがるレザーフェイスの背後には、朝焼けのオレンジが映えていた。

チェーンソーが空を切り、一人の殺人鬼だけが置き去りにされたのだ。

ニューシネマの影響を受けたと思われる、潔く画面を断ち切るような、インディーズ系のアート性の高いラストカットである。





2  ホラー映画の王道から逸脱した不条理ホラーの独立峰





観る者に「恐怖感の享受を予約」する映画 ―― 狭義に言うと、私はそれをホラー映画と呼んでいる。

だから、残酷描写を売り物にするスプラッターが、広義のホラー映画に含まれることを認めても、必ずしも、「恐怖感の享受を予約」するホラーとは言い切れないのである。

スプラッターの残酷描写を連射しても、観る者が恐怖感を享受するとは限らないからである。

残酷描写の連射に馴致(じゅんち)してしまって、かえって嫌悪感を抱いてしまうだろう。

それ故、残酷描写を寸止めにして、スプラッター性の濃度を希釈化させ、「恐怖感の享受を予約」する観客に、緊張感を持続し得る心理的構えを保証するテクニックが求められる。

考えてみるに、スプラッタームービーの元祖と称される本作には、残酷描写が殆ど映像提示されていないこと ―― これが、とても気になった。

他のレビュアーの感想と見方が異なるかも知れないが、観る者に「恐怖感の享受を予約」するホラー映画としての迫力がないのだ

だから、怖さをあまり感じない。

気持ち悪いだけなのである。

言うまでもなく、「恐怖感」と「気持ち悪さ」同質の感情ではない。

結論から言うと、不安・恐れを抱いてから凶行までの心理の揺れ(悪いことが起こるのではないかという恐れや、もしかしたら、何でもないのではないかという安堵感)が精緻に描かれていないこと。

これが大きかった。

通常、観る者、「予定被害者」の心理の揺れ感情移入するのである。

「予定被害者」への感情移入なし、観る者怖さを感じることは難しいだろう。

ここで、私は勘考する。

私の独断と偏見に基づいて、初っ端から言ってしまえば、ホラー映画の王道とは、以下の要素が多く含まれていることと考えている。

1 ストーリー性と構成が単純なこと
2 空間が閉鎖的であること
3 被害者が一貫して理不尽な状態に置かれていること
4 ミニマリズム
5 徹底した「描写のリアリズム」
6 形而上学的テーマを不要にすること
7 その不条理性によって、人間臭さが限りなく削られている こと
8 笑いなどの、弛緩(しかん)的要素が基本的に排除され    ていること

以上のコンセプトから、この映画を読み解いていきたい。

まず、から6までは全て該当する。

紅炎(プロミネンス)
太陽の紅炎(ガスが噴き上げる現象)が映し出される冒頭のシーンは、「巨大なる破裂」 をイメージする物語のオープニングをシンボライズしていると思われるが、それが特段に、6の「形而上学的テーマ」を強調する意図があったと解釈するには無理がある。

1の「ストーリー性と構成の単純さ」については、「旅行中の5人の若者たちが、殺人一家に怒涛のように襲撃される惨劇」の物語という一言で、説明が事足りるだろう。

また、構図・構成・美術・音声(チェーンソー⇔絶叫音)において、シンプルなフォルムを基調とするミニマリズムも、の映画の特徴である。

その辺りが、インディーズ系のアート性が、この映画の訴求力を高める要因かも知れない。

5の「描写のリアリズム」、且つ「展開のリアリズム」については、時間の溜めを作らず、「予定被害者」をいとも簡単に殺してしまう、レザーフェイスの凶行のシーンの呆気さ(張合いのなさ=もの足りなさ)の裏返しでもあったと言っていい。

この点こそが、「予定被害者」の心理の揺れの描写を削り取ってしまったと言える。

但し、「チェーンソーの唸り声が頭の中で反響しています」というレビュアーがいるほど、「描写のリアリズム」が徹底していたのは事実。

2の「閉鎖的空間」については、悪臭漂う家の中に人骨が散乱する、殺人一家の拠点であるい家物語の舞台になっていることで自明である。

ヒッチハイカーへのフランクリンの怯(おび)えの様子や、唯一の生還者・サリーへの容赦ない甚振(いたぶ)りに象徴されるように、3の「理不尽な状態に置かれ続けた予定被害者」については、この映画が典型的な不条理ホラーであることの証左になっている。

しかし、以上のコンセプトのみではホラー映画の王道とは言えないである。

なぜなら、この映画、ネガティブな意味でなく、余分なコンセプトが含まれていたからである

余分なコンセプトとは7の不条理ホラーでありながら、「人間臭さが限りなく削られてい」なかったこと、そして、8の「笑いなどの、弛緩(しかん)的要素が基本的に排除されてい」なかったこと ―― この2点である

前者については、最恐の殺人鬼(?)・レザーフェイスが何者に躊躇しない確信犯であるにも拘らず、父親から、殺人鬼の怖さに全く届かない弟の愚昧な行動を管理し切れなかったことで叱られ、凹(へこ)んでしまうエピソードに見られるように、人間臭さが丸出しなのだ。

同様に、サリーを逃がしてしまったレーザーフェイスのしくじりは、徹底した「描写のリアリズム」を保持しつつも、「人間臭さ」と「滑稽感」を観る者に印象づけるだろう。

殺人一家
「殺しは楽しめない」と言って、殺人に躊躇する父親を含めて、この「殺人一家」の面々は、その凶行の異常性と似つかわしくないほどにマヌケであり丸ごと人間臭さ溢れる人物造形を体現しているのである。

後者については、前者と連動しているので、特段の言及が不要であるが、敢えて言うなら、殺人一家の弟の愚昧な行動様態が、一家の犯した事件の「弛緩的要素=滑稽感」を代弁していた。

また、弟の愚昧な行動様態は、殆ど、コメディラインをトレースしていると言っていい。

それほどまでに、「おバカキャラ」を演じ切っていたのである。

更に言うと、「弛緩的要素=滑稽感」の極めつけは、「晩餐」の場で、ミイラ化した祖父にハンマーを渡し、サリーを殺させるシーン。

ミイラ化した祖父の腕力では、何も為し得なかったという絶妙なオチは、「弛緩的要素=滑稽感」の極点だった。

これは、事件後⇒「晩餐」までを描き出したことで、かえって、スプラッター性の濃度を希釈化させてしまった典型例であった。

「デリカテッセン」より
色々な要素の集合性を考えると、この映画のコンセプトは、下宿人を食用肉にして、食糧に飢えた者たちに売りさばくという、丸ごと狂気に満ちた「デリカテッセン」(ジャン=ピエール・ジュネ監督)の、デフォルメ化された物語に酷似しているようにも見える。

だからこそ、この映画は面白いとも言えるし、公開時にはホラーの鮮度が高かったとも思える。

要するに、「オリジナルフィルムから映像をリマスターし、音声もステレオ化した(WOWOWオンライン)この映画は、スプラッター性の濃度が決して高くないのだ。

―― 本稿の最後に、この映画をまとめてみる。

私たちの社会の「暗黙の了解事項」である、ごく普通の社会通念を逸脱し、異常をきたした精神状態 ―― これを「狂気」と呼ぶ。

「正常」と「異常」の境界の中枢がどこにあるかということを、正確に、且つ、本質的に説明できないことを認知してもなお、この一家の面々がどれほどマヌケであり、丸ごと、人間臭さ溢れていても、その人格の様態が、「狂気」と呼ぶ精神状態に捕捉されていた現実を否定できないだろう。

以上の認識を前提として、ホラー映画としての本作を要約すれば、以下の通り。

前述したように、形而上学的テーマを不要にしたこと

これよって、観る者の知的過程の時間を無化し、破壊してしまうのである。

トビー・フーパー監督
理屈排除、ホラー映画の王道であるからだ。

これは正解である。

思うに、ホラー映画の王道とは、繊細な心理描写を捨てた無機質な風景の中で、被害者が一貫して理不尽な状態に置かれ続け、徹底した「描写のリアリズム」によって、形而上学的テーマの一切を排除する不条理ホラーなのだ。

本作は、「弛緩的要素=滑稽感=人間臭さ」溢れるホラー映画の王道とは言ないが、これだけは言える。

この映画の決定的な特徴は、コンパクトな保冷庫に生きたまま閉じ込められていたパムの凄惨さに端的に現れているように、人間を食用肉にし、血を抜くことが目的であって、物語が殺人鬼の狂気の生活風景までをも描き出したところにある。

後にも先にも、ブルーオーシャンの映像空間を作り上げた独立峰の如き映画は他に類を見ないだろう。

ホラー映画の王道から逸脱した不条理ホラーの独立峰。

これが、私の結論である。

(2016年11月)

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