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2012年3月3日土曜日

街の灯('31)        チャールズ・チャップリン


<「純愛譚」の終焉を告げてフェードアウトしていく、虚構の物語の残酷なる着地点>




1  一世一代の「純愛譚」に身を捧げる男の物語




金を蕩尽するだけの富豪と、盲目の花売り娘という定番的な対比にシンボライズされた資本主義への呪詛は、オープニングシーンで滑稽に描かれた「平和と繁栄」の記念の彫像の描写の挿入によって開かれるが、いつものように、製作、脚本、監督、編集、音楽を兼ねた完璧主義によって、希代のマルチタレントであるチャールズ・チャップリンは、この「純愛譚」を基本骨格とする、サイレント映画の掉尾(とうび)を飾るに相応しい物語のうちに、「これでもか」と言わんばかりのコントを嵌めこんでいくことで、ブルジョワ階級の「ふしだらな生活様態」と、その「人間性の爛れよう」を皮肉り、笑い飛ばして見せるのだ。

チャップリン演じる浮浪者(以下、「浮浪者」或いは、「男」と呼称)は、富豪の自殺を未然に防いだことから知己を得て、金を蕩尽するだけの富豪から10ドルをせしめ、一目惚れした盲目の花売りの美女(以下、「花売りの美女」、或いは、「盲目の美女」、「花屋の娘」と呼称)と再会し、通りがかりの美女から花を買い、富豪に成り済まして、件の富豪のロールスロイスで送るという要領の良さ。

「ご親切、有難うございます」

盲目の美女の手にキスして、色男ぶりを演じて見せる。

「また、来てもいいですか?」と浮浪者。
「ハイ、どうぞ」と「花売りの美女」。

こんな風に近接した二人だが、そのシンプルな物語の顛末は、以下の通り。

盲目の「花売りの美女」に一目惚れしてしまった件の浮浪者は、「花売りの美女」の勘違いから、富豪であると思い込まれた縁で、富豪に成り済まし、一世一代の「純愛譚」を愉悦する。

実際、自殺しようとした富豪を助けた一件で富豪に取り入って、贅沢な生活のお裾分けに預かる浮浪者。

ところが、アルコール依存症と思しき件の富豪は、酩酊状態時には、浮浪者に大判振る舞いするものの、覚醒すると浮浪者を認知し得ない体たらく。

そんな中で知った、「花売りの美女」の身過ぎ世過ぎの厳しさ。

狭いアパートの一室で、年老いた母親と暮らす「花売りの美女」は、家賃を滞納し、大家から立ち退きを迫られていた。

加えて、大金さえあれば盲目の治療が可能である事実を知った浮浪者は、「花売りの美女」の困窮の一助になるため、ボクシングのリングにまで上がるが、観る者を存分に笑い飛ばすコントの範疇に収まっただけで、当然の如く、頓挫する。

結局、浮浪者が頼ったのは、件の富豪からの金銭的援助だった。

偶然、街で出会った件の富豪の状態が酩酊中だったので、1000ドルの大金を受け取ったが、たまたま富豪の屋敷に侵入していた泥棒と出食わして、警官に「現行犯」で追われる始末。

1000ドルの大金の一件についても、覚醒した富豪は、知らぬ存ぜぬの無責任な態度。

かくて浮浪者は、1000ドルの大金を「盲目の美女」に手渡して、自分の「役目」を果たした後、警官に「現行犯」で逮捕され、刑務所行き。

これでもう、映画の大部が費やされるが、本作の肝は、この直後に開かれるラスト・シークエンスにあるので、ここから稿を変えて詳細に言及していきたい。



2  「純愛譚」の終焉を告げてフェードアウトしていく、虚構の物語の残酷なる着地点



本作の人気と評価を決定付けた、ラスト・シークエンスを詳細に検証してみよう。

まず、眼の病が癒えた、かつての「花売りの美女」が、苦労を共にした母親と一緒に花屋を開いていた。

その花屋に、シルクハットのハンサムな紳士が来客した。

「花売りの美女」は、この紳士こそ、自分を窮地から救ってくれた「白馬の騎士」ではないかと思ったが、青年の美声を耳にしたとき、「白馬の騎士」でないことを認知する。

「花売りの美女」が、見た眼で浮浪者であることが分る男を視界に捉えたのは、その直後だった。

「冤罪」で収容されていた刑務所帰りの浮浪者の男が、以前にも増して、落魄(らくはく)の身を路上に晒し、惰弱な気分丸出しでふらついていたからだ。

如何にも貧相で、粗末な身なりをした、風采の上がらない件の小男は、新聞の売り子の少年たちから馬鹿にされる始末。

路傍に落ちていた花を拾おうとする浮浪者の風情に、笑いを抑えられない花屋の娘。

その花屋の娘と、偶然、眼が合った浮浪者。

浮浪者は、「花売りの美女」との思わぬ再会に驚いて、じっと見詰め続けていたが、まもなく、その表情が笑顔に変わっていく。

笑い返す女。

「この人、私を好きなのよ」

そう言って、彼女はまた笑うのだ。

浮浪者が拾った花の代りに、花屋の娘が一輪のバラの花を渡そうとする。

憐みを感じ取ったのだ。

コインを添えて、一輪のバラの花を渡そうとすると、立ち去ろうとする浮浪者。

自分の惨めな格好に羞恥心を覚えたのである。

しかし、相手は自分を特定できていないのだ。

複雑な感情が、男の内側を駆け巡っていた。

男の内側を駆け巡っていたもの ―― それは、自分を特定できていないとは言え、「純愛」の対象人格であった憧憬の「花売りの美女」から、自分の惨めな姿を見られることへの否定的感情と、それでもなお、寸分でもこの場にいたいと欲する肯定的感情との葛藤だったに違いない。

その結果、後者の心理が優ったのである。

この心理が、男を立ち去らせなかった相応の推進力になった。

そう考えるのが自然である。

然るにそれは、強い意思の媒介が脆弱な偶然の流れに、身を預けてしまう感情であると言ってもいい。

2mほどの距離から、一輪のバラの花を渡そうとする花屋の娘。

それを手だけを伸ばして、見る限り不自然な格好で、バラの花を受け取ろうとする浮浪者風情の男。

女の顔を見詰めていたい感情だけが、男を立ち去らせないのだ。

女が男の手を取り、引き寄せたとき、大きな変化が起こった。

驚いたように、男を凝視する花屋の娘。

「あなたでしたの?」

指を口に咥(くわ)えて、笑みを返す男。

特化された関係が唐突に独歩する決定的な変容の中で、「陽」の空気の渦中に晒されたのである。

素朴な笑みに包まれた虚構の距離感覚の浮遊感が必然的に溶けて、そこに形成された「陽」の空気の流れを壊すというイメージを想像していた男の、強い意思の媒介が脆弱な情感系は、当然の如く、偶然の流れに身を任せてしまった男の予約された着地点でもあった。

男には、笑みを返すだけの反応しか選択肢がなかったのだ。

もう、男は動かない。

動けないのだ。

動けないから、それ以外にない言葉を放つ。

「見えるようになった?」

少なくとも、男にとって、そこだけは封印したかったに違いない、虚構の物語に関わる肝の辺りを知られてしまった羞恥心と、「白馬の騎士」ではなかったが、それでも自己を認知して欲しいと切望する感情が共存して、既に了解済みの事実を言語化させたのである。

「ええ。見えますわ」

男の手をずっと握って、意想外の相手を見詰める花屋の娘。

失望の念を読み取られまいとする配慮が、そこに漂流している。

相変わらず、指を口に咥(くわ)え、嬉しそうに笑う男。

一切は成り行きだったが、その成り行きに身を任せてしまった男の脆弱な選択による情感が、今や悲哀を超えて、言葉を繋げない男を寸分でも動かせないのだ。

女の心には、感射の念への熱い思いを吐露させる臨界点のギリギリの辺りで、「純愛」の破綻を認知せざるを得ない、錯綜する感情処理が作った「間」の中で、笑みを自然に発露させようとする心理が、眼の前の男の不自然な笑みを延長させてしまったのである。

二人の虚構の「純愛譚」が終焉した瞬間だった。

男はそれを覚悟してまで、女の顔を見続けていたかった。

ただ、それだけだった。

不自然な笑みを延長させる男もまた、虚構の「純愛譚」の終焉を受容したのだろう。

これが、指を口に咥えて、不自然な笑みを延長させる男の、一世一代の「純愛譚」の終焉を告げてフェードアウトしていく、虚構の自壊の、それ以外にない着地点となっていったのである。



3  拠って立つ世界を分けるボーダーを突き抜けた、「純愛譚」の虚構の流砂の軽量感



盲目であることによって、幻想を自在に膨らませ、物語を占有できた時間が、眼の手術によって開かれた視界が捕捉した現実との乖離は、幻想を自在に膨らませて、占有できた時間の崩壊という代償を支払うに至った。

盲目の美女の幻想の時間に巧みに潜入し、そこでクロスした快楽を占有していた、男の裸形の現実が露わにされたからである。

何より男にとって、盲目の美女の幻想の時間に潜入し、そこで手に入れた、「純愛」に関わる身体言語の情感的交叉こそ、その「純愛」の対象人格への「援助感情」を繋ぐ決定的な推進力であったのだ。

私の定義によると、「純愛」とは、恋愛幻想の初発の様態である。

思うに、盲目の美女と男の「純愛」は、美女の幻想の時間が延長されているという条件下で形成された、偏頗(へんぱ)だが、限定的な「互酬性」(物理的供与と情感的返礼という、「物」と「心」の等価交換)の濃度の高い関係性を立ち上げていた。

後述するが、「援助感情」=愛の本質と考える私は、一介のホームレスでしかない男が、盲目の美女の幻想の世界に潜入し、そこで存分にサポートするプロセスそれ自身こそ至福であったと考える。

盲目の美女もまた、視界に捕捉できない暗闇の中で紡いだ物語に愉悦する時間を繋ぐことで、「白馬の騎士」との「純愛幻想」を存分に占有していたのである。

閉ざされた視界の中で愉悦していた「純愛譚」の本質が、元々、虚構の流砂の軽量感にも及ばないにも関わらず、「援助感情」によるプロセスの快楽の時間を繋ぐ時間に留まることなく、階級プロパーの問題に収斂し切れない、拠って立つ世界を分けるボーダーを突き抜けてしまったことで、男と女が共有していた虚空を舞うファンタジーが、残酷なまでにシビアなリアリズムのうちに搦(から)め捕られてしまうのは必然的だった。

眼の病が癒えた、花売りの美女が差し出した手の中で触感し得た現実の重量感は、「あなたでしたの?」という、咄嗟(とっさ)の反応によってしか返せない、「恩人」に対するギリギリの配慮を供与する身体表現の限界性のうちに露わにされていた。

余情に満ちたラストカットのうちにフェードアウトしていく、二人の会話の残酷さ。

印象深い映像は、予定調和の物語へのシフトを明らかに拒絶して、ファンタジーの世界で愉悦していた者たちのゲームを破綻させる括りに流れていく。

何とも残酷な印象を拭えないラスト・シークエンスであったが、そこで露わにされた現実を受容し、それぞれが抱懐する物語のサイズに見合った日常世界で、それぞれの時間を駆動させていくことを示唆していたという、深読み可能なラストカットであるものの、一切を観る者の人生観に委譲した映像提示であると考えた方が無難だろう。



4  「援助感情」と切れた、「ギブ・アンド・ギブ」という観念の欺瞞性



作り手であるチャップリンの視程に捕捉されていないだろうが、本作は、愛の本質が「援助感情」にあることを検証した一篇であると勝手読みしている。

因みに、「援助感情」とは「特定他者を救うことが、自らの自我を安定に導く感情」である、というのが私の定義。

愛とは「共存感情」であり、「援助感情」であると喝破したのは、現代アメリカの心理学者のルヴィンであった。

彼はそのことを、度重なる心理実験によって確信を得たのである。

私はこの分りやすい説明によって、正直、眼から鱗(うろこ)が落ちる心境になった。

私なりに長く、世俗の垢に塗(まみ)れているが故に、この厄介なテーマについて考えてきて、そこで出した私の把握は単純なものであった。

繰り返すが、「愛情」のコアになる感情は、「援助感情」であると結論付けたのである。

人は愛に包まれていると幻想するとき、援助しなければならないから援助に走る訳ではない。

援助せずにはいられなくなるから、自分にとって何よりも重要な存在である、特定他者の援助に動くのだ。

内側から駆り立てて止まない感情が身体を突き動かし、煩悶を燻(いぶ)り出すのである。

規範や倫理で駆り立てられた身体は、契約感覚でしか動かないし、また動けない。

無論、愛は契約ではない。

愛とは、援助に引っ張られていく人格の内側に継続された、極めて形成的な感情である。

援助を内的に必然化した時間の中でこそ、それは輝きを増すのだ。

従って、それは、「無償の愛」などという欺瞞的言辞と明らかに切れていることを知るべきであろう。

「無償の愛」などという観念は、十字架でのイエスの死によって、人間の罪が贖われたと信じる人々に占有させておけばいいのである。

アガペーも結構であるが、私には無縁な観念であるという外にない。

本作の主人公が、「無償の愛」によってのみ自らを駆動させていったとするならば、前述したように、ラスト・シークエンスにおける、偶然の流れに身を任せてしまう男の「優柔不断」の振舞いは説得力を持ち得ないだろう。

「自分とは関係ないです」

そう言い放って、女の前から立ち去って行ったと考えるのが自然である。

「ギブ・アンド・ギブ」(多くの場合、その本質は、「ギブ・アンド・テイク・テイク」=「一分の供与」と「感射と称賛」という不等価交換)などという言葉を簡単に言語化することで、「善き者」を相手に印象付ける心理操作のトラップを内深く隠し込み、特定的対象人格の中枢に雪崩込んでいく、「無償の愛」という名の欺瞞的言辞の、厄介で、危うい観念を合理的に認知し得る者は、「ギブ・アンド・テイク」の本来的な価値の有効性を決して否定しないだろう。

男はただ、拠って立つ自我が勝手に作った、「純愛譚」に関わる物語の安寧を確保するために、限定的な「互酬性」(物理的供与と情感的返礼という、「物」と「心」の等価交換)の濃度の高い関係性を延長したいだけだった。

その関係性を延長することで手に入る「プロセスの快楽」こそ、男の得難い至福の時間だったのだ。

それが人間である。

そこに、何の違和感もないし、欺瞞性の欠片も見られない。

ただ単に、観る者が勝手に、「無償の愛」などという「ギブ・アンド・ギブ 」の法螺話(ほらばなし)に酩酊したいだけなのである。

「無償の愛」という美辞麗句が詰まった観念は、この際、丸ごと信仰の世界に戻すべきであって、殆ど視界ゼロの見通しの悪い流れ方に身を任せてしまった男の、蓋(けだ)し哀切なる物語の中に拾うべきではないのである。


(2012年3月)

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