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2012年5月21日月曜日

ミツバチのささやき('73)        ヴィクトル・エリセ

<「家族の再生」の物語に軟着させた「非武装なるイノセント」の復元力



1  「幼児」と「児童」の見えないボーダーが駆動させた「善きもの」への好奇心



「なぜ、怪物はあの子を殺したの?なぜ、怪物も殺されたの?」
 「怪物もあの子も殺されてないのよ。映画の中の出来事は全部嘘だから。私、あの怪物が生きてるのを見たもの。村外れに隠れて住んでいるの。他の人には見えないの。夜に出歩くから。精霊なの。でも、精霊は体を持ってないの。だから殺されないの」
 「でも、映画では体があったわ」
 「あれは出歩くときの変装なのよ。お友達になれば、いつでもお話できるのよ。眼を閉じて、呼びかけるの。”私はアナです”」

本作を狭義に解釈すれば、姉妹のこの短い会話の中に、提示された映像総体の主題が凝縮されていると思う。

尋ねるのは、妹のアナ。

本作の愛くるしいヒロインである。

眠い眼を擦りながら尋ねられたのは、アナの姉であるイザベル。

姉妹の年齢は不分明である。

映像の中で、正確に提示されていないからだ。(注1

ただ、はっきりと言えるのは、これは、「幼児」と「児童」の会話であるということである。

この見えないボーダーが、精緻な空間構成で、陰翳の構図に差し込まれた窓からの光線によって、オブジェや人物の存在感を際立たせるするフェルメール絵画のように、随所に照射される姉妹の情感や認識のズレを明瞭に隔てている。

この会話の前提にあるのは、その日、姉妹が巡回映画で観た「フランケンシュタイン」(注2)のシーンである。

「この映画『フランケンシュタイン』は、人間を創造しようとした科学者の話です。人類創造は、神の御業なのを忘れた人の話です。人類創造の神秘に迫る生と死の物語です」

これは、「フランケンシュタイン」のフィルムの冒頭での説明。

その「恐怖誘導」に引き付けられた幼女の黒い瞳が輝いて、サイレントのフィルムに釘づけになってしまったアナ。

「フランケンシュタインの怪物」(フランケンシュタインが創造した凶暴な怪物という意味)が殺したと思える幼女を抱き上げていくが、最後に自らも村人たちから殺害されてしまうシーンに、アナは疑問を呈したのだ。

虚構の世界の物語を相対化できないアナの執拗な発問に対して、イザベルは、その場凌ぎの作りごとを話すことで、その夜は閉じていく。

翌日のこと。

「フランケンシュタインの怪物」を精霊と信じるアナを随伴し、イザベルは荒涼とした風景の限定されたスポットにある、すっかり朽ち果てた廃屋に近づいて行った。

その傍らにある古井戸を覗き込んだ後、廃屋に入っていくイザベルを遠くから見るだけで、その場を動けないアナ。

イザベルが帰った後、恐々と、一人で廃屋に近づいていくアナの感情を支配するのは、そこにいると信じる精霊との出会いであったが、それは、未知のゾーンに踏み入れていく幼児の恐怖感を、一層掻き立てるものだった。

「善きもの」であると信じる精霊への強い関心が、怖いもの見たさの感情と混淆し、幼い自我を駆動させたのである。

これが、明瞭に性格の異なる姉妹に関わる、映像序盤の心象風景だった。


(注1)同年齢という作り手自身の説明があるらしいが、映像提示されていないので、敢えて不分明とする。例外もあるが、基本的に、批評は提示された映像の中でしか許容されないからだ

(注2)ジェイムズ・ホエール監督によるアメリカ映画、「フランケンシュタイン」(1931年制作)のこと。科学者であるフランケンシュタインが創造した凶暴な怪物(「フランケンシュタインの怪物」)が、村で無差別殺人を犯した挙句、恨みを抱えた村の農夫たちに火を放たれ、殺害されるというホラー映画。後述するが、これは科学者による「自壊の物語」という風に、私は把握する。これは映像提示されていないが、観る者のリサーチによって了解可能であるという範疇に属する。



2  「死の概念の獲得年齢」に関する認識の微妙な差異



私はこの映画を見て、ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」(1952年製作)を想起した。



5歳のポーレットと、10歳のミシェルの違いは、「死の概念の獲得年齢」に関する認識の決定的な差異である。

「死の概念」とは、心理学の知見によると、大別すれば、「死の不可逆性」(死んだら生き返らないということ)、「死の普遍性」(全てのものが死ぬということ)、「死の不動性」(死んだら動かないということ)のことであると言っていい。

「死の不可逆性」の理解に達するのは、児童期に入ってからであるとされている。

「死の不可逆性」についての理解が可能になるから、親しき者の死に接する際に、深く哀しむという感情表現を具現化するのである。

従って幼児期には、「死の普遍性」や、「死の不動性」の理解が不足していて、その感情表現も限定的であるということだ。

つまり、自分には死が訪れないと感じたりするケースがあることで分るように、これは他者の死を特別な現象と考えてしまう、認知能力の未成熟さを示すもの以外の何ものでもないのである。

大体、5歳頃までの子供には、人間の死を、単なる別離や入眠という現象として捉える傾向があることを想起するとき、当然、そこに個人差が認知されても、「死の概念の獲得年齢」における、「順序」、「秩序」、「臨界期」という発達課題の命題の障壁を突き抜けることは、殆ど不可能と言えるのだ。

 だから、「9歳の少女」であるポーレットを主人公にした原作には無理があったが故に、戦災で両親を喪っても愛犬を追うポーレットを、「5歳の幼女」という設定に差し替えたルネ・クレマン監督の、児童発達心理学を弁(わきま)えた知見には誤謬がなかったのである。

当然の如く、「10歳の児童」であるミシェルには、二人で遂行する、愛情対象を喪失した幼女の「悲哀の儀式」の意味が理解できていた。

ミシェルが、5歳の幼女」にはとうてい不可能な、「死の概念の獲得年齢」に優に達していたからである。(PDFファイル 「子どもの死の概念について」他参照)

ポーレットとミシェルの違いは、「幼児」と「児童」との決定的な差異なのである。

本作に引き寄せて考えてみよう。


アナとイザベル
アナとイザベルの違いもまた、共に「児童」でありながらも、「幼児」と「児童」との差異と言っていい。

 しかし、アナはポーレットと異なって、「死の概念の獲得年齢」に達していて、その内実も「児童期」レベルの認知を確保していると思われる。

それでも、姉妹の違いには、「幼児」と「児童」との微妙な差異があると言えるのである。

ここで確認したいのは、「生と死」の認識の急激な深化が、まさに「幼児期」から小学生低学年、即ち、「児童期」に変容するプロセスの渦中で出来するという、多くの研究者の報告である。

「生命についての考え方の調査では、幼児は『動く・動かない』よ『呼吸する・しない』、『手足がある・ない』といった目に見える現象を生物・無生物の識別の根拠としている。また事物に意識や生命があるとするアニミズムの考えを持つ幼児の比率は非常に高く、特に女子にその傾向が強い。そして生命が有限であるという考えは、幼児においては不確かであるという結果が出ている。これらの結果から幼児期における『生と死』に関する意識は、未確立の段階であり、幼児から小学生低学年にかけては『生と死』の認識が急激な深まりをみせる重要な発達段階であると考えられる」(前掲論文より)


ジャン・ピアジェ
また、20世紀に多大な影響を与えたスイスの心理学者のピアジェは、その著名な発達段階の理論の中で、第期の「前操作期」(2歳~7歳)において、知覚の影響を受けており、内面化され、可逆性を持った操作にまで発達しないので、知的課題を充分に論理的に解決することができないので、自己中心性やアニミズムの傾向が見られる、と指摘している。

アニミズムの傾向とは、無生物や植物などに、人間と同じ心や意思があると信じる心の働きのことである。

以上で了解し得るように、「死の概念の獲得年齢」に関わる、アナとイザベルの二人の微妙な差異こそが、本作で提示された物語の中枢を支配している、と私は考えている。

それにも拘らず、その文脈を無視して、極めつけの愛くるしさを身体表現するアナに対する、「純粋無垢」(未成熟の別名)という、私にはどうしても馴染めない「大人視線」の把握のうちに、過剰なノスタルジーを張り付けた「批評」がオーバーフローしてしまう傾向は、本作を情感的に囲繞していて、私にはもっと馴染めない。

然るに、本作で提示された映像総体の完成度は極めて高く、内実的に「幼女」の範疇に属すると思えるアナが、相対的自立性を随伴した「児童期自我」に変容していくイニシエーションの物語として読めば、殆ど文句のつけようのない完璧な作品だった。



 3  「恐怖誘導」されつつ、「死への漠然とした怖れ」を内包させた、未知のゾーンへの最近接点



 ここでは、「死の概念の獲得年齢」に達しつつも、決して十全であるとは言えない未分化性を身体化させている、内実的に「幼女」の範疇に属すると思えるアナが、「善きもの」である精霊の化身と信じる「フランケンシュタイン」に「恐怖誘導」されつつ、「死への漠然とした怖れ」を内包させて、未知のゾーンに最近接するイメージを、提示された映像の中から印象深い描写を羅列していく。


アメリカ映画「フランケンシュタイン」
 まず、何より、「フランケンシュタインの怪物」と子供の死に、「恐怖誘導」されたアナ
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イザベルとの短い会話の翌日のこと。

学校の教室の「人体模型」の授業で、先生に指名されたアナが、イザベルのアドバイスによって、ドン・ホセに眼を入れる。
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 放課後、廃屋に行く。古井戸に向かって精霊を呼ぶが、反応がないので、投石する。廃屋を覗くが、闇の中に入れない。廃屋の前で、大人の足跡を発見。
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父に随伴し、キノコ狩りに行く。人間にとって有益なキノコの中にも、命を奪う毒キノコが存在するという父の話を聞いた直後、その毒キノコ踏みにじる父親を見遣るアナ。ここでは、ピアジェが指摘する、無生物や植物などに人間と同じ心や意思があると信じる心の働きが、アナの中に確認されることに注目したい。
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「線路遊び」に興じる姉妹。列車が最近接しても、その場を離れないアナ。イザベルが叫んで、ようやく線路から離れるアナ。アナは、疾走する列車を凝視し続ける
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一人、古井戸で遊ぶアナを見て、隠れ忍んでいたイザベルは笑みを零す。どこまでも、姉が妹を主導する流れがある。
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ミツバチに、命を吹きかける素振りを見せるアナ(トップ画像)。これは、黒猫に噛まれた指の傷の血で、口紅代わりにするイザベルの好奇心溢れる行為と比較すると、その対象性が顕著である。明らかに、ここでも、ミツバチの中に、人間と同じ心や意思があると信じる心の働きが読み取れる。
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イザベルは死んだ振りして、アナを驚かせる。この時期の子供なら、大抵、身に覚えがある悪ふざけである。
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「焚き火越え」
「焚き火越え」に興じるイザベルたちを、一人、見ているだけのアナ。皆が帰った後も、鎮火寸前の焚き火から離れられないアナ。家政婦が迎えに来て、帰宅。姉が妹を主導する流れが続く。
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一人、夜空を見るアナ。
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そして、廃屋に潜む脱走兵との出会いと、援助行動。その脱走兵こそ、不死の精霊だと信じ込み、家から持ち出した食べ物を渡すアナにとって、それは、初めての外部世界との遭遇を意味し、この経験が、アナの内側に、なお根を張る「幼児期自我」の脱皮への飛翔の決定的な契機となっていく。
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しかし、父のオルゴール時計をも脱走兵に手渡したアナが、そのオルゴール時計を持つ父を見て不安に駆られ、廃屋に行くが、血の跡を視認し、そこにいた父が脱走兵を殺害したと信じ、失踪する。
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夜になっても帰らないアナを心配する家族。
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森の中を彷徨するアナの前に、「フランケンシュタインの怪物」が顕現する。
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朦朧状態の中で発見されるアナ。

夜遅く、ベッドから起き上がって、窓を開放し、精霊に呼びかけるアナ。反応しない沈黙の受容のうちに、アナのイニシエーションの自己完結点を確認し得るだろう。 

【以上、アナの視線をフォローする、物語の流れの到達点こそ、ほぼ「幼女」の範疇に属すると思えるアナが、相対的自立性を随伴した、「児童期自我」に変容していくイニシエーションの物語の自己完結点だったという、狭義の文脈である】

 

 4  「過去に生きる女」と「過去を封印する男」 ―― 或いは、童画の挿入によって隠し込んだ陰翳深き物語



ここからは、本作を広義に解釈した批評を繋いでいきたい。

広義に解釈することで、異なった風景が見える映画  ―― それが「みつばちのささやき」だった。

その辺りに、本作の訴求力の高さが読み取れるだろう。

“昔むかし 1940年頃 カスティーリャの、ある村での事”

これが、童画の挿絵を挿入した本作の冒頭のキャプション。

既に、このキャプションのうちに、本作が極めて寓話性の高い作品であることを暗示している。

1940年という年を、「昔むかし」という言葉で括る辺りに、精緻に構成された寓話性の中にリアリズムを挿入した映像の戦略性が窺えるのである。

思うに、1940年という年は、スペインにとって決定的な年であった。

その前年に、3年間に及ぶスペイン内戦が終焉したからである。


ナチス・ドイツやイタリアのムッソリーニの支援を受けたばかりか、コミンテルンの統制下にあったスペイン共産党に集合する、スターリン主義者による粛清に象徴される内ゲバを利して、反乱軍を指揮したフランコ独裁政権が確立した年であるからだ。

スペイン内戦が、ヘミングウェイやアンドレ・マルローに代表される、「人民戦線」を支援する国際義勇軍も派遣された「美談」とは裏腹に、多くのアナーキストや、非コミンテルン系のトロツキストを巻き込んだ、まさに「人民戦線政府」の内部抗争によって自壊した史実を無視できないだろう。

だから本作が、民主化が少しずつ始まっていたとは言え、公営の映画産業の発展と反比例して、民間の映画制作会社の活動が困難な現実の渦中にあって、独裁政権の厳しい検閲の網の目を掻い潜(くぐ)りながら、歴史のリアリズムの含みを有した作品として構築されていたと考えるのは、寧ろ自然であるだろう。

以下、ヴィクトル・エリセ監督の言葉からでも、独裁政権の厳しい検閲の状況が検証されるだろう。

「この映画、『ミツバチのささやき』は自由が無い難しい時代、1970年代スペインの独裁政権下につくられた映画だということを知っておいてください。そうすれば公の場で言えなかった事を映画の中で言っているということに価値を見出される方もいらっしゃるかもしれません」(「なら国際映画祭2012 ビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』舞台挨拶より)


物語に戻ろう。

遥か地平線の彼方に、いつも重い雲が垂れ込めているような、荒涼とした大地の印象を拭えない土地、それがカスティーリャだった。   

そんなスペイン中部の小村で、比較的大きな邸を構えた一家が住んでいる。

養蜂業を営む初老の夫と、年の離れた印象を与える妻。

フェルナンドとテレサである。

この夫婦には、二人の幼い姉妹がいる。

前述した、イザベルとアナである。

愛くるしい黒い瞳が印象的な、アナの視線によって語られる物語の大半は、姉妹を中心にした4人家族の、淡々とした日常性を繋ぐ構成になっているが、映像序盤からボイス・オーバーされてくる、母テレサの宛先不明の手紙の内実には、決して「幸福家族」という印象を与えない、殺伐なファミリーイメージが張り付いていた。

 「皆、一緒に幸福だったあの時代は戻りません。神様が再会させて下さることを祈っています。内戦で別れてから毎日祈っています。この失われた村に、フェルナンドと娘たちと生きながらえながら。この家も、壁以外はすっかり変わりました。中にあったものは、どこに消えたのか…ノスタルジアで言うのではなく、そんな思いなど持つどころではない、この数年でした。身の回りの多くのものが失われ、壊され、哀しみばかりが残っていきますが、失われたものと一緒に人生を本当に感じる力も消えたように思います。この手紙は、あなたに届くでしょうか。外からの知らせは僅かで、混乱しています。あなたが無事でいることを知らせて下さい。心を込めて テレサ」

テレサが列車のポストに投函する手紙の相手を、全く提示することのない映像は、観る者に様々な想像を掻き立てて止まないシーンとなっている。

それは、彼女の心の中の憧憬イメージをノスタルジックに追いかけているのに過ぎないかも知れないし、或いは、「人嫌いのあなた」という夫のイメージとは切れた、特定の元恋人を指しているのかも知れないが、最後まで提示することのない映像は、少なくとも、テレサが「過去に生きる女」という人格像だけを炙り出したのである。


フェルナンド
一方、夫のフェルナンドは、養蜂業に専念する中で、ポエムのようなものを書き綴っていた。

 「このガラス製のミツバチの巣箱では、蜂の動きが時計の歯車のようによく見える。巣の中での蜂たちの活動は、絶え間なく、神秘的だ。乳母役の蜂は、房の中で一心不乱に働き、他の働き蜂は、生きた梯子のようだ。女王蜂は、らせん飛行。間断なく、様々に動き回る蜂の群れの、報われることのない苛酷な努力。熱気で圧倒しそうな往来。房室を出れば、眠りはない。幼虫を待つのは労働のみ。唯一の休息たる死も、この巣から遠く離れねば得られない。この様子を見た人は驚き、ふと、眼をそらした。その眼には、悲しみと恐怖があった」

ここで看過し難いのは、「この様子を見た人は驚き、ふと、眼をそらした。その眼には、悲しみと恐怖があった」という最後の部分を、本人がラインを引いて抹消してしまうカットである。

「幼虫を待つのは労働のみ。唯一の休息たる死」という表現には、明瞭に、フランコ独裁政権下の民衆の「悲しみと恐怖」のイメージを想像させるものがある。

その部分を抹消してしまうフェルナンドには、「過去を封印する男」という人格像が炙り出されるのである。


ミゲル・デ・ウナムーノ
ここで想起されるのは、アナが母の昔のアルバムを見たときに、口髭を生やした父が、ミゲル・デ・ウナムーノと一緒に写している写真が貼ってあったことである。

そのことが意味するのは、それほど遠くない過去に、夫のフェルナンドが、スペイン内戦で反戦を説き、サラマンカ大学終身総長の役職を追放された共和主義者だった、ウナムーノと同様の文化人であった事実を示唆していることだ。

「人嫌いのあなた」というテレサの把握には、恐らく、スペイン内戦で人間不信に陥った夫の印象が張り付いているように思われる。

そのフェルナンドは今、ミツバチの群れを前に、自宅軟禁を余儀なくされ、失意のまま逝去したウナムーノがそうであったように、容赦なき共和派狩りの結果、殺戮の歴史を刻んだ、抑圧的な独裁政権を批判する印象を与えるポエムを書き、それを抹消してしまったことで、今や、「過去の共和主義者」であった男が、王党派や地主層などの保守派によって構成される、フランコ独裁政権の体制側に吸収されてしまっている事実を検証するものであった。

 「過去に生きる女」と「過去を封印する男」が、かつて睦み合ったような夫婦を延長させるのは極めて困難であったに違いない。

陰翳深き物語の中で、夫婦会話を拾うのが難しかったのは当然のことだっただ。



 5  「家族の再生」の物語に軟着させた「非武装なるイノセント」の復元力



 「過去に生きる女」と「過去を封印する男」が儲けた、二人の幼い姉妹、即ち、イザベルとアナの自我が屈折することなく、健康的に育っていったのは、二人の存在だけが、夫婦の拠って立つ自我の安寧の絶対的基盤であったからだろう。

 だから姉妹は、愛情深く育てられ、子供が普遍的に体験する様々な遊びの世界に熱中できたに違いない。


しかし、姉のイザベルと違って、あまりにナイーブなアナの存在感は、他の子供たちが簡単に遣り過ごしてしまうような事象に強く振れてしまうのである。

 その中で、巡回映画で観た「フランケンシュタインの怪物」と子供の死に、「恐怖誘導」されたアナの反応には、アナにしか見えない、「善きもの」である精霊のようなイメージが張り付いていた。

 寓話的な構成で仮構された物語の中に挿入された、独裁政権への指弾のメッセージは、当然の如くシンボライズされている。

何より、観る者が気になるのは、アナにとって、「フランケンシュタインの怪物」とは何だったのか、ということだろう。

どのようにでも想像できる読み方が氾濫する中で、提示された映像から受容し得る見方は、大抵、パズルを当て嵌めるようにゲーム化される嫌いを持つので、私には好みに合うアプローチとは言い難い。

だから、私もまた、殆どゲーム感覚のノリで想像力を駆使した次第である。

以下、そんな私の勝手な読み方を書き散らしてみたい。

アナにとって、「フランケンシュタイン」とは、フランコ独裁政権によって壊滅させられた「人民戦線」の象徴である。

これが、私の勝手読みの結論だ。

前述したように、「人民戦線」は反乱軍による壊滅に先んじて、ドロドロの内ゲバによる自壊的現象が決定的な敗因と化したと考えるからである。

「フランケンシュタイン」という名の偏狭な科学者が創造した怪物が、他者によってコントロールし得ない「主観の暴走」の挙句、シリアルキラーになっていく。

そして、村人たちの恨みを買って、滅ぼされてしまう運命に流れ着いていくのである。

まさに、自らの存在を破壊せしめる怪物こそ、「フランケンシュタイン」それ自身であったという訳だ。

怪物の自壊の氾濫は、無垢の子供たちをも屠る惨状を晒すまでに内部崩壊してしまうのである。

 「非武装なるイノセント」であるアナは、自壊する「フランケンシュタインの怪物」に乗り移った、良心的な共和派の果たせぬ「夢」を捨て切れない「人民戦線」の亡霊に憑かれて、その「悲哀」を限りなく拾い上げ、援助行為に自己投入していくのである。

 それは、どこまでもアナにしか見えない、「善きもの」である精霊への同化であった。

 しかし、世俗の現実の世界に引き戻されるに及んで、果たせぬ「夢」を捨て切れない「人民戦線」の亡霊が、その存在を許容しない者たちによって破壊されたとき、「善きもの」である精霊の抜け殻だけが虚空を舞っていた。

 亡霊を破壊したと信じる父を拒絶したアナは、ひたすら、その虚空を求めて冥闇(めいあん)の時空を彷徨する。

 そこで邂逅(かいこう)した、「フランケンシュタインの怪物」によって救済されたアナが、妄想の世界から解放されたとき、「善きもの」である精霊の相貌の片鱗すらも見えなくなっていた。

 果たせぬ「夢」を捨て切れない「人民戦線」の亡霊が、アナの幼い自我の、小さな懐の奥深くに吸収されてしまっただ。

 アナは、このとき、果たせぬ「夢」を未来に繋ぐリレーランナーと化して、新たな自己を立ち上げたのである。

「お友達になれば、いつでもお話できるのよ。眼を閉じて、呼びかけるの。”私はアナです”」

それは、「幼児」と「児童」との微妙なラインを渡り切って、もう、「善きもの」であると信じる精霊に呼びかけても一向に現れ得ない、新たな自己立ち上げのイニシエーションに関わる小さな自己完結だっただ。

 「善きもの」である精霊の存在を必要としない辺りにまで、アナは疾走していたのである。

 疾走の重量感が、束の間、生命の息吹を奪っても、懐の奥深くに吸収されてしまったものの力学が機能すれば、必ずや復元するだ。

 「アナは、まだ子供なんだ。ひどい衝撃を受けてはいるが、時がたてば治る。大切なのは、あの子が生きているって事だ。アナは生きている」

 心配する母テレサに、担当医はきっぱりと言い切った。

 安堵する母。


アナと母テレサ
 彼女はもう、「過去に生きる女」ではない。

アナが失踪したとき、彼女は確信しただろう。

自分には、過去から手に入れる何ものをも持ち得ないのだと。

だから、投函予定の手紙を燃やしてしまったのだ。

過去と決別したのである。

 「人嫌いのあなた」と呼んだ夫に、コートをかける妻が、そこにいた。

これは、詰まる所、「家族の再生」の物語だったである。



 6  安直なファンタジーと一線を画す、節度を保持した映像が放つ詩的な表現宇宙の訴求力



説明的描写が一切なく、光と陰を織り交ぜた映像美と、文明から縁遠い地方に呼吸を繋ぐ家族の、その日常と非日常の様態を描く構成力において出色であり、且つ、隠し込まれた主題が余情含みの陰翳感となって、それが本作の幼気(いたいけ)なヒロインのイニシエーションのプロセスを補完するという一点において、極めて構築力の高い映像であることを証明した。


ヴィクトル・エリセ監督
様々なイメージ喚起力を起こさせる映像本来の力が、この映画にはある。

私にとって何より評価したいのは、幼気なヒロインのイニシエーションのプロセスの総体が、過去の亡霊にズブズブに搦(から)め捕られた両親の屈折的自我の中枢に沈む、その内的な時間軸を、「今、このときの生」にまで引き寄せることで、そこに穿(うが)たれた空洞に新しい生命を吹き込んでいくという、ほぼ予定調和の物語のラインが、決して安直なファンタジーに流されることなく、一貫して節度を保持した映像それ自身が放つ、極めて詩的な表現宇宙の訴求力の高さにあると言っていい。

私個人としては、「エル・スール」(1982年製作)の映像に強く惹かれる思いがあるが、本作が奇跡的傑作であることに疑う余地はない。

「家族再生」の物語として把握する私の読み方は、初見時のそれと殆ど変わらないが、ワンカットごとに相応のイメージを喚起させる映像の素晴らしさについては、明らかに、批評の次元の中でこそ充分に感受し得た次第である。

(2012年5月)



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