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2016年1月26日火曜日

コーヒーをめぐる冒険(‘12)      ヤン・オーレ・ゲルスター

<依存的なモラトリアムが壊れ、魂の呻きを吐き出す「現在性」が動き出していく>



1  「周りが変に思えて、違和感があるんだ。だけど分ってきた。問題なのは他人じゃなくて、自分なんだと・・・」



「コーヒー、いれようか?」
「遅刻しそうなんだ」
「今夜の予定は?」
「今夜は無理だ」
「何で?」
「忙しいんだ」
「何があるの?」

恋人の質問に何も答えないニコ・フィッシャー(以下、ニコ)との、素っ気ない会話から開かれた物語は、その恋人のアパートを追い出された主人公の大学中退の若者・ニコの1日を追っていく。

他のアパートの一室に移ったニコが、慌てて「運転適性診断室」に走って行く。

飲酒運転で免停状態になっていたニコは、面接官に「大学中退の理由は?」、「両親との関係は?」、「恋人は?」、更には、「身長に劣等感を感じてるのか?」、「同姓愛かな?」などという意想外の発問を受け、そのストレスで反問するが、「情緒不安定」と看做(みな)され、免停取り消しが解除されないという意に沿わない結果に終わる。

まさに、「優越的地位」を濫用することで、ストレスフルの状態になっていたのはニコではなく、件の面接官の方だったというこのオチはいい。

恋人のアパートで飲めなかったコーヒーを飲むためにカフェに立ち寄ったニコは、女性店員がそれとなく勧めるコロンビアを注文したために、3ユーロ40(2015年12月26日段階で1ユーロは約132円)の代金に足りず、「今日だけ特別に」と乞うが、ホームレス扱いされるに至る。

ATMで金を引き出そうとしても、カードが吸い込まれてしまう始末。

ATMの傍らに眠る正真正銘のホームレスに投げ銭した金を取り戻そうとするが、若い女の子に目撃され、結局、ホームレスの紙コップに戻してしまう。

ベタな描写だが、ホームレス繋がりで物語の安定度は保持されている。

ここまで観てきて、オフビートタッチのコメディであることが想像し得るが、ニコの1日が、決してコメディの範疇に収まらないトラジコメディ(悲喜劇)の様相を含むことが、後半に入って明瞭に映像提示されていく。

ニコカール
ともあれ、アパートに移った来たばかりのニコの部屋に、2階に住むカールという名の男が、挨拶代わりにミートボールを手土産に持って来て、迷惑がるニコの事情とは無縁に、一方的にプライバシーを喋り続ける。

「乳がんで全部摘出したよ」

カールの妻の深刻な状態を話しながら、「地下にこもるようになった。どうすればいいんだ」と言って、嗚咽を洩らすのだ。

親友のマッツェからの電話での誘いに、自ら望むように応じたのは、このカールの一件があったからだろう。

「この町はクソだらけだ。散歩に行くと、クソの匂いがするんだ。頭痛が悪化するよ」

マッツェが運転する乗用車内で、いきなり、こんな下品な言葉を彼から浴びせられるニコ。

二人で入ったバーガーショップでもコーヒーが飲めないニコは、ミネラルウォーターを注文するが、ここで彼は、昔の同級生のユリカと13年ぶりに再会する。

左からユリカ、マッツェニコ
「デブリカ」と仇名されていたほど肥満女子だったユリカは、「あなたが好きだったの。いじめられたけど」という告白を笑いながら吐露した後で、「自殺未遂もしたの。それで両親が全寮制に入れたの」などと軽口で話すのだ。

一気に空気が沈む。

その空気を変換させたのは、終始、笑みを絶やさないユリカだった。

寮の仲間で構成される劇団に所属するユリカは、この夜のパフォーマンスにニコを誘う。

消極的なニコと切れ、「俺も役者だ」と言うマッツェが乗り気になって、これで決まった。  

二人が、マッツェの友人の俳優が主演する映画の撮影現場を訪れたのは、その直後だった。

ユダヤ人娘と恋に陥るナチスの将校を演じる男を真剣に凝視し、思いを巡らすニコがいた。

そのとき、父から電話が入る。

ニコ
父からの誘いで、ゴルフ場で会い、その気がないのに自らもゴルフをするニコ。

ATMにのカードを吸われた件を話し、父に金の無心をするニコに、既に大学を中退した事実を知っていた父からの反応は、口座の解約という厳しい現実だった。

金を無心する思惑が、学費の援助の打ち切りという最悪の結果になってしまったのである。
 
落胆し、沈み込むニコ。

手元不如意(てもとふにょい)になっったニコは、駅の自動販売機の故障で切符が買えず、無賃乗車で電車に乗るが、駅員にも見えない二人の検札官に身分証明書の提示を求められ、相手の隙をついて逃走し、何とかベルリンの街に戻って来る。

マッツェと会い、今度は、マルセルという名のマッツェの年少の友人の家に立ち寄るニコには、彼らが興じるドラッグに全く関心を示さず、電動マッサージ機で安らぐマルセルの祖母と、束の間の癒しの時間を持つ。

物事に耽溺することを好まない、ニコの性格が透けて見えるシーンである。

かくて、ユリカらが演じる前衛劇に遅刻してしまうが、過去のトラウマを払拭したかのような、ユリカのパフォーマンスに圧倒されるニコとマッツェ。

マッツェニコ
ところが、途中で観劇する二人に対して、脚本と振付を担当するラルフによって辛辣な批判を受ける。

「我々の芸術は難解だ。確かに主流派とは違うが、嫌いなのに来たのか?金も払わず、招待券で遅刻して、我々の初演をあざ笑う。我々は小劇場の世界に新風を吹き込みたいんだ」

如何にも、個人主義が徹底し、議論好きで、自己主張の強い「ドイツ人気質」の如き男のマシンガントークを浴びて、そのような気質と真逆なニコには、ナルシストの独演会としか受け止められないのだろう。

それでも、その表現の内実が意味不明ながらも、ユリカのパフォーマンスに感動するニコは、彼女と会話する時間を持つ。

「舞台に立って、注目されるのが好きなのよ。人前で自分をさらすと、客が変に思おうと、それが快感になるの」
「良かったよ。勇気があるよ。本当さ。僕にはとてもできない」
「消極的になったのね」
「昔は違った?」
「自分に自信を持ってたわ」

このユリカの指摘に対して、明らかにニコの情動は揺さぶられている。

「周りが変に思えて、違和感があるんだ。だけど分ってきた。問題なのは他人じゃなくて、自分なんだと・・・」

この映画の中で、初めて、自分の感情を自然に吐露するニコがそこにいる。

そんな二人が占有する特別な時間の中に、三人の酔っ払いが絡んで来て、無視するニコと切れ、ユリカは彼らの幼稚さを指弾したことで、ニコを巻き込む喧嘩になるが、早々に退散して一件落着。

「無視すれれば、連中は立ち去ったはずだ」

鼻を殴られたニコをトイレで治療するユリカが、ニコのこの言葉に逆上する。

「私は何度、他人の言葉を無視してきたか。あなたたちの言葉を。どんな気持ちだと思う?思春期に80キロもあって、デブリカだとか、ゾウ女だとか・・・あなたに分る?」

「分らない」と答えたニコの一言に、今度は嗚咽含みで反応する。

「傷つくわ。乗り越えるのに苦労した。だから、もう無視はしないの」

謝罪するニコを許したユリカはニコを求めていくが、それに応じつつも、「違和感があるんだ」というニコの一言が、再びユリカを逆上させる。

ヒステリーを起こしそうになったユリカを目の当たりにして、ニコはその場を去っていく。

「太った女が好き」というタブーの言辞をユリカから強いられたニコが、違和感を覚えるのは当然だった。

ユリカにとって、この言葉を、自分をいじめた相手に言わせることで、相手を屈服させ、自らの「優越的地位」を確認したいのだ。

このエピソードは、ユリカの心的外傷が、彼女の内側で克服されていない現実を端的に表現するものだった。

バーに立ち寄ったニコが、一人の老人に絡まれたのは、その直後のこと。

「もう、人間が理解できん。人間の話が分らないんだ」

この老人の言葉に困惑するニコが、ベルリンを60年間も離れていたと言う老人の話に誘(いざな)われ、彼の話を聞くことになる。

「60年間もどこに?」とニコ。

ここで老人は、彼のトラウマになっている少年時代の経験を、長広舌(ちょうこうぜつ)を振るう者のそれとは切れ、ゆっくりと噛み締めるように語っていく。

「よそにいた。また、戻ったのさ。君は何も分かってない。当時は、今と少し違ってた。毎朝、総統に直立不動で敬礼させられたからさ。あちこちに敬礼した。ハイル・ヒトラー!ガキの俺には、意味が分らん。周りの真似をするしかない。夜中に、おやじが俺を起こして言ったんだ。“通りへ行くぞ。見せたいものがある”俺は一緒に通りへ出た。おやじは俺の手に石を握らせた。“お前の底力を見せてみろ”おやじは自分も石を握り、窓ガラスを打ち破った。まさに、この場所だ。通りは人が大勢いた。今と違って照明もネオンもない。真っ暗闇さ。みんな、窓ガラスに石を投げてたよ。おやじは、この店をやった。粉々に打ち砕いてたよ。一面、ガラスの破片ばかり。火事が起こり、炎で照らされ、通りが輝いていた。今でもよく覚えてる。俺は激しく泣き始めた。なぜだと思う?ガラスの破片だらけじゃ、自転車で走れない・・・」

ここで語られたのは、ユダヤ人へのホロコーストの重要な起点になった「水晶の夜事件」(1938年11月9日/クリスタル・ナイト=クリスタル・ナハト)のこと。

水晶の夜事件(ウィキ)
ゲッベルスとラインハルト・ハイドリヒ(後に、ユダヤ人の絶滅政策を決定したヴァンゼー会議を主宰)が深く関与した「水晶の夜事件」の苛酷さは、マスヒステリア(集団狂気)と化した無数のドイツ人のヒステリーを生んでいくので、件の老人の少年時代の自我に、決して癒し切れない心的外傷となって張り付いているのだろう。

かくて、世代を超えた若者に、「歴史を風化させるな」というメッセージを送波した後、澱みをほんの少し浄化し得たのか、路上で倒れ込み、救急車で搬送されるに至る。

病院に同伴したニコは、院内で夜を明かすのだ。

老人の重い語りを聞いた若者にとって、老人の容態が気になって仕方がないのである。

しかし、ニコの思いも虚しく、老人は呆気なく逝ってしまった。

老人に身寄りがいない事実を看護婦から知らされ、“フリードリヒ”というファーストネームを、自ら求めて教えてもらった孤独の老人の心境に達することが叶わないながらモラトリアムを決め込んだニコの内的風景に侵入してきた、この夜の一連の経験は、未来に架橋し得る可能性を示唆する時間であったのか。

そのニコは病院を出て、朝のベルリンの忙しない街角カフェで、今、コーヒーを飲む。

ニコにとって、「コーヒーを飲めない時間」とは、「癒しを得られない時間」を意味する。

ラストシーン
しかし、コーヒーを飲むニコの「現在性」には、「癒しを得られる時間」を超える「何か」がある。

「何か」が壊れ、別の「何か」が動き出してきたかのような凝縮した時間の沸点で興奮を抑えるようなニコの表情が映し出されていった。

それだけ、「非日常」の色彩の濃厚な時間のうちに凝縮された、「今日という1日」がもたらす「人生」の重みは、ニコにとって、ほんの少し、自分の中の「何か」が変化していく特別な意味を持っていたのだろう。



2  依存的なモラトリアムが壊れ、魂の呻きを吐き出す「現在性」が動き出していく



ブランデンブルク門やベルリン大聖堂象徴される歴史的建造物を有するベルリンという世界都市は、伝統を重んじながらも、多くのアーティストを集合させるクリエイティブな文化の発信地でもある。

絶えず変転し、エネルギー溢れる「現在性」が、「スタートアップ都市」として成長を続ける活気を生み続けるのだろうか。

このような都市イメージとリンクせず、モラトリアムを決め込んだ視界不良の一つの青春がある。

物語の主人公・ニコの青春である。

そのニコの一日を描いたこの映画のテーマは、以下の文脈のうちに要約できるだろうか。

即ち、非生産的で依存的なモラトリアムが、一つの青春を安楽死に導く毒素を持つことを理解し、それが内省に繋がることで、少しだが、しかし明らかに、昨日までの時間の内実と切れた内的風景を開かせる「心の旅」であるということ ―― これに尽きるだろう。
 
ニコは吐露する。

「周りが変に思えて、違和感があるんだ。だけど分ってきた。問題なのは他人じゃなくて、自分なんだと・・・」

非生産的で依存的なモラトリアムに居直り続けた青春への、紛れもないペナルティを被弾した魂の呻(うめ)きがここにある。

これが、彼の「心の旅」の最終到達点が開いた〈現在性〉である。

視界不良の青春に居直り続けたニコは、この〈現在性〉を獲得できたのだ。

魂の呻きを吐き出す〈現在性〉である。

内省する時間が開かれたのである。

思えば、この特別な街は、歴史のレガシーコスト (負の遺産)と共存することを強いられてきた。

このレガシーコストの重みの一端に触れることで、ニコの青春が〈現在性〉を獲得し得たと言える。

予兆はあった。

ユリカとの再会である。

過去のトラウマを払拭したかのような、ユリカのパフォーマンスに圧倒されたニコは、「精神の過剰な強化」によってのみ、過去のトラウマを克服したと思い込むことで、辛うじて、ナイーブな自我を守ってきた事実を知ってしまったのだ。

「太った女が好き」という言辞をユリカから強いられたニコが、違和感を覚えるのは当然だった。

ユリカの心的外傷が克服されていない事実の重みは、「過去」に縛られて煩悶する者の過剰適応だったのである。

良くも悪くも、それがユリカの〈現在性〉なのだ。

「過去」に縛られていないニコには、視界不良の青春に居直り続けるが故に、ユリカのように、「精神の過剰な強化」を自己に課すことで、トラウマの克服幻想を持ち、それを継続させねばならない〈現在性〉などとは無縁だった。

ユリカとのこのエピソードから、オフビート感漂う序盤の展開と完全に切れて、物語は重くなり、生々しいリアリズムの様相を呈し、緩やかに閉じていく。

ニコの情動も騒がしくなっていく。

視界不良の青春を浮遊するそんなニコが、心的外傷の圧倒的重量感によって、ベルリンを60年間も離れていたと言う老人と出会ってしまったのだ。

もう、逃げられなくなったのである。

「恐怖突入」なしに済まない情況に絡み取られた青春は、全身から振り絞って吐き出される老人の、命脈も尽き果てていくような澱み切った言辞を浴びてしまう。

この街が隠し持つ負の文化を、決して鈍くない自らのセンサーが感知することで、彼の青春は、居直り続けることの不毛さをも引き摺り出してしまったのである。

ラストでの老人との、レガシーコストの重みの一端に触れる予兆が、もう一つあった。

マッツェの友人の俳優が主演する映画の撮影現場を訪れるニコが、その俳優から聞かされた物語が興味深い。

マッツェの友人の俳優とニコ
それは、第二次世界大戦前に知り合ったユダヤ人女性との悲恋の物語。

将校となった男が、開戦で別れ離れになった恋人と6年後に再会する。

ユダヤ人の強制連行という決定的な状況に立ち会って、彼女がユダヤ人であるという事実を初めて知り、激しく葛藤する男が選択した行為は、恋人を救う勇気ある決断だった。

愛が再燃したのである。

既に、6歳の子供が生まれていたが、ナチスによって引き離されていたという展開だった。

ベタな設定で、リアリズムも削られていたが、このエピソードの挿入は、明らかに、ニコの「心の旅」の最終到達点への伏線になっている。

ニコが真剣に凝視し、思いを巡らしていたかのようなこの伏線は、老人との出会いのラストシーンのうちに回収されていくからである。

その死の際(きわ)まで、束の間、ニコが「共存」を余儀なくされた老人は、振り絞るように吐き出すのだ。

「おやじは俺の手に石を握らせた。“お前の底力を見せてみろ”おやじは自分も石を握り、窓ガラスを打ち破った。まさに、この場所だ」

「まさに、この場所だ」と振り切って吐き出した、老人の余りにも重い語りは、非生産的で依存的なモラトリアムに居直り続ける青春の、その浮遊する時間を決定的に動かしていく。

「私にとって興味があるのは、生活の中に存在する歴史的な場所を描くことです。若い世代は、この重すぎるテーマを背負って向き合わなければならないのと同時に、新しいドイツを具現化していかなければならないのです」

ヤン・オーレ・ゲルスター監督の言葉である。

「そしてニコは自分の置かれている状況に向き合い、考えるのです」

これも同じインタビューでの言葉

まさに、「重すぎるテーマを背負って向き合わなければならない」青春が、否が応でも、「自分の置かれている状況に向き合い、考える」ことを余儀なくされ、昨日までのフラットな時間の依存的なモラトリアムの状態と切れた内的風景のイメージが、強く印象に残るラストカットに結ばれていた。

動き出すことから回避し、その時間の狭隘なゾーンに居直り続けた情況性が変容していくのだ。

依存的なモラトリアムが壊れ、魂の呻きを吐き出す「現在性」が動き出していく。

そんな映画だった


(2016年1月)

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