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2015年4月5日日曜日

少年は残酷な弓を射る(‘11)      リン・ラムジー

<「分離ー個体化」し得ずに、倒錯的に捩れ切った少年の自己完結点と、その崩壊感覚>



1  「ママだけの部屋」に変換させる母を見透かす幼児の拒否反応



私にとって、リン・ラムジー監督と言えば、唯一、鑑賞した「ボクと空と麦畑」(1999年製作)である。

自分が犯した罪で懊悩する少年の心理描写で埋め尽くされる映像の切なさは、多分、一生忘れない。

本作もまた、説明描写を削り取り、繊細な心理描写で埋め尽くされていて、観る者の洞察力が試されるようだった。

殆ど完璧な映像は、スコットランド生まれの女性監督の、切れ味鋭い力量を充分に検証する作品に仕上がっていて、全く文句のつけようがない。

以下、この一級の名画の梗概と批評を結んでいく。

―― 旅行代理店の事務として採用されたエヴァが、その喜びを噛み締めながら、街路に出るや、いきなり、見知らぬ中年女性から顔を叩かれ、罵倒された。

「地獄で腐り果てろ!クソ女!」

そんな罵倒を浴びせられても、ひたすら耐えるエヴァ。

英語圏で盛んなハロウィンの行事の中を車で走っても、仮装した子供や若者たちの襲撃を怖れるエヴァの現在性は、明らかに常軌を逸していた。

「キャンディーくれよ!」

家の前で叫ぶ子供を怖れ、家内の灯りを消し、狼狽(うろた)え、怯(おび)える中年女がそこにいた。

仕事場でも、社員から完全に無視され、全く反応を得られないから、その孤独の状況は言語を絶するものだった。

街の者の悪意によって、真っ赤なペンキを家の壁や玄関、車に塗り散らされ、それを必死に洗浄するエヴァの現在性は、トマト祭りで全身が真紅に染まり、陶酔感を回想する冒頭シーンでの絵柄に象徴されるように、「伝説の冒険家」と称された、かつての絶頂期とは完全に切れていた。

そのエヴァの現在に、繰り返し、侵入的想起(フラッシュバック)が襲ってくる。

どうやらそれは、自分の息子であるケヴィンが犯した犯罪と関与することが、漸次、映像提示されてくるが、その内実は不分明である。

今、少年刑務所に入所しているケヴィンを訪れても、全く言語交通がなく、その不快な「間」の中で、ケヴィンは自分の爪を歯で咬み切って、それを口に出し、接見室のテーブルの上に並べるのみ。

度々、そのケヴィンを妊娠し、産まれて、乳児の時の回想が挿入される・

恋人フランクリンとのセックスの中で、「安全日」である事実の確認を怠っため、明らかに、求めもしないケヴィンを産んだことに対する後悔の感情が、エヴァの心中に読み取れる。

だから、乳児のケヴィンの泣き声を、まるで機械音のような雑音にしか聞こえないのか、エヴァの脳裏を劈(つんざ)いてしまうのだ。

今や、夫のフランクリンに懐いても、エヴァの抱っこで泣き叫ぶ乳児。

ケヴィン
幼児になってもオムツをするケヴィンが、ボール遊びの相手をする母・エヴァの一挙手一投足に、全く反応しないのだ。

「乳児の頃、泣き過ぎて、聴覚がやられたのかも」

自閉症の初期症状を疑い、3歳になっても発語しないケヴィンを、小児科で診察しても、「異常ありません」と言われるばかり。

「“ママ”と言って」

エヴァが、そう促して、ようやく出て来た言葉が、「やだ」という一言のみ。

「ケヴィンが来るまで、ママは幸せだった。でも今は、毎朝起きると、こう思うのフランスへ行きたい!

拒絶的な言動しか発しない幼児のケヴィンに放った、母・エヴァの言葉である。

その一言を聞いて、無愛想な表情を見せる夫・フランクリン。

自室に様々な世界地図のポスターを部屋の壁全体に張り付けて、それを「ママの部屋」にするエヴァ。

外国に行けないストレスを、せめて、「ママの部屋」=「ママだけの部屋」に変換させるのだ。

「バカみたい」

「ママだけの部屋」に変換させる母の感情を見透かす、ケヴィンの拒否反応である。

「ママだけの部屋」のエヴァ
未だオムツが取れないケヴィンの拒否反応は、「ママだけの部屋」の壁全体にペイントで塗りつぶしてしまうのだ。

「特別にしたかった」

ケヴィンの一言に激昂するエヴァ。

しかし、息子の行動に叱ることなく、妻を慰めるだけの夫がそこにいる

そればかりではない。

母との「計算学習」の際にも、でたらめな答えをわざと言った後、ウンチを洩らし、ここでも母を苛立たせるばかり。

母の怒りがピークアウトに達し、とうとう、ケヴィンの左腕を骨折させてしまうのだ。

トイレトレーニングを完全に終焉しているはずなのに、敢えて、このような行為を身体化すること自身に、ケヴィンにとって「意味」があることが判然とする。

「無邪気な子供のやることを気にするな」

エヴァを慰める夫・フランクリンには、「無邪気な子供のやること」としか思えないようなのだ。

ケヴィンに妹ができたのは、「無邪気な子供のやること」を繰り返しているときだった。

映像の中で初めて、母・エヴァに甘え、父を邪険にするシーンが登場する。

明らかに、母を独占したいという感情の現れであると見ることができる。

今、その母が、「ロビンフッドの弓矢」の話をしている。

その話に興味を抱いたケヴィンが、母に身を寄せて、「ロビンフッドの弓矢」の話に聞き入っていた。

ケヴィンの強い思いが通じたのか、まもなく、玩具の弓を父から与えられ、熱心に教えてもらう画像が挿入される。

そして今、思春期を迎えたケヴィン少年は、本格的なアーチェリーを練習するに至り、趣味の範疇を超えて、弓術の虜(とりこ)となったような変容を見せていく。

しかし、その変容は弓術の世界に留まっていた。

相変わらず、母の前で妹を虐め、オナニーを見せるケヴィンが、そこにいる。

そんなケヴィンが、かつて、「伝説の冒険家」と称された時代の母の大きなポスターの前で、立ち止まって見入っていた。

それは、ケヴィンの自我の底層に張り付いている印象深い絵柄だった。

その場面を目視し、喜びを抑えられない母・エヴァの絵柄もまた、物語の芯となるような映像提示だった。

その直後の映像は、エヴァがケヴィンに、パターゴルフに誘ったり、食事に誘ったりするシーンが挿入されるが、エヴァが求める、「母と子」という「普通の関係」が具現し得ないイメージを拾っただけだった。

なぜならケヴィンは、母の行為が自己満足を得るためのものと見透かしているが故に、「心(情緒)の共同体」としての家族の風景の欺瞞性を、自ら剔抉(てっけつ)する行為に振れてしまうのだ。



2  「ロビンフッドの弓矢」を炸裂させる少年の心の闇



クリスマスの日、ケヴィンが父にプレゼントてもらったのが、最新型のアーチェリーだった。

「良い音だな。パワフルだ」

そのアーチェリーで、家の庭で練習に励むケヴィンを褒める父の言葉。

それを窓際から目視し、不安な表情を拭えないエヴァ。

そんな折り、妹のセリアが可愛がっていたハムスターがいなくなって、一晩中、両親が探すが見つからない。

エヴァフランクリン
排水管の溶剤を外に出しておいたことで、その溶剤がセリアの眼に入り、左目を失明するという由々しき事故が起こったのは、その直後だった。

「溶剤をしまっておいたのに」と言うエヴァは、それが事故ではなく、ケヴィンの仕業であると主張する。

「一度、カウンセリングを受けろ」

一貫してケヴィンを庇う父親のこの言葉で、夫婦関係に重要な亀裂が入るのは必至だった。

「昨日は救急車を呼んでくれて、ありがとう。あなたが自分を責めていないか心配で・・・・」
「何で?」とケヴィン。
「妹を守る立場でしょ?」
「自分を責めるな!」

ここで、フランクリンが強い口調でケヴィンをたしなめた。

「分ってるよ。いつ自分を責めた?子供って、残酷なものなんでしょ。セリアは耐えるしかない」

これが、ケヴィンの反応。

居た堪(たま)れず、その場を去っていくエヴァ。

16歳になる3日前に、本作のタイトル通り、自分が通う高校で、ケヴィンが大量殺人事件を起こしたのは、夫婦が離婚の話し合いを始めたときだった。

ケヴィンが、この話し合いを耳に入れたことが、その直後に惹起する事件の背景に横臥(おうが)するものだが、これについては本作の肝でもあるので、後述する。

予(あらかじ)め、自転車用の施錠金具をネットで購入し、体育館の扉の出入り口を封鎖する用意周到ぶりだった。

次々に放たれる矢によって、逃げ場を失った高校生たちが、悲鳴を上げて斃れていく。

事件の現場である、体育館を見つめる大人たちの悲鳴も劈(つんざ)いていた。

連絡を受け、慌てて高校に駆け付けたエヴァの射程に最初に捉えられたのは、警察官が電動ノコギリで施錠金具を切っている場面だった。

その施錠金具を視認したエヴァは、事件の犯人がケヴィンである事実を確信するに至る。

次に視認したのは、自ら諸手を上げ、うつ伏せになって現行犯逮捕された、ケヴィンの落ち着き払った表情だった。

そのケヴィンの視線に入り込むのは、ここでもエヴァだけである。

二人の視線が合うこのシーンにこそ、ケヴィンが起こした事件の本質が垣間見える。

更に、連絡しても誰も出ない自宅に戻ったエヴァが庭で発見したのは、矢が突き刺さったフランクリンとセリアの死体だった。

言葉を失うエヴァ。

ケヴィンは、母・エヴァだけを、「ロビンフッドの弓矢」の射的にしなかったのである。

その意味を、エヴァだけは理解できている。

だからこそ、痛切なのだ。

それから2年後。

映像は一転して、少年刑務所に収容されているケヴィンに接見するエヴァを映し出す。

「暗い顔ね」
「昔からだよ。もうすぐ18歳だし」
「大人の刑務所に行くのは、緊張する?」
「緊張?どういう世界か知らないの?」
「今までうまく、立ち回ってきたじゃない。当時は未成年だったし、抗鬱剤の影響もある。2年で出られるわ。なぜ今日、面会に来たか分る?」
「知ってるよ。事件の記念日だ」
「あれから2年。たっぷり考えたでしょ?教えてくれない?なぜ?」
「・・・分ってるつもりだった。でも、今は違う」

長い「間」を取りながら、重苦しい母子の会話が閉じていく。

別れ際、一瞬、弱気な顔を見せたケヴィンを抱き締めるエヴァ。

ケヴィンもまた、母の抱擁をしっかりと受け止め返し、明らかに、それまで見せた激しく攻撃的で、敵対的な表情とは切れていた。

少年刑務所を去っていくエヴァを映し出し、それが深い余情となり、ラストシーンのうちに括られていった。



3  「分離ー個体化理論」という重要な仮説の提示 ―― 発達心理学の視点から



この映画で最も重要な視座は、物語が一貫して、エヴァの主観的な回想や侵入的想起(フラッシュバック)によって描かれているという点である。

従って、ケヴィンの内面に全く入り込まない、一種の戦略的映像として本作を理解せねばならないということ ―― この視座を無視して批評することの難しさが、観る者を困惑させるのだ。

だから、その内面に入り込むことのないケヴィンの日常性を、観る者が推し量り、想像を逞しくする作業が強いられる。

映像で提示されることのない母・エヴァに対するケヴィンのストロークが、すっぽりと欠落させていることが充分に考えられるからである。

映像提示されたケヴィンの様々な嫌がらせや悪意含みの言辞は、どこまでも、エヴァの自我に刷り込まれたケヴィンに対する否定的イメージの残像でしかないのである。

―― この前提を踏まえて、この物語を、発達心理学の視点を入れて考えてみたい。

ここで注目したいのは、ハーバード大学講師で、精神科医としても名が知られている、トマス・バーニーらの研究である。

研究の内実は、母親の感情的な態度が、胎児や子供の情緒の発達にどのような影響を与えるかというもの。

結論から言えば、妊娠を望まず、胎児との妊娠中の絆作りを拒んだ母親から産まれた赤ちゃんが、その後、情緒的な障害を惹起する可能性が高いという事実である。

これは、猿を使った実験でも検証されている。

子を宿した母猿を身動きできない状態にすれば、強い恐怖に襲われた母猿のアドレナリンの分泌量が増加し、このアドレナリンが子宮に流れる血液量を減少させ、胎児の酸欠状態を招来し、結局、死産したという実験結果が明らかにされている。

これは、人間の場合でも全く同じこと。

強い恐怖感に陥れば、アドレナリンが分泌されるのは脳科学の常識である。

更に、強いストレスが子宮を収縮させるホルモンを分泌し、流産という由々しき事態が惹起する可能性も高くなるということ。

胎教(「胎教|非常教育」より/イメージ画像)
トマス・バーニーらの研究で最も興味深いのは、健康な状態で生まれた女の子が、母親の「おっぱい」を拒み、乳首に吸いつかなかったにも拘らず、他の母親の「おっぱい」を与えたら、その乳を好んで飲み始めたという事実だった。

実は、この乳児の母親こそ、先の例に挙げた、妊娠を望まず、胎児との妊娠中の絆作りを拒んだ母親であったのだ。

この乳児は、生後4日にも満たないのに、妊娠を望まい母親から自分の身を守ろうとしたというのが、トマス・バーニーらの結論である。

果たして、大反響を呼んだこの研究が、どこまで科学的に立証できるかどうか、未だ不分明だが、この研究成果を支持する意見が多い事実を忘れてはならないだろう。

次に、ハンガリー出身の米国の精神科医・マーガレット・マーラーの「分離ー個体化理論」に注目し、言及したい。

マーラーの「分離ー個体化理論」とは、乳児が母親との一体感から、徐々に分離していく過程を4つに分けた理論であるが、その要諦を簡単に書けば、以下の通り。

自己と外界の区別がないが故に、外部刺激に対して明瞭な反応を示さない時期から、母子が一体化した状態下で外的刺激に対して微小反応が生じる時期を経由し、外界への興味が活性化し、母親の顔が特定され、母親以外の他者に対しては人見知り行動が顕著になる時期を経て、よちよち歩きが可能になり、母親のもとを離れることが多くなるが、母親のもとに戻って不安を解消する傾向を示すことで、母親の微笑みや柔和な声掛け、抱擁などの情緒的応答性が重要になってくる。

この情緒的応答性を得て、母親の存在が、子供にとって、精神的な安全基地の役割を果たすことになる。

更に、母親のもとから離れることに不安を感じることが再び強くなり、積極的に母親に接近し、後追い行動をとるようになるという「再接近期」に入っていく。

母親が、自分の後を追ってくれるかどうか、確かめるようになるのだ。

これが「分離不安」である。

この最も重要な時期に、母親が適切に情緒的対応を示さないと、発達が「固着」(リビドーが退行し、口唇など、特定の段階に留まる精神分析の概念/注1)して、後の人格発達に悪影響を与える可能性が高まるのである。

「再接近期の危機」と呼ばれるように、如何にこの時期が、乳児にとって重要な時期であることが理解されるだろう。

従って、マーガレット・マーラーの「分離ー個体化理論」という概念は、過剰な不安や緊張に束縛されることなく、外部世界に適応し、自立的に行動し得るという意味の込められた概念なのである。 

補足的に書けば、マーラーの「分離ー個体化理論」の中における、自己と外界の区別がない時期を、ウィーン出身の女性精神分析家で、英国を代表するメラニー・クラインによると、「良いおっぱい・悪いおっぱい」という概念で説明されているので、それについても簡単に言及したい。

即ち、2~3カ月の乳児にとって、母親のイメージは、「おっぱい」という身体部分の視座しかなく、これは、「良い母親」と「悪い母親」との分裂した対象として捉えられている状態を意味する。

しかし、その子の思いを汲み取って、常に満足を与えてくれる「良い母親」と、その子の非を咎め、思い通りにならない「悪い母親」の両方を経験する中で、子供は次第に自分と他者の違いに目覚め、分裂した母親のイメージが、「良いおっぱい・悪いおっぱい」のいずれも、実は「一人の母親」であるという理解のうちに統合されていく。

これが、乳幼児期の教育で最も重要な過程であるが、これが失敗すると、自分の中で特定された母親を、「悪いおっぱい」の対象と見てしまうのである。

まさに、映画の中での、母・エヴァに対するケヴィンのネガティブな視線こそ、乳幼児期の関係構築の失敗をトレースするものだった。


(注1)ここで言うリビドーとは、現在の自我心理学のフィールドでは「性の欲動」という解釈に留まらず、広義な意味で「生の欲動」のことを指し、また、退行とは、「健康的な退行」という意味も含まれているが、ここでは、自我の機能が低下している状態を指している。



4  「分離ー個体化」し得ずに、倒錯的に捩れ切った少年の自己完結点と、その崩壊感覚



発達心理学に言及した以上の文脈を援用し、物語の母と子の関係の本質を考えてみたい。

「ケヴィンが来るまで、ママは幸せだった。でも今は、毎朝起きると、こう思うの。“フランスへ行きたい!”」

このエヴァの言葉に集約されているように、ケヴィンの誕生それ自身が、エヴァにとって、「歓迎されざる我が子」であったことが瞭然とする。

はっきり書けば、この言葉は、前述したトマス・バーニーらの研究で明らかなように、絶対に口外してはならないタブーの言辞である。

既に、「早熟な子供」であったケヴィンにとって、エヴァの存在は、「悪いおっぱい」の延長としての「悪い母親」以外の何ものでもなかった。

だから、「悪い母親」への攻撃性を身体化する。

しかし、それは、「悪い母親」であったとしても、自分の存在を認知し、普通の母子関係がそうであるようなイメージに寄せることで、不断に自分の存在価値をアピールせざるを得ない行為だった。

これは、母・エヴァに対する、ケヴィンの強い「承認欲求」であると言っていい。

しかし、この「承認欲求」をエヴァは受容し、その関係を肯定的に包括するという行為に振れることはなかった。

なぜなら、ケヴィンの「承認欲求」の行為が、あまりにサディステックで特異的なために、エヴァには、それを受容できなかったのだ。

この母と子の不幸の根源は、そこにある。

普通の母子関係で見られる「分離ー個体化」の過程をトレースし、推移していくこの関係において、発達初期の愛着形成の欠落がずっと尾を引いたまま、思春期を迎えるに至ったのである。

ここで問題なのは、エヴァが、思春期を迎えたケヴィンに対して、容易に見透かされるような「恐怖感」を抱いてしまった点にある。

「恐怖感」を抱かれた「息子」が、「恐怖感」を抱く「母親」を受容しようがないのだ。

それは、もう「母親」ではなく、単に、自分を怖れる「一人の家庭内共存者」でしかない。

それでもエヴァは、何某かの精神疾患、或いは、「行為障害」とも思しき、パーソナリティ障害に下降していったケヴィンの心を、なお、愛情的努力をもってアプローチする。

当然ながら、これには無理がある。

また、ケヴィンの抗鬱剤の服用が常態化していた事実は、何某かの精神的疾患を暗示する物語をイメージさせるに充分な根拠となるが故に、本作がホラー映画の範疇で語られる作品と切れていることを端的に示している。

この母子関係の問題を俯瞰する場合、スタートの躓(つまず)きが全てだったのではないか。

自分のキャリアへの執着を捨て切れずに、胎児期・乳児期に発信された我が子への、「負のストローク」による心理的影響の問題が看過し難いからである。

その由々しき事態に起因し、ケヴィンは産まれた時から、母・エヴァに対して拒絶的であり、泣き叫ぶという怒りを発信し続けていた。

それでもエヴァは、ケヴィンを愛そうと努力する。

然るに、愛そうと努力する行為自体、この母子関係の埋め難い心理的距離を検証するものだった。

だが、既にもう遅かった。

「分離ー個体化」=「外部世界に適応し得る自立性の確保」を手に入れることなく、母への倒錯的な愛の表出の中で、捩(ねじ)れ切った思春期自我にまで下降していってしまったのである。

大量殺人事件という反社会的な行為に振れることによってしか、この少年は、母への倒錯的な愛を表現できなかったのだ。

今や、少年の心の風景は、この忌まわしき事件を惹起せざるを得ない沸騰点に達していた。

そこだけは、充分過ぎるほど打算的思考が発達している少年は、成人扱いから免れるために、16歳になる直前に犯行に及ぶ。

然るに、抗鬱剤の服用など、自らに科される刑罰の損得を計算し、犯行に及んだであろう少年の心の風景には、看過できない現実が潜んでいたと思われる。

それは、事件の背景の本質を説明するものである。

父母の離婚によって、自分の親権が父に移行する事実を知ったこと ―― エヴァ自身による、夫への手紙として書かれた原作と逸脱するが、映画を観る限り、この点を無視することができないのである。

夏頃に予想される父母の離婚と、親権の移行の事実。

少なくとも、ケヴィンは、そう信じ込んだ。

「僕のせいでしょ」

少年は、そう言い切った。

この言葉に含まれる歪んだ少年の思春期自我は、抑制不能なほど膨らみ切っていた感情体系を、決定的に炸裂させていく。

家庭内での、倒錯的に捩れ切った自分の「全能感」(支配感情)の崩壊に繋がるからである。

何より、息子の心情を全く理解できず、単に擦り寄っていくだけの無力な父親に、それだけは失いたくない母を奪われることを意味するのだ。

知能が早熟であっても、健康的な思春期自我を保持し得ず(「分離ー個体化」の頓挫)、「快・不快」の原理で動くだけの少年にとって、今や、自分の「全能感」(支配感情)を母に顕示する以外になかった。

思うに、自分だけは、息子を理解する「善意」の代弁者を演じた父親を殺し(エディプス複合)、更には、母親の愛を占有する妹を殺したのは、母への独占感情の障害を排除する暴力性の現れであったに違いない。

それは、「分離ー個体化」し得ずに、倒錯的に捩れ切った少年の自己完結点だった。

皮肉にも、自分を怖れる母の包括的な愛を獲得できたのは、精神分析的に言えば、母親への復讐をも含意する、多分に破滅的表層の色濃い、大量殺人事件という反社会的な行為を身体化してからだった。

事件後、ケヴィンを怖れる感情を払拭し切ったエヴァが、街の人々から迫害されてもなお、その町に留まったのは、紛れもなく、息子の倒錯的に捩れ切った視線を受容できたからである。

そして、その受容の中で、贖罪的行為を一身に背負うことで、同時に社会的制裁を受ける息子の帰還場所を、ひたすら、保持し続ける以外になかったのだ。

2年の時を経由し、母は我が子に問うた。

「あれから2年。たっぷり考えたでしょ?教えてくれない?なぜ?」
「分ってるつもりだった。でも、今は違う」

この映画で最も重要な会話である。

ケヴィンにとって、倒錯して捩れ切った自我に張り付く「全能感」の、その自己完結点であった事件を経由して得たものは、広い邸である家庭空間の狭隘な世界で振る舞っていただけの支配感情が、虚構の「要塞」以外の何ものでもないが故に、幻想でしかない「全能感」の崩れも早かった。

エヴァのイメージの中であったが、事件直後、一切を支配したと信じ、勝ち誇ったように、体育館で諸手を上げていたケヴィンが、そこにいた。

しかし、それは、自分の「全能感」を満たし切った事件それ自身が、年齢相応の「分離ー個体化」=「外部世界に適応し得る自立性の確保」を手に入れることなく、「快・不快」の原理で動くだけの、倒錯的に捩れ切った幼稚な行為でしかなかったのである。

そのことは、2年の時を経由して、少年刑務所で経験した厳しい管理状況を思えば、想像に難くない。

数日後にも成人刑務所(注2)に移行するだろう、丸刈りのケヴィンの顔の傷が意味するのは、少年刑務所内での争いか、それとも、反抗的行為への懲罰であると考えられる。

母・エヴァへの倒錯的な反抗・復讐という、究極的な身体表現で動いていたケヴィンが、少年刑務所での冷厳なリアリズムの洗礼を受けたことで、「分ってるつもりだった。でも、今は違う」と言わしめるに至ったのだろう。

ケヴィンの虚構の「全能感」など、呆気なく崩れ去ってしまう何かでしかなかったのだ。

「刑務所内強姦」を怖れ、虚構の「全能感」が剥ぎ取られた少年が、今、母の目前にいる。

そんな我が子の、あまりに脆弱な内部世界に架橋し得るのは、この世で自分以外にいないのだ。

エヴァは、そう信じ込み、生涯を通してストロークを出し続け、包摂していくだろう。

それは、エヴァにとって、「分離ー個体化」し得ずに、倒錯的に捩れ切った息子を産み、恐れ、最後まで心理的距離を埋められなかった、自らの子育てに対する反省への唯一の贖罪的行為であった。

前述したように、マス・ヒステリア(集団狂気)の餌食にされ、街の人々の悪意を被弾し、真っ赤なペンキを塗り散らされても、物理的逃亡を図ることなく、街に住み続けるエヴァの行為それ自身が贖罪と化していると同時に、刑期を終えた孤独なケヴィンを迎え入れる場所を確保する行為でもある。

出所した時点から始動するだろう、マス・ヒステリアの餌食からケヴィンを守らねばならないのだ。

自分が弾除(よ)けになる行為もまた、エヴァの贖罪であるに違いない。

エヴァは、そこまで括っているのだろう。

エヴァは変容したのだ。

だからこそ、別れ際、一瞬、弱気な顔を見せたケヴィンを抱き締めることができた。

ケヴィンもまた、母の抱擁をしっかりと受け止め返し、明らかに、それまで見せた激しく攻撃的で、敵対的な表情とは切れていた。

一切は、今、ここから始まっていくのだ。

(注2)日本では、原則的に少年受刑者の収容年齢は20歳未満だが、実際の被収容者は成人受刑者が大部分を占めるといわれる。

【参考資料】 「少年は残酷な弓を射る」ライオネル・シュライヴァー/イースト・プレス社 「精神分析的人格理論の基礎」馬場 禮子/岩崎学術出版社  「マーラーの発達段階 flashcards | Quizlet」 「カウンセリングルーム:Es Discov 赤ちゃんの精神発達と『母親からの分離・個体化期』の重要性」 [PDF・母子関係の発達・その2」  ブログ・「妄想・分裂ポジションと『おっぱい』」  ブログ・「子供は母親次第でどんどん伸びる」  ブログ・「小林登文庫  育つ育てるふれあいの子育て」

(2015年4月)


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