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2015年11月3日火曜日

父の秘密(‘12)      ミシェル・フランコ

<頓挫されたグリーフワーク ――  その破壊的暴力の風景の痛ましさ>



1  飽和点に達したディストレス状態が、一回的な復讐的エネルギーに変換された男の痛切な収束点



「左右のベンダーにファンカバー、ラジエーター、ヘッドライト、ボンネット、フロントガラス、フロントバンパー、グリル。シャシーと緩衝器を修理して、ウォーターポンプ、ハンドル軸、バッテリーを交換。損傷部分は塗装したし、ボンネット、バンパー、ベンダー、ドアを付け替えて、仕上げにボディを磨いて、ワックスをかけました。車内を清掃したから、シミ一つない」

妻・ルシアが運転していた事故車を修理した際に、修理工場の責任者に説明を受けたときの言葉である。

説明を受けたのは、「対象喪失」の「悲嘆」に暮れるロベルト。

異様な長回しで開かれるこの冒頭の言葉で、妻・ルシアの事故が如何に凄惨を極めるものであったか容易に想像できるだろう。

特に、「車内を清掃したから、シミ一つない」という言葉が含意するものの現象が、妻・ルシアの残した血痕をイメージするので、ロベルトにとって居た堪れなかったに違いない。

そのロベルトは、複雑な感情が交叉する中で、修理された事故車を路上に放置し、立ち去ってしまうのだ。

娘・アレハンドラ(以下、アレ)と共に、10時間も車を走らせて、高級リゾート地として名高いプエルト・バヤルタからメキシコシティへと引っ越す新車の車内で、事故車のことを聞かれた父・ロベルトは、「売った」と言ってごまかしてしまう。

嗚咽を漏らロベルト
広いスペースのあるメキシコシティのアパートの部屋に引っ越して来たロベルトは、キッチンで調理器具を片付けている時、思わず、嗚咽を漏らしてしまう。

まもなく、ある店でシェフを任されたロベルトは、厨房の料理人たちの雑談に切れ、「悪いが、俺は辞める」と言って、その時点で本当に辞めてしまうのだ。

「耐えられない。最初から無理だったんだ」

これがロベルトの答え。

「対象喪失」による「悲嘆」に暮れるロベルトにとって、若い料理人たちが「結婚」について、和気あいあいとして雑談する日常風景に馴れるのは困難だった。

少しずつ、彼の自我が負う精神的外傷の深刻な様態が明らかにされていく。

一方、娘・アレは新しい高校に転校する。

そこで、カミーラ(女)、イレーネ(女)、ファッティ(男)、マニュエル(男・本名ハビエル)や、リーダー格のホセらと知り合い、親交を深めていくが、ドラッグの「更生プログラム」の尿検査で陽性反応が出たことで、父のロベルトが校長に呼ばれ、次回の「更生プログラム」でも陽性反応が出たら、退学が避けられないと仄(ほの)めかされる。

初めて知った娘のマリファナの吸引に驚くロベルト。

「3か月前に初めて吸った」

アレの反応だが、恐らく、母・ルシアの事故死の時期と重なるに違いない。

アレロベルト(中央)
それが理解できるから、「もう、吸わない」と答える娘を、それ以上難詰(なんきつ)しなかったのだろう。

そんな折、保険会社の調査を受けるロベルト。

「お嬢さまに運転を教えてて、奥様はトラックに衝突」と保険会社の調査員。
「運転は教えてない」とロベルト。
「お嬢さまが証言を」
「運転の話はしたが、教えてない」
「書類上は同じですよ」
「大きな違いだ。妻は運転を教えてない」

重要な会話である。

アレが事故車に同乗していたという事実が判然とするからだ。

ただ、保険会社の精密な調査によって、事故車の運転をした者が娘ではないこが自明になるが、ここで重要なのは、アレが一時期、心理セラピーを受けていたという事実である。

この事実は、アレが、自分だけが生き残されたという、サバイバーズギルト(生存者罪悪感)の心理に捕捉されている可能性を示唆している。

詳細は不分明である。

アレに対する虐めの攻勢が出来したのは、転校後、まもない時期だった。

アレホセ
この厄介な事態は、アレがグループに誘われ、ホセの別荘へ行き、そのホセとセックスし、その動画がホセによって撮られるという一件を機に開かれていく。

その動画が学校のウェブサイトに公開され、そを帰宅したアレが見て、衝撃を受ける。

彼女もまた、ホセによって動画が撮られる事実を知っていたが、それは単に「遊び」の延長でしかないと考えていたのだろう。

何より、マリファナの吸引で盛り上がるグループ内の孤立を恐れる心理が、アレの自我を巣食っていた。

孤立を恐れるアレの自我の底層には、サバイバーズギルトによって自らを必要以上に苦しめる感情が、飽和的に凝結しつつ沈澱しているのだ。

「このアバズレ!」

そんなアレの携帯に入ってきたメッセージである。

学校に登校しないアレの元に、ホセが訪ねて来て、「携帯をトイレに忘れて、誰かに盗まれた」と弁明し、登校を求めたのである。

再登校してきたアレに、ホセに好意を抱くカミーラが詰め寄り、ホセが動画配信の目的で撮影したと言うのだ。

アレが被弾した第二の虐めは、トイレの中でのこと。

アレハビエル
ズボンを下ろしたハビエルとファッティから、「撮らせろよ」と迫られたのである。

アレはファッティの携帯を奪い、投げ捨て、壊すに至る。

この一件で、ロベルトが校長に呼び出され、ファッティとアレに事情を聞くシーンに繋がるが、「グループ作業の件で彼女がキレた」と虚言を吐き、苦渋の中でアレも認め、ロベルトが弁償させられることになった。

言うまでもなく、アレが嘘をついたのは、父親に知られることを怖れたからである。

マリファナの吸引を拒否しつつも、別荘で惹起した性的行為と、その後の動画配信による虐めの連鎖の事態を知られることは、翻意して復職した店の経営者が美人女性に変わったとは言え、「悲嘆」の渦中にある父親に不必要なまでのディストレス状態(極点に達したストレス)を累加させるのだ。

これだけは避けねばならなかった。

しかし、アレの虐めの被弾は終わらない。

カミーラの自宅に呼ばれたアレは、ホセとの関係に嫉妬され、イレーネと共に娼婦のような服を騙されて着せられ、ひどいメークを施された。

髪を切られたアレ
その姿をイレーネによって写真を撮られ、それを拒否して帰ろうとすると、二人に押さえつけられたアレは髪を切られてしまう。

ハビエル、ファッティ、カミーラ、イレーネら、主に、この4人組によるアレへの虐めがエスカレートする中で、事故のトラウマが侵入的に想起する。

気丈なアレもまた、被虐の連鎖の中で理性的思考が脆弱になっている。

当然のことである。

これは、米国の心理学者・マーティン・セリグマンの言う、「学習性無力感」という概念で説明可能である。

ストレスの累加の中で抵抗力を奪われてしまう心的現象である。

この流れの延長上に、アレへの虐めはピークに達する。

臨海学校のバスの中で
臨海学校の虐めではバスルームに閉じ込められ、ハビエル、ファッティのみならず、クラスの他の男子生徒らから輪姦されるに至るのだ。

ここで注目したいのは、虐めの原因を作ったホセは、一貫してアレへの虐めに加わっていないという事実である。

しかし多くの虐めがそうであるように、リーダー格の立場に立ちながら、ハビエル、ファッティら、4人組の「虐め」という名の犯罪に抑制的対応を為し得ず、その渦中にいても、まるで遠巻きに見ているかの如き、第三者的な反応しか示さないのである。

アレとの心理的距離が最も近いホセもまた、グループ内の関係の力学に支配されていたのである。

だから、余計厄介なのだ。

抑制機能を失った集団が加速する「虐め」に対して、犯罪意識の欠落する高校生たちの暴走が自己運動を起こし、当事者熱量の氾濫でエスカレートする行為を相対化し得る何ものも機能しなくなるからである。

かくて、心身ともに弱り切って横たわるアレに、ハビエル、ファッティらが小便をかけ、皆、部屋に戻ろうとするが、立ち上がらないアレに、臭いから海に入るように促す者たちの悪意は止まらない。

この時、ホセが、アレ一人が濡れていると教師に怪しまれるからと、全員で海に入ることを指示する。

日没後の、真っ暗な海の波際に入って騒ぐ高校生たち。

そして、一番先に海に入ったアレの姿が、濁ったように黒ずむ闇の向こうに消えていく。

アレの名を叫ぶ高校生たち。

しかし、アレの姿を視認できず、高校生たちは夜中の海辺に置き去りにされるのだ。

翌日、校長に呼ばれ、彼らは事情聴取を受けるが、誰もアレの状況を答えられない。

白昼の海辺に立ち竦むロベルト
その事実を聞き、不安に駆られたロベルトは、一人、娘の消えた白昼の海辺に立ち竦むばかりだった。

ところが、アレは溺死していなかった。

泳ぎ抜いて、陸に上がったのである。

繰り返し提示されたアレの水泳シーンの伏線が、命の危機に立たされた彼女の唯一の脱出行の中で回収されのである。

その後、生地・プエルト・バヤルタに行き、そのままになっている実家に戻り、そこで疲弊した我が身をベッドに横たえる。

父に相談することが叶わない彼女の脱出行に待つ場所は、バヤルタ以外になかった。

思うにアレは、「対象喪失」による「悲嘆」が自己完結し得ていないのである。

だから、母との思い出深い故郷の海に、援助の断たれた我が身を晒すのだ。

警察に告訴するロベルト
一方、その事実を知らずに、警察に告訴するロベルトは、未成年だから取り調べられないと答える刑事に不満を持ち、弁護士事務所に依頼する。

事情が分らないまま、不安に駆られるばかりのロベルトの自宅に、ホセが録画したDVDが何者かによって届けられ、ホセを校長室に呼び出したのは、その直後だった。

そこで初めて、娘の虐めの現実を知るロベルト。

ここでもホセは、録画を拡散したことを否定するが、恐らく事実だろう。

「なぜ、録画した?」
「アレも知ってました。二人で悪ノリを」

このホセの言葉は事実である。

「アレが言い出したの。海へ駆け出したから、追い駆けたのよ」

場所を移してのカミーラの証言である。

ホセ(左)カミーラ(赤Tシャツ)ハビエル(ブルーシャツ)イレーネ(その右)ファッティ(右)
しかし、この時点でも、仲間割れする高校生の思考の稚拙さが露呈されるだけで、とうてい真実の核心に届き得なかった。

サスペンス映画でないので詳述は避けるが、校長室での高校生の微妙な対応や、彼らのそれ以前の行動・態度などを基に推測すれば、動画を配信したのはカミーラで、ロベルトの自宅にDVDを届けたのはハビエルであると、私は考えている。

物語を続ける。

絶望的な状況に捕捉されたロベルトは、居ても立ってもいられず、自ら行動を起こしていく。

ホセを暴力的に拉致し、自分の車に乗せ、娘が死んだと信じる海に、無造作に放り投げるのだ。

ホセの拉致が、命乞いをする高校生をモーテルに連れ込み、浴室に監禁し、後ろ手に縛った後、再び車に乗せ、海に放り投げるラストシークエンスは、立ち直れないほどに、二重の「対象喪失」によって被弾した男の、それ以外にない振れ方だった。

冒頭のシーンと同様に、異様な長回しで、ホセを海に放り投げるショットこそ、詳細は後述するが、「悲嘆」が内包する排他的攻撃性の封印を解き、一切の理性的抑制系を削り取って破壊的暴力にまで下降する、本作の痛切な収束点を凝縮したものであろう。

しかし、ロベルトのこの暴力は、既に飽和点に達したディストレス状態が、一回的な復讐的エネルギーに変換されただけである。

本来なら、そこに向かうであろう相応の軟着点に辿り着く心的行程の渦中で、外部圧力によって頓挫させられた彼の「悲嘆」は、そこから罪責感を引き摺って、いよいよグリーフワークの内部時間に接続できず、内側から食(は)み尽くされていくだろう。

ロベルトの性格を考えれば、「父の秘密」は継続力を持ち得ないからである。



2  頓挫されたグリーフワーク ――  その破壊的暴力の風景の痛ましさ



作り手の問題意識と乖離するかも知れないが、本来なら、そこに向かうであろう相応の軟着点に辿り着く心的行程の渦中で、「対象喪失」による「悲嘆」が外部圧力によって頓挫させられたことで、「悲嘆」が内包する排他的攻撃性の封印を解き、それが一切の理性的抑制系を削り取った破壊的暴力にまで下降する風景の痛ましさ。

これが、本作に対する私の基本的理解である。

その意味で、冒頭のシーンは極めて重要である。

冒頭のシーン
「非在の妻」の記憶の残影を捨てられないロベルトは、事故車を廃車処分にできずに修理する。

しかし、修理された事故車には、「非在の妻」の記憶の残影を留める何ものもない。

同時に、「非在の妻」の記憶の残影を追い駆ける行為が、より自分の「悲嘆」を深めることになると分っているのだ。

この深甚な葛藤が、一貫して彼の内面世界を支配しているのである。

修理された事故車を捨てるまでの、冒頭のシークエンスに張り付く心象風景こそ、この映画の根柢に横臥(おうが)していると、私は考える。

思うに、修理を依頼するロベルトの複雑な感情の中枢を支配する感情は、彼の「悲嘆」が「喪失期」の渦中に搦(から)め捕られている現実を示している。

配偶者の場合、1~2年位の期間を要すると言われる「悲嘆」(喪の仕事=グリーフワーク)のプロセスが、「否認」(死という事実を認めない)・「怒り」(故人の死の原因を誰かに押し付けて敵意を向ける)・「痛み」(鬱的で無気力な状態を露わにする心の痛み)などの感情を内側に抱え込むネガティブな心的風景を露わにする。

「味も分らず料理をするのか」

シェフを任された店でのロベルトの苛立ち
シェフを任された店での、ロベルトの「怒り」の発現である。

飛び出して来た車に対して、「危ないな、バカ!気は確かか?」と怒鳴り散らし、相手のドライバーと喧嘩するシーンもまた、同様の感情様態である。

車で死んだ妻の、「対象喪失」による「悲嘆」が、ロベルトの内側に侵入的に想起してきたのである。

これが、広いスペースのあるメキシコシティのアパートの部屋に引っ越して来ても、キッチンで調理器具を片付けている時、思わず、嗚咽を漏らしてしまうロベルトの「現在性」だった。

一方、メキシコシティへ引っ越しに消極的なアレの場合は、母の記憶を消去する行為に振れていけない。

だから、新しい環境下で被弾すればするほど、自分の〈生〉のルーツであるバヤルタに、その心身を預ける以外にないのだ。

父の思いに寄り添う
しかし、同様の「悲嘆」の渦中で、母の記憶を消去することなしに日常性が保持し得ない父の思いに寄り添う外になかった。

「母と妻」という異なった役割呼称によって、「対象喪失」による「悲嘆」の風景を引き摺る二人の思いの差異が、本音で言語交通を具現し得ない空白感を露呈する。

それでも、娘は父に寄り添い、父も娘を案じる。

寄り添い、案じながらも、そこで生まれる空白感は、母であり妻であった、掛け替えのない人物の決定的喪失が生み出した空白感である。

「非在の妻・母」を生み出した「対象喪失」の破壊力の、その打ち震えるような悲痛さであると言っていい。

この埋め難き空白感の本質である「悲嘆」が、外部圧力によって頓挫させられたことで、悲劇に繋がるという一点において、この映画の目を背けたくなるほどの痛ましさがある。

この問題意識なしに、この映画を鑑賞すると、単に、「救いなき暴力性」の印象濃度を高めてしまうだけだろう。

この痛ましさの風景が観る者を身震いさせるのは、「悲嘆」に向かえないアレの情況性を、途切れることなく想起させられるからである。

自分に運転を教えていたことで、「葬式代しかもらえない」という姉に対するロベルトの言葉によって分明なように、恐らく、前方不注意によって事故死した母へのサバイバーズギルト(生存者罪悪感/じわじわと襲ってくる)の心理に捕捉されているにも関わらず、アレが自らの「悲嘆」に向かえずに、彼女のグリーフワークは延長されてしまうのだ。

父・ロベルトの方が、「対象喪失」による「悲嘆」が甚大だったからである。

延長されたアレの「悲嘆」は心奥に封印され、父の「悲嘆」への援助行為に振れていくのである。

その典型的エピソードがある。

自ら辞めたにも関わらず、「不安らしい」と前オーナーに言われた父を、「信頼させなきゃ」とアレが励まし、後押しするのである。

そればかりではない。

父の勤める店に赴き、手を拱(こまね)いている未熟な料理人に、自ら調理法を指導するのだ。

「対象喪失」による「悲嘆」に全人格的に捕捉され、社会への適応もままならず、自分のことで精一杯な父をサポートするアレが、学校での虐めを父に相談して、更に、心の負荷をかけることなどできようがなかったのである。

「前の家の物を、ここに飾ろう」と望むアレの思いを受容し得る余裕を持てない父は、「新しく買いたい」と答えるばかりだった。

要するに、防衛機制としては脆弱だが、アレは一種の「躁的防衛」(喪失の否認)を強いられたのである。

引っ越しも転校も望んでいなかったが、父のために自分の感情系の中枢を封印する。

それが、アレの「現在性」だった。

母の温もりの残る家で
本来なら十二分に時間をかけて、誰にも邪魔されず、母の温(ぬく)もりの残る家で、その死を受け止める心的過程があって然るべきだったのだ。

しかし、それが叶わなかった。

自らの「喪の仕事」=グリーフワークを中断し、母の死を心の奥に封印し、否認することで、新たな環境と人間関係に適応するしかなかった。

アレの悲劇の本質は、そこにある。

無理に笑みを作り、転校先で知り合ったグループに同化していく。

母の死を誤魔化し、それが起因となって手を出したであろうマリファナの吸引を語り、「更生プログラム」での陽性反応にも触れ、「仲間意識」を共有しようとするのだ。

対してと同様に、努めて明るく振る舞うのである。

まさに、一種の「躁的防衛」であると言っていい。

別荘でのホセとのセックスは、アレの心的外傷の回避反応でもあるが、アレは今、このような「躁的防衛」にょって、グループへの同化を果たす以外の方略の選択肢しかなかった。

しかし、このアレの「躁的防衛」が裏目に出る。

カミーラファッティらによる虐め
グループの内の人間関係に誤作動を起こしたと看做(みな)され、外部闖入者(ちんにゅうしゃ)としてのアレは、グループ内に貯留していたストレス(金持ちのホセだけがもてる等々)発散の格好のターゲットにされるのである。

かくて、新しい環境に「躁的防衛」で適応しようとしたアレは、攻撃的暴力を途切れなく被弾することで、そのネガティブな時間にエネルギーの一切を奪われてしまったのである。

その分、「非在の母」を生み出したアレの、「悲嘆」への心的行程の時間は引き伸ばされてしまうのだ。

アレが「対象喪失」による「悲嘆」に向き合うのは、皮肉にも、自分の死を信じ、「悲嘆」が内包する排他的攻撃性の封印を解き、一切の理性的抑制系を削り取り、それが破壊的暴力にまで下降していく父の爆轟(ばくごう)を生む時間の渦中だった。

しかし、もう遅い。

そこから開かれる時間のイメージは、あまりに酷薄すぎる。

何もかも、再駆動し得ない辺りにまで下降してしまった男との心理的距離を埋めるには、少女の能力の容量が不足し過ぎている。

少女は、無理な課題を引き受け過ぎたのだ。

母の死を目の当たりにし、父の「悲嘆」に寄り添い、案じながら、援助行為に振れていく。

且つ、「躁的防衛」で潜り込んだ転校先のグループ内で、自分の居場所を確保する間もなく、外部圧力に膨張した連中のターゲットにされることで、被虐の連鎖の中で理性的思考が奪われ、「学習性無力感」の脆弱さを露呈するばかりだったのだ。

父に相談する行為すら閉ざされた少女に、一体、何が可能であったか、考えるまでもないだろう。

故郷の海・バヤルタで
悲哀なる者 ―― 汝の名はアレハンドラなり。

この映画から、私は、外部圧力によって頓挫させられたグリーフワークの風景イメージの痛ましさだけが、鮮烈に印象づけられるのである。

紛れもない傑作だった。


(2015年11月)

2 件のコメント:

  1. あまりに重たいストーリーで、見たら立ち直れないような気もしますが、確かにストーリーを読ませていただいたところ間違いなく傑作のような気がします。
    読みながらある事を思い出しました。私の中でどうしても処理できずに時々思い出してしまう記憶です。
    書いて良い事なのか迷う部分もあるので、少し分かりづらくして書きますが、小学生の頃、同級生が母親に殺められました。その子には兄弟がいたのですが、その後ずっとその兄弟を私たちのクラスの男の子は虐めていました。今思えば一番苦しかったのは彼やご家族だったにも関わらず、父子家庭になったのを良い事に彼の家に屯するような状態でした。私の記憶では、皆で軍手をして射精させるようなひどい事もしていました。どんな事が行われているか知っていながら、大人に伝える事を選ばなかったクラス全員にも責任があったと思いますが、私個人としては、それほど親しい仲ではないにせよ、同じクラスの一員として何も出来なかった自分に対して、ずっと引っかかっています。
    6年生の時は、私の家の裏の神社で同級生が父親に木に縛られて放置されたという事件が起こり、またマスコミが近所に押し掛け、結局特別施設に転校していった彼の消息は誰も知りません。
    身近な友人が急に消えてしまうという異常事態に2回遭遇したにもかかわらず、当時の私はほとんど何も考えていなかったような気がします。ファミコンや金ケシやガンプラやビックリマンチョコなど、そんな物に夢中になっていました。
    いじめの問題は簡単に解決できる事ではないと思いますが、どうにか出来ないものかと思います。いじめや仲間はずれはどんな学校でも、人が集まったら必ずその中で強者と弱者が誕生する事を前提に、親や先生は先手を打てないのでしょうか。死を選ばざるを得なかった子供や、その死を受け止めて生きていかなくてはならない親達の事を考えると本当に時間が戻らない事が悲しいです。

    最近シーズン的な事もあり、3時間程度の睡眠でひたすらずっと仕事をしていましたが、先日なんとか休みをつくり、テキサスから来ているアメリカ人の女性とドライブに行きました。もちろん子供と妻も一緒ですが。メキシコに近いらしいですね。仕事を探しているらしく、何か協力してあげたいですが、ビザの関係がありなかなか難しいようです。でも、後で後悔しないように私の出来る事はやってあげようと考えています。

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    1. 子供はまだ自我が未成熟なので、自己中心的にしか物事を見れないものです。相手の感情や痛みを想像する能力も、自己を顧みて反省する能力も未熟で、ひたすら快楽を追求しがちです。それでも年齢に見合った心の発達によって善悪の判断をし、行動をコントロールすることもできるはずですが、さまざまな家庭環境を背景とした子供たちが人工的に集まる学校集団の力学においては、個人が何かを変えようと関与するのは難しいことでしょう。今でこそ度を越した虐めは犯罪という認識もありますが、今も昔も虐める方は加害意識が希薄で、子供同士のコミュニケーションの一環、残酷さも遊びの延長という感覚しかなく、いったん手に入れた虐めの快楽を手放そうとはしません。また周囲も無関心であったり、日常の風景の一コマとしてあらためて取り上げることもなく見過ごされやすいものです。大人になって人格が統合されて初めて痛ましい記憶として再構築されていくとしても、子供時代にはやはり子供の能力でしか物事を見ることができないのだと思います。そのことを分かったうえで、やはり教師や大人の積極的指導、またスクールソーシャルワーカーなどの公的機関の介入があって然るべきと考えます。

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