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2013年12月1日日曜日

リービング・ラスベガス(‘95)     マイク・フィギス



約束された大いなる破綻と、掬い取られた純愛譚>




1  「奈落の底」に閉じ込められた男の極限的様態を描き切った傑作



登場人物の心理をフォローするようなBGMの多用に些か滅入るが、しかし、この映画は悪くない。

相当程度において上出来である。

この映画が高い評価に値するのは、女の純愛の強さが、「死に至る病」に捕捉された男の心を浄化し、「本来あるところの人格像」にまで復元させていくという、ハリウッド流の綺麗事満載のハッピーエンドに軟着させなかった点である。

二人の関係が、そのような流れにシフトしていかないのは、映像で提示された二人の人格の振れ具合を見ていけば瞭然たる事実であった。

この文脈から敷衍すれば、男のアルコール依存症のルーツの内実が、物語からすっぽりと欠落していた構成に対して、特段に違和感を覚えなかったのは充分に了解可能である。


男がなぜ、ここまで堕ちてしまったのかなどという発問は、正直、どうでもいことなのだ。

 大体、アルコール依存症の原因分析が継続的に受け継がれてきて、その特徴的症状を説明できても、今なお、遺伝要因と環境要因の脈絡が指摘できる程度で、そ の正確な分析を答えることが困難なのは、他の多くの厄介な疾病と同様に、医学というフィールドのボトルネックであると認識すべきであろう。(アルコール依存症の主症状等については、2で言及する)

私たちの世界には、あまりに分らない事象が多過ぎるのだ。

それは、情報社会の加速的定着化と軌を一にすると言っていい。

本作の作り手は、アルコール漬けの主人公に、そのルーツの分らなさを語らせていたことで判然とするように、理由をつけたければ、観る者が勝手に解釈すればいいというスタンスを貫徹させていた。

マイク・フィギス監督
この映画には、そんな確信犯的な問題意識が垣間見えるので、この陰惨な物語の構成マターの戦略に異を唱える何ものもない。

「例えて言うなら、どん底と奈落の底の違い」

本作のレビューで見つけた鋭い指摘である。

このレビュアーの指摘に、私は基本的に同意する。

レビュアーの把握とどれほど重なるか疑問だが、この映画での要諦は、どこまでも、「奈落の底」に閉じ込められた男の病理の極限的様態を描き切ったこと。

そして、そこに「どん底」の生活に喘ぐ女が、分かち難く寄り添い、シビアなまでに救済困難な現実を絡ませることで、安寧に交叉し得ない二人の厄介な人格の出入り口を塞ぐという、常識的であるが故に、却って節くれだった風景を射程に収納させてしまう、絶望的な純愛譚の一瞬の輝きと、その輝きを呆気なく食い潰す圧倒的な破壊力を内包する、地虫の匍匐(ほふく)の如き、哀しくも愛おしい一つの変換不能の物語を提示したこと。

これが、作り手のイメージラインであったように思われるのである。

以下、この問題意識に則って、本作を読み解いていきたい。



2  アルコール依存症の破壊力



アルコール依存症は、逸脱せねばならない者の病理であるとも言う。

 では、何からの逸脱なのであろうか。

 「習慣性飲酒」の結果、アルコール依存症という深みに嵌(はま)ったりしたとしても、深みに嵌るに足る何某かの因果関係があるはずだ。

 それは単に、アルコールを適量で飲むことの、見えない規範からの逸脱だろうか。

飲酒そのものが共同幻想を醸成し、その甘美な連帯感に酩酊することへのアンチテーゼとして、孤独なる過飲者を演じ続けるのだろうか。

 
柳田國男(ウィキ)
柳田國男は、「酒の飲みようの変遷」(「木綿以前の事」所収 岩波文庫)の中で、中世以前の酒がまずかったにも拘らず、人々が酒を飲んだのは、酔って裸になることで共同体内の関係を円滑にしようと考えたからであり、この文化が近代にも継承されたと分析している。


 飲酒の文化は、コミュニティ維持の潤滑油であり、孤独なる心の癒しの秘薬として、今も有効である。

しかしアルコール依存症者は、社交を基本的モチーフとする飲酒の文化にアクセスせず、総じて孤独に潜り、確信的に適量水準をオーバーフローしていくパターンを残す。

どう見ても彼らは、一般的モチーフからの逸脱の意思を示している。

少なくとも、酒を手段にする一般的モチーフと異なり、彼らの飲酒には酒そのものが目的化したモチーフが潜むようにも見えるのだ。

 彼らにとって、酒は社交の道具などではない。

 酒というものの代名詞であるアルコール濃度それ自身を、彼らは体内に吸収しようとしている。

そう見えるのだ。

彼らには、酔うことそのものが目的なのである。

別に楽しく酔う必要もない。

楽しく絡み合うことを目指さないから、彼らには仲間が不要なのだ。

あまりに楽し過ぎて、結果的に適量を超えていく普通の酒飲みのケースと異なって、アルコール依存症者が常に過飲に嵌るのは、日夜飲み続けていれば酩酊ラインが高くなり、酔うことを目指した彼らの飲酒が簡単に落ち着かなくなって、どうしても過飲にまで進んでしまうからである。

 彼らをここまで逸脱させるその心の地図には、恐らく、幼少期からの複雑な事情が描き込まれているに違いないが、それもまた不分明であるだろう。

映画から
彼らの現在に潜むトラウマや欠損感覚を、圧倒的な「酔いの力学」によって潰しにかかる戦術は、或いは、この国に80万人以上もいるとされる、アルコール依存症者という偽装化した方法論であるのかも知れないのである。

 それでも、私たちは理解せねばならない。

アルコール依存症は、飲酒行動を自己コントロールできず、強迫的に飲酒行為を繰り返す精神疾患であるという事実を。

「大切にしていた家族、仕事、趣味などよりも飲酒をはるかに優先させる状態」(アルコール依存症・厚生労働省HPより)

これは、この国のアルコール依存症に対する定義である。

「具体的には、飲酒のコントロールができない、離脱症状がみられる、健康問題等の原因が飲酒とわかっていながら断酒ができない、などの症状が認められます」(同上)

ここで言う「離脱症状」とは、所謂、「禁断症状」のこと。

「軽~中等度の症状では自律神経症状や精神症状などがみられます。重症になると禁酒1日以内に離脱けいれん発作や、禁酒後2~3日以内に振戦せん妄がみられることがあります」(同上)

この「振戦譫(せん)妄」こそ、「離脱症状」の中核を成す恐怖の現象である。

飲酒の中断後、すぐに不安・精神混乱・興奮・発汗・発熱などの自律神経機能の亢進・手の震え・幻覚・意識障害などの症状が現出し、適切な処置を施さなければ、死亡する場合もある厄介な症状である。

重度な依存症のケースでは、「離脱症状」からの「解放」のために、却って過飲状態になるから、この負の循環が肥大化し、「死に至る病」の決定的因子と化す。

この状況下では、もう、自分の意志で酒を断つことが殆ど不可能になる。

何より厄介なのは、アルコール依存症者には、彼らの過飲状態を助長する特定他者の存在が現出してしまうことである。

これを、イネーブラーと呼ぶ。

他者に必要とされることによって、自分の存在意義を見い出す特有の関係性の状態としての、「共依存」の関係を後押しする存在 ―― それが、イネーブラーである。

だから、家族や友人など、このイネーブラーの存在は、依存症者に自覚的反省を引き出すことなく、単に関係性を自壊させないために、彼らの過飲状態を許容してしまうのだ。

アルコール依存症が進行していく経過(ブログより)
ここで、アルコール依存症の進行プロセスを紹介する。

「習慣飲酒」が始まる(機会あるごとに飲むから耐性の形成)⇒ 「精神依存」の形成(酒量が増え、ほろ酔い程度では飲んだ気がしない。 ブラックアウト=「記憶の欠落」が起きる。 生活の中で、飲むことが次第に優先になる)⇒ 「身体依存の形成」(寝汗・微熱・悪寒・下痢・不眠などの軽い離脱症状が出現し始めるが、自覚しないことが多い)⇒ 「トラブルが表面化」(酒が原因の問題=病気やケガ、遅刻や欠勤、不注意や判断ミス、飲酒運転での検挙などが繰り返される。 家庭内のトラブルが多くなる)⇒ 「人生の破綻」(アルコールが切れるとうつ状態や不安におそわれるため、自分を保つために飲まざるをえない。連続飲酒発作、幻覚(離脱症状)、肝臓その他の疾患の悪化により、仕事や日常生活が困難になる。 家族や仕事、社会的信用を失い、最後は死に至る。

この「進行プロセス」は、市民団体ASKのHPからの引用だが、アルコール依存症が「死に至る病」であることの確認になると思われる。


最後に、アルコール依存症に関する誤解と真実について、ここでも、ASKのHPから引用しておこう。

「飲酒をコントロールできないのは、意志が弱いからではなく病気の症状。また、酒が切れると離脱症状(禁断症状)が出てくるので,それがつらくて飲んでしまうのです。医学的に『依存症になりやすい性格』はありません。ただし『依存症になりやすい体質』はあります。飲んでも赤くならず二日酔いしにくい(アセトアルデヒドの分解能力が高い) 気持ちよい酔いが味わえる(脳の「アルコールへの感受性」が高い)人です」

映画から
以上、現時点で、化学的因子の分析で判明している事実の中に、アルコール依存症の破壊力が、却ってリアリティを持つ事態について言及した次第である。



3  娼婦稼業を繋ぐ女と、飲み続けた果てに昇天する男の情感的交叉の物語



ここからは、鮮烈な訴求力を放つ、この「リービング・ラスベガス」について批評していきたい。

本作は、死ぬまで酒を飲むことを決意したかのような壮絶な一生を描いて、観る者に、「スケアードストレイト」(恐怖実感教育)の可視体験の効果にも似た印象を刻んだ、伝記的映像の傑作であることは疑いようがない。

アルコール依存症の凄惨なる極点の風景を描いていて、観る者の心に「他人事」と思わせないような、ある種の圧迫感を惹起させるのだ。

 だからこそ、BGMの多用を不可避としたのだろう。

映画から・「共依存」の関係
確かに、BGMの癒し効果なしに、映像世界との心理的共存は難しかったかも知れない。

それほどまでに効果的だった事実を認知しつつも、個人的にBGMの多用は苦手なので、こればかりは仕方がない。

死ぬまで酒を飲むことを決意した、本作の主人公の話に戻そう。

主人公の名はベン。

ベンは、酒を手段にする一般的モチーフと異なり、社交の道具とは無縁であるばかりか、酒そのものが自己目的化したモチーフと化して、ひたすら酔うために、激甚な破壊力を隠し持つアルコールの大海に浸かっていく。

表面的には、離脱症状を避ける目的で飲酒を繰り返すという行為の背景を、「自己自身からの逸脱の踠(もが)き」の心理が漂動し、支え切っているようなのだ。

 それが、「自己自身からの逸脱の踠(もが)き」であるということは、アルコール依存症が遂に自己を食(は)む恐怖をも内包するだろう。

しかも当人は、医療に身を投げ入れる行為を、断固として拒絶する。

既にこの事実は、「死に至る病」という宣告を受けても全く通用しないほどに、「自己自身からの逸脱の踠(もが)き」の漂動が、今や、極点にまで突き抜けつつある厄介な現実を露わにしていた。

だから、医療に身を投げ入れる行為それ自身をも無化し、屠ってしまったら、いよいよ、「酔いの力学」で潰しにかかり、男の内側に、その深くて重い病理が解き放たれる日が、永久に開かれる奇蹟は現出しないだろう。

ベン
「なぜ、酒を飲み始めたか?女房が俺を捨てたからか、酒を飲むから女房が逃げたのか?今更、どうでもいい!」

主人公ベンの冒頭部分の台詞である。

最初から、アルコール依存症者の重篤な病人と化している男の、復元不能な相貌性が露わにされていた。

それは、銀行で小切手を現金化するときに、手の震えという「振戦譫(せん)妄」の、典型的な離脱症状(禁断症状)の現象化のシーンに顕在化されていた。

いつもの店に飲みに行っても、迷惑がられるだけのベン。

「一杯、注いでくれたら、もう2度と現れない」

それがベンの口癖なのだろう。

マスターに心配されても、飲むことしか考えないから、とうとう怒らせてしまう

「どうなりと勝手にするがいい!」

マスターにも見放され、酒を注いだコップを突き出されるベン。

時を経ずして、ベンはハリウッドの脚本家を馘首(かくしゅ)され、死ぬまで酒を飲み続ける意志を抱懐して、酒をラッパ飲みしながら、ロサンゼルスから車で5時間、ホテルラッシュが一段落した頃のラスベガスにやって来た。

そこで出会った女が、娼婦のサラだった。

「話をするだけでいい。ここにいてくれ」

ベンサラ
娼婦を買ったのに、セックスを求めない男の出現は、サラにとって出会ったことがない種類の男だったのか。

話をするだけの二人。

「何のためにラスベガスへ?」とサラ。
酒を飲んで死ぬために来たのさ。持ち金を現金にして、カードを清算して、車は明日、売っぱらう

信じ難いことを平然と吐露するベンの雰囲気に、初対面で惹かれていくサラは、ジョーク含みで聞いていく。

「それで何日かかるの?死ぬまで
「4週間?持ち金から計算すると、1日に250ドルから300ドル使える」

そんな会話だったが、サラのジゴロであるロシア系のユーリが、自ら裏切った組織から拉致される一件によって、サラが真っ先に駆けつけたのがベンの元だった。

短期間で、〈性〉の繋がりを持ち得ない男女の不思議な関係は、それ故にか、一気に濃密度を増していく。

ベンを、自分の家に誘うサラ。

プラトニックな親密さが、サラの心を存分に癒すのだ。

「持ち物を、全部、私の家に持って来たら?」

一泊した後の、サラの言葉である。

「気は確かかい?本当に酔っぱらいと住む気なのか?」
「そうしたいの」

ここまで言われて、腰が引け気味のベンは本音を吐き出さざるを得なかったが、決して防衛的ではない。

「君は知らないんだ。この数日、僕は普通に近い。そうでないときは物にぶつかり、吐き通し。なぜか今は、とてもは調子いい。君が、きっと良い解毒剤になってるんだ。だが長続きしない」
「私が嫌いなの?」
「君は分っていない」
「何を?」
「約束できるるかい?僕に、“酒をよせ”と言うな。絶対に」
「いいわ。約束するわ」

これで全てが決まった。

カジノで
愉悦の中の共同生活が開かれるが、その彩りは夫婦関係の律動感と言うより、親愛な者同士の軽走感覚に近かった。

しかし、一貫して変わらぬベンのアルコール漬けの日々の累加の中で、いよいよ抜き差しならない状況の危うさを露わにして、二人の間で交された約束の重量感が増幅されてくるのは必至だった

悪化する一方のベンを目の当りにして、とうとうサラは、禁句を口に出してしまうのだ。

「お医者に行って」
「サラ・・・医者なんか嫌だ。僕はホテルに移ろう」
「それで?一人で死ぬの?そんな話はイヤ。ここにいて。それくらいのことはできるでしょ。私のために。好きにさせてあげたのよ。それ一つくらい!」

嗚咽しながら、サラは自分の思いを吐露するが、そのアドバイスが奏功しない現実を、彼女自身が一番分っていた。

娼婦稼業を繋ぐ女と、持ち金をアルコールに蕩尽するまで飲み続ける男。

飲み続けた果てに死んでいく。

それだけだった

それが本望であると括っている男には、聞く耳を持ちようがないのだ。

男と女の温和に交叉し得ない心が、黒々と濁りを増していけば、いつしか衝突し、争いとなることは回避できなかった。

娼婦稼業で疲弊し切っているサラが、自宅ベッドで他の娼婦を連れ込んで、朦朧(もうろう)としているベンを見て感情を炸裂させてしまった。

「出てって!」

酒を持って、朦朧気味になって、部屋を出るベン。

サラの嗚咽が捨てられていた。

「人生」の「どん底」のゾーンを漂流するサラは、その直後、不良の若者客のグループに散々甚振(いたぶ)られ、大切な顔を傷つけられたばかりか、大家にも立ち退きの最後通告を受け、カジノからも追い払われる始末。

全てを失ったサラには、もう、ベンしかいなかった。

意識を混濁したベンからかかってきた一本の電話。

サラは、ベンの泊るモーテルに急いだ。

モーテルに着くや、ベンの表情に驚くサラ。

「ひどい顔・・・青白いわ。好きよ。愛してるわ・・・」

ベッドで悶えるベンは、殆ど死人とも思しき衰弱ぶりだった

「どうしたらいいの・・・」

為すべき行為が分らず、言葉を添えるだけのサラ。

「いいんだ。会いたかった・・・僕の天使・・・」
「ここにいるわ」

サラの顔の傷を心配するベン。

安心させるサラ。

暗い部屋の一画で、状況を正視できず、胸の疼きに耐えかねている女は、今、プロの娼婦稼業に立ち返るのだ。

ベンの下半身が硬直しているように見えたサラは、「やらせて」と言って、自ら騎乗位の体位をとりながら、性行為に及んでいく。

「僕を立たせる天使だ・・・」

最初にして最後の行為に、ベンは小さく喘いで見せた。

「君を愛してる」

行為の中で思いを寄せるベンを見るに見かねて、嗚咽を結ぶサラ。

行為を愉悦したかのようにして、昇天するベン。

それを見守るだけのサラ。

愛するサラとの睦みのために残しておいた最後の熱量を、存分に蕩尽し切った男には、もう、この世に未練など何もなかったのだろう。

娼婦稼業を繋ぐ女と、飲み続けた果てに昇天する男の情感的交叉の物語が、こうして閉じていったのである。



4  「人生」の「どん底」と「奈落の底」の違い



前述したように、私は某レビュアーが指摘したように、本作を、仏教用語で厳密に区分されている、「どん底」と「奈落の底」の違いによって説明できると考えているので、以下、その辺りを言及してみよう。

仏教用語由来の表現の中で、「どん底」の「底」=「この世」における最低の底とされているが、私流に解釈すれば、ここで言う「どん底」とは、「人生」の「どん底」である。

辞書には、分りやすく、「物事の最悪・最低の状態を指す」と書かれているが、更に私流に解釈すれば、「人生」の「どん底」とは、容易ではないものの、環境因子等の強力なアウトリーチによって這い上がることが可能なゾーンである。

少なくとも、可能性としては、「ゼロ・チャンス」ではないという僅かな救いが、そこにはある。

この「人生」の「どん底」のゾーンを敢えて定義すれば、様々な相貌性を開きつつも、〈生〉と〈性〉への繋がりが未だ切れていない心象風景の様態であると考える。

だからこそ、この〈生〉と〈性〉の繋がりの不如意によって、己の〈生〉を恨むだろうし、その幸薄き「人生」を呪うかも知れない。

然るに、この感情の在り処への問いこそが、〈生〉と〈性〉との繋がりを捨てられない、「人生」の「どん底」に呼吸する者の情動世界の証左でもある。

ところが、ここで言う、〈生〉と〈性〉への繋がりに固執せずに呼吸を繋ぐ世界がある。

無論、その世界の住人は、「聖人」でも「仙人」でもない。

大聖堂や清浄なる仙境とも無縁である。

この世界こそ、「人生」の「どん底」より下の世界、即ち、「奈落の底」である。

仏教では、「奈落の底」の「底」は、この世の遥か下方にある「地獄」の底、要するに、「人生」の「どん底」よりも下方の最低の底を指すが、ここも私流に解釈すれば、限りなく、「ゼロ・チャンス」に最近接する救われようのない世界であるが故に、「奈落の底」であるということになる。


この世界では、〈生〉と〈性〉への欲望系の繋がりに対する、人間的な情動が削り取られてしまっているのだ。

そこでは、「死に神」の供給源としての「奈落の底」にすっかり搦(から)め捕られていて、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する世界を漂動し、どこまでも、〈生〉と〈性〉を削り取られた者の軽量の「身体」を喰い潰し、「心」を食(は)み、人間的な事象の一切が無能化されている。

そんな世界に捕捉されてしまったら、固有の軌跡をすっかり剥ぎ取られ、負の行程を偏流するだけの、心身を腑分けされたその者は、いつしか、「死に神」の誘いに乗って、非日常の極点である〈死〉の世界に押し込められるように捌(さば)かれ、機械的に処理されていくに違いない。


以上、勝手な想像力を弄(いじ)くり回して、既成の観念系を壊すような、極めていい加減な物言いをしてきたが、ここではイメージの提示に力点を据えたので、以下、このイメージを物語にリンクさせつつ、批評を結んでいきたい。



5  約束された大いなる破綻と、掬い取られた純愛譚



物語の男と女は、前述した、二つの「底」の世界で、日常と非日常のラインの際(きわ)で呼吸を繋いでいたと風に、私は考えている。

言うまでもなく、サラは「人生」の「どん底」で生命を結んでいた。

ロシア系のジゴロとの一定の愛情含みの権力関係の範疇で、文字通り、〈性〉を売って〈生〉を買う売春婦稼業によって、彼女なりの「城」を確保する程度の身過ぎ世過ぎを延長させていた。

ところが、自分を使嗾(しそう)しながらも、拠り所にしていたジゴロが闇の組織に拉致される一件で、心に空洞が生まれた。

それによって手に入れた解放感よりも、どこか心ならずも、唐突に置き去りにされたような孤立感に振れていく心象風景を癒すべく術もなく、夜の街で〈性〉を売るサラに、心理的に最近接してきた男がいた。

ンである。

泥酔していない時のベンが放つ特有の温もりは、孤独なサラの体感温度と完璧にフィットしていた。

二つの孤独な魂が寄り添うことで、ネガティブな情動系の臭気をうまい具合に弾き出し、心理的な近接感が一気に加速していく。

しかし、その現象も、サラの小さな「城」での、二人の共同生活の初期のプロセスの産物でしかなかった。

既にベンは、ラと出会う前から「奈落の底」の世界に搦(から)め捕られていて、その情感風景は濁り切った澱みを広げるばかりだった。

人の〈生〉を機械に喩えるのは不謹慎たが、「奈落の底」の世界に絡みつかれたベンの〈生〉、「バスタブ曲線」と呼ばれる故障率曲線の領域で分ければ、故障率の急激な増加によって「臨終」を迎えたとされる、「摩耗故障期」に踏み込む寸前のプロセスにったと言えるだろう。(ついでに書けば、「バスタブ曲線」のプロセスは、「初期故障期」⇒「偶発故障期」⇒「摩耗故障期」を辿るとされる)

閑話休題。

そんなベンの、復元不能な内的風景のくすみが露呈されながらも、「奈落の底」の得体の知れない中枢にまで堕ち切っていなかったこと ―― これが、未知のゾーンで生きる男を、ぎりぎりの所で支え切っていた。

「人生」の「どん底」の中で供給される、〈生〉と〈性〉への欲望系の出し入れは殆ど千切れかかっていたが、だからと言って、完全に壊れてはいなかったのだ。

「人生」の「どん底」の見えないラインと、首の皮一枚で繋がっていたのである。

絶望的なまでに、「奈落の底」を供給源する「死に神」に取り憑かれている男の内側で、未だ壊れ切っていない情感世界が疼くのだ。

それは「奈落の底」に堕ち切れていないが故に、惰弱なる〈生〉が生み出す疼きであったのか。

この疼きが、ベンの心に、特定的に選択された他者の侵入を迎え入れる隙間を生み出していた。

隙間の中に生まれた男の「孤独感」。

男の隙間に、求めるように侵入してきたのがサラだった。

サラだけが、自分を安寧の境地に誘(いざな)ってくれる、唯一の「僕を立たせる天使」だった。

男の疼きの中から分娩された隙間を埋めるサラとの情感的交叉は、「死に至る病」の最終ステージに持っていかれる手前で、小さくも、決して添え物などではない最後の〈生〉の、それ以外にない自己表現だったのである。

この〈生〉は、サラの誘導によって、殆ど千切れかかっていた〈性〉の小さな復元の風景を、一時(いっとき)開いて見せたが、それが、「死に至る病」に沈んでいく寸前の、最初にして最後の輝きだったのだ。

そんな男に必要とされることを求める女にとって、その男を、自分が呼吸を繋ぐ「人生」の「どん底」の世界に、男を引っ張り上げていく能力などとうてい持ち得なかった。

女はただ、男の死に寄り添って看取る、最も相応しい存在以外の何者でもな かった。

それが、男との共依存の心理構造を変えようがない女の、ただ一つ為し得る能力の限界点だったのである。

結局、「人生」の「どん底」に棲む女と、「奈落の底」に搦め捕られた男との濃密な情感的交叉の内実は、孤独な魂が寄り添い、一過的であるが故に、激発的に炸裂し得た化学反応を惹起することで、ほんの一時(いっとき)、純愛という名の安寧の時間を作り得ただけに過ぎなかった。

しかし、そこで仮構された変換不能な固有の時間こそ、彼らの「人生」の至福のひと時だったのだ。

それが、男の人生の破綻のみを切り取って描映画の中で、たった一つ約束された純愛譚だったが、それなしに救われない太い幹だった。

だからこそ、観る者に鮮烈な印象を鏤刻るこくしたのだろう。

約束された大いなる破綻と、掬い取られた純愛譚。

この二つのリアリズムが壮絶に絡み合い、凄惨な風景を切り取って提示した物語の腕力が、ハリウッド流の綺麗事満載のハッピーエンドに軟着させなかった映画の、稀有なる潔癖性を貫徹したのである。

掛け値なしに称賛すべき映像だった


【参考資料】

アルコール依存症・厚生労働省HP   市民団体・ASKのHP   拙稿/心の風景 ・アルコール依存症という病理

(2013年12月)

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