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2016年8月2日火曜日

名もなき塀の中の王(’13)   デヴィッド・マッケンジー


<「態度変容」の可能性を広げていく、過剰防衛反応としての「定常的構え」という行動様態>





1  「凶暴で反抗的」とラベリングされた青春の、小さくも確かな変容





19歳のエリック・ラブ(以下、エリック)が英国の成人刑務所に移送され、「要注意人物」として、舎房棟の中の独居房に強制収容されるに至ったのは、少年院で暴力事件を起こしたことが原因だった。

その独居房で、エリックは自分の小荷物から髭剃りなどを取り出し、歯ブラシのヘッドをライターで溶かして、カミソリの刃に嵌め込むのだ。

自分を守るための武器として、それを天井の蛍光灯の裏に隠す。

更に、腕立て伏せを繰り返し、自己を武装するエリック。

運動場で孤立しているエリックのもとに、一人の男が近寄って来て、忠告する。

「普通に振る舞え。目立つことはするな。覚えとけ」

その忠告を、未だ素直に聞けないエリックが、他の囚人に暴行を振るったのは、その直後だった。

横になって休んでいるエリックの部屋に入って来たので、いきなり、彼の過剰防衛反応が発現したのである。

エリックとオリバー
この暴行事件によって部屋に閉じこもるエリックに、武装した刑務官が襲いかかり、「お前ら、人間のクズだ!」と叫ぶエリックを捕捉するが、ここに、ボランティアでセラピーを主宰する心理カウンセラー・オリバー・バウアー(以下、オリバー)が仲介に入るに至る。

まもなく、女性所長・クリスティーンに呼ばれたエリックは、刑務所内のルールを守るという条件付きで、エリックをグループセラピーに参加させるのだ。

「治療がうまく効いて、もし俺が更生したら、あんたたちは次々と同じ治療を施す。いいのかよ、警察はパクる奴が減るし。裁判官もヒマだ。そうなりゃ、あんたたちは失業だぜ」

どこまでも自分の弱さを認めないエリックには、このような物言いしかできないのである。

だから、グループセラピーのセッションに参加させようとするオリバーの誘いに、エリックが簡単に乗らないのは当然だった。

「凶暴で反抗的」とラベリングされたエリックにとって、オリバーと、先に「忠告した男」の二人だけが味方だった。

そして、映像は、「忠告した男」こそ実父である事実を提示する。

父と子
実父の名は、一生、刑務所から出所できない運命を余儀なくされているネビル。

自殺に見せかけて刑務官たちから殺害されるというネビルの忠告にも、全く耳を貸そうとしないエリック。

既に、ネビルを実父と特定できていたエリックの未熟な自我には、「人間は誰も信じられない」というような不信感が、深々と根付いてしまっているのである。

そんなエリックへの囚人たちの憎悪が、彼の部屋に汚物を撒かれる行動に現れるが、暴力のみを頼りにするエリックには通じない。

度重なる暴行事件を犯しても、「怖いもの知らず」のエリックを、グループセラピーの仲間だけは何とかサポートするのだ。

幼児期より寄宿学校に入らされた経験を持つことを話すオリバーが、無給で働いていることを知ったエリックは、自分の経験譚を話していく。

「俺も幼い頃、入れられた。施設に。10歳の時、変質者がいた。奴を殴り、熱湯やクソをかけた。幼児性愛者は奇妙だ。被害者に普通の行為と思わせ、その子が見逃してくれることを望むんだぜ。相手を安心させ、信頼を得る」

オリバーを幼児性愛者と決めつけているのだ。

「君を治療すべきか分らない。考えずにブチのめしたいね」

グループセラピーに参加するエリック(後方はオリバー
本音を出した、このオリバーの、一歩も引かない態度を気に入ったのか、エリックはグループセラピーに参加する。

自分の父親に侵入され、いきなり激昂するエリック。

自分の感情を抑えることが目的のセラピーの雰囲気が、エリックの参加によって、いつもと異なる空気が生まれ、喧嘩腰の態度が他の参加者を興奮させてしまうのだ。

それをコントロールするオリバーの苦労は尋常ではなかった。

そんな空気を作ったエリックの内側で、小さな変化が芽生えたのは、彼が父親の監房を訪ねたときだった。

「話に来た。男同士で。いがみ合っても仕方ない。あんたは、いつも命令ばっかだ。俺の気持ちも考えろ」
「何があったんだ?話してみろ。脅されたか?」

自らの意志で訪ねて来たにも拘らず、息子の感情を理解できないネビルの声高な態度に、ネビルのゲイパートナーがエリックの気持ちを察するようなアドバイスを送るが、父と子の心理的乖離感は全く埋まらない。

セラピーを継続しながらトレーニング場でミット打ちの練習に励んでいたエリックが、シャワー室で命を狙われる危機に遭ったが、男を撃退した後、彼の復讐劇が開かれていく。

例の歯ブラシのヘッドをライターで溶かし、カミソリの刃に嵌め込んだ武器を使用し、囚人の黒幕・デニスを特定し、いきなり襲いかかる。

しかし、父親に制止され、事は収まった。

グループセラピーが続いている。

怒りを抑える訓練をしているのだ。

エリックの表情から、初めて笑みが漏れる。

しかし、それは束の間だった。

看守長 ・ヘインズ
セラピー内部の小さな喧嘩を重く見た看守長 ・ヘインズが、女性所長を随行させて、オリバーを難詰(なんきつ)し、エリックを懲罰房に入れることを命令する。

オリバーはこの一件で、完全に切れてしまい、辞職するに至る。

そして、自分を救えない父と本気で格闘し、叩きのめすエリック。

もう、自分の感情を制御できないエリックは、刑務所内で暴れ捲るのだ。

父親の援護も限界を来たす。

懲罰房に入れられた父と子は、物理的に遮断された距離で、荒々しくも、本音をぶつけ合う。

「自殺するからな。本気で死んでやる。便器に頭をぶち当てて、くたばってやる」

嗚咽しながら叫ぶネビル。

その叫びを耳にし、自分を守る父親の愛情の片鱗を受容するエリック。

懲罰房から出されたエリックを、看守長 ・ヘインズたちが襲いかかり、エリックの首に紐を巻き、自殺に見せかけて殺害しようとする。

そこにネビルが足早に侵入して来て、死にかかった息子を、必死に救い出す。

間一髪だった。

嗚咽しながら、父の懐に潜り込む息子。

そして、息子を助けるためにデニスを殺害した罪で移送される父・ネビルが、エリックに遭いに来て、言葉を交わさずに、ただ、頭を寄せ合うのだ。

「お前の父親で良かった」

父が残した最後の言葉である。





2  「態度変容」の可能性を広げていく、過剰防衛反応としての「定常的構え」という行動様態





胎児は人間の全ての感覚・意識・記憶力・感情を備えていて、既に自我のルーツが、9週目以降出生までの胎児期にあることを論証したのは、トマス・バーニー(アメリカの精神分析医)であり、 受胎から出産に至る段階での母親の精神状態が乳幼児の発達に大きな影響を与え、その成長過程を左右するという仮説は、現在の時点で相当の説得力を持っている。

これは、ハンガリー出身の米国の精神科医・マーガレット・マーラーや、ウィーン出身の女性精神分析家で、英国を代表するメラニー・クラインらの研究においても検証されている。

メラニー・クライン
例えば、メラニー・クラインが言う、「良いおっぱい・悪いおっぱい」という仮説は極めて興味深い。

即ち、2~3カ月の乳児にとって、母親のイメージは、「おっぱい」という身体部分の視座しかなく、これは、「良い母親」と「悪い母親」との分裂した対象として捉えられている状態を意味する。

しかし、その子の思いを汲み取って、常に満足を与えてくれる「良い母親」と、その子の非を咎(とが)め、思い通りにならない「悪い母親」の両方を経験する中で、子供は次第に自分と他者の違いに目覚め、分裂した母親のイメージが、「良いおっぱい・悪いおっぱい」のいずれも、実は、「一人の母親」であるという理解のうちに統合されていくと言うのである。

3才頃に自我が目覚め、思春期に自我が確立すると言われているが、自他の区別ができるためには、外界を認識する感覚器官の発達が必要だが、胎内にいる時から、外界からの刺激に反応する事実は、今や定説であると言っていい。

「母親の愛」、即ち、「愛着の形成」(人に対する基本的信頼感の獲得)なしに、ごく普通のサイズの自我形成・確立は望めないということである。

母親がいなければ、父親が代行する。

両親ともにいなければ、親に代わる他の大人が代行する。

それだけのことだが、稀に、「愛着の形成」を具現する大人の不在・非在によって、ごく普通のサイズの自我形成・確立に頓挫した、同情するとしか言いようのない子供がいる。

映画の主人公・エリックこそ、そんな子供の典型であった。

映画はエリックの乳幼児期を描かないが、「5歳の頃、あんたの膝の上で、夫婦喧嘩を聞いたな」という否定的言辞や、「幼児期に施設に入れられた」という自分の生い立ちの吐露を想起すれば分るように、彼の自我形成が頓挫する環境下に捕捉されていた事実は、彼の父・ネビルの反社会的性向の挿入によっても自明である。

エリックが「生まれつきの乱暴者」である訳がないからである。

暴力それ自身が、他者との唯一のコミュニケーションと化しているかのようなエリックに、一体、何が可能であったと言うのだろうか。

「愛着の形成」なしに、まるで、「転落人生」を約束されたエリックが、ごく普通のサイズの自我を確立した「大人」になる可能性は殆ど困難である。

だから、未成年であるにも拘らず、少年刑務所ではなく(日本には7施設)、成人刑務所(日本には67施設)に移送されて来た。

成人刑務所に移送されたエリックにとって、その特定のスポットで呼吸を繋ぐには、自己を守るための暴力的武装以外になかった。

敵愾心(てきがいしん)を持たない囚人が、自分の独居房に入って来るや、誤って暴行事件を起こしたエピソードに象徴されるように、エリックの攻撃的反応は、彼の過剰防衛反応が発現した典型行動だった。

更に、自己を守るために取った手段が、刑務官の急所を噛みついて離さないという、まるで、野獣を彷彿(ほうふつ)とさせる乱暴極まる行動が、この直後に描かれる。

そんなエリックの「野獣性」を希釈するために動いたのは、心理カウンセラーのオリバーだった。

堅固な問題意識を有するオリバーは、プロボノ(社会貢献するボランティア活動)でグループセラピー(集団心理療法)を主宰し、粘り強く働きかけて、黒人囚人たちの中にエリックを参加させる。

思うに、精神医学のフィールドで、重要な治療法の一つであるグループセラピーは、通常、全員で輪になって座り、「患者のグループ」と「複数の治療者」による、自由な言語的なコミュニケーションを行うことで、他者が抱える悩みを聞き、自分自身の悩みを語っていく時間を通して、自己を客観的に見つめ、限りなく相対化・社会化していく。

外部環境の影響下で形成・固定化された態度を払拭し、新しい態度形成、即ち、人格の「態度変容」を再構築するすることが、グループセラピーの本来的テーマである。

だから、この集団心理療法は、構成メンバーが本音を言い合うことによって、相互理解を深め、また、自分自身の受容と成長、対人関係の改善などを目指すので、カール・ロジャース(アメリカの臨床心理学者)が開発したカウンセリングの方法として名高い、「エンカウンターグループ」の訓練法と同質の構造を持つと言っていい。

映画では、ロンドンの刑務所でセラピストの経験を持つジョナサン・アッセルが脚本を執筆したことで、彼の体験がベースになり、映画的に加工されながら、極めてリアルで鮮烈なサバイバルドラマとして、「刑務所内暴力」と、その「非日常の日常化」の危うい時間の中の「態度変容」の可能性を探っていくのだ。

「私のグループ療法で、彼の暴力性を治します」

オリバーと・ヘインズ
エリックの暴力に対して、懲罰を強調する看守長 ・ヘインズたちの前で、オリバーはそう言い切った。

「彼は虐待され、ひどく傷ついた」

「俺は最低の父親だが、今は、そばにいられるんだ」と、息子を案じるネビルに、オリバーは、こんな言葉も直截(ちょくさい)に言い放つ。

そんな中で変化を見せるエリックだが、ごく普通のサイズでの、適正な外部環境からの、自我形成の発達課題を通過してきていないという致命的ハンデを負っているが故に、他者からの暴力に対して過剰反応してしまうのだ。

それでも、グループセラピーが本来的に持つ底力が発揮される。

集団の中での言い争いを客観的に視認する機会を有することで、セラピー内で惹起した物事に対する「第三者」の視線を確保し、それが、自己を相対化することを可能にするのである。

エリックもまた、その「第三者」の視線を確保するに至り、明らかに、内在する暴力性を自覚し、変容していく契機を持ち得るに至った。

元々、エリックの「野獣性」は、思春期以前から、他者に対する過剰防衛反応の所産として形成されているが故に、人間を基本的に信じていない自我が生み出したものである。

それは、愛を知らずに育ったエリックの、どうしようもない悲しい性(さが)である。

常にエリックには、危機を察知したら、軽々と暴力に変換させてしまう行動様態が、予想される事態に対処するためのエリック流の「定常的構え」として、ほぼ体系的にパターン化されてしまっているのである。

これは、簡便に暴力に変換させる殆ど反射行動(条件反射)であると言っていい。

この映画は、このようなエリックのパターン化された「定常的構え」という行動様態が、「対面して話し合う」グループセラピーという、未知のゾーンに自己投入していくことで、明らかに変化を顕在化するエリックの対他的関係が、どのような「態度変容」に振れていくかという一点に焦点をあてて描いている。 

しかし、エリックの非暴力的行動をも、彼の「暴力性」のうちに収斂させてしまう、国家機構の権力を遂行する刑務官の力学で、当該権力との直接的対峙は回避できなかった。

「人を攻撃しないと、プライドを保てないのか。石器時代へ戻りたいか?住み心地が悪くなる。力のある友人も役に立つぞ」

エリックをボスになる才能があると見た囚人の黒幕・デニスが、エリックに放った言葉である。

このデニスこそ、司法権力の代名詞である看守長 ・ヘインズの支配下にあった。

そのヘインズが動く。

エリックのバックボーンであるオリバーを潰し、本命のエリックの首を吊るすのだ。

ここからは、ハリウッド的展開になるが、この映画の良さは、単なる「暴力映画」に堕さず、物語の基本骨格が「リアリズム」によって固められているので、ラストシークエンスでの「救出譚」というベタなシーンの挿入があっても、映画の本線が崩れなかったという一点にあると思われる。

デヴィット・マッケンジー監督
「最小限のフィクションと、最大限のリアリズムを心掛けた」と語ったと言われる、デヴィット・マッケンジー監督の勝負の一作は、ほぼ成就したと言っていい。

しかし、エリック流のパターン化された「定常的構え」は、命を懸けたネビルの「救出譚」によって、修復されつつ、「態度変容」の可能性を広げていくだろう。

「対面して話し合う」グループセラピーの生命線は、エリックの内側で延長され、繋がったのだ。



【参考資料】  拙稿 人生論的映画評論・続 「少年は残酷な弓を射る」 

  

(2016年8月)


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