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2014年3月3日月曜日

最強のふたり(‘11)     エリック・トレダノ 、オリヴィエ・ナカシュ


<階級を突き抜ける友情、その化学反応の突破力>




 1  脊損の四肢麻痺に罹患する主人公の内面世界をフォローすることの意味



この映画は、「児戯性」を強調するためのエピソードのくどさに些か辟易したが、映像総体としては、「良い映画」(心に残る映画)であると評価している。

しかし、危さに満ちた映画である。

下手に読み間違えると、「格差社会を美化する」、「障害者差別に繋がる」などという指弾を受けるかも知れないからだ。

私はそうは思わない。

私の場合、目を皿のようにして、脊髄損傷の四肢麻痺に罹患する主人公の内面世界をフォローすることで、相当程度、腑に落ちるものがあった。

なぜ、本作の被介護者である大富豪は、スラム出身の黒人を介護者として選択したのか。

この極端な人物造形の設定が、初めからコメディの筆致で映像提示されているので、案外、スルーしやすいテーマであると思うが、物語は、大富豪がスラム出身の黒人を介護者として選択せざるを得ない心理的根拠を、その内面風景の浮遊感のうちに精緻に描き出していた。

以下、このテーマに沿って、梗概の重要な部分を追いながら、本作の批評に結んでいきたい。



 2  「障害者に対する同情心」という「邪気のない善意の押し売り」の遣り切れなさ



 「実話ベース」のこの作品は、殆ど幻想でしかない、被介護者が特定の介護者を自在に選択できるという、極めて特殊な設定なしに成立しない映画である。

応募する介護者のライン
介護者が空白になれば、豪邸の広い廊下に、応募する介護者のラインが形成される。

「私は70歳まで生きるそうだ。マッサージと薬とでね。費用はかかるが、私は金持ちだ」

本人のこの言葉のように、アッパークラスであるが故に、重度な脊髄損傷者という不治の疾病を持つ者のハンディを、金銭によって変換することが形式的、且つ、部分的に可能であった。


部分的に可能であったのは、以下の事象である。


WHO(世界保健機構)によると、「障害」の概念は,「インペアメント」(器質障害)を一次障害として、そこに起因する「ディスアビリティ」(機能障害)、更に、ディスアビリティによって蒙(こうむ)る「社会的ハンディ」という、障害の3つのレベルに峻別されている。

四肢完全麻痺の大富豪
本作の被介護者である大富豪の場合、四肢完全麻痺の脊髄損傷によって、修復・再生されることが不可能な中枢神経系(脳と脊髄)の疾病それ自身が、一次障害としての「インペアメント」(器質障害)であり、これによって、運動、知覚機能、自立神経が致命的な障害を負うことで、「ディスアビリティ」(機能障害)が固定化されてしまう。

私自身も嫌というほど経験しているが、自立神経の障害は、排尿、排便、呼吸、血圧調節機能の機能障害を惹起する。

だから、「ディスアビリティ」(機能障害)を劣化させないために、リハビリテーションを必至にする。

幸いにも、被介護者が大富豪であったが故に、「朝7時に看護士が来て、3時間のケア」(大富豪の助手・イヴォンヌの言葉)が、自宅で充分に受けられたこと ―― これは、被介護者が特定の介護者を自在に選択できるという「富豪利得」であった。


更に、3時間のケアを、自腹で支払える経済的環境が保証されているから、「社会的ハンディ」を決定的に被弾する事態から回避されていたこと。

脊髄損傷の被介護者のハンディを軽減させる環境
これが、四肢完全麻痺の脊髄損傷の被介護者のハンディを、金銭によって変換することが形式的、且つ、部分的に可能であったという限定的現実である。

そんな環境下で、パリに住むアッパークラスの被介護者が最終的に選択した介護者 ―― それが、スラム出身の黒人であったこと。

この特殊な設定は、物語としての膨らみを持たせていて、充分に映画的だった。

なぜ、友人の反対をも押し切ってまで、相手が「介護無知」であると認知しつつも、この大富豪がスラム出身の黒人を特定的に選択したのだろうか。

それは、応募してきた複数の介護者志望の理由を想起すれば、自ずと答えが出てくるものだった。   

「人を助けること」
 「障害者が好きです
障害者の自立と、社会参加を助けい」
「生きる喜びとか与えます。何もできない人に」

これらが、真面目な応答をする介護者志望の人たちの、一見、真っ当な志望理由であるが、そこに貫流される含意は、次の一言によって収斂されるだろう。

「障害者に対する同情心」という、心理的な俯瞰視線の「邪気のない善意の押し売り」である。

思うに、その「邪気のない善意の押し売り」が過剰に暴れることがない限り、特定他者の不幸に近接したとき、同情する言辞を相応に塗(まぶ)していく行為は、それによって付け込まれて失うコストよりも、「外見」、「態度」、「話し方」(メラビアンの法則)を柔和に結ぶ、人格像の良好なイメージをセールスすることで手に入れる、社会的適応戦略上のベネフィットの方が明らかに上回るだろう。

だから、人は大抵、「善き人」になろうとする。

しかし、その「善き人」が、重篤なる不治の疾病に煩悶する者の奥深い辺りにまで届き得る、最良の「身体表現力」を具現し得るとは限らないのである。

孤独の瞑闇で浮遊する重篤なる障害者
重篤なる障害者の自我の奥深いところで沈澱し、他者を寄せ付けず、死に隣接する孤独の瞑闇(めいあん)で浮遊する危うい情感系を解放すること ―― これが叶わなかったら、もう、被介護者にとって介護者の存在は、「邪気のない善意の押し売り」に満ちたパーソナルな存在以外の何者でもなくなっていくであろう。

大富豪にとって、「邪気のない善意の押し売り」をセールスする介護の味気ない風景を、散々見慣れてきているが故に、相互の心理的交流の濃度の希薄さに飽きてしまっていたと思われる。

「障害者は不幸で可哀想な存在」だから、「お世話」をしてあげるという発想の根柢には、「憐れみ」を言語化する自己に対する無自覚な、一定程度のナルシズムが隠し込まれている場合が多いのだ。

自分は憐れな障害者に、これほどまでに同情してるのだから、 その思いは通じているはずだ。

こんな自己基準の幻想に漬かっている現実に無頓着なので、「邪気のない善意の押し売り」を相対化できないのだが、それを咎めるほど、私たちは、「完全無欠」の人格像を立ち上げることなどできる訳がないのもまた真実である。

要は、「障害者は不幸で可哀想な存在」という、一面的で狭隘な把握から自由になること。

「心のバリアフリー」(「障害理解」)を確保することである。



3  介護者の「児戯性」を強調する、ジョークを越えたシーンの違和感



大富豪が選んだ黒人男性だけは、以上の文脈から完全に逸脱していた。

「クール&ザ・ギャングとか、お薦めだ」

女性秘書・マガリー
面接を担当する女性秘書・マガリーに、「推薦は?」と聞かれたときの答えが、アメリカのソウルバンド。

 「それなら、ショパンやベルリオーズは?」
 
 今度は、傍らにいる大富豪の発問。

 「そっちこそ、どうなの?」と黒人男性。
 「造詣が深い」と大富豪。
 「誰を知ってる?何号棟の?」
 「何号棟?団地の名前じゃない。19世紀の作曲家、評論家だ」
 「知ってて冗談言った。音楽もユーモアも、両方疎いね」
 「書類は?」
 「俺が就職活動をした証明を。何でもいいから適当な理由を並べて。不採用を。3件で失業手当が出る」
 「なるほどね。他に人生の目的はないのか?」
 「あるさ。そこにいる。素敵な人生の目的が」

美しい女性秘書マガリーを見ながら、こんなジョークを放つ黒人男性。

証明書を求める男
彼は、失業保険の給付に必要な証明書だけが目当てなのだ。

「明日、9時に来たまえ」

 大富豪の意外な反応だった。

黒人男性の採用が、ほぼ決まった瞬間である。

 「人に頼って暮らすのは、気が引けないか?」
 「そっちこそ」
 「自分は働ける人間だと思うか?責任を持って働く能力があると?」
 「ユーモアあるね」  
 「君に1か月の試用期間を与えたい。どうだ?2週間持つまい」 

大富豪と黒人男性の翌日の会話である。

明らかに、黒人男性の知識不足と経験不足が露呈されていたが、「障害者に対する同情心」という、心理的な俯瞰視線の「邪気のない善意の押し売り」とは無縁であった。

偏見の欠片すら垣間見えなかったこと。

これが、黒人男性の暫定的な採用を決めた表面的理由である事実は、その後、明瞭になっていく。

被介護介護
ただ、黒人男性のその逸脱的な振舞いに、自分が今まで出会ったことがない異文化の新鮮な空気を感じ取ったのか、或いは、これまでの「被介護のフラットな生活」に少しでも風穴を開け、刺激を求める気持ちが働いたのか、この時点では不分明である。

しかし、「君に1か月の試用期間を与えたい」という、大富豪らしい合理主義的な説明には得心が行く。 

かくて、被介護者が特定の介護者を自在に選択できるという、極めて特殊な設定なしに成立しない、充分に映画的な物語が開かれるに至る。

四肢完全麻痺の大富豪の名はフィリップ。

「クール&ザ・ギャングとかお薦めだ」と答えた、黒人男性の名はドリス。

 偏見の欠片すら垣間見えないとは言え、早速、「介護無知」のドリスの存分に不適応な仕事が始まるが、失敗続きでタメ口会話の連射に、被介護サイドの者たちが馴致していくしかなかった。

「朝7時に看護士が来て、約3時間のケア。これまでの人たちは1週間で逃げ出した」

ドリスと最も親しくなる、フィリップの助手・イヴォンヌの説明である。

 ここからドリスの「介護」が始まるが、とうてい彼には、フィリップの手足となるような獅子奮迅の働きなど望めそうもない。

ただ、ドリスの「介護」に関して気になった点があるので、ここでは、その点だけに言及したい。

ドリスとフィリップ
脚用クリームと洗髪用のシャンプーを間違えて、使用人の介護士・マルセルに注意されるのは、ドリスにとって予約済みの介護の失敗譚として片付けられるが、しかし、以下の事例については些か看過し難かった。

その筆頭は、フィリップの感覚器官の麻痺を試すために、ポットを脚の上に乗せても、フィリップが反応しないのを見て、今度は熱湯を注ぐのだ。

フィリップの脚が赤く変色しても、痛みを訴えないことに驚くドリス。

「満足したか」

フィリップに、そう言われても、「感じないの?」と言って、ドリスが更に熱湯をかける始末。

たまたま入室して来たマルセルに、「何をやってるの!」と制止されて、「実験」と答えながら、「すげえな」と言って、再び愚劣な行為に及び、「やめなさい!」と厳しく叱咤されるというエピソードだった。

これは、麻痺の恐ろしさを映像提示するにしても、本人は痛くなくとも、皮膚が火傷する非常に危険な行為。

私自身も、右脚が感覚麻痺しているからなのか(ブラウン=セガール症候群)、このエピソードは、単にドリスの「児戯性」を強調するためのシーンであったとしても、明らかにジョークを越えてしまう印象を受けて、全く笑えないシーンだった。

このシーンを挿入した作り手の狙いが、麻痺の怖さを表現することではなく、後半のシリアスなシークエンスの「感動譚」にシフトする対比効果の大きさのための、フランス流のジョークの連射の一つのエピソードだったのではないか。

そうも思われるのだ。

ついでに言えば、この熱湯シーンで被害を受けるフィリップの脚が、運動機能を奪われた完全麻痺脊髄損傷者の、顕著な劣化による脚のか細さになっていなかったこと。

ここは、リアリズムで見せて欲しかった。

もう一つ。

私たちの日常行為である排便、排泄のシーンを簡単にスル―してしまったこと。

「男のクソ出しなんて。友達でもやらない。誰のクソでも断る。俺の主義だ。ストッキングだって嫌だったが、譲歩した。クソ出しは、そっちが譲歩してくれ」
「分った」

マルセルとの会話だけで、四肢麻痺脊髄損傷者の永遠の抵抗虚弱点である、排便、排泄という行為を、その後、ドリスが引き受ける簡単なカットの挿入があったが、その絵柄を全く見せることがなかった。

フィリップとドリス
観る者が思わず目を背けたくなるような、四肢麻痺脊髄損傷者の肝心の日常性の描写を簡単にスル―してしまうのは、「ヒューマンコメディ」という枠組みによって無化されるものではないはずである。

この映画には、「豪邸」の中で呼吸を繋ぐ富豪の排便、排泄という、最も肝心な日常性の描写をスルーし、「汚物」のイメージの挿入を回避する構成上の意図が隠し込まれているのか。

排便、排泄こそ、「他者への絶対依存」なしに生きていけない彼らのストレスの、一つの典型的な事例であるからこそ、そこだけはコメディの筆致で逃げないで欲しかった。

その辺りが、私の最大の不満だった。



4  炙り出されていく不治の病の冷厳なリアリティ



ドリスとフィリップ
車椅子専用の大型車に、フィリップを乗せることに違和感を持つドリスの反応には、介護の範疇で括り切れないヒューマンな態度が垣間見られるが、この天然系の性格傾向こそが、フィリップを刮目(かつもく)させる本来的なドリスの活力の源泉であったのだろう。

の辺から、ドリスの介護が、少しずつ、地に足のついた風景を見せていく。

教養・趣味・価値観・生活様態など、何もかも正反対な二人の人格が、富豪の笑みを常態化させるほどに、心地良く溶け合っていく風景は、まさに、それを目途にしたであろうフィリップの「賭け」が成就したような印象を鮮明にする。

だからフィリップは、古くからの友人の忠告をきっぱりと拒絶する。

「君は、彼がどんな人間か知らないだろう?ドリスには前科がある。宝石強盗で半年服役した。注意したまえ。ああいう連中は容赦ない」 
「そこがいい。容赦ないところがね。私の状態を忘れて電話を差し出す。彼は私に同情していない。ただ体が大きく、健康で脳みそもある。彼の素性や過去など、今の私にはどうでもいいことだ」

このような類いの友人のアドバイスが全く無意味であることは、フィリップ自身が、ドリスのように偏見とは無縁で、同情に振れない「介護者」を求めている事実を検証するものだった。

そんなエピソードの中で、本作で最も重要な描写があった。

そのドリスが、未明に発作を起こしたフィリップを介護し、車椅子に乗せ、ゆっくりとパリの街を散策するシーンである。

フィリップの発作の正確な理由は不分明だが、疼痛予防などに使用される、オピオイドなどの鎮痛薬のオーバードーズによって、恐らく、幻想痛が惹起したものと考えられる。

夜半や明け方の安静時に多く起こると言われる、四肢麻痺疾患の発作間隔は不規則であるが、発作時の血清カリウム値が高値か低値の違いで、発作持続時間が20分から数日に及ぶ病態を、フィリップもまたトレースする。

しかし、この日は軽い発作なので、ドリスの瞬間的な判断によるケアによって救われる。

それは、ドリスが「善き介護者」にまで成長を遂げていく重要なエピソードだったと言えるだろう。

「無感覚なのに苦しい」

そんなフィリップに、「アッチの方はどうしてる?」と、遠慮なく聞くドリス。

「順応を」
「実際にヤレるのか?」
「首の付け根から爪先まで、麻痺している」
「ヤレない」
性感帯の耳をマッサージしてもらうフィリップ
「複雑なんだ。ヤレるが自由にできない。快楽は他の器官でも。君は知るまい。耳とか。君も知っての通り、敏感な性感帯だ」

緩やかであるが、真摯に絡み合う、こんな会話の延長線上に、フィリップは封印していた過去について語っていく。

 不治の病で、子供を産めずに斃れていった妻の話から、一転して、脊髄損傷の四肢麻痺の原因となったパラグライダーの事故について語るのだ。

 悪天候の日に、パラグライダーを強行したこと。

 それが、フィリップの悲劇の背景にあったが、パラグライダーの強行の心理的風景にも触れていく。

「病に苦しむ妻に共鳴したかったのかも。体の痛みは去るが、心痛は残る。一番辛い障害は、彼女の不在だ。今の医学なら、私は70歳まで生きるそうだ。マッサージと薬とでね。費用はかかるが、私は金持ちだ」
 「俺なら自殺する」
 「障害者には難しい」
 「そうか。厄介だな」 

この会話は、本作で最も重要な遣り取りであると言っていい。

財産が有り余るほどあっても、フィリップのような人生を歩むことを拒絶するドリスの思いの中に、フィリップが抱え込んできた不治の病の冷厳なリアリティが炙り出されているからである。

そして何より、パラグライダーを強行したフィリップの内側で、最愛の妻との「道行き」への意思が働いていたこと。

だから、最愛の妻を喪ったフィリップの心に、常にどこかで、「死」への見えない願望が潜んでいるのだ。

そんな内面世界に生きるフィリップには、教条的で安っぽい「介護哲学」で、観念的に武装した「プロ」の侵入を阻む障壁がある。

フィリップとドリス
「死」の観念を誘(いざな)う瞑闇(めいあん)の淵で沈み込んでいて、〈生〉の実感が乏しく、ただ累加されていくだけの時間の海を浮遊するような、彼の心を根柢的に掬い上げていくには、寧ろ、教条的で安っぽい「介護哲学」で、観念的に武装した「プロ」ではなく、突き抜けるほどに型破りな、ドリスのようなタイプの男こそが求められたのである。

この辺りを読み間違えると、フィリップの排他的な内面世界に風穴を抉じ開けていくという、この映画の「突破力」の意味を見失うであろう。

私が本作の副題として、「階級を突き抜ける友情、その化学反応の突破力」と銘打った次第である。



5  〈生〉と〈死〉の際で漂流する男、或いは、壊れていなかった「絶対介護」の底力



些か観念的だが、前述したエピソードは、フィリップが介護者に何を求ているかについて、充分に説明し得るコンテキストであると考えている。
 
即ち、死のイメージに蝟集(いしゅう)する負性の観念の浮遊感を限りなく希釈し、〈生〉への解放系のイメージに変換させること。

これが、フィリップが独りのときに見せる、その内面風景の危うさの芯にあるものであると言っていい。

今、男は、〈生〉と〈死〉の際(きわ)で漂流しているのだ。

だが、男には、それだけは絶対手放したくない大切なカードがあった。

それが、フランス最北端の港湾都市・ダンケルクに居住する、文通相手の女性との淡い交流だった。

しかし、男は動けない。

四肢麻痺の脊髄損傷者である事実を知られたら全てが終焉すると、心のどこかで決めているように見える。

その男の瞑闇(めいあん)の森を突き破ったのは、ここでもドリスだった。

ドリスの強引なアクションによって、「心のカード」の封印が解かれたのである。

初めて耳にする文通相手の女性の声に感動し、いよいよ、男が唯一所有する、「心のカード」を守りたいという思いが膨らんでいく。

そして、文通相手からのデートの申し込み。

パリに来る際に、フィリップに会いたいと言うのだ。

男の内側で、激しい動揺が走る。

自分が隠し込んでいる事実を、事前に説明せねばならないが、それを「告知」したら全てを失うかも知れない。

しかし今、この時を逃したら、初めて会ったときの相手の衝撃をダイレクトに受け止めることになる。

これは恐怖感である。

この葛藤の結果、男は真実を語ることから逃げてしまうのだ。

「写真を入れ替えて。最初の写真はゴミ箱に」

イヴォンヌ
男の手足となって働くイヴォンヌに、こう命じたのである。

かくて、真実を切り取った男の現在の写真が廃棄された上で、文通相手の女性と会うことに決めたのである。

パリでの初めての逢瀬を前にして緊張し、身震いするフィリップ。

あまりに早く、待ち合わせ場所のレストランに来たために、文通相手の女性の来店が不可能であると勝手に決め込んで、恐らく、定刻通りに来店した彼女との出会いのチャンスを、自ら壊してしまったのである。

その心理は、初めて自分の裸形の真実を知られることへの恐怖感以外の何ものでもないだろう。
 
フィリップの〈生〉への解放系のイメージの変換は、呆気なく頓挫したのである。

〈生〉の解放のイメージへの集合的情動は、まもなく、フィリップを身体の解放へと誘(いざな)っていく。

 この時点で、彼は唯一の、最も守りたいカードを永久に失ったのである。

 少なくとも、彼は、そう信じていた。

だから、失ったテールリスクを性急に埋めるようにして、一気に、解放系のイメージ変換を身体表現せねばならなかった。

それは、フィリップの自己防衛戦略と言っていい。

パラグライダーによって運動機能の一切を喪失したフィリップは、ドリスを仲間に引き入れて、パラグライダーへの「恐怖突入」を図っていくのだ。

 フィリップには今や、ドリスしかいなかった。

 二人乗りのパラグライダーで、絶好の快晴の空に、高く舞い上がり、スカイスポーツを愉悦する二人。

 初体験の恐怖に怯えていたドリスから笑顔が漏れて、大空で笑みを交感するフィリップの、大胆な「恐怖突入」の成就を決定づけたのは、〈生〉への解放系のイメージの変換が、もう、このような身体表現なしに不可能であるという、「開き直りの心理学」への自己投入だったのか。

 
しかし、ドリスへの心理的依存度がピークに達した状況下で、フィリップは、もうそれ以外にない「最強の相棒」をも失ってしまうのだ。

 ドリスの弟が、ドリスの元に逃げ込んで来て、家族思いの男は煩悶する。

 このダークな空気の渦中で、ドリスの複雑な家庭の事情を聞かされるフィリップ。

 「実の親じゃない。本当は叔父と叔母だ。8歳で養子になった。彼らは子供がいなくて、兄の子を養子にした。俺だ。本当は、叔母である養母に2人子供ができた。やがて叔父が死に、再婚してまた子供・・・だから複雑だ」
 「ドリス、やめにしよう。これは君の一生の仕事じゃない」

 ドリスの複雑な家庭の事情を知ったフィリップは、彼を家族の元に返さざるを得なかった。

 呆気なく訪れたドリスとの別れ。

 止むなく、新たな介護者を雇うフィリップと、運転手の仕事を見つけて働くドリス。

 ドリスの存在価値を知るフィリップが、〈生〉と〈死〉の際(きわ)で漂流していた世界に捕捉されていくのは必至だった。

ドリスが、フィリップの危うさを感受するが故に、イヴォンヌから連絡があったのは、そんな折だった。

 夜遅く訪ねるドリス。

 「調子が悪いの」

 
イヴォンヌとドリス
イヴォンヌにそう言われて、久しぶりの再会を果たすドリスは、笑みを失ったフィリップの危うさを実感して、努めて明るく振る舞う。

髭面で暗い表情のフィリップを見るや、ドリスはいつもの調子で話しかけていく。

 「やあ、調子どう?すごいヒゲ!ハハハ・・・剃らなきゃ。俺が来て良かった。待ってて」

 相変わらず渋い表情だったフィリップの顔が、僅かに緩むが、それだけだった。

ここから、フィリップを車に乗せて遠出の旅に出かけるのだ。

ファーストシーンに繋がったのである。

高速で飛ばす、二人の男を運ぶ車。

高速で飛ばすことで、未だ漂う澱んだ空気を、解放系に変換しようとしているように見える。

途中、スピード違反で止められるが、病院に連れて行くというドリスの機転で突破した車は、どんどん北上していく。

今、フランスの本土最北端の海辺が、二人の視界広がっている。

ダンケルクの海である。

ダンケルクのホテルに辿り着くと、車椅子から眼の前の広大な海を見つめて、フィリップは笑みを湛えている。

万感胸に迫るものがあったのか、ドリスの友情に感謝する熱い思いが噴き上がってきたのだろう。

 ホテルの部屋に戻り、フィリップの髭を剃るドリス。




フィリップの髭を少しずつ剃りながら、ロシア正教の司祭や、ヒトラーのちょび髭にして楽しむドリス。


フィリップから、心の底からの欣喜の表情を引き出したいのだ。

いつしか、かつてそうであったように、見事にマッチングし、心と心が溶融した二人の関係が復元していたのである。
 

物理的に離れていても、フィリップが求めて止まないドリスの「絶対介護」は壊れていなかったのだ。





6  階級を突き抜ける友情、その化学反応の突破力



オリヴィエ・ナカシュ監督(左)と エリック・トレダノ監督

「フランソワがオーケストラの生演奏で、クラシック音楽を見出させるシーンです。とても面白いシーンで、音楽を通じて、階級や文化の相違違いなど、様々な背景を映し出すシーンです」(オリヴィエ・ナカシュ 監督 France-jp.net

これは、気に入ってるシーンを聞かれた際の、本作の共同監督・オリヴィエ・ナカシュ監督の反応である。

このシーンとは、フィリップの誕生日に、オーケストラを自宅の豪邸に招いて、親族・友人一同が祝う場面のこと。

ヴィヴァルディの「四季」と、アース・ウィンド&ファイアの「ブギー・ワンダーランド」。

単に、音楽を例に挙げただけでも、フィリップが好むクラシックと、ドリスが好むソウルの違いの中に、階級の異なる両者の生活環境や文化の相違が明白に読み取れるが、この映画の面白さは、両者の階級の相違を突き抜けるような極めつけのシーンを、コメディの筆致で描き出しているところである。

クラシックの連射に対して、ドリスは、自分のお気に入りの、アース・ウィンド&ファイアの「ブギー・ワンダーランド」を全身で身体表現し、軽快に踊り捲るのだ。

そのドリスの身体の炸裂に反応して、参加者全員が踊り出し、いつしか、特定スポットの静かな風景が変容し、そこで切り取られた構図は、不必要なまでの階級の障壁を突き抜けて、陽気に溶融していく空気感だった。

その風景を、フィリップは楽しそうに見ている。

まさに、「階級を突き抜ける友情」の格好の絵柄が、そこに集合したのである。

この「階級を突き抜ける友情」が、本来の底力を見せるシーンが最後に待っていた。
 
ラストシーンである。

それを再現して、本稿を閉じていく。

場所は、ダンケルクの海辺のレストラン。

 フィリップを連れてやって来たドリスが、思いがけないことを言う。

「俺はランチに残らない」とドリス。
 「なぜ?」とフィリップ。
 「安心して。デートの相手が来るから」
 「デートって何だ?」
 「うまくいくさ」

 席を立ったドリスに、不安な表情を見せるフィリップ。

 「今度は逃げるなよ・・・そうだ。時間はかかったけど見つけた。彼女によろしく」

 ここでドリスは、亡妻アリスがフィリップに25年間、毎年1個ずつプレゼントしてくれたという、ファベルジェの卵(宝石の装飾が施されたイースター・エッグ)をテーブルに置き、去っていく。
 
 因みに、ファベルジェの卵は、ドリスが義母に贈るために盗んだ物だが、既に、フィリップに見抜かれていた盗みを誤魔化していたドリスには、今や、良心の呵責に苛まれる心が生れていて、その結果、自ら必死に探し出して、この日、漸く本人のもとに返還したのである。

 
ファベルジェの卵
ファベルジェの卵を受け取ったことで、もう、この二人の関係には一切の「債務感情」が清算され、真に「階級を突き抜ける友情」が化学反応を惹起し、その突破力を発現したのだ。

 「ドリス!ドリス!・・・何なんだ」

 一方、フィリップは置き去りにされた不安よりも、今まさに、裸形の真実を知られることへの恐怖感で、一気に高まる動揺を隠し切れなかった。

しかし、本来、予想される長い待機時間を短く切り詰められたことで、不安と恐怖に苛まれる感情が累加されるリスクを軽減したこと ―― これが、少なからず大きかった。

逃避不可能な状況下で、居直ることができたのである。

それに、著しく偏見の希薄なドリスが、自分の障害のハンディを、いつものような調子で、深刻ぶらずに、ごく普通の感覚で相手の女性に伝えてくれたに違いない。

そう考えたのかも知れない。

だから、もうその時点で、腹を括る態度に容易に変換できたのだろう。

フィリップと憧れの女性
まもなく、そんなフィリップの前に、美しい一人の女性が現れた、。

自分の素姓も明かさず、半年間以上、文通してきたフィリップの憧れの女性である。
 

フィリップの満面に、感動が広がっていく。

窓の外から様子を窺うドリスと目が合い、ドリスもまた笑みを浮かべ、手を振り、その場を去っていく。

 ラストカットだった。


その極めつけのショットは、死の観念の淵に沈み込み、驚くほど軽量化された人格総体が、虚空を浮遊していたフィリップの心を、〈生〉のリアリズムの世界に解放させた決定的な軟着点だった。

フィリップとアブデル
「フィリップは現在モロッコ在住。再婚して2人の娘がいる。アブデルは現在、会社社長。結婚して3人の子供がいる」

これが、「実話ベース」の映画のラストキャプションである。


(2014年3月)



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