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2014年4月1日火曜日

ザ・マスター(‘12)    ポール・トーマス・アンダーソン


<帰還すべき場所に戻れなかったばかりに、アナーキーな「移動」に捕縛されてしまった男の悲哀の物語>




1  どのよう振舞っても救われようがない人生の、その孤独の極相



どのよう振舞っても救われようがない人生の、その孤独の極相。

孤独の極相の際(きわ)を匍匐(ほふく)する男の、遣り切れない人生の断片を描き切ったこの映画を、私はこよなく愛す。

それが、この映画に惹かれる最大、且つ、唯一の理由である。

自分の意思とは無縁に、この世俗世界に放り出され、養育されていったその特殊な行程を通して、物事を合理的に判断し、自分の能力のサイズに見合った人生を繋いでいくという、ごく普通の家族環境を手に入れられなかったばかりに、既に思春期にあって、途轍もないリスクを抱え込んでしまっている。

相当程度の確率の高さで流れていく、アナーキーな人生を男は複写していくが、それでも壊れることがなかった。

年端もいかない16歳の「恋人」の存在が、男の人生を破滅的なイメージ一色に染め上げなかったからである。

それは、拠って立つ男の自我の安寧の基盤だった。

しかし、その安寧の基盤を求めても、求め切れない状況が、男の自我を襲撃した。

男の自我に、決定的とも言える、大きな埋め難い空洞が生れるに至った。

この辺りから、男は壊れていく。

いよいよ剥き出しにされた粗暴な性格が、社会適応を困難にさせ、男の心の風景を、より一層、孤独の陰翳で染め抜いていく。

粗暴だが、凶悪ではない。

自分勝手だが、特定他者の気持ちを思いやるナイーブさを持ち合わせている。

自分のミスで死に至らせたかも分らない老人の、その後の容態を気にして止まないところもある。

複雑に入り組んでいるが、人間とはそういうものである。

神を信じることもできず、堅固な「物語」に拘泥する情感も持ち得ない。

求めても得られない、寄る辺なき関係状況。

孤独についての私の定義である。

詳細は後述するが、何より、この男が嵌り込んでしまった孤独の極相の救い難さに、私は痛々しいまでの切なさを覚えてならなかった。

提示された映像の凄みに打震えるばかりだった。



2  予定調和のうちに終焉する、幼児の世界が占有する「親子喧嘩」の濃密度



この映画を把握するために、提示された映像の一部を切り取って、そこにメタファーを読み取ることで、映像総体の本質を簡便に解釈するのは自由だが、そんな末梢的な試行を幾ら重ねていっても、徹頭徹尾、冷厳な視線で、「人間」の非合理性の裸形の様態の凄みを描いた物語から弾かれてしまうのではないか。

戦争によるPTSDという加速因子を内包し、本来的に、生まれ育ちの粗悪さを起因に形成された歪んだ自我を引き摺ることで、心身両面にわたって「定着」できない人格像を顕在化する男が、新興宗教を立ち上げた男と偶然出会い、その男の洗脳によって、教団内での疑似家族の一員となり、各地に移動する組織内で「定着」の快楽を得ても、そこに「定着」する心理的推進力の脆弱さから、アナーキーな「移動」に振れていく、絶望的なまでに孤独な人生を露わにしながらも、男との内的交叉から、恐らく賞味期限が切れるまで、ほんの少しアナーキーな「移動」に変化を与えるに至った男の物語。

これが、本作に対する、私の基本的な了解ラインである。

人間は簡単に変わらないのだ。

 思春期ならともかく、ここまで大人になって、なお歪んだ自我を引き摺る男が、新興宗教の教団内での疑似家族の一員となり、連日のように教育プログラムを受けたからと言って、その人格が根柢的に変容するというロマンチシズムを受容できようがない。

 
「死に至る病」・アルコール依存症
まして、男はアルコール依存症である。

そのためか、くぐもったような話し方・猫背の動き方まで、社会適応性の均衡感を大きく壊している。

そればかりではない。

メチルアルコールを含有させたと思しき怪しげな酒を調合して、それを一気に飲ませて、老人を死なせた可能性がある。

アルコール依存症は「死に至る病」である。

 「死に至る病」への防衛戦略として、束の間、新興宗教という取って置きの「幻想」に身を預けるが、長く続かない。

 「幻想」を持ち、それに継続力を付与することによって保持される、自我の拠って立つ安寧の基盤が、男の中枢で崩れてしまっているのだ。

家族、愛、友情、宗教、等々、何でもいい。

 「幻想」なしに生きていられるほど、人間は強くないのだ。

 束の間、「幻想」を持っても、それに継続力を保証できないから、男は「定着」できない。

 「定着」できないから、アナーキーな「移動」に振れていく。

 性的衝動に衝き動かされる日々を繋ぎ、その男・フレディのアナーキーな「移動」に、「定着」への誘惑が嵌ったとき、そこに、もう一人の奇妙な男との邂逅が具現していた。

「マスター」
「マスター」である。

ヒプノセラピー(退行催眠療法=前世療法)などを含む、感情コントロールの手法である「コーズ・メソッド」で、白血病を治したと自著に書いた、“ザ・コーズ”という名の新興宗教の教祖である。

「“過去の人生”を遡り、病気の発生時点で治す。数千年、数兆年前に。我々は、皆で力を合わせて、心に宿る欠陥を探し出し、完璧な状態に戻そうとしているのだ。社会を糺し、戦争や貧困を排除。核の脅威を失くす」

「カルト」と非難する男に反駁する、そんな「マスター」にとって、アナーキーに生きる男の、野生児の如き「移動」なる〈生〉に惹かれていった心の風景は大いに首肯できるものだった。

新興宗教の「組織」の岩盤は、「マスター」と称される男・ドッドの虚栄を満たすものであっても、気分を解放系にする息抜きを満たすものではない。

 「身を守るには攻撃しかない。でないと、全ての戦いに負ける。もし攻撃しなければ、望むように支配できなくなる」

 「カルト」と非難する男を捩じ伏せるまでに、完璧に反撃できない夫を視認した妻・ペギーが、夫のドットに強い口調で言い放った言辞である。

ドッドには、立ち上げてまもない教団の組織防衛という高い負荷、日常的にかけられているのだ。

 
夫のオナニーの処理をするペギー
そんな夫のオナニーの処理まで引き受ける、妻・ペギーの存在を必要とせざるを得ない欠如を抱えるドッドにとって、どれほど窮屈であっても、もう、それなしに生きられない生活を繋いでいくしかなかった。

だからこそと言うべきか、「マスター」と称される男は、野生児の如き「移動」なる〈生〉を繋ぐフレディと、「組織」という「大看板」から離れた、極めて個人的な関係を作りあげていく。

「ふたりの関係はまさに愛憎まじったラブストーリーと言えると思う。または、父と息子という関係性もテーマになっていると思う」(webDICE
 
 これは、ポール・トーマス・アンダーソン監督の言葉。

しかし、勘違いしてはならない。

「愛憎まじったラブストーリー」と言っても、ドッドにとって、「組織」から乖離するフレディとの個人的な関係への拘泥は、ホモセクシュアリティという、同性への性的指向への情動を心理的推進力にしている訳ではない。

フレディも同じこと。

 後述するが、基本的には、「マスター」を演じたシーモア・ホフマンの言うように、「父と息子、あるいは指導者と弟子のような関係」であり、それも「援助」、「依存」、「共有」という友情の構成要件に近いもの。

 とりわけ、「父なる者」の欠如によって、思春期を過ごした少年には、「父なる者」を切望する思いが強かった。

フレディと「マスター」・ドッド
だから、「マスター」による最初の「プロセシング」(洗脳的自己啓発セミナー)に愉悦し、「プロセシング」の延長を自ら求めていく感情を表出したのである。


一方、ドッドもまた、型に嵌った秩序から漏れる空洞を、束の間、解放系に満たす破壊的なパワーを剥き出しにするフレディによって、ファジーな空気の澱みの中で補填されてしまう危うさを感受しつつも、それ黙認する教祖の脆弱性が垣間見える。

フレディの心の闇の深さを理解し、そんな破滅型の男を救う行為を本気で発現させなかった「マスター」は、追い詰められた挙句、周囲からの刺激に対して感情や思考を反応させてしまう、「反応心」(注1)を抑制するという教義に反してまで、甲高いい声で叫びを上げる。

「君を好きなのは、私だけだ。私だけが、君を好きだ!」

 破滅型の男を黙らせる方法が、それ以外になかったからでもある。


この顛末は、財団の資金不正流用の容疑で逮捕された「マスター」を庇って、フィラデルフィア州の警官と乱闘したことで、同時に逮捕されたフレディが、警察の留置所で、あろうことか、「マスター」と怒鳴り合うエピソードの中で拾われていた。

「囚われへの恐怖は、数百年前からの記憶だ。君が知る遥か昔から存在する。君自身ではない」
「黙れ!」
「君ではない。君は眠っている。君の精神は自由だった。肉体から肉体へと自由に移動していた。自由そのものだった。だが、侵略者に捕まり、邪悪さを教え込まれ、“反応心”を植え付けられた。だから君は権威を恐れ、破壊的なのだ。我々は何兆年も昔から、悪と闘っている」

この間、隣接する代用監獄内で、後ろ手を縛られて、半裸のフレディが、辺り構わず脚で蹴り上げ、暴れ捲っている。

教祖の言葉を全否定し、罵り合うのだ。

「デタラメだ。あんたのデッチ上げだ!」
「すべて事実だ!役立たずのクズ野郎め!もう、君にはこりごりだ!」
「あんたは家族に嫌われている。息子にも!」
「君は誰に好かれている?私以外、誰に?」
「俺を嫌いなくせに!」
「君を好きなのは、私だけだ。私だけが、君を好きだ。私一人だけ。もうウンザリだ」

これで、漸く静かになる男。

 「快・不快」の原理にしか振れない、殆ど幼児の世界だった。

幼児の世界が占有する「親子喧嘩」が、予定調和のうちに終焉したのである。

本作の中で、この二人の情感的関係を最も濃密に象徴するシーンだった。


ロン・ハバード(ウィキ)
(注1)アメリカの作家・ロン・ハバードが冷戦初期に立ちあげた、自己啓発セミナー的要素を持つ宗教団体・サイエントロジーの主張の核心となる、「ダイアネティックス」という心理療法で説明されたもので、周囲からの刺激による「反応心」をコントロールし、除去することで、心因性の病を根絶し得ると説くが、この映画のモチーフが、「カルト」扱いされる特定の宗教団体への批判にないことは、本篇を観れば自明である。



3  恐怖突入の心理的推進力になった仮想危機トレーニングの疾走感



 フレディにとって、「マスター」の存在が、彼の心地良き記憶に刻まれることがなかった「父なる者」であるが故に、「マスター」との「共存」と「共有」を可能づける身体表現に振れていく。

例えば、ドッドの著書として予定されている「本No.2」を、荒野の中で掘り起こすシーンは、「秘密の共有」にまで進んだ二人の関係の濃密度をシンボライズしている。

 「秘密の共有」にまで進んだ関係には、「マスター」称される男・ドットを占有したいという感情を生みだろう。

 神を信じないが、「特定他者」を占有したい。

 
「秘密の共有」にまで進んだ二人の関係
この厄介な感情の危うさが、この男のアナーキーな「移動」を惹起するのは時間の問題だった。

 しかし、アナーキーな「移動」に振れる男には、唯一とも思える「幻想」=「物語」が隠し込まれていた。

 真に愛する女との間で交叉した心地良き「物語」である。

 この「物語」が自壊していると決めつけているからこそ、教団が東部に遠征しても、男は故郷マサチューセッツに立ち寄ることもなかったのだ

 しかし、この男フレディに、早晩、「恐怖突入」を延長し続けることから抜け出す機会が訪れるに至る。

 それは、財団の資金不正流用の容疑で逮捕された「マスター」を庇って、フィラデルフィア州の警官と乱闘した事件が契機になった。

 「救う道はないのかも。精神異常者なのよ」

 フレディの追放を求める、妻のペギーの言葉である。

 「もし、彼を救わないなら、我々は彼を見捨てることになる」

 

裁判所から財団への支払い命令が下され、保釈された
ときマスターの言葉だ。

 これは、神を信じないことを、「マスター」の前で公言する、フレディへの救済行為を約束したものである。

この一言で、全てが決まった。

 かくて、感情をコントロールするべく、教団が一丸となって、「コーズ・メソッド」という名のフレディへの教育が開かれていく。

 そして、長期間に及ぶこの教育は、表面的に成功を収める。

 フレディの内側で、自信の欠片のようなものが形成される。

これが、フレディの「恐怖突入」の心理的推進力になったのは確かだろう。

「コーズ・メソッド」という名のフレディへの教育
あとは、恐怖突入の機会を待つだけだった。

そして今、その機会が到来した。

「目標設定ゲーム」という名の、仮想危機トレーニングが、それである。

殆ど砂漠のような荒野に車で乗り入れたドッド・ファミリーは、「目標設定ゲーム」に挑戦する。

 「目標を設定し、そこに向かって、できるだけ速く走る

 この言葉を発して、まず、ドッド自身がトップランナーとなって、バイクで疾走する。

 当然ながら、自らが決めた目標地点まで辿り着き、無事に生還するドッド。

今度は、フレディへの番になった。

「あの岩・・・山まで行く

そう言って、バイクを疾走するフレディは、夕日を浴びる時間になっても戻って来なかった。

「フレディ!」

ドッドの叫びが捨てられていた。

それは、ルールに縛られる男と、ゲームという名で自己完結する、ルールの枠組みをも突き抜けてしまう男との差であった。

同時にそれは、組織の枠組みから切れない男と、組織の枠組みの内に収まり切れない男との差でもあった。

疾走するフレディ
いずれにせよ、この決定的な差が顕在化したことで、二人の関係は実質的に終焉するに至ったのである。

これが、舞台を英国に移したラストシークエンスでの、「マスター」の意味深長な言葉の伏線となるのは言うまでもない。



 4  「移動」に振れざるを得ない男と「定着」を強いられる男の、深々と内的に交叉する物語の終焉



 ルールの枠組みの中で、「目標設定ゲーム」を自己完結させなかったフレディは、今まさに「恐怖突入」していたのだ。

意を決して、故郷マサチューセッツに向かったのである。

 7年ぶりに故郷に戻ったフレディが、真っ先に向かったスポットは、愛する女ドリスの元だった。

 「会いたいんです。話があって」

 フレディは、家から出て来たドリスの母に、そう切り出した。

 「ドリスはアラバマにいるのよ」
 「何で?」
 「向こうで暮らしてるの。ジム・ディと。結婚したの。彼は予備役将校の訓練課程に」
 「いつですか?」
 「結婚して3年になるわ。子供が二人いるわ・・・故郷に戻って来たの?」

 フレディの表情が少し歪んだ。

 「彼女に挨拶したくて・・・俺が去ったことを悲しんでいましたか?

 
イメージの中のドリスとフレディ
心のどこかで予想していたこととは言え、子供が二人もいるドリスの現実を知らされた男には、せめて彼女の真情だけは知っておきたかった。

 「ええ」
 「心を痛めてた?
 「ええ」
 「あの夜の話を?」
 「ええ」
 「彼女は何て?
 「“必ず戻る” と、なたが言っていたと。そうよね?あれから何年も。どこにいたの?

もう、話を聞くだけで精一杯だった。

 ドリスの母に正対できず、顔を背けてしまうフレディ。

 ドリスはもう、23歳になっているのだ。

 「あの時、若過ぎた。幸せなら何よりだ」

 そう反応する以外になかった。

 フレディの恐怖突入は、木っ端微塵に砕け散ってしまったのである。

 誰もいない映画館で、ディズニーの映画を観ることなく、フレディは椅子に横たえて眠り込んでいた。

 そこに、英国の支部いる、ドッドから電話がかかって来た。

 「私は緊急の問題を抱えている。君だけが頼りだよ。この方法なら、狂気を完全に治せる。君を癒せる。我々の最初の出会いが分ったよ。英国に来い。教えてやろう」

 “船長は船から離れちゃダメだ。僕が行く

 このディズニーの映画の台詞を耳にして、「船長」ではないフレディが、船長」であるドッドに会いに行くのである。

 もう、求めても得られない、寄る辺なき関係状況に捕捉されている男にとって、肥大化した新興宗教の組織の船長」に収まっている、「父なる者」との再会を期して、その重い体を、大西洋を渡る船に乗せていく以外になかった。

 今や、「マスター」に会うにも、アポイントなしに難しくなっていた。

 
マサチューセッツ・ケープコッド湾(ウィキ・イメージ画像)
このことは、
フレディが故郷マサチューセッツで、幾年にも及ぶ浮浪の時間を過ごしていた事実を印象づける。

 その表情からすっかり生気が消え、まるで中枢を抜き取られた病人のような貧弱さが、男の人格の総体から臭気を放っていた。

そんな男が、その貧相な相貌と全く不釣り合いな、堂々とした立派な建物の中に入っていく。

組織の一員として、フレディという男が相応しいかどうか、考えてみるまでもなかた。

 すっかり貫禄をつけたドットが、まさに、「マスター」という言葉に最近接する表層イメージを被せていた。

 豪華な部屋の傍らに、一人の肥満の男を、「マスター」にまで創り上げたペギーが座っている。

 「酔っているの?」

 相変わらず、ペギーはフレディの「抵抗虚弱点」を衝いてくる。

 「いや、ちっとも」
 「ひどい姿ね。健康そうに見えないわ」
 「俺は、そうなれない」
 「人生を受け止められないのね。望みは何?」
 「分らない」
 「ここに来て、どうしようというの?」
 「写真を撮る。必要なら・・・」

ここで、フレディは「マスター」を一瞥する。

「マスター」は一貫して沈黙を守り、組んだ両手の親指を頻りに動かしている。

フレディに対するペギーの、「約束された組織的排除」を見せつけられることに耐えられないのだろう。

 「写真は必要ないわ。これは10億年も信じるべきことよ。一時的ではないわ」

そう言い放って、席を立ち上がるペギー。
 
ここまで成長した教団の組織に入るには、「10億年も信じるべき」信仰心がなければ、「定着」を認めないと言っているのだ。

写真を撮る仕事を望んだフレディ
この教団は、酒と女にしか興味のない男に、「写真を撮る」だけの役割を与えるような慈善事業ではない。

そうも言っているのだ。

完全に「権力関係」の上に立つ者の厭味を吐き出すペギーに、反応すべき適切な言葉を持たないフレディ。


 もう、この時点で、フレディの意思は凍結され、そこにしか見出せなかった「定着」への思いは砕け散っていた。

 「無意味よ。自分を治す気がない」

 捨て台詞を吐いて、部屋を去っていくペギー。

 結局、ペギーは、この言葉を突き付けるために、そこで構えて待っていたのだ。

フレディの「定着」を拒絶するためだけに、いつものように冷静さを装い、だだっ広い部屋の隅の一画で、遠慮げに陣取っていたのだろう。

教団を仕切るペギー
それは、フレディのナイーブな性格を知悉しているが故に、「写真屋でもいい」と切望し、大西洋を渡ってまで、「定着」を求める彼に対する拒絶反応が有効であると踏んでいたのだろう。

だから、その直後の夫とフレディの会話が、もう、この時点で決着済みだったのだ。

残された二人の会話は、一方的に「マスター」によって開かれる。

 「君は、いつも自由だな。行くがいい。勝手気ままに生きろ。マスターに仕えることのない生き方を見つけたら、そのときは、我々に知らせてくれ。君は“マスターに仕えない最初の人間”になる」

 「マスター」のこの言葉を耳にして、フレディは自分を英国に呼び寄せた理由を問いかける。

「夢の中で、“最初の出会いが分った”と」
 「時を遡って、見つけたのだ。君と私は一緒に働いていた。パリで。“伝書鳩通信員”だった。パリは4カ月半も、プロシア軍に包囲されていた。我々は気球を飛ばし、郵便や秘密指令を届けていた。プロシア軍によって封鎖された地区の外へと65の気球を飛ばしたが、行方不明は2つだけ。極寒の冬のことだ。たった2つ・・・ここを去るなら二度と会いたくない。または、ここにに残るか」

フランス第二帝政期の1870年に勃発した普仏戦争での、「人生に迷った二羽の鳩の共有感覚」という比喩を含意させた、二人の運命的な邂逅のルーツを語った「マスター」は、その結論が分っていても、フレディとの断ち難い未練を漏らしながら、笑みを乗せて問いかけていくのだ。
 
「たぶん、次の人生で」

少し考えた後、笑みを浮かべながら、フレディはそう答えたのだ。
 
既に、「約束された別離」であることを承知しつつも、「マスター」はなお捨て切れない未練を悪意のないジョークに変換させていく。

「次の人生で出会うなら、君は私の最大の敵だろう。私は容赦しないぞ」

フレディは笑みを浮かべつつも、今にも嗚咽しそうな切ない表情に変容する。

思いを込めた「マスター」の
そのフレディを見つめながら、自分の思いを込めて、「マスター」が歌い始めた。
 
村上春樹の処女短編の「中国行きのスロウ・ボート」で知られる、「On a Slow Boat to China」というジャズのスタンダード曲である。

君をさらって 乗せよう 
ゆっくり進む 中国行きの船に 
ふたりだけで 乗っていこう 
君をいつまでも この胸に抱きしめて

笑いながらも、「マスター」を見つめるフレディの目から、涙が溢れている。
 
 それは、今や、「マスター」という大看板を背負った、ドッドという名の一人の男との、フラットな友愛をも超える、特別な関係に詰まった情感の表出だった。

 歌い続けるドッド。

恋敵たちは みんな残していく
遥か彼方の港で 泣くがいいさ 
大海原の真ん中で 
大きな月が 光り輝いて 
石のような君の心を 溶かしてくれる

顔を両手で覆って涙を拭う。
君をさらって 乗せよう 
ゆっくり進む 中国行きの船に 
On a Slow Boat to China(イメージ画像)
ふたりだけで 乗っていこう
 
歌いながら、ドッドも感極まって、涙を堪えている。

静かに見つめ合う二人。

 それは、「移動」に振れざるを得ない男と「定着」を強いられる男の、深々と内的に交叉する物語に関わる一切が終焉した瞬間だった。

 「マスター」から解放されたフレディは、酒場で知り合った女とベッドを共にし、そこで女に語りかけるフレディ

 「幾つか質問する。瞬きせず、俺の目を見られるか?名前は?瞬きしたから、やり直し。前の人生は?」

 これは、フレディが、「マスター」と最初にプロセシングしたときの療法をトレースしたものである。

「マスター」の影響を受けていることを端的に示すシーンだが、そのことは、「マスター」による洗脳教育が、フレディに大きな影響を残していることを必ずしも意味しないだろう。

男は単に、一つの「ゲーム」として、女と遊んでいるだけである。

そして、訴求力抜群の映画のラストカット。

砂でできた裸婦の傍らに、横たわるフレディの構図が提示されていた。

ファーストシーンへの円環的な括りである。

ファーストシーンへの円環的な括り
ドリスに象徴される心地良き「郷愁」のイメージが集合する、「定着」の拠って立つ安寧の基盤を手に入れられなかった男にとって、今もなお、砂の裸婦像のうちに身を横たえるしか術がない人生の、その空洞化された心の風景を表現していると、私は考えたい。

この男の、これからの人生もまた、「酒と女を求めるアナーキーな移動」を繋ぐ時間が延長されていくだろう。

そして、男が辿り着く硬着点が、「死に至る病」としてのアルコール依存症で自爆してしまうという、瞑闇(めいあん)深きイメージしか持ち得ないのだ。

作り手の訴えたいメッセージとは恐らく切れて、だからこそ、この男の孤独の極相を描き切ったこの映画に、私は遣り切れないほどの切なさを感じてしまうのである。
 
 あなたとワルツを 踊っていたの
 夢のような 甘いメロディーで
 “相手を変えて”と声が聞こえて
 あなたは私から離れていった
 もう私の胸に あなたはいない
 ひとり寂しく フロアを見つめ
 相手を変えて 踊り続ける
 もう一度 あなたを 抱きしめるまで
 ほんの一瞬 踊っただけで
 すぐに離れてしまったの
 短いけれど 素晴らしい瞬間に
 私の心に 何かが起きたの
 でも 私の腕に あなたはいない
 もう一度 あなたを 抱きしめるまで
 相手を変えて 踊り続ければ
 いつか あなたが 
 私の元に戻るわ
 愛しい あなた 
 その時が来たら
 もう二度と 相手を変えないわ

ワルツ(イメージ画像)
エンドロールで流れる、この「チェンジング・パートナー」というワルツが、ドリスとの再会に頓挫したフレディの心の風景をシンボライズしているという私の把握は、強(あなが)ち的外れであると言えないだろう。

「彼女の声に心が安らぐ」

プロセシングでのフレディの言葉だが、これがラストカットの意味である。

少なくとも、これは私にとって、そういう映画だったのだ。



 
 6  帰還すべき場所に戻れなかったばかりに、アナーキーな「移動」に捕縛されてしまった男の悲哀の物語




「シーモア・ホフマン:僕自身はこの作品を父と息子、あるいは指導者と弟子のような関係にあるふたりの男を描いたものだと思っている。べつにカルト的な宗教でなくても、どんなタイプのリーダーシップにも当てはまる物語だろう。人々が権力によって導かれるという現象も含めてね。確かに2人はお互いを必要としていたと思う。ランカスターは自分自身をもっとコントロールしたいと望み、もがいている。彼がフレディに惹かれたのは、フレディが彼の一部にある、ワイルドな面を象徴しているから。そしてフレディもまた、自分自身に対し悩んでいる。だからこそ2人はお互いに惹かれ合い、その邂逅は感動的なんだ。ランカスターは、フレディによって自分のパワーを感じることができたのではないかと思っている」(cinetri.jp > HOME フィリップ・シーモア・ホフマン インタビュー  シネマトリビューンより)

 この映画を要約した、今は亡きフィリップ・シーモア・ホフマンの言葉である。

 その通りだと思う。

 
フィリップ・シーモア・ホフマン(ウィキ)
以下、ホフマンの言葉を援用して、本作のメッセージを自分なりに考えてみたい。

 何某かの欠如を抱えて生きていかざるを得ない人間は、意識・無意識を問わず、その欠如を克服するために、「父なる者」の存在を求めざるを得ないということ、そして、「父なる者」もまた、内側に隠し込んだ欠如を克服するために、「特定他者」の存在を必要とせざるを得ないである

 これが、本作におけるフレディとドッドの関係の本質である。

 残念ながら、人間は「完成形」なる存在ではないのだ。

 「完成形」な存在ではないが故に、事あるごとに目標を設定し、動いていく。

 動いていくことで邂逅する「特定他者」の存在との関係の中で、時には「共存」し、多くの場合、「援助」、「依存」、「共有」に振れていく。

 「特定他者」との一切の関係を排除して、「絶対的孤独者」として生きていけるほど、私たち人間は強くないのだ。

 人間が本質的に抱える、この「脆弱性」と無縁で生きていられないからこそ、私たちは「援助」、「依存」、「共有」を求めて動いていく。

 映画で言えば、ドッドとの運命的な邂逅なしに、フレディはアナーキーな「移動」を止められなかったに違いない。

この運命的な邂逅なしに、一時(いっとき)でも、内側に抱える欠損感覚を埋められなかったはずである。

思えば、「父なる者」の存在を求めざるを得ないフレディは、その養育史の中で、自我形成に甚大な影響を与える決定的なリスクを抱えていた。

 彼は、「父なる者」の人格的拠点となる「実父の不在」を抱えていたのである。

 実父は、既にアルコール依存症で若死にしてしまっていたのだ。

 確かに、クリント・イーストウド監督の「チェンジリング」(2008年製作)の母のように、「父なる者」の人格的拠点を、若死にした実父に代わって代行することが可能である。

 
チェンジリング」より
しかし、フレディの実母は、恐らく、父の死が原因と思えるような精神疾患を患い、精神病院に入院していた。

 従って、フレディの思春期には、「父なる者」の人格的拠点となる者の不在が、彼の自我形成において、決定的に大きな影響を及ぼしたと考えるのが自然だろう。

 そればかりではない。

 ついでに書けば、フレディの「実母の不在」は、一人息子(映像提示されていないが、恐らくそう思われる)に対して、「母なる者」の人格的拠点にすら成り得なかったのだ。

そんなフレディの思春期の中で、「父なる者」の不在を埋める存在が欠落していた訳ではない。

 彼の思春期の養育を引き受けたに違いない、叔母の存在がそれである。

 然るに、フレディの叔母は、彼に対して、「父なる者」どころか、「母なる者」の代行者にすら成り得なかった。

 「性なる者」という特殊な関係を作り上げてしまったのである。

 フレディの養育を引き受けた叔母とのインセスト。

 これが、フレディの自我に「性化行動」(年齢不相応の性的衝動)を植え付けてしまった。

 恐らく、この時期に、後のアルコール依存症の原因となる「欠損感覚」が生れてしまったはずである。

そんな思春期を過ごした少年に、健全な自我が育ちようがないだろう。

 それでも、彼は恋をした。

 
 その恋は、フレディ自身の「性化行動」とは切れて、セックス抜きのピュアな「純愛」をイメージさせるものだった

 それは、フレディ自身の「欠損感覚」を埋めるための「純愛」へののめり込みであったとも考えられる。
 
彼にとって、ドリスと共有する時間だけが、彼の唯一のアイデンティティの証だったのだ。

 しかし、今、重度のアルコール依存症を患い、その話し方、容貌、姿形も、母と同じように、精神疾患に罹患している者の人格的欠損感覚を露わにするものだった。

 それを認知しているが故に、彼はドリスに会いに行けなかったのだ。

 ドリスからの手紙を読むシーンが挿入されていたが、恐らくそこには、彼との間で約束した再会を求める文面が想像される。

アナーキーな「移動」を繋ぐフレディの、その内側を穿つ心の風景の寂寞感の根柢にあるのは、故郷マサチューセッツに残した恋人ドリスとの、「約束された再会」を為し得なかった由々しき現実にあると言っていい。

 「彼女の声に心が安らぐ」

 前述したように、「マスター」による、最初のプロセシングでのフレディの言葉である。

ドリスからの手紙を読むフレディ
一時(いっとき)でも忘れられない、最愛の少女(この時点で、ドリスは16歳)であるにも拘わらず、なぜ、彼はドリスに会いに行かなかったのだろうか。

 海軍の命令で上海に行くことになったフレディは、急遽、ドリスの家を訪ね、数カ月間、郷里から離れる事情を伝えに来た。

そのとき、ノルウェーの親戚の家に行くと言うドリスに、「ノルウェーから帰って来たら、一緒になろう」と確認し合って、激しい前線の任務に赴くことになったフレディ。

しかし、この二人の誓いは守られなかった。

フレディが戻らなかったからである。

 なぜなのか。

この問いが、本作から受け取った私の問題意識の中枢にある。

 それを一言で言えば、太平洋戦争で罹患したPTSD(心的外傷後ストレス障害)である。

 本作の冒頭で、戦争終結後に、若き米兵たちに語った言葉が想起される。

 「君たちが抱える問題を、理解しない人もいるだろう。“情けない”と思う者も。だが、君たちと同じ経験をすれば、彼らもまた、精神的な問題を抱える」

 その直後、ロールシャッハテストを受けるフレディの反応は、全て「プッシー」や「チンポ」のことばかり。

 そんな彼の性的衝動を戯画化したような、冒頭のカリフォルニアのビーチでの、砂で作った女性像に向かってセックスするシーンが深く印象づけられる。 

 明らかにこれは、出征する前に、ドリスと睦み合い、語らい合ったときのフレディの柔和な青春像と切れていた。

 
沖縄戦・上陸中のアメリカ軍(ウィキ)
彼の上官が、「史上最悪の戦争」と呼んだ大平洋戦争の凄惨な風景は、
沖縄戦に象徴される以下の説明で納得し得るだろう。

 太平洋戦争末期の沖縄戦に、「シュガーローフの戦い」(注2)という名の激戦があった。

その壮絶なる戦闘の中で、決して少なくない数の若き米兵たちが、戦争に対する恐怖感から次々に精神を病んで、その治療を専門とする病院が作られたと言う。

彼らが病んだ疾患の名は、「戦争神経症」というあまりに直接的過ぎる病名であった。

 「戦争神経症」―― それは、今ではPTSDの一つとして、精神医学のフィールドの中に認知され、その研究も進んでいるが、当時は、まだそれについての理解は限定的だった。

 そもそも、ヒステリーの一種のように見られていた、「戦争神経症」という名のPTSDが注目を浴びた契機は、第一次世界大戦だった。

 近代工業の顕著な進化が軍事力に転用されて、未曾有の大量殺戮を可能にしたこの戦争の中で、砲弾によって一瞬にして肉体を吹き飛ばされる戦場の現実は、ドルトン・トランボ監督の「ジョニーは戦場へ行った」(1971年製作)で描かれていたように、兵士たちにとっては、塹壕に潜っていても圧倒的な恐怖感を覚えるものだったに違いない。

 恐怖への反応が過剰な者の中に、特段の外傷が見られないのに精神状態の不安定な帰還兵たちが多く現出して、まもなく彼らは、「シェルショック」と呼ばれるようになる。

脳に受けたダメージの甚大さが注目されたのである。

 これが「戦争神経症」に対する医学的研究の始まりとなって、その後、このような症例があらゆる戦争における不可避な現象として、極めて現代的課題になっているという状況にある。

 ともあれ、多くの米兵が「戦争神経症」に罹患した沖縄決戦の凄惨さは、私が命名するところの、「見える残酷」という至近戦の恐怖が生み出したものだった。

今なお、太平洋戦争が悲惨さのイメージによって語られることが多いのは、硫黄島や沖縄での肉弾戦の壮絶さを連想するからである。

それらは紛れもなく、「見える残酷」の極限の様相を呈していたのである。

PTSDに罹患したフレディ
凄惨極まる太平洋戦争で、フレディが罹患したPTSDの破壊力は、明らかに、彼の人格像を決定的に変容させる危うさに満ちていた。

 間違いなく、フレディの自我を焼き尽くしたであろう。

 少なくとも、出征前の彼の人格像と切れ、病理の様相を呈する行動・性格傾向を剥き出しにするに至る。

 その傾向を、PTSDの主症状の一つである「回避反応」と説明することが可能だろう。

苦痛や刺激を避けて、現実逃避する傾向である。

フレディの例で言えば、「アルコール」と「セックス」への依存症的な現実逃避である。

更に、外部刺激に弱いが故に切れやすく、集中力の持続が困難で、愛情や幸福感などにも鈍感になる。

社会的な活動への顕著な無関心であるばかりか、自らの将来に対しても否定的になり、社会的な不適応を常態化させてしまう傾向を弥増(いやま)していく。

 この「回避反応」の本質は自己防衛反応であると言えるが、フレディの場合、「アルコール」と「セックス」への依存症的な現実逃避の過剰さが、社会的不適応状態を招来し、自己コントロールを困難にさせていった。

 その意味で、「マスター」との邂逅は、フレディにとって幸運であったとも言えるが、しかし、それも賞味期限が切れるまでの話である。

 
孤独の極相の際を匍匐する男
何より、「アルコール」と「セックス」への依存症的な
現実逃避を常態化させているフレディの内側で、帰郷したくともできない恐怖感が肥大化していって、この心理の大きな振れ具合が、ドリスとの再会の決定的な障壁になっていたと思われる。

 「彼女の声に心が安らぐ」

 フレディには、もう、それで充分だったのだろう。

 しかし、最も会いたい人物に会えないジレンマを抱え切っていた男が、我慢し切れずに、遂に「恐怖突入」を敢行する。

 分っていたとは言え、唯一の心の拠り所は、呆気なく砕かれていった。

 太平洋戦争で罹患したPTSDの破壊力が、最も大切にしていた記憶の残影をも、男から奪い取っていったのである。

 これは、帰還すべき場所に、帰還すべき時に戻れなかったばかりに、アナーキーな「移動」に捕縛されてしまった男の悲哀の物語だったのだ。

 
 私はそう思う。



(注2)沖縄戦の最大の激戦の名称で、「安里52高地」(現在は、安里配水池公園)での攻防戦のこと。1週間にわたっての激戦によって、3000名近くの戦死傷者を出したばかりか、多くの「戦争神経症」の罹患者を出したと言われている。


【参考資料】拙稿・人生論的映画評論「シン・レッド・ライン」より一部引用

(2014年4月)


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