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2018年1月27日土曜日

人は皆、自分自身をどこまで把握して生きているのか ―― 映画「嘆きの天使」の「予約された酷薄さ」


1  「私的自己意識」と「公的自己意識」の落差





作品の良し悪しとは無縁に、一度観たら、絶対に忘れられない映画が、稀にある。

80年前の映画が、なお、私の脳裏にこびりついて離れない。

嘆きの天使 ―― これが、その映画の名である。


1930年の古典的作品で、主演は、サイレント・ドラマ(「肉体の道」)で史上初のアカデミー賞受賞者を得たドイツの名優・エミール・ヤニングス。


その名優に、「100万ドルの保険をかけたと宣伝された脚線美」のセールスで、一躍脚光を浴びたマレーネ・ディートリッヒが絡んでいく。

ラート教授とローラ
その内容はあまりに陰鬱で、ペシミスティックである。

だから、心に残った。

およそ女性とは縁のない生活を送る、ハンブルグのギムナジウム(大学進学への9年制の中等教育機関)の一人の厳格な老教授が、キャバレーの踊り子に熱を上げ、通いつめた挙げ句、一座に入り、彼女と結婚する。

ここまでは至福の絶頂期にあったが、巡業の旅を続けていく中でハンブルグの町に戻り、滑稽な格好を見せる道化師の芸を演じさせられ、かつての同僚の教授・生徒たちの嘲笑を浴び、屈辱に耐えられず、一座から離れた男が、教鞭を執っていたギムナジウムの英語教室の教壇の上で自死するという、全く救いようのない物語だった。

この救いようのない物語は、少なからず、既に、最盛期を過ぎた「ドイツ表現主義」の暗然たる時代の風景の、最後の血の滴(しずく)でもあるかのようであった。

思うに、20世紀初頭のドイツで生まれ、前衛芸術運動として名高い「ドイツ表現主義」には、未曾有の惨劇を経由した第一次世界大戦の影響があり、当時のヨーロッパの不安定な状況が背景にあった。

自然主義の傑作・ルネ・クレマン監督の「居酒屋」より
伝統的な価値観に対する反発の推進力によって芸術の様式は破壊され、エミール・ゾラの「居酒屋」に象徴される、19世紀末のフランスを中心にして起こった自然主義や、古典主義的な写実を否定した印象主義に対するリバウンドとして、内面的な感情表現が重視され、ベルリンを中心に、絵画・映画・音楽・建築など各分野で、瞬く間に広がっていった。

ドイツ表現主義の代表作・「カリガリ博士」
その「ドイツ表現主義」の個人主義的で、脱規範的な幻想怪奇な映像(注1)と明らかに切れているが、ペシミスムに染め抜かれた物語の基調は、表現主義文化の感情傾向を代弁していたと言える。

映画の出来は特段に出色なものではなかったが、私は何より、その黒々としたペシミズムに慄然とする思いを抱いてしまった。

いつまでも、本作の遣り切れないペシミズムが私の記憶に張り付いて、容易にフェードアウトしてくれないのだ。

踊り子のローラを演じたマレーネ・ディートリッヒの印象は殆ど稀薄で、常に本作を想起するとき、記憶の残像から零れてくるのは、ラート教授を演じ切ったエミール・ヤニングスの鬼気迫る表情以外ではない。

それほど、彼の演技は圧倒的だった。

エミール・ヤニングスとジョセフ・フォン・スタンバーグ監督(左)
「嘆きの天使」は、エミール・ヤニングスのその壮絶な演技なしに成り立たないのだ。

これは、彼のための映像であって、そこで演じられた初老の独身教授の心情世界の表現こそが、「嘆きの天使」を映画史に刻む決定力になったものなのである。

「嘆きの天使」を繰り返し観るたびに、私の中で形成されるイメージ・ラインは二点に絞られる。

その一点は、「人は皆、自分自身をどこまで把握して生きているのか」という、常に古くて新しいテーマである。

「嘆きの天使」は、自分自身を客観的に把握できない男が招いた悲劇であると言っていい。

自分自身を把握するとは、単に、自分の能力・気質・感情傾向を把握することではない。

実は、そのレベルの自己像も、人間にとって簡単なことではないろう。

人間は常にどこかで、自分を甘めに見てしまうところがあるからだ。

自己奉仕バイアス

このような感情傾向を、心理学で「自己奉仕バイアス」と言う。

自らの失敗を外部要因に帰属させてしまう傾向のことである。

自我が傷つく事態を防ぐ防衛戦略の普通のスキルであり、それによって、自らの未知なる可能性を楽観的に担保するのである。

しかし、自己像把握の範疇には、もう一つ重要なテーマがある。

それは、自分に意識を向け、「自分とは何か」という自己像を持つ「私的自己意識」と、他者が自分をどのように見ているかという、日本人に強い感情傾向とも言える「公的自己意識」についての把握である。

言わずもがなのことだが、それぞれの経験則に照らしてみれば分るように、この把握もそれほど簡単ではない。

多くの場合、自分を少しずつ、どこかで甘めに見てしまう分だけ、自分に対する他者の評価をも甘めに見てしまうところがある。

自我の安定も確保し得るし、他者に対する不必要な攻撃性も削られていくからである。



大抵、人並みに育てられれば、人並みの愛情を被浴しているという柔和な記憶が、その後の自我に張り付いてしまっているので、そのような人並みの愛情経験が固有の「内的ワーキングモデル」(注2)を形成し、自己に対する他者の視線を、自分に都合のいいように考える傾向を生んでしまうと言える。

このことは、乳幼児時代の愛情欠損を経験した自我が思春期を迎える辺りで、その歪んだ様態を晒すに至るケースを想起すれば瞭然とする。

ヒトラーやスターリンが、独裁者として君臨している只中にあっても、ごく特定的な人物以外を決して信頼することなく、常に、疑心暗鬼の態度を崩さなかったのは、彼らが思春期以前に経験した愛情欠損の歪んだ自我形成と無縁ではなかったと言えるだろう。

だから、彼らの問題は、単に、「独裁者の心理学」というテーマに収斂されるものではないのである。

以上の事柄を考慮する限り、自己像把握という内的作業の想像以上の困難さが了解されるであろう。

自らを知るということは、まさに、その自己の存在を理解する他者の心情をも把握するということと同義なのである。

自己の能力や感情傾向を把握した上で、その自己を認識する他者のその認識の許容範囲を正確に把握すること。

それが正確に捕捉されれば、人は自らが冒す誤りの多くの部分を修復し得るであろう。

「嘆きの天使」の初老の独身男・ラート教授には、その能力が目立って欠如していた。

ラート教授の能力の及ぶ範囲は、彼が長い年月をかけて習得してきたであろう、その学問的教養の守備範囲に収斂されるものに限定されていたのである。

彼はその中で、いつしか、「謹厳で、有徳なる教授」という自己像を育んできて、その自己像に合わせて、限定的な身体表現をトレースしていくしかなかったということだ。

「強面(こわもて)の教授」と恐れられていたラート教授
生徒たちから、「強面(こわもて)の教授」と恐れられていること自体、ラート教授の自我が、その自己像のイメージラインに重ね合わせていたことと矛盾するものではなかったはずである。

ギムナジウムの生徒たちから恐れられている事実は、ラート教授にとって、自己像を些かも貶める何かではなかったのである。

ラート教授は町の名士であり、有能なるプロフェッサーであったのだ。

ローラとの出会い
現に、キャバレーに乗り込んだ際も、一座の団長はおろか、騒ぎで駆けつけて来た警官も、ラート教授に応分な敬意を払うことを忘れなかった。

そこにおいて、既に、彼の決定的な「抵抗虚弱点」(人にとって最も弱い部分)が胚胎してしいたのである。

キャバレーとの距離感を埋めていくラート教授の心理の振れ方を考える時、そう、把握することの方が、より説得的を持つのだろう

そして、その後の教授の心理の振れ方露わにしたのは、「私的自己意識」と「公的自己意識」の落差であったということである。

要するに、「強面だが、謹厳で有徳なる教授」という自己像を持ち(「私的自己意識」)、当然、他者も、こ自己像を認知・承認し、尊敬の念を抱いているという意識(「公的自己意識」)との乖離である。


ラート教授の悲哀・悲劇の本質は、この埋めがたい乖離を修復できない〈状況性〉のドツボに嵌(は)まって、人生に対する絶望の極みに捕捉されてしまったことだった。

この蟻地獄に堕ち切って、冥闇(めいあん)の地の底に泥濘(ぬかる)んで、一切の退路を塞がれ、寄る辺なき身を預ける何もない、孤絶の極限にまで自己遺棄するに至ってしまったのだ。

自業自得とは言え、悲哀なる者 ―― 汝の名はラート教授なり、である。


「巨人ゴーレム」
(注1)シュールな描写で、人間の狂気や不安をテーマに描いた怪奇色の強い映像。「カリガリ博士」(1919年)、「巨人ゴーレム」(1920年)、「ノスフェラトゥ」(1922年)が有名。

(注2)幼少期における母親等のアタッチメント(愛着関係)の内実が、その後における自我の社会的適応の様態や、愛情関係の性質に大きな影響を与えるという仮説。





2  「異文化摩擦」という名の魔境





ラート教授とローラ
ラート教授の人格像について考える時、「異文化摩擦」というテーマを反故にすることはできないだろう。

このテーマこそが、彼の晩年の人生を決定づける役割を担ってしまったのである。

「謹厳実直」で生き抜いてきた男の視界に、煌(きら)びやかな色彩を放つ異文化の光線が唐突に侵入してきて、全く免疫力を持たない男の非武装なる自我を泡立たせ、過剰なまでに刺激してしまった。

恰も、それが魔境への誘(いざな)いであるかのように、男の乾燥した感情世界に心地良い潤いを与えてしまったとき、男はもう、その未知なる文化ゾーンに殆ど搦(から)め捕られてしまったのである。

その男は、脚線美を誇る若い人気歌手の思いもかけない柔和なアプローチに、まるで落雷にでも遭ったかのようにして、その謹厳なだけの鎧の仮装を解き放たれてしまったのだ。

―― 以下、ラート教授が一座の踊り子・ローラにプロポーズし、唐突の事態に驚き、笑われながらも受諾され、満面の笑みを浮かべるシーンを再現する。

その日、花束を持って、ラート教授はローラを訪ねた。

「お別れに来てくれたの?」とローラ。

彼女の一座は、ハンブルグの町を引き上げる準備をしていたのであった。

「ミス・ローラ。私は・・・」
「きれいなお花、ありがとう」

ローラは、沈鬱な表情を崩さないラートに近づいて、言葉を添えた。

「そんな顔しないでよ。来年、また来るわよ」
「もう一つあげたい物がある。これを受け取ってくれないか」

ラートはローラにそう言って、指輪をプレゼントした後、明瞭に言葉を繋いだのだ。

「あなたに結婚を申し込みたい」
「私と結婚を?」と不思議がるローラ。

頷くラート。

ローラはここで思わず吹き出して、笑い転げてしまった。

「あなたって、いい人ね」
「お願いだ。どうか、まじめに考えて欲しい」

この真剣なラートの言葉に、ローラはそのプロポーズを受諾したのである。

まもなく、一座の中で二人の結婚式が執り行われた。

ラートは今、まさに至福の絶頂期にあって、存分に満ち足りていたのである。

男がなぜ、今日まで独身を貫いてきたかについて、映像は一切の説明をしない。

しかし、男にとって「異性」の存在は、特段に宗教的・倫理的タブーの対象となっていなかったであろうことは容易に推測し得る。

男は単に、「女の肌」と濃密な関係を継続するに足る縁がなかっただけである。

年輪を加えてきて、いつしか、そんな自己の存在性に空洞感を作ってしまったのであろう。

そう、思われる。


その空洞感を埋めるべく、脚線美を誇る女の柔和な視線が、まさに、危うい出会いの偶発的な流れのうちに、蠱惑的(こわくてき)な刺激をたっぷり含んだ空気感によって運ばれてきてしまったのである。

「強面だが、謹厳で有徳なる教授」という役割的存在を長く演じ続けてきて、既に、自分に向かって放たれる視線の棘を見抜けなくなるほどに、男は解毒化された自我を形成させてしまった。

男の自己像把握の内実は、非常に狭隘な文化世界の中で肯定的に捕捉されてしまっていたから、自己を見る他者の視線の迎合のポーズ(「公的自己意識」)すらも識別できないほど、表層的な了解性のうちに固まっていたのであろう。

ローラと生徒たち
それが、男の不幸の始まりだった。

男は自分に内在する能力が作り出した、現在の社会的ポジションについての自己認知を、いつしか、そこに余分な付加価値を加えていくことで、不必要なまでに肥大させてしまったのである。

前述したように、評価(「公的自己意識」)と把握(「私的自己意識」)の落差が、男をして、虚構の自己像を作り出させた陥穽(かんせい)だった。

そんな男の心情ラインが、単に、女からの営業用のハニートラップでしかないアプローチを、落雷にも似た快感情報として受容する、「異文化侵入」への免疫力の脆弱さを晒すに及んで、極めつけの陥穽に嵌ってしまったのである。

男は女に求婚した。 

女の好奇心も手伝って、男の想いは受容されることになった。

男は全てを捨て切ったのである。

町の名士であるプロフェッサーとしての地位を自ら放擲(ほうてき)することは、男に張り付いていた決定的な権威の全てを削り取ってしまった。

それは、男にとって、自ら踏み込んだ未知の領域への冒険が何を意味するものかについて見えなくなるほどに、男が経験した異文化クロスの衝撃の大きさを端的に物語るものである。

男が失ったもの
しかし、男だけが失ったものの大きさの意味を知らない。

男は自分に張り付いていた権威の威力が、既に、自分の人格の、その日常的な様態のうちに胚胎(はいたい)された絶対的価値であると錯覚してしまったのだ。

しかし、肩書きを持たない男を、一座の者が、これまでと同じ仰ぎ見る視線で捕捉する訳がない。

女もまた、同様だった。 

「真面目で一途な教授」というイメージから「教授」の肩書きが削られたら、そこには、単に一座のお荷物でしかない、「女狂いの老人」という人格像だけが露呈されてしまったという訳だ。 

男だけが、それを正確に認知できない。

だから、そこに、起こるべきして起った悲劇が出来してしまったのである。

一座の団長は、男が既に捨ててきた、「教授」という過去の肩書きを利用することで、彼を奇術の格好の出し物として売り出そうと企画し、それを拒絶する彼を説き伏せて、あろうことか、彼が教鞭を執っていた町の只中で、「ラート教授 来演!」というポスターを張り巡らせて、その酷薄なる公演に打って出たのである。


「喜べ。あんたが一座の花形になるんだ」
「純情な人をからかわないで」とローラ。
「お前の亭主にお呼びがかかった。見ろよ。電報で契約を申し込んできている。“嘆きの天使”の店だぞ」
「嘆きの天使?」とラート。
「あんたの故郷のさ。いい宣伝になるよ、ラート教授」
「嫌だ。あの町へは戻らん」
「そう言うな」
「絶対に戻らない!」
「呆れたもんだ。5年も女に養われた教授先生が、金の稼げる所へは行かんとおっしゃる」
「止めて」
「明日の朝、出発だ」
「私は絶対に行かない。それだけは許してくれ。あの町だけは絶対に行けない」

居丈高(いたけだか)な一座の団長の指示に、当然ながら、ラートは拒絶する。


しかし、ラートの強硬な反対にも拘らず、団長の企画は実現されていくのだ。





3  ステージの一角に恐怖のゾーンを作り出した男





1890 - 1900年のハンブルク(ウィキ)
まもなく、ハンブルグの町の隅々に、次のように書かれたポスターが貼られていく。

「ラート教授 来演!」

一座の巡業は、このポスターのお陰で、多くの観客を集めることに成功した。

ローラがいつものように歌い、踊る。


その間、ラートは団長によって、楽屋で、いつものピエロの格好の厚化粧をされている。

「今夜で、お前さんの運命は決まる。上手くいったら大スターだぞ。ベルリン、ロンドン、ニューヨークだ」

そこに「市長まで来た」という報告があり、更にラートにとって、最も屈辱的な報告を受けることになった。

「ご同僚の先生たちも、生徒たちも皆、来てますよ。どうぞ、しっかりやって下さい」

そこに団長からのプレッシャーが加えられた。

「いいか、しっかりやるんだ。俺のように落ち着いてやるんだ」

ここで、舞台の出番を知らせるベルが鳴った。

「始まるぞ」

団長はその一言を残して、舞台に上っていった。

一人残されたラートの楽屋に、ローラが新しい恋人らしき男を連れて入って来た。

再び、ベルが鳴った。

「何してんの?早く出なさいよ」とローラ。

その口調は冷淡である。

しかし、それでもラートは動かない。

じっと、一点を見据えて座っていた。

結局、一座の者に押されるように、ラートは舞台に出ることになった。

舞台では、団長が挨拶をしている。

「さて、これから充分にお楽しみ頂きます。国際的な奇術でありますが、その中で特別なアトラクションといたしまして、ある人物を登場させます。当地の高等学校で長年に渡り、教育に携わった有名な教授先生でございます」

「早く出せ!」と直截な野次。

「今さら説明にも及びますまい。これ以上お待たせもできません。イマヌエル・ラート大先生です」

奇術師である団長の紹介で舞台に押し出されたラートは、助手の役割を負わされて、舞台にその姿を露出させている。

団長の奇術が始まった。

「さて皆さん、種も仕掛けもございません。私の使いますのは両手だけ。このシルクハットは、イギリス製のごく普通のもの・・・」

そう言って、ラートが被っていた帽子を手に取った団長は、奇術を演じていく。

その帽子に仕掛けがないことをアナウンスした後、奇術の常套句を言い放った。

「これを彼に被せますと、生きた鳩を出してご覧にいれます」

団長の傍らには、一貫して表情を変えないラートが、団長によって被された帽子を身につけて、呆然と立っている。 

「帽子に鳩が入ってると、皆さんはお考えでしょう。どうぞ見て下さい。何も入っておりません。空っぽです」

その帽子を取って、更にラートの頭に被せたとき、鈍い音がした。

呆然とするラート。

その違和感に、観客から爆笑が渦巻いた。

「もう一度、念のために短刀で」

団長は次に、ラートの帽子に短刀で何度も突き刺していく。

「拳銃まで持ち出しましたが、ご心配には及びません」

団長が取り出した拳銃を上に向けて発射した瞬間、ラートの帽子の中から白い鳩が飛び出してきたのである。

「どうせ、空っぽの頭ですから」

観客は拍手喝采して、そのショーを愉悦する。

「卵を出してくれ」という観客の注文に、団長は「アウグスト(ラートの芸名)の鼻から卵を出して見せましょう」と言い放ち、割れんばかりの声援を浴びる。

それを嫌がるラートに、団長は、「おとなしく立ってろ。元教授だろ!」と命じた。

団長は鳩を出した後、即座に生卵を出した。

更に、その卵をラートの頭にぶつけて、それを割って見せたのである。

観客は興奮の坩堝(るつぼ)となって、「もっと卵を産ませろ!」の大合唱が沸き起こる。

団長はそれに呼応して、二つ目の生卵を同じように割っていく。

「コケコッコと鳴け。コケコッコだ」

この団長の命令をラートは拒み、ステージから離れていった。

「今すぐ鳴かないと殺すぞ!」

その直後のラートの振舞いは、あまりに悲痛過ぎるものである。


彼は狂ったように、「コケコッコ!」と呻(うめ)いたのだ。

ステージの一角に恐怖のゾーンを作り出して、いたって無芸な初老の元教授の狂気が、空気を支配し切ったのである。

「狂ったぞ!」

観客の罵声(ばせい)を無視して、ラートが向った先は、若妻・ローラの元だった。

彼の視界には、先の男と睦み合っている女房の姿だけが、まざまざと捉えられていたのである。

「何よ!私は何もしてないわ」

弁明するローラに向って、ラートは突進し、その首を締め上げた。

ローラは夫の暴力から逃げていく。

一座の者が集まって来て、ラートを捕捉した。

団長は縛り上げられたラートの縄を解いて、静かな口調で言葉を添えた。

「しようがないな。お前さんほどの男が、女のために。静養して元気になってくれ」

ラートは一座から離れて、寂しい夜の町の中を、まるで夢遊病者のように歩いていく。





4  人は皆、自分自身をどこまで把握して生きているのか ―― 映画「嘆きの天使」の「予約された酷薄さ





一座の興行は成功した。

その成功の裏側で、自分の置かれた惨めな立場を決定的に認知されることになった男の悲劇が待っていた。

夢遊病者のように彷徨する男が辿り着いた場所は、自分がかつてプロフェッサーとして、威厳を持って教鞭を執っていたギムナジウムだった。

まもなく、男は英語教室の教壇の上で、その息絶えた体を、学校の用務員によって発見されることになった。 

映画のラストは、いつもと全く変わらない様子で、ステージに立つローラの姿。

彼女はいつもの歌を、いつもの軽快な律動で、まるで、その歌詞のままに生きているように歌い上げていく。


“恋するために生まれた私。恋だけが私の生きがい。私はそういう女なの。私は恋しかできない女。寄ってくる男たちは火傷する。焔に群がる蛾のように。恋するために生まれた私。私は恋しかできない女”

「異文化摩擦」という名の魔境の風景を晒す物語は、酷薄過ぎた。

男の身をどこかで案じながらも、自分に擦り寄って来る、好色漢の相手を厭わない若妻の感情世界の内側に、遂に融合できないと認知した男の終着点は、自分が確信的に捨て切ったはずの権威の象徴である教壇以外ではなかった。

男はそこに、寄る辺なき精神を埋め、老いた身体を沈めたのである。

その悲劇はまさに、高度な蓋然性のうちに遭遇した男の自我の狭隘さが、そこに流れ着く以外になかった殆ど必然的な帰結だった。

それは、全く空気が異なる異文化の世界に踏み込んでいった男の、「予約された酷薄さ」と言っていい。

この男は、そのような決定的な選択の中で、或いは、自己再生を図ろうとしていたのかも知れない。


しかし、初老の、世間知らずな男の自己再生の選択肢は限定的なものでしかなかった。

男は、その認知を誤ったのである。

詰まるところ、ハンブルグのギムナジウムで手に入れた、心地良き権威の虚構性を洞察できなかった能力の決定的な欠如こそが、男の「予約された酷薄さ」を保証してしまったということである。  

人は皆、自分自身をどこまで把握して生きているのか。

これが、暗鬱な映像が観る者に提示した基幹テーマであると、私は考えている。

ローラととジョセフ・フォン・スタンバーグ監督(左)
「自分の見たことがすべてだ」というバイアスに囲繞され、数多の人々が永遠に抱えるこのテーマに正確な解答を出せないが故に、自らの能力のサイズの測定を誤り、大怪我をしてしまう現実それ自身が、この悄悄(しょうしょう)たる映像のうちに、些か誇張されて投影していた。

だから、これは私たち自身の人生論が、そのリアリティの滅入るような相貌性において問われているのではないか。

「自分の見たことがすべてだ」というバイアスに囲繞されても、その囲みからの出入口さえ分っていたら、誰もが苦労せずに済むだろう。

生徒たちから悪戯書きされる教授
未知のゾーンに踏み込んだら、手痛いペナルティを負う覚悟だけはしておくべきなのだ。

因みに、その「予約された酷薄さ」は、恰も、男を主人公にした映画を後に上映禁止処分にした、ドイツ第三帝国(ナチス・ドイツ)の盛衰の歴史を予見したかのようでもあった。

「ドイツ表現主義」の個人主義的で、脱規範的な幻想怪奇な映像と切れているが、しかし、そこに描かれた濃厚なペシミズムは、まさに、表現主義文化の最後に振り絞った体液の、その最後の滓(かす)でもあるかのようであった。

映画のポスター

【本稿は、「人生論的映画評論」の「嘆きの天使」の批評をベースに再構成したものです】

(2018年1月)

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